第3章  哀しみの果て

魂の解放

 ヴォーデグラムの、狂気を誘う叫び声が仄暗い闇の中に響き続ける。


 その声に驚いたように、白い獣が目を覚ました。ぐらりと輪郭がぼやけた瞬間、白銀の戦士の姿を取り戻し、警戒するように辺りを見回した。その姿を認めて、ヤムリカがディーネに身体を譲り渡し、ゆっくりと瞳を閉じる。


 ロスタルが愛しそうに月色の髪に唇を落とし、優しく頬を撫でると、妹の魂が目を覚ました。

「兄上……私、眠っていたみたい。妖獣達は? みんな消えてしまったの?」

「ああ、ザラシュトラの結界から解放されてな」

「そう、良かった。みんな、自由になれたのね」

 まだ少し眠そうに、虹色の柔らかい身体をロスタルにすり寄せて、甘えるように絡みつけた。

「兄上、私の魂も、いつかこの身体から自由になれるのかしら?」

 ロスタルは少し困ったように紅玉の瞳を見つめ、さあな、と言って耳元に口づける。ディーネは子供の頃に戻ったように、くすぐったそうに声を上げて笑った。




 自然の摂理に従わず、力こそ全てと信じて疑わなかったスェヴェリスは、「忌むべき妖術使いの国」として、武装国家ティシュトリア率いる七王国連合軍によって滅ぼされた。百年以上も前のことだ。

 そこでは、太古の昔より人間と妖魔が当たり前のように交わり、王家の意思によって多くの「罪戯れ」が生み出され、強大な「魔」の力を操る術師が王として君臨したという。


 「罪戯れ」の宿主の魂は、内なる妖魔に喰われて消滅する。


 そんな残酷な運命から妹を救うために、ロスタルはスェヴェリスの女術師に誓いを立てた。この呪いから我ら兄妹を解放する手立てを見つける見返りに、お前の影となってその身を護ろう、と。

 アプサリスに与えられた剣も、請われるままに差し出した。ロスタルが何の価値も見出せなかった聖魔の剣も、妖しげな力を代々引き継いできたスェヴェリスの王族であるザラシュトラにとっては、喉から手が出るほど手に入れたい「魔の系譜の力」だったのだろう。



 愛する者を腕の中に繋ぎ止める。

 その切なる想いだけが、人としてのロスタルを生かし続けた。己の魂が少しずつ「魔」に堕ちていくのを感じながら……



***



「シグリド……? ああ、シグリド! 良かったわ、無事だったのね」

 ディーネはこちらに近づいて来る黒髪の少年に目をやった。その手には闇色の剣が握られていた。


 シエルが愛して止まなかった小さな弟。

 シエル、私の愛しい人、私の命。

 なのに……失ってしまった。あの人の命が腕の中で消えて行くのを見守ることしか出来なかった。


「シグリド、ああ、可哀想な子。ごめんなさい、私、あなたからシエルを奪ってしまったわ。あの人はもう……どこにも居ないの」

 虹色の身体が苦悶のうめきを上げてのたうち回った。

 色を失った仄暗い世界で虹色に輝く娘の姿は心から美しい、とシグリドは思った。その魂が、輝いている、と。


 ディーネの魂は妖魔の身体に閉じ込められたままだ。間に合う……今ならまだ、魂を救うことが出来るはずだ。

 そのためには心を凍えさせなければならない。

 憐れみなど邪魔なだけだ。


 一切の感情を捨てた非情な暗殺者の顔をしたシグリドは、闇色の剣をその手に握りしめて、ゆっくりと虹色の妖魔に近づいて行く。

 尋常でない気配を嗅ぎ取ったロスタルが、シグリドの前に立ち塞がり、ぐらりと揺れた空間に手を伸ばして探るような手つきで長剣を取り出すと、その切っ先を黒髪の火竜に向けた。

「それ以上、ディーネに近づくな」

「ロスタル、退しりぞけ。ディーネを解放する」

「解放……? 何を言っている?」

「ディーネ、こんな所に居てはいけない。あなたの魂はシエルと共にあるべきなんだ。果ての世界でシエルが待って……」

 言い終わらぬうちに、野生の獣の素早さで飛び掛かったロスタルの剣を、シグリドが咄嗟にヴォーデグラムで受け止めた。

 刹那、弾け飛んだ青白い火花が薄暗がりを漂って消えた。



 ディーネは愛する兄と黒髪の少年が剣を交える度に、闇の中に青白い光がきらきらと生まれるのを見つめていた。


 ……とってもきれい。あの美しい光に包まれたなら、きっと、この苦しみから解き放たれるんじゃないかしら? だって、あんなにきれいなんだもの。

 シグリドは私を解放すると言ったわ。きっとあの光の剣を使うのね。あの剣が、私の魂をここから出してくれるんだわ。ああ、早くシエルに会いたい……


 もっとヴォーデグラムに近づこうとして、ディーネはずるり、ずるりと重い身体を引きずって前へ進んだ。

『幼子よ、何をしている?』 

 ディーネの頭の中で、ヤムリカの声が響いた。

『そちらに行ってはいけない、危険だ。戦いに巻き込まれる』


 どうして、ヤムリカ? シエルが待っているとシグリドが言っていたわ。だから、行かせて。これ以上、あの人から離れていたくない。私の魂は永遠にシエルと共に……ずっと一緒に居ると誓ったの。


『愛し子よ、それがお前の望みなのか?』


 ごめんなさい、ヤムリカ。私の中でずっと見守っていてくれたのに……優しいヤムリカ、お願い。どうか、私とシエルの小さな弟を見守ってあげて。そうすれば、私が居なくなっても寂しくないでしょう?


『ディーネ、我が幼子よ。それがお前の望みならば、我はそれを叶えよう』

 ヤムリカは魂の別離を予感して心を震わせると、「狭間」に身を躍らせた。




 シグリドは背後の空間が揺らめくのを感じて、ロスタルから距離を取ると、そちらに視線を向けた。暗闇の中にぼんやりと光を放つ月色の髪が、風に流されてふわりと揺れている。

 ロスタルもそれに気づき、叫び声を上げた。

「くそっ……駄目だ、めろ、ディーネ! その剣に近寄るな!」

 ゆらりと姿を現した月色の髪の娘は、シグリドを見て美しく微笑むと、まるで抱きしめようとするかのように虹色の両腕を伸ばして、その身をヴォーデグラムの前に投げ出した。


 シグリドはシエルを想いながら闇色の剣を両手で低く構えて狙いを定めると、兄が愛した女性ひとの胸目掛けて思い切り突き上げた。

 ロスタルの叫びが、ヴォーデグラムの狂喜の歌声にかき消されていく。


  驚愕のあまり紅い瞳を大きく見開いて動きを止めた有翼の蛇グィベルの左胸に、闇色の剣が深々と突き立てられていた。清らかで美しい乙女の魂をその身に取り込みながら、ヴォーデグラムは甘美な魂の味に酔いしれ、高らかに歌い続けている。

 突如、シグリドの背後の空間から怒り狂った形相のロスタルが現れ、頭上に掲げた長剣をシグリドの首めがけて振り下ろそうと迫った。




 その時、ロスタルの周りの世界が色を失い動きを止めた。


『まったく……妹を溺愛するにもほどがある』


 剣を掲げたまま、空中で動きを止められた戦士の目の前に「夢魔の女王」がゆらりと現れ、しなやかな指でロスタルのあごをつかむと、なまめかしい唇を男のそれに押し当てた。

 柔らかな舌で男の唇を押し広げ、その輪郭をゆっくりとなぞりながら、舌を絡め取って執拗にもてあそぶ……意思に反して快楽に溺れていく男の恐怖を感じ取りながら。


 聖魔は感覚と意識までは奪わなかったようだ。ぞくり、と恍惚の波がロスタルの背中に押し寄せ、這い上がってくる。

 目の前の現実に手出しが出来ずにいきどおる男の心を見透かすように、水妖フーアはロスタルの頬に自分の頬を押し当て、わらいながらささやいた。

『白い獣よ、小さな妹のことなど忘れてしまえ。身を焦がすほどの情欲の海に溺れさせてやろう……人間の男など、皆同じ。甘い媚薬に酔いしれて、我の中で全てを忘れるが良い』



 ヴォーデグラムの歌声が次第に小さくなっていくのを見計らって、シグリドは有翼の蛇グィベルの胸元から剣をゆっくりと引き抜いた。自分の魂から愛しいものが引き剥がされていくのを感じて、ヤムリカの獣の瞳から涙が零れ落ちる。


 これで良いのか、アプサリス?


 シグリドはちらりと背後に目をやった。夢魔の女王はロスタルに絡みついたまま、にやりと口元に笑みを浮かべた。

 依代よりしろを、とアプサリスの声がシグリドの心に語り掛ける。

「聖なる蛇よ、ディーネの髪をもらうぞ」

 ヤムリカの悲しそうな瞳に見つめられて、シグリドはほんの少し胸が痛んだ。


 聖魔の髪を優しく掴んで刃を当て、するりと切り取る。はらりと音を立てて月色の髪が宙を舞った……と、同時に、まるで命あるもののように、明るく輝く髪がヴォーデグラムに絡みつき、あっという間に刃を包み込んだ。

 白銀から淡い金へと少しずつ色を変えていくその髪は、輝く金色の光の束となって次第に何かの形を成していく……



 からん、と音を立ててヴォーデグラムが地面に転がり落ちた。と、同時に、ふわりと金色の光が暗がりを照らし出す。

 その光の中に、陽の光を思わせる柔らかな金色の髪をなびかせ、朝焼け色の瞳を持つ美しい人間の娘が立たずんでいた。

『解き放たれたわ……やっと』 

 ディーネの魂は、真っ直ぐにシグリドを見つめていた。


 シグリドの背後で、アプサリスがロスタルを囲っていた腕をゆるりと解いた。白い戦士はもがくようにして妹の側に駆け寄って行く。

「ディーネ、ああ……あの頃のままだ……戻って来てくれた、ディーネ!」

 愛しい妹をその腕に抱こうと手を差し伸べた瞬間、ロスタルの手が虚空を泳いだ。

『ロスタル、無駄だ。我が幼な子は既に人の世を離れた』

 ヤムリカの声がロスタルを貫いた。


 なぜだ?

 俺の小さな妹は確かにそこにいて、愛情に満ちた美しい瞳で俺を見つめているではないか。幼い頃と同じ輝く金色の髪を揺らし、ばら色の頬にとろけそうな微笑みを浮かべて、俺を見つめているのに……

 なぜ、手が届かない?


 その場に崩れ落ちそうになったロスタルの身体を、手にしていた長剣が辛うじて支えている。地面に両膝をついた白い戦士はディーネを見つめ続けた。


 金色の光に包まれたディーネの魂は、ゆっくりとロスタルに近づくと、その頬に触れるかのように手を伸ばした。

『悲しまないで、兄上』

 柔らかい温もりを感じて、ロスタルは頬に手をかざした。一瞬、小さな手に触れた気がした。

『兄上がいつもそばに居て、守ってくれた。兄上のそばに居れば、何も怖くなかった。幼かった私にとって、兄上が世界の全てだったの。兄上さえそばに居てくれれば、それだけで私は幸せだったわ』

 薄青色の瞳から、すうっと一筋、涙がこぼれ落ちた。

「愛する妹よ、俺にとっても、お前が世界の全てだった」


 もう俺がそばにいなくとも、お前は暗闇を恐れて泣く事はないのだな?

 もう俺でなくとも、お前を守り、お前の全てを愛しむ者がそばにいるのだな?


 ロスタルの心の声をディーネはしっかりと受け止めた。

『……今度は兄上の番。この世界のどこかに、兄上だけを見つめて、兄上の全てを愛してくれる人が居るはずよ。だから、私のことで、これ以上、苦しまないで』

 兄がいつもそうしてくれたように、ディーネはロスタルの口元に優しく口づけた。金色の髪がふわりと揺れて、ロスタルの頬をそっとくすぐる。

『愛しているわ、兄上。今までも、これからもずっと』

 ディーネの魂を包んでいた金色の光が、次第に輝きを増しながら膨れ上がっていく……やがて、音もなくはじけ散ると、辺り一面に羽根のように、ふわり、ふわりと落ちては消えていった。



「……愛している、俺の小さなディーネ。今までも、これからもずっと」


 逝ってしまった。


 光の羽根が舞い降りる中、ロスタルは最愛の妹を腕に抱いて眠った日々を思い出して、静かに目を閉じた。


 その瞬間、世界が全ての色を取り戻した。

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