全てを失って

 それは、星屑がきらめく夜空の下で、月の光にも似た冷たい輝きを放っていた。

「王族でない者に手出しをするなというご命令だったが……顔を見られてしまった以上、やむを得ん」

 男が振りかざした長剣は、情け容赦なく小さな身体を貫き、憐れな獲物の息の根を止めた。



 ああ、この夜空の下の何処かで……



***



 この様子だと、夜明けまでには砦にたどり着けそうだな。


 アスランは隊列から抜け出して馬の足を止めると、大きく伸びをして夜空を見上げた。

 宝石を散りばめたような星屑が煌めくその先に、愛しい妻と息子が待っている。前を行く兄の後ろ姿が心なしか浮足立っているように見えるのは、砦に残してきた産み月の妻を気遣っての事だろう。四度目の新月を迎えるに至った今回の遠征も、明日になれば、これから生まれ来る子に語り聞かせる思い出話となるはずだ。



 アルコヴァルとティシュトリアの南の国境に横たわるクリクゾール平原。その先の海岸線に沿って広がる海上貿易都市カランダルは、七王国の時代から海の交易の要地として二つの大国の共同統治下にあった。

 中立非武装地帯のカランダルを海賊の襲撃から守るため、海沿いに築かれた砦の守備に就くのはアルコヴァルとティシュトリアの年若き戦士に課せられた試練であり、両国の伝統でもあった。


 年の離れた兄と共に初めてカランダルの砦に赴いたのが十三の時。あれから何度も馬を進めたはずの故郷に続くこの道が妙に長く遠く感じられるのは、息子が生まれて以来、初めての遠征だったからだろう。

 愛しい妻を、息子を、一時でも早く抱きしめてやりたい……はやる心を抑えつつ、アスランは兄の隣に馬を並べた。

「アスラン、隊列を乱すな。お前の兵が戸惑っているぞ」

 「王の盾」の嫡子である兄イスファルは、前方で馬を進める現国王の世継ぎエレミアの護衛として今回の遠征に同行していた。

「アスラン様は奥方と御子息が恋しくていらっしゃるのですよ、イスファル様」

 イスファルの護衛の一人が冷やかすように声をかけると、他の兵達からも笑い声が上がった。皆、故郷が近づくにつれ、疲れ切った身体も心も軽くなるようだ。

「ああ、そうさ、俺は息子が恋しくてたまらない! もちろん、妻も恋しいがな」

 十五の時、幼馴染みの気立ての良い娘を妻に迎え、四年目にしてようやく授かった息子だ。可愛くないわけがない……陽の光がこぼれるような笑顔を浮かべて嬉しそうに声を張り上げるアスランに、兵達から喝采が沸き起こった。 


 輝く笑顔と気取りのない人懐こい気性で幼い頃から人々を魅了してやまぬ自慢の弟を、困ったような表情を浮かべながら見つめるイスファルの眼差しは、とてつもなく優しかった。

 今回も何事もなく帰郷できそうだ。これも天竜の加護があっての事……天を見上げて感謝の祈りを捧げようとしたその時、イスファルは前方で巻き上がる砂煙りに気がついた。護衛の一人が馬を寄せて静かにささやく。

「イスファル様、斥候が戻ったようです」

「ああ、そうだな。だが……」

 あのように早駆けで馬を走らせ戻るなど、尋常ではない。よく見れば、後にもう一人、馬を走らせる者がいる。その身なりから王都からの伝令だと分かると、イスファルは妙な胸騒ぎを覚えた。


 伝令は隊列の中にエレミアの姿を認めて馬上で素早く頭を垂れると、息を切らせながら後方にいるイスファルにも聞こえる声で早口にまくし立てた。

「エレミア様、イスファル様、王都に……急ぎ王都にお戻り下さい……謀反にございます!」

 周りに居た兵達が色めき立ち、エレミアが大きく息を呑むのを横目に、イスファルは急いで自分の馬を伝令の脇に寄せた。

「王は無事か?」

「はい。王妃様もご無事でいらっしゃいます」

 安堵の溜息をついたエレミアの表情が少し緩み、イスファルはあるじに向かって力強く頷いた。

「首謀者は捕らえたか? 被害の状況は?」

 立て続けに問いただすイスファルに戸惑いの表情を浮かべながらも、伝令は深く呼吸をして必死に息を整えた。

「グウィネリア様、他数名の戦士が捕らえられました。城内は混乱を極め、取り急ぎ、王の無事をエレミア様とイスファル様にお伝えするよう『王の盾』のご命令で……」

 「グウィネリア」と聞いて、エレミアの顔が凍り付いたのに気づくと、イスファルは傍らに控える兵士の一人に手招きをした。

「父上もご無事なのだな……ご苦労だった。その者に馬を任せてしばらく休むと良い」



 兵士に伴われて隊列の後方へと下がる伝令を目で追いながら、アスランは王城に隣接する父の館に残してきた妻と息子を想い、今にも駆け出しそうになる衝動を必死に抑えていた。隊列を率いる兄が世継ぎのエレミアと共に行動している以上、勝手な行動が許されないのは分かっている。

 弟の気持ちを汲み取ったかのように、イスファルはアスランの馬の手綱に手を伸ばして、焦るな、と言わんばかりに握りしめると、騒めく兵達に厳しい眼差しを向けた。

「騎乗している者は今すぐ荷を解き歩兵に預けよ。支度が出来次第、王都に向け出発する!」



***



 風のように馬を飛ばし、王都にたどり着いたイスファル達を正門で待ち受けていたのは、あたかも戦場に赴くかのように武装した『王の盾』直属の護衛達だった。

 王の命を狙う者との攻防があったとは思えぬほど、砦の街は静かな眠りに就いたままだ。恐らく、謀反は瞬く間に鎮圧されたのだろう。「王の盾」配下の精鋭が守護する城内で王に刃を向けるなど、命を粗末にする愚か者の行為だ。

 

「エレミア様は我らがお守りして城にお連れする故、イスファル殿とアスラン殿は急ぎ城内へ向かわれよ。お父上がお待ちだ」

 屈強な護衛の一人が、不安の色を隠せないでいる年若い弟を憐れむような表情で見つめながら声を掛けると、イスファルは無言のままアスランに付いて来るよう合図して、再び馬を走らせた。



 城門で守備兵に馬を預けると、イスファルは迷う事なく城の中央に続く回廊へと足を向けた。

 王の間に近づくにつれ、未だ乾ききらぬ血溜まりと、壁にこびりついた血飛沫しぶきが、失策に終わった謀反の生々しさを物語っていた。どれだけの者が裏切り、どれだけの味方が犠牲になったのか……内部の者が手引きをした事は明らかだ。王姉グウィネリアが王座を狙っていたのは誰の目にも明らかだったというのに。


 ティシュトリアでは男女の別なく王家に生まれた子女には王位継承権が与えられる。

 妾腹ではあったが第一子として誕生し、未来の女王として育てられたグウィネリア。だが、成人を迎える直前の十五の春、正妃の長子である現国王が誕生し、その座を異母弟に譲り渡す屈辱を味わったまま他国へと嫁がされた。

 気位の高い王姉は、寡婦として王国に帰還したその日、心に抱いた闇を解き放つ覚悟を決めていたのだろう。



 王の間へと続く扉にも争いの爪痕が残っていた。「王の盾」の後継者イスファルとその弟の姿を目にした護衛が扉を開けた先に、頭を抱えるようにして王座に腰掛ける王と、その前で敵を阻むかのように佇む「王の盾」の後ろ姿があった。


「父上、ただいま戻りました。王よ、よくぞご無事で……」

 王の前に膝まづく息子の声にゆっくりと振り向いた壮年の戦士の手には、未だ血に濡れた長剣が握られ、返り血を浴びたその姿は、戦場で敵を威嚇するに相応しい鬼気迫る殺気を放っていた。

「ああ、イスファル、早駆けで戻ったのであろう? 心配をかけたな」

 無言のまま息子を見つめる父に代わり、若き戦士にねぎらいの言葉を掛けたのは王の方だった。

「アスランよ、お前も戻ったか……」

 幼い頃から実の息子のように愛情を注いだ人懐こい若者を見る王の瞳が、何故だか悲しげに曇るのをイスファルは見逃さなかった。後ろに控える弟はまだそれに気づいてはいない。


 ……何かがおかしい。


 イスファルは言い知れぬ胸騒ぎを覚えて立ち上がった。

 王妃と女達の姿が見当たらない。恐らく、城内が落ち着きを取り戻すまでの間、万が一に備えて王座の裏手にある隠し部屋に潜んでいるのだろう。 

「父上、グウィネリア様を捕縛したと伺いました。一体、何があったのです?」

 わずかに揺らいだ父の視線は、イスファルを通り越してアスランに向けられていた。日頃から息子達の前で感情を表に出さぬ父が、唇をきつく噛み締めた。


 ああ、やはり何かがおかしい。


 心の中に湧き上がる不安が現実へと形を変えていく予感に、イスファルが思わず身震いした。


「まさか……!」

 背後でアスランが震える声でつぶやきながら立ち上がると、イスファルの制止を振り切って、隠れ部屋の方へと走り出した。



 急に部屋に飛び込んできた戦士の姿に、女達は悲鳴を上げながら咄嗟に幼子達を庇ってその胸に抱きしめた。護衛の女戦士がその前に立ち塞がる。が、目の前の若者が「王の盾」の末子であると分かると、安堵のため息をついて剣を収めた。

 部屋の片隅の長椅子に横たわっていた貴婦人がアスランの姿を認めて、重そうに膨れ上がった腹を撫でながら身を起こすと、両脇を幼い息子達に支えられながら、ゆっくりと歩み寄った。

「アスラン、義弟おとうとよ……無事に戻ったのですね」

 抱きしめようとして差し出された細い両腕に触れようともせず、アスランの濃紺の瞳は、ただ愛する者の姿を必死に探し求めていた。

義姉あね上……リライラは……我が妻は何処です? 息子は……ソレルは?」

 差し出した腕を、まるで天に祈りを捧げるかのように宙に浮かべたまま、義姉の美しい緑玉の瞳から大きな涙がこぼれ落ちた。

 刹那、アスランはただならぬ形相で細い両腕を掴むと、うなるような声を絞り出した。

「義姉上、答えてくれ……リライラは……ソレルは何処だ!」

 崩れ落ちそうになる身重の母を必死に支えながら、いつもの優しく朗らかな笑顔からは想像できぬ年若い叔父の姿を、小さな甥達は泣きじゃくりながら見つめている。


 次の瞬間、イスファルが素早く背後から詰め寄ってアスランを羽交い絞めにし、そばに控えていた女戦士に、妻の腕に喰い込んでいる弟の震える手を引き剥がさせた。

 力強い兄の腕に阻まれアスランは力なく地面に膝をつくと、瞳を大きく見開いたまま呆然とイスファルを見上げた。

「父上に話は聞いた。ついて来い、アスラン」



***



 ……まるで、眠っているようだ。

 

 艶やかな唇にそっと口づけして、その冷たさに驚いたようにアスランは愛しい妻の顔を見つめると、冷たい頬を温めようと両手で優しく包み込んだ。母親に抱かれるようにして、幼子も永遠の眠りについていた。



 イスファルに連れられて訪れた城の中庭に張られた天幕の下で、犠牲になった者達が横たわるその中に、アスランは愛する妻と息子の亡骸を見出した。

「夜更けに異変に気づいた父上の護衛が女子供達を隠し部屋に移そうと館を見回ったが、リライラとソレルの姿は寝所になかったらしい。既に隠し部屋に行ったものと思い、そのまま、反逆者を捕らえるべく父上の元に戻り、落ち着きを取り戻した後、二人の姿が見えないと女達が騒ぎ出した。手分けして城内をくまなく探し回り、ようやく館と城を繋ぐ回廊の中庭に横たわる二人を見つけた時には、既にこと切れていたそうだ。恐らく、刺客と鉢合わせになったのだろう……胸を一突きにされていた」

「……何故だ?」

 愛しそうに妻の頬を撫でながら、絞り出すようにアスランがつぶやいた。

「何故、夜更けにそんな場所に居たんだ、リライラ?」

 答えてはくれないと分かっていながらも、愛しい人の心地よい声をもう一度だけ聴きたいと願いながら、アスランは柔らかな唇を指でそっとなぞった。

 魂を失くしてしまったかのような弟の姿にいたたまれず目をらして、イスファルは静かにアスランの隣に腰を下ろした。

「さてな……あそこは城内で唯一、吹き抜けのある場所だ。おおかた、夜更けにソレルがむずかりでもして、夜空の星を見ながらあやしていたのではないか?」



 夜空……空……?



 ああ、まさか……そんな……俺は、何という事を……!


『この空は、大陸の最果てまでずっと続いているんだ。遠く離れていても、俺が何処かで見上げるこの空は、お前とソレルが見上げる空に続いている。俺が恋しくなったら、空を見上げて俺を想ってくれ。この空の下の何処かで、俺もお前を想っているから』


「何て事だ……俺のせいだ……ああ、リライラ!」



 カランダルに立つ前夜、最後に愛し合った夜。

 腕の中で寂しさに涙を流す妻を慰めようとして掛けた言葉を、覚えていてくれたのか。


 誰もいない夜更けの満天の星空の下、愛する男を想いながら夜空を見上げる健気けなげな娘の姿を想い、たまらず愛しさが込み上げて、アスランは妻の亡骸を強く抱き寄せた。

 静まり返った天幕の中に、アスランの嗚咽おえつだけが悲しく響く。

「守れなかった……妻も、息子も、俺は守れなかった……ああ、リライラ! お前達が命を奪われたその瞬間、俺は何処で何をしていたんだ? 愛する者を守るために、剣を手にしたのに……お前を……お前だけを、この腕の中に離さず守り続けるためだけに、戦士になったのに。ああ、愛しいリライラ……お前がそばに居てくれれば、それだけで……俺は、それだけで良かったのに……!」



 失ってしまった。永遠に。

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