Act.3
瀬野に連行されて着いて来た場所は、駅ビルの地下にある居酒屋だった。
そこは全国展開しているチェーン店で、値段も個人で経営している飲み屋よりはリーズナブル。
店の雰囲気も明るく活気に満ち溢れているので、幅広い年齢層の客が入っている。
店内に入り、彼らを出迎えてくれた女性店員に案内された場所は、ちょっとした個室のような席だった。
ふたりは向かい合うように椅子に腰かけると、中生ふたつと軽いつまみを適当に注文した。
「やれやれ、今日も一日疲れたわ!」
注文を取った女性店員が去ってから、瀬野は用意された温かいおしぼりで顔を拭き出した。
瀬野とは何度か飲みに来ているので、この光景は何度も目にしているが、それでも引いてしまう。確かにさっぱりして気分は良いかもしれないが、人目も憚らずに顔を拭く行為は、オヤジ以外の何者でもない。
(注意したって、素直に聴くような人じゃないしな)
宏樹はひっそりと溜め息を吐くと、自らもおしぼりで手を拭いた。
もちろん、瀬野のように顔を拭くという真似は絶対にしなかったが。
◆◇◆◇
しばらくして、店員が中生と突き出しを持って現れた。
「お待たせしました、中生です!」
気持ち良いほど威勢の良いかけ声と共に、各々の前にはビールが並々と注がれたグラスと突き出しの小鉢が置かれる。
「では、ごゆっくりどうぞー!」
店員は一仕事終わると、そそくさとふたりの前から立ち去った。
辺りからは、店員を呼ぶ声が絶え間ない。
今の彼らには、休む暇などないのだろう、と宏樹はふと思った。
「じゃ、とりあえず乾杯するぞ!」
少しばかりぼんやりしていた宏樹に、瀬野が声をかけてくる。
その手にはビールのグラスが握られていた。
「あ、ええ」
宏樹は曖昧に頷くと、自らもグラスを手に取る。
わずかに上げられた互いのそれは、静かにぶつけると、カチン、と小気味良い音を立てた。
瀬野は乾杯を済ませると、中身を一気に半分ほどまで減らしてしまった。
よほど喉が渇いていたのだろう。
宏樹はそんなことを考えながら、グラスを口に付けたまま瀬野を凝視した。
「で、ほんとに何があったんだ? 高沢よ」
グラスから口を離した瀬野が、不意に訊ねてきた。
宏樹は弾かれたようにピクリと反応し、「何がですか?」と惚けた。
もちろん、瀬野が言わんとしていることは分かっている。
案の定、瀬野は「おいおい」と宏樹に突っ込みを入れてきた。
「ったくよお、お前のことだから俺の訊きたいことぐら分かってんだろ?」
「――仕事中、ぼんやりしていた理由、ですか?」
全てを見越している瀬野に、どんな誤魔化しも利かないと改めて悟った宏樹は、心底面倒臭そうに言った。
「そうそう! やっぱお前、ボケたフリしてやがっただけだな? ほんとに悪い奴だなあ」
嬉々としている瀬野を前に、宏樹の口から深い溜め息がひとつ漏れる。
朋也や紫織にならば口で勝つ自信がいくらでもあるのだが、瀬野にはどうにも敵わない。
と言うより、異常なほどの粘着質だから、一度その毒牙にかかると、逃げ出すことが出来なくなってしまうのだ。
それは宏樹に限らず、他の同僚も同じらしく、たまに瀬野のいない所で彼についてぼやいているのを耳にすることがあった。
ただ、不思議と徹底的に嫌われることがない。
結局は、人当たりの良い瀬野の人柄だろう、と宏樹は思っている。
「――恋愛絡みですよ」
半ば自棄になりながら、宏樹は吐き捨てるように言った。
瀬野は、待ってました、とばかりに気持ち悪いほど目を爛々と輝かせている。
「なるほどなあ。もしやとは思ったが、やっぱ恋の悩みだったかあ。うん、いいねえ!」
何がいいもんか、と言い返しそうになったが、すんでのところで宏樹はその言葉を飲み込んだ。
「で、その彼女とはどうなったんだ? ん?」
「――別れてますよ」
身を乗り出す勢いで訊ねる瀬野に対し、宏樹は憮然として答えた。
そのとたん、瀬野は今までとは打って変わり、そのまま固まってしまい、視線をあらぬ方向へさ迷わせている。
拙いことをを訊いてしまった、と思ったのか、それとも、宏樹への励ましの言葉を考えているのか、さすがの宏樹もそこまで覗うことがが出来なかった。
そのうちに、頼んでいた食べ物が運ばれてきた。
枝豆に唐揚げ、刺身の盛り合わせが次々とテーブルに並べられる。
「では、ごゆっくりどうぞー!」
先ほどと全く同じ、マニュアル通りの挨拶を残し、店員はまた去って行った。
「まあ、あれだな」
店員の姿が見えなくなってから、瀬野は小皿に醤油を垂らしながら口を開いた。
「俺も正直、何つっていいのか分かんないけどよ。高沢はまだまだ若いんだから、これからいくらでも出逢いのチャンスはあるだろうさ。それに、お前は結構モテてるからな。――高沢をいいって言ってる子、俺の知る限りでも四、五人はいるぜ? ま、高沢本人にその気がなけりゃ意味ないけどよ」
瀬野は微笑を浮かべると、マグロの刺身にワサビを少し載せ、それに醤油を付けて口に運んだ。
宏樹はそれを黙って見つめながらビールを呷る。
千夜子以外の異性のことは眼中にもなかった。
ずっと、彼女への執着は凄まじかった、と改めて思う。
ただ、今はもう、自分でも驚くほどに愛が冷めている。
あれほど好きだったはずなのに、昨晩の出来事だけで、こうも気持ちが変わってしまうものだったのか。
「――ほんとは、そんなに好きじゃなかったのか……?」
無意識に口に出していた。
だが、瀬野には、宏樹の消え入るような声は完全には聴こえなかったらしく、「何か言ったか?」と怪訝そうに訊ねてきた。
「いえ、何でもないですよ」
宏樹は自らを嘲るように口元を歪め、残りのビールを飲みきった。
「おっ! お前のもなくなったな? よし、追加すっか!」
瀬野はニカッと笑うと、近くを通りかかった店員に追加注文を言い付けていた。
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