第四話 水平線の彼方に
Act.1
刻々と時は過ぎ、気が付くと日曜日となっていた。
学校はもちろん、大抵の会社も休みであるが、紫織の父親は周囲が休日を満喫している時にこそ働きに出ている。
今日も朝早くから出勤したようで、紫織が起きた頃にはすでに父親の姿はなかった。
幼い頃には、どうして自分のお父さんはよそのお父さんと違うんだろう、という疑問を抱いたこともあったが、今となっては、父親のいない休日は当たり前のようになってしまい、特に気にならなくなっていた。
父親が不在の中で、紫織と母親はふたりで朝食を食べ、食事を済ませたあとは、母親は後片付けをし、紫織はコタツに寝転んでテレビを観ている。
何もせずに、ただのんびりと過ごす。
それが紫織にとって、何より幸せな休日である。
「ちょっとあんた……」
後片付けを終えた母親はリビングへと戻って来るなり、紫織を呆れたように見下ろしていた。
「いくら休みだからって何ぐうたらしてんの? ちょっとは手伝いのひとつもしようって気持ちにならないの?」
「うーん……、めんどくさい……」
紫織はだるそうに答えると、首だけを出す格好でコタツに潜り込んだ。
その行動は母親の癇に障ってしまったらしい。
突然、何の前触れもなしに頭に平手が飛んできた。
「……ったあ……」
紫織は首をわずかにもたげると、コタツから手を出して自らの頭を何度もさすり、母親を恨めしげに見上げた。
「いきなり叩くことないでしょ! 暴力反対!」
「なにいっちょまえな口利いてんのよ」
母親は腰に両手を当て、それこそ仁王像のような凄まじい形相で紫織を睨んでいる。
「ちょっとぐらい痛い目に遭わないと、あんたは全く人の言うことなんて聴かないでしょうが。それに、そんなに強く叩いてないでしょ。――ほんとに大袈裟なんだから!」
「――だって……」
「『だって』じゃないの! もう、あんたがここにいると掃除もロクに出来ないからどっかに行ってらっしゃい!」
「ええーっ……!」
「――何か、ご不満でもあるのかしら?」
母親は紫織に、満面の笑みを浮かべている。
だが、実は全く笑っていないのは、紫織も重々承知していた。
「――いえ、ありません……」
力なく答える紫織に、母親は満足気に頷く。
「分かればいいのよ」
◆◇◆◇
母親から追い出された紫織は、自室へと戻ってコートを着込んだ。
本当は家から出たくなかったのだが、自分の部屋にいたとしても、先ほど同様、酷い扱いを受けるのは目に見えている。
(風邪を引いたら、絶対にお母さんを恨んでやる)
紫織はそう思いながらコートを着込み、お気に入りのクリーム色のマフラーを巻いた。
手ぶらで出るのも何だか虚しいような気がしたので、小さなバッグを手にし、その中に財布を忍ばせた。
財布の中身は雀の涙ほどしかないが、ないよりはましである。
贅沢は出来なくても、せいぜいファーストフードぐらいは口に出来る。
「さてと……」
ひととおりの準備を終えると、紫織は再び部屋を出た。
◆◇◆◇
外に出ると、凍り付かんばかりの冷気が全身に纏わり付く。
口からは真っ白に染まった息が吐き出され、それがよけいに寒さを感じさせた。
紫織はコートのポケットに手を入れた。
手袋を嵌めてはいるが、それでも、出したままでの状態では少しずつ指先から体温を奪われてゆく。
(とりあえず、駅の方まで行こうかな)
紫織は身を縮ませながら、駅へと向かおうとした。
と、その時であった。
「紫織」
背中越しに低く穏やかな男の声に呼び止められた。
紫織は立ち止まって後ろを振り返る。
紫織を呼んだのは、隣人の幼なじみである宏樹だった。
「珍しいな、こんな寒い日に外に出るなんて」
宏樹は紫織と視線が合うなり、小さく笑みながら言った。
宏樹も出かけるところだったのだろうか。
紫織同様、上半身にコートを纏っている。
「どこ行くんだ?」
まるで保護者のように訊ねてくる宏樹。
完全に子供扱いされていると感じた紫織は、不満げに口を尖らせた。
「別にどこ行くって目的はないけど……。ただ、お母さんに邪魔扱いされちゃったから……」
紫織の答えに、宏樹は、あはは、と声を上げて笑った。
「なるほど。それじゃあ、俺と同じってわけだ」
「え? 同じって、まさか……」
「そ、俺も、追い出されたクチ」
宏樹は屈託なく言った。
「いい大人が、家にばかり閉じ籠ってるんじゃない、ってね。確かに、親の言うことももっともだけどな」
「そうなんだ。――あ、でも、朋也は?」
「ああ、あいつは朝早くから出かけてるよ。どうやら、学校の友達と約束があったみたいだな」
「ふうん」
紫織は短く答えると、寒さも関係なく、意気揚々と出かける朋也を思い浮かべた。
年中元気がありあまっているというのは、呆れる半面、羨ましくも感じる。
(朋也ほどじゃなくても、私ももうちょっと寒さに強ければ……)
そう思いつつ、紫織は身体を鍛えようという気は全く起きない。
やはり、家でぬくぬく過ごすのが一番幸せだと改めて考え直した。
「――紫織?」
思案に耽っている紫織の顔を、宏樹が怪訝そうに覗き込んでくる。
宏樹の顔がすぐ目の前にある。
紫織は驚いて目を見開き、思わず背を仰け反らせた。
「別に、そんなにビックリすることないだろ?」
宏樹は呆れたように苦笑した。
「だ、だって……! 急に宏樹君が顔を近付けてくるから……!」
紫織の心拍数は徐々に上がっている。
宏樹とは長い付き合いだし、幼い頃は、抱っこもおんぶもしてもらっていたこともあるが、今は違う。
ほんの少し、宏樹の吐息を感じただけで紫織は本気で失神寸前まで追い込まれる。
だからと言って、突き放されてしまうのも淋しい。
本当に、恋心というものは厄介に出来ている。
(私、このままで大丈夫なのかな……?)
そんなことを思っていたら、宏樹が、「おい」とまた声をかけてきた。
「紫織、特に予定がないなら、ちょっと俺に付き合わないか?」
「え……?」
突然の申し出に、紫織はポカンと口を開けたまま何度も瞬きした。
宏樹は紫織に自分の言葉が伝わっていないと思ったらしい。
「だから、俺に付き合って、って言ったんだけど」
「あ、それは分かったんだけど……。――なんで?」
「『なんで』って言われてもなあ……」
さすがの宏樹も困惑していた。
「深い意味はないんだけどねえ。――まあ、いいから来い」
珍しく命令口調で紫織に促してくる。
紫織は言われるがまま着いて行くと、隣家の車庫に停められている宏樹の車の前まで来た。
宏樹はコートから車のキーを取り出すと、鍵穴にそれを差し込んでドアを開けた。
「ほら、紫織も乗った」
「あ、うん」
抵抗する間もなかった。
いや、宏樹に抵抗する気など元からなかったが。
紫織はドアを開けると、助手席に座り、シートベルトを着用する。
宏樹はそれを見届けると、車のキーを回した。
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