Act.3
夜、ご飯を食べ終わってから、私はクッキーを持ってお隣に行った。
子供の頃は何度も遊びに来たのに、この年になると、改めて家を訪れるのは緊張する。
私はドキドキしながら、ゆっくりとインターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と家の中から響いてくる。
少ししてから、パタパタと物音が近付いて来た。
小母さんかな。
もし小母さんだったら、まずは朋也を呼び出してもらおう。
そう思っていたのだけど――玄関のドアが開いた瞬間、私は目を疑った。
「紫織?」
私の名前を口にしたのは、小母さん――ではなく、なんと宏樹君だった。
「どうした? こんな時間にウチに来るなんて」
「あ、えっと……」
思いもよらない展開に、私はすっかりしどろもどろになった。
でも、私の目的は、宏樹君にクッキーを直接渡すことなのだから、何も焦る必要なんてないのだ。
「あの……、家の人は……?」
動揺し過ぎて、どうでもいい質問をしてしまった。
宏樹君はキョトンとして、けれど、すぐにいつものように微笑みながら、「いないよ」と答えた。
「親父とお袋は親父の実家。ひとり暮らししてる祖父ちゃんの具合が悪くなったからって看病に行ったよ。で、朋也は朋也で友達んトコに泊まりがけで勉強しに行ってるし」
どうせ、勉強なんてロクにしねえだろうけど、と宏樹君はニヤリと笑った。
「で、ご用は何でしょうか?」
おどけた調子で敬語を使って訊ねてくる宏樹君に、私は今度こそ、クッキーを差し出した。
「クッキー、焼いたから宏樹君に渡したくて……。ほんとは、いなかったら朋也にお願いするつもりだったんだけど。あ、もちろん朋也の分もあるよ! 宏樹君のがあって朋也のがないなんて不公平じゃない!」
慌てて取り繕ったものの、量ですでに差をつけているのだから説得力に欠ける。
でも、全く何もないよりはマシだと、私自身に言い聞かせた。
宏樹君は私の手元を凝視していた。
受け取るべきかで悩んでいるのだろうか。
「ほんとに、深い意味はないから……」
深い意味大ありじゃない! とまたしても、私の中の私が突っ込んでくる。
そのうち、宏樹君の手が動いた。かと思ったら、私の手からクッキーの包みをそっと取った。
「ありがと」
宏樹君は先ほどと同じ、穏やかな笑みを浮かべている。
私もこれで、ようやくホッとした。
本当は励ましの言葉をかけるつもりだったのに、受け取ってもらっただけで満足してしまった。
でも、このあと、宏樹君から、「入る?」と言ってきた。
「ここじゃ寒いだろ? 俺しかいないから何も出来ないけど……。でも、あったかい飲み物ぐらいだったら用意出来るよ」
「――い、いいの……?」
また、予想外のことに、私は恐る恐る訊ねてしまった。
そんな私に、宏樹君は笑いを噛み殺しながら、「いいよ」と頷いてから、ちょっと意地悪なことを言われた。
「大丈夫、別に取って食ったりしねえから。それとも、俺とふたりっきりは怖い?」
「――怖くないよ。私、宏樹君のことは信用してるし」
「そりゃありがたい」
宏樹君は、こっちが憎らしく思えるほどニッコリして、家の中へと入ってゆく。
私も、「お邪魔します」と挨拶してから靴を脱いで上がった。
リビングに通されると、本当に誰もいない。
中央に置かれたコタツを見ると、ビールの空き缶がみっつ、無造作に置かれたままになっている。
「悪い。今まで飲んでだから」
宏樹君はばつが悪そうに言い、クッキーをコタツに載せてから、代わりに空き缶を持ってキッチンへ引っ込んだ。
「紫織、ココアでいいよな?」
宏樹君に訊かれ、私は「うん」と答える。
私がコーヒーを飲めないのを知っているはずだけど、念のためにと確認してくれたのだろう。
宏樹君がキッチンで作業している間、私はコタツに入って座った。
ファンヒーターも点いているから、室内はちょっと汗ばむほどだ。
でも、寒いのが苦手な私には、これぐらいがちょうどいい。
しばらくして、宏樹君がカップをふたつ持って戻って来た。
「どうぞ」
宏樹君は、ココアの入ったカップを私の前に置き、もうひとつ、コーヒーの入ったカップは持ったままで座る。
「ありがとう」
私はお礼を言ってから、カップを手に取って、息を吹きかけてからゆっくりと啜る。
熱いけど、チョコレートのような甘さが口いっぱいに広がって、身体の芯まであったまる。
宏樹君は、コーヒーをブラックのまま飲んでいる。
多分、砂糖も入っていない。
ミルクや砂糖が入っていても飲めない私にとっては、ブラックで飲むなんてとても信じられない。
そういえば、と私は不意に想い出した。
去年、朋也とも、こうしてふたりであったかいものを飲んだ。
しかもその時も、私はココア、朋也は宏樹君と同じ、ブラックコーヒー。
宏樹君はともかく、朋也はブラックで飲むイメージがなかったから、ちょっとビックリした。
と言っても、あの時は精神的に追い詰められていた状態だったから、今のように、ブラックで飲むなんて、って考える余裕もなかったけど。
でも、一年経ってから、今度は宏樹君とふたりっきりで同じ部屋で過ごしているなんて、ちょっと不思議な縁を感じる。
「あ、せっかくだから食っていい、これ?」
宏樹君はカップを置き、クッキーの包みを指差した。
「あ、うん。食べて食べて」
ちょっと慌てて私が勧めると、宏樹君はおもむろにリボンを解く。
「お、見た目は上等」
そんなことを言いながら、星型のクッキーに手を伸ばし、てっぺんの部分をひと齧りして咀嚼する。
私はその様子を、ココアに口を付けたままで凝視した。
「ふうん……」
宏樹君は飲み込んでから、小さく何度も首を縦に動かす。
これが何を意味するのか分からなくて、つい、「どう?」と感想を催促してしまった。
宏樹君は真っ直ぐに私を見据え、口元に笑みを湛えた。
「美味いよ。見た目通り」
「――ほんと?」
「ほんとほんと。これだったら、朋也の奴も喜んで食うよ」
宏樹君に褒められて嬉しい。
でも、褒められるばかりじゃ悪いような気がして、よけいなことを言ってしまった。
「でも、ちょっと硬くない? お母さんには指摘されちゃったんだけど……」
宏樹君は二枚目に手を伸ばし、口に入れて噛み砕く。
「まあ、ちょっとだけな。でも、硬ければ噛む回数も増えるから歯が丈夫になる」
「――宏樹君、オッサン臭いよ」
私が突っ込むと、宏樹君は、あははと声をあげて笑った。
「そりゃあ、紫織から見たら俺はオッサンだろ?」
「年は離れてるけど、宏樹君はオッサンじゃないよ……」
「けど、紫織が今の俺の年になったら俺は? 四捨五入したら余裕で四十だぞ?」
「――そんなことで四捨五入しないで……」
すっかり呆れて大仰に溜め息を吐いた私に、宏樹君はまた、豪快に笑う。
大真面目なのか、それとも単にからかわれているのか、時々、宏樹君が分からなくなるから困る。
「あ、そうだ」
宏樹君は笑うのをやめ、立ち上がった。
「ちょっと待っててくれるか?」
何を想い出したのだろう。
宏樹君はそう言って、リビングから出て行ってしまった。
残された私は、とりあえずココアを飲む。
時間が経ったから、淹れたての時よりはだいぶ飲みやすくなっていた。
でも、やっぱり熱くても、甘いのをゆっくり口にするのが一番かな、なんて贅沢なことを考えてしまった。
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