第3部 静けき黄昏(たそがれ)

第1章 王の盾

戦士と術師

 七王国の時代より、ティシュトリアはアルコヴァルに次ぐ広大な領地と強大な軍事力を誇り、優れた軍人と勇猛な傭兵を輩出する武装大国として他の追随を許さなかった。

 ただ一つ、「火竜の谷レンオアムダール」を除いては。


 「火竜」の傭兵。かつてその凶暴さで大陸中を震え上がらせた最強の戦士達。

 レンオアムダール陥落後、王侯貴族の私利私欲に踊らされ、わずかな褒賞ほうしょう目当てに愚か者達が繰り返し行った「火竜狩り」によって、「火竜」は大陸からその姿を消した。戦場で彼らの「さえずり」が聴かれる事もなくなり、既に死に絶えてしまったと考えるのが妥当だろう。

 今や、我らティシュトリアの戦士に並び立つ程の傭兵と言えば、「妖魔殺しの黒竜」くらいのものか。だが、数年前から戦場での奴の噂が途絶えたところを見ると、もはや生きているとも思えぬが。


 失うには惜しい命ばかりが果てていく。

 エスキルのような血に飢えた若造がこの国を奪えば、何とか保たれていたアルコヴァルとの和平も望めなくなるのは明白だ。中央の二大勢力の均衡が崩れれば、戦火は各地に飛び火し、やがて大陸中を巻き込んでしまうだろう……かつての七王国時代のように。

 それだけは、何としても避けねばならぬ。

 我が王を守り、我が民を守り、愛するティシュトリアを守るために。



「イスファル将軍、夕刻の守備隊の準備が整いました。ご一緒に城下を視察されると伺いましたが」

 白いものが混じった金の髪を短く刈り込み、浅黒く日焼けした肌に無数の古傷が残る壮年の男は、護衛の兵士の言葉にゆっくりとうなずくと、数多あまたの死線を共にくぐり抜けてきた長剣を腰の剣帯に挿した。

「ああ、すぐに向かう。馬の用意を頼む」



 戦場に散った戦士達と流された血の代償がスェヴェリス攻略を勝利に導いた事実を、百年の年月を経てもティシュトリアの民は決して忘れはしない。再び戦火が我らを襲おうと、また立ち上がり、敵を撃ち砕くまでだ。


 天竜の加護が永遠に我らティシュトリアの民と共にあらん事を。



***



 己の腕一つで戦場を駆け巡る戦士にとって、自身の血を一滴も流すことなく「使い魔」を操り、人の心を妖しげな術で支配しようとする術師の存在は、概して受け入れ難いものである。

 シグリドも戦士の例に漏れず、術師に良い感情を抱いてはいない。


「全ての術師がよこしまな心を持つと考えるのは間違いだわ。プリエヴィラの王都軍には民に慕われ尊敬される術師も多かったし、パルヴィーズ様のお祖母様やお母様も素晴らしい術師だったのでしょう?」

 いつものようにシグリドの腕の中で馬に揺られながら、ファランは隣で馬を進めるパルヴィーズを気遣うように、ちらりと視線を向けた。

「さて、どうでしょう……スェヴェリスの術師と他国の術師とでは根本的な思想の違いがありますからね」

 心ここに在らずといった様子で、パルヴィーズは肩に止まっている銀灰色の鴉を撫で回した。鴉は迷惑そうな素振りをして、金色の髪にふわふわの身体を埋めた。

「思想の違い?」

 青灰色の瞳を大きく見開いて首を傾げる娘に、パルヴィーズは優しく微笑みかける。

「スェヴェリスでは、術師の力はかつて大陸を支配していた『魔の系譜』から与えられたと信じられていました。妖魔に選ばれ愛された民として、人の子の王達が武力に任せてこの大陸を血で染めていくのを黙って見逃すわけにはいかない。大陸の秩序を七王国時代以前の姿に戻さなければならない。そのためには、スェヴェリスが大陸のあらゆる民を導くべきだ……いわゆる『選民思想』ですね。他国との共存ではなく、術による支配を選んだ妖術師の王国がその後どうなったかは、ご存知の通りです」


 シグリドが不快感も露わにため息をついた。腕の中の娘が、まるで子猫のような仕草で暖かい胸に背中を押しつけると、ふわりと甘い花の香りがシグリドの鼻をくすぐる。

 少しずつ黒髪の青年の顔から険しさが消えていくのを、パルヴィーズは微笑ましそうに見守った。

『まったく情けない……癒し手の前では、火竜の子もただのトカゲのごとく毒気を抜かれておるわ』

 銀灰色の鴉が金色の髪の間からむっくりと顔をのぞかせ、呆れたような視線をシグリドに向けた。火竜の傭兵はそちらを見向きもせず、赤い巻毛に鼻先を埋めた。

「パルヴィーズ様、大陸の秩序を七王国時代以前の姿に戻すって……?」

 くわっ、とあざけるように一鳴きして飛び立った鴉が、するりと宙を舞って妖艶な女の姿に形を変え、しどけなく虚空に横たわると、ファランの目の前の空間をゆらゆらと漂い始めた。

『スェヴェリスのおごり高ぶる妖術師どもの思い上がりだ。人間の王どもが愚かな覇権争いを繰り広げる以前、この大陸がどのような姿だったかも知らぬ人の子の分際で』

 くくっ、と耳障りな音を立ててわらいながら、アプサリスは白くしなやかな両腕を伸ばしてパルヴィーズの首に絡ませ、するりと膝の上に舞い降りた。


『天竜の娘よ、人の子が生まれる以前、この大陸が瘴気に覆われていたのは知っておるか?』

「ええと……『狭間はざま』の虚空が大陸を包み、天地の境も分からぬ程の暗闇で覆われていた、と大陸の創世神話にあったような……その事でしょうか?」

 満足げに妖魔が微笑むと、つやめいた唇から尖った牙が垣間見えた。

『では、瘴気の毒をかてとするものとは何だ?』

「……『魔の系譜』ですか?」

 小さく息を呑んで、ファランは妖魔の女王の美しい顔を見つめた。

「まさか……妖魔が支配する世界を取り戻そうとしたの? でも、そんな事をすれば……」

『特別な力を持たぬ人の子らは、あっという間に妖獣達に襲われ、喰い尽されるであろうな。後に残るは、結界を編み「使い魔」を従える力を持つ術師と、妖魔に愛され庇護を受ける戦士や女どものみ』



 あらゆる命に救いの手を差し伸べよ。


 そう誓いを立てたはずの術師が、力なき者の命を生贄にして理想の世界を創り上げようとした……

 でも、何のために? 力ある者だけが生き残る世界なんて、覇権争いに明け暮れた七王国の王達と変わりないわ。


『スェヴェリスの女達が妖魔と交わり、やがて生まれる「罪戯れ」と術師達が交配を繰り返す。人の子の血は次第に薄められ、やがて全ての民が「魔の系譜」と化す……それがスェヴェリスが思い描いた世界よ』

「妖魔になろうとした狂気の民、か。愚かだな」

 シグリドが静かに、だが冷ややかな怒りを帯びた声でつぶやくのを聞いて、ファランはぶるりと身を震わせた。

『「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の神官どもを見よ。天竜の加護の下、神にでもなったつもりでおるわ。スェヴェリスの女術師に踊らされているとも知らずにな』

「ザラシュトラがティシュトリアの隣国に?」

 ファランの腰に回していたシグリドの腕に思わず力が入り、娘が小さなあえぎ声を上げた。

『言ったはずだ、火竜の子。ティシュトリアの先は、スェヴェリスの巫女の領域だとな』

 にやり、と口元を歪めた妖魔の女王が、鋭い鉤爪の光る細い指先でパルヴィーズの頬をするりとなぞるその指を、パルヴィーズは名残惜しそうに掴んで唇に押し当てた。

「サリス、そろそろティシュトリアの国境ですよ。さすがに妖魔連れでは、レティシア殿の親書があっても通してはくれないでしょう」

『分かっておるわ。お前は昔から回りくどい言い方をする』


 ふわり、と宙に浮いた途端、銀灰色の髪が妖魔の女王の身体を包み込み、見る間に鴉の姿に戻るとパルヴィーズの肩にふわりと舞い降りた。少し驚いたように金色の髪が揺れる。

「共に来るのですか?」

『スェヴェリスの巫女は人の子として越えてはならぬ一線を越えた。愚かな妖獣どもをあの女の呪縛から解放してやらねばな』


 アンパヴァールでの最後の夜を思い出し、シグリドの顔がまた険しさを増した。



***



 タルトゥス城主の親書の効力は絶大で、王国内の砦を越える際も通行税ツォルを要求される事もなく、検閲の厳しさで知られるティシュトリア国境の砦でさえ、シグリドの武具をあらためる程度だった。


「今の大陸では、王侯貴族に生まれなければ搾取されるばかり、という事です」

「でも……パルヴィーズ様も貴族ですよね?」

 ファランの言葉に、シグリドが面白そうに小さくわらった。それにつられて銀灰色の鴉が嘲笑うように喉を鳴らすと、パルヴィーズは苦笑した。

「普段ならば、しっかりと通行税ツォルを払っているのはご存知ですよね? それに、私がタルトゥスに居た頃は、諸国を旅する者など、傭兵や商人の他には流浪の民くらいのものでしたからね。長引く戦乱の世で街道は荒れ果て、国境の砦も燦々さんさんたる有り様で。大陸を旅する間、ならず者に命を狙われる危険はあっても、ツォルを要求されることなど……どうしました、シグリド?」


 周りを小麦畑に囲まれた街道の真ん中で、シグリドは急に馬を止め、前方に目を凝らした。

 背中の剣帯で眠っていたはずのヴォーデグラムが僅かに身を震わせながら唸り声を上げているのを感じて、ゆっくりと闇色の刀身を引き抜く。左腕にしがみついている小さな娘の緊張が伝わってくる。

「ファラン、叫ぶなよ」

「分かっているわ、エンティアが怯えるわよね……何なの、シグリド?」

 ファランの問いには答えず、波打つように伝わってくるヴォーデグラムの唸り声を右腕に感じながらパルヴィーズの愛馬の横にエンティアをつけると、差し出された腕にファランを託した。


『火竜の子、来るぞ』

 銀灰色の鴉がパルヴィーズの肩から飛び立ち、くわっとときの声を上げた瞬間、前方の空間のひずみから猛々しい咆哮が響いた。

 シグリドは咄嗟に街道の脇に馬を寄せ、「ここで待て、エンティア」と言い捨てて馬の背から飛び降りると、ヴォーデグラムを握ったまま獣の叫び声がする方へと駆け出した。

 空中から怒り狂ったように飛び出した妖獣が、血塗れの口元を大きく開けて、咆哮と共にシグリドに襲い掛かる……が、一瞬の後、しなやかな闇色の刀身がするりと妖獣の首を斬り落とし、ヴォーデグラムが歓喜の叫び声を上げた。



 しばらく辺りの様子を伺っていたシグリドは、闇色の剣が静けさを取り戻すのを待って「グラム」とつぶやいた。

 右手に握られていたヴォーデグラムが、するりと宙を舞って黒豹レーウの姿に変わった。創造主を思わせるしなやかな動きで地面に着地すると、喉を鳴らしながら黒髪のあるじの脚に長い尻尾を絡みつける。

 が、仲間であるはずの妖獣のむくろに気がつくと、グラムは牙を剥き出して威嚇の声を上げた。

『グラム、お前も感じるのだな』

 黒豹のすぐ側に、するりと銀灰色の髪の妖魔が舞い降りた。

「何の事だ、アプサリス?」

『スェヴェリスの呪詛かしりに縛られておったのよ。訳の分からぬまま術師に操られていたのであろうな。哀れな獣よ』

「ザラシュトラか……まさか、俺たちがティシュトリアに向かっているのを嗅ぎつけて妖獣を寄越したのか?」

『そうではない。この先の街が襲われたようだな。この獣は妖獣狩人に追われでもして空間の歪に逃げ込んだのであろう。飛び出た先で「妖魔殺しの黒竜」に出くわしたのが運の尽きだ』 

 瘴気が立ち上り始めた妖獣の骸に妖魔の女王がそっと手を置くと、赤い炎が骸を包み込み、静かに燃え上がった。やがて、獣は灰となって風に舞いながら散って行った。


 パルヴィーズの腕の中で震えながら事の成り行きを見守っていたファランの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。

「妖獣も痛みを感じるのね……可哀想な子」


 ……でも、もう大丈夫よ。聖魔さまが呪いを解いてくれたから。

 風に乗って好きな所へ飛んで行くのよ。もう二度と術師に捕まっては駄目。


 

 癒し手の娘は、心の中で哀れな獣の魂に向けて祈りを捧げた。

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