第2章 嘆きの森

竜紋の石

「あの森に入るつもりなら、絶対にタルトゥスに抜ける街道から外れちゃいけないよ。好奇心に駆られて森の奥に足を踏み入れてしまった者は、二度と戻って来やしない。『つのの王』の怒りに触れて『嘆きの森』に喰われちまうんだ」

 宿の主人は「癒しの泉」の伝承を尋ねるパルヴィーズにそう告げた。



「ああ、語り部の血が騒ぎます! 『癒しの泉』が本当に存在するのかどうか、この目で確かめたくなりました。シグリド、少しで良いので……」

 早朝から、まるで子供のように興奮気味のパルヴィーズをよそに、シグリドは淡々と馬の背に荷物をくくりつけ、出発準備を整えていた。

「いい加減にしろ、パルヴィーズ。ただでさえ野生の獣が棲む森を抜けるのは危険なんだ。お前が好奇心を満たすために街道を外れようとした時点で、スフィルの脚を斬り落としてでも止めてやる」   

 物騒な提案をされたパルヴィーズの愛馬スフィルが、ぶるっと身を震わせて、助けを求めるようにあるじの顔に鼻先を押し当てた。

「ああ、スフィル、可哀想に。『魔の系譜』とはいえ、罪もない美しい生き物を手に掛けようなどとは……『妖魔殺し』と呼ばれるだけの事はありますね、シグリド」

「あの……パルヴィーズ様、シグリドの言う通り、道草をせずにタルトゥスに向かえば良い事ですし」

 不満げに栗毛の愛馬を撫で続けるパルヴィーズにちょっと呆れながらも、ファランはなだめるように声をかけた。

「それに……」

 嘆きの森。

 ファランはその森の「ほころび」に気づいていた。


 「角の王」と呼ばれる聖獣が守る森からは、清らかな草花の香りと共に、ファランを不安にさせる得体の知れない不気味さが漂っていた。

 街道を離れてはいけない、その先には悲しみしか待っていないのだから……森の奥から聴こえる声が、そうファランに告げていた。

「それに、何だ?」

 森を見つめるファランの顔に浮かんだ「癒し手」としての表情に、シグリドは何事か感じ取ったらしい。

「この森……何か変なの。街道は大丈夫、ちゃんと術師の結界に護られているわ。シグリド、絶対にパルヴィーズ様から目を離さないでね。上手く言えないけど、とにかく街道から離れない方が良いわ」


 

『あなたの心が痛がってる……傷ついて悲鳴をあげているの。その痛みを癒し手に……私に預けて。大丈夫だから』

 あの地下牢で、ファランはそう言ってシグリドを抱きしめた。

 「谷」に生きる獣達の息遣いを感じながら育ったシグリドは、自分にしか分からない感覚がこの世にあることを知っていた。それが、人より優れた戦闘能力を生み出し、シグリドを生かし続けてきた事も。

 他人の心の痛みに共感することが出来るファランにも、おそらく、自分と同じような感覚があるのだろう。それが、この娘を「天性の癒し手」たらしめる所以ゆえんなのだろう。


 ……だからこそ、俺はこの娘に惹かれたのかもな。


 ひらり、と自分の馬にまたがると、シグリドは足元でこちらを見上げる愛しい娘に手を差し伸べた。

「心配するな。スフィルを脅しておいたからな。さすがの妖獣も脚を斬られたくはないだろう」

 ファランを引き上げて、しっかりと腕の中に囲うと、先を行くパルヴィーズの後を追った。


 

***


 

 街道の両脇に続く豊かな森は、人間の侵入を阻む緑の深淵でもあった。

「すごい……本当に聖域なのね。人の手がほとんど入っていないわ」

 辺りを見回しながら、ファランが感嘆の声を上げた。薬草を求めて森の奥深く分け入る治癒師でさえ、この森の荘厳さに圧倒されたようだ。

 森に差し掛かったところで、シグリドはグラムを放してやった。

 木々の豊かな香りと、森に棲む生き物達の息遣いが聴こえる中、砦の術師達が編みあげた妖獣避けの結界に護られた街道を、シグリド達はゆっくりと進んでいく。聖魔アプサリスの眷族である黒い獣グラム栗毛の馬スフィルを、森の獣達は畏敬の念を抱きながら木々の奥から見つめていた。


「なるほど、砦の民が恐れ敬うのも分かるような気がしますね。ここだけ空気の流れが違いますね……何か大きな力がこの森に満ちています」

 パルヴィーズは美しい空色の瞳を輝かせながら、辺りをうっとりと見渡した。

「シグリド、素晴らしいとは思いませんか? この森のどこかに『癒しの泉』が……」

「しつこいぞ、パルヴィーズ」

 凍てつくような声でシグリドに名を呼ばれた雇い主は、お預けを食らった子犬のような顔でファランを見つめた。

「情け容赦のない……さすがは火竜の民。慈悲の心など持ち合わせていないのですね。ファラン、そんな男など放っておいて、私達だけで……」

「パルヴィーズ様、そんな顔をされても駄目です。このまま真っすぐ、寄り道せずにタルトゥスまで行きましょうね」

「ああ、奥方までそんな……」

 がっくりとうなだれる金色の髪の貴人を見て「なんだか子供みたい」と思わずファランは笑い出してしまった。



 急に森の木々が騒めきを増し、ファランは耳を澄ませた。風が赤い巻毛をふわり、と揺らした。


 ……泣き声?


「シグリド、今、女の人の泣き声が聴こえなかった?」

 後ろを見上げると、シグリドは怪訝な顔をして、いや、と答えた。

「変ね……気のせいかしら」

「お前までパルヴィーズの話しに毒されたのか?」

 そう言って、少し不機嫌そうにファランの腰に回した腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめる。

 ファランは昨夜の事を思い出して、顔を真っ赤にしたままシグリドの胸にもたれかかると、心地良い腕の中にしっかりと捕らわれた。


 しばらく行くと緑が一層濃くなり、昼日中だというのに陽の光がさえぎられるようになった。薄暗い森の中で、聴こえるのは木々を渡る風の音と獣の息遣いだけだ。

 突然、シグリド達の前を行くスフィルが一声高くいななき、何かに驚いたように前足を高く上げた。

「おい、パルヴィーズ! 無事か?」

 愛馬を落ち着かせようと、パルヴィーズがスフィルに優しく声をかけ続けている。

「ええ、なんとか大丈夫のようです。しかし……」

 足元に視線を落として、金色の髪の貴人は心配そうな声を上げた。

「おやおや、どしましょう?」

「どうした?」

「どうやら、ファランの助けが必要なようです」

「私の……?」

 怪訝な顔をする娘を乗せたまま、シグリドは馬をスフィルの横に並べ、パルヴィーズの視線の先にあるものを見た。

 街道の上に、茶色の毛玉の塊のようなものが転がっている。それは、ぴくり、とも動かない。

尾長おながイタチだわ。スフィルが踏みつけてしまったのかしら?」

 ファランの言葉に、栗毛の馬は「心外だ」とでも言いたげに、ぶるぶるっと頭を振って鼻息を荒くした。

 シグリドに馬から降ろしてもらうと、ファランは治癒師の道具箱を身に付けて、茶色の毛玉をそっと抱え上げた。


 だらりと長い尾を垂らしたまま動かない、ふさふさとした暗褐色の小さな身体を優しく撫でると、すうすうと息をしているのが分かった。怪我をしていないか確かめるために、ファランは柔らかい毛皮を撫で続けた。

「大丈夫、どこも怪我していないわ。多分、スフィルに驚いて倒れてしまったんでしょうね。目の前にいきなり妖獣……いえ、大きな馬が現れたら、びっくりするわよね?」

 そう言いながら、街道の側の草木に眼をやって「ああ、あった」とつぶやくと、毛玉の塊を抱えたまま一本の草を短剣で切り取った。

「気付け薬のようなものね。この葉をすり潰すと、小動物が嫌がる匂いになるの」

 ふふっ、と悪戯っぽく笑いながら、尾長イタチを膝の上に寝かせると。地面の上で器用に葉を細く切って石の上ですり潰し、指に少し取って、気を失ったままの小さな獣の鼻先に優しく押し当てた。


 きゅうっ、と驚きの声を上げて目を覚ましたイタチが、素早くファランの膝の上から滑り降りると、森の奥へと逃げ去って行った……ファランの短剣の柄を器用に口にくわえて、ずるずると引きずりながら。

「ええっ? ちょっと待って! ああ、どうしよう……シグリド、短剣を取られたわ!」 

 そう叫んだ途端、シグリドが止める間もなく、ファランは毛玉を追って森の奥に駆け込んで行ってしまった。

 ちっ、と舌打ちして黒髪の傭兵が娘を追おうとした、まさにその時。

 まるで森に吸い込まれるかのように、ファランの姿が消えた。


 嘘だろ……またか、ファラン?


 一瞬、シグリドは呆然となったものの、赤い髪の娘が消えた辺りに走り寄ると、用心深く周囲を見回した。

「……消えましたね。どうしましょう、シグリド?」

「俺に聞くな! とにかく、あいつを……」 

 不意に、シグリドが見つめる濃い緑の木々の間に、ゆらりと銀灰色の炎が浮かび上がった。所々に赤いきらめきを帯びる冷たい輝きが、火の粉のように、ちらちらと揺れている。


 顔をしかめて「またか」とつぶやいたシグリドが、何かに魅了された様子のパルヴィーズの視線の先にある怪しげな炎に語りかけた。

「アプサリス、そこに居るなら出てきてくれ。頼みがある」

 突然、炎が激しく燃え上がり、シグリドの身体にまとわりついた。

『我を使い魔代わりに使うな、と何度言えば分かるのだ、火竜の子?』

 炎が次第に銀灰色の髪の麗しい乙女の姿に変わり、ゆらりと宙に浮いたまま不機嫌そうに腕を組むと、黒髪の火竜を睨みつけた。 

「アプサリス、ファランを探してくれ」 

『……我の話を聞いておらぬようだな』

 美しい顔に呆れ返ったような表情を浮かべた妖魔が、しなやかな白い腕を伸ばし、黒髪を指に絡めてもてあそびながら、シグリドの鼻先に触れるほどに己の顔を近づけた。

『お前、竜紋の石を持っておるのだろう? それを使えば良いではないか』

「あいにく、俺はただの傭兵でな。お前の言う『竜紋の石』の使い方など知るわけがない」

『天竜の娘も同じ石を持っておるだろう? 石同士が呼び合うに任せれば良いだけだ』

「……術師でもない俺に何が出来る?」


 はなから物分かりの悪い聖魔など、当てにするべきではなかったな。


『心の声が漏れておるぞ、火竜の子。まったく、天竜ラスエルの気まぐれにも困ったものだ。剣を振るうしか能のない火竜の戦士などに、石の加護をくれてやるとは……』


 するり、とシグリドの胸に細く白い指を這わせて首飾りに触れると、青い石が輝きを増した。

『そう遠くに行ってはおらぬぞ。元は一つだった石が、お互いを呼び合いながら光を放つ。石の輝きが増せば増すほど、それだけ近くに居るという事だ、覚えておけ』

 こつん、とシグリドの額を指で弾くと、神々しいほど美しい顔を酷く歪めてわらった。

『お望み通り、娘の側へ送ってやろう。ただし、パルヴィーズは置いていけ』



 その瞬間、シグリドは闇に包まれた。

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