Act.3

 ◆◇◆◇◆◇


 その日の夜、宏樹は夕食を済ませてから自室に電話の子機を持ち込んだ。


 番号を押すたびに鳴る電子音。

 期待よりも不安が押し寄せる。


 やがて、電話の向こうでコール音が鳴り出した。



 一回、二回、三回……



 相手はなかなか出ない。


(やっぱり、ダメか……)


 諦めて電話を切ろうとしたその時だった。

 コール音がピタリとやみ、向こう側から『もしもし』と透明感のある声が聴こえてきた。


 宏樹は慌てて受話器を耳に当てる。


「あ、えっと……、千夜子ちやこ……?」


 本人だと分かっていたが、念のためにと確認する。


『――うん』


 電話の相手――千夜子は消え入りそうな声で答えた。


「元気だった?」


『うん、コウは?』


「ああ、俺もお陰様で」


『そう』


 久しぶりの会話だからか、互いにぎこちない。


 話したいことはたくさんあるはずなのに、何を話して良いのか分からず、宏樹も少しばかり困惑していた。


『――ごめんね……』


 数秒間の沈黙のあと、千夜子が謝罪を口にしてきた。


 何故、謝られるんだ、と宏樹は怪訝に思いながら眉根を寄せる。


「どうしたんだ、いったい……?」


 宏樹が訊ねるも、千夜子はまた、口を閉ざしてしまった。


 宏樹は、辛抱強く言葉の続きを待つ。


 静まり返った部屋の中に響く、時計の針の音。

 心臓の鼓動もトクトクと脈打っている。


 どれほどの時が経ったであろうか。


『――コウ』


 決心が付いたのか、やっとのことで千夜子が再び口を開いた。


『私、今までコウに言えなかったことがあった……。実は……、この間から、他に好きな人が出来た……』


 宏樹は目を見開き、危うく子機を床に落としそうになった。


 予想もしていなかった千夜子からの告白。

 いや、心のどこかでは分かっていたが、宏樹はあえてそれに気付かないふりを装ってきた。


 宏樹は深呼吸をして、一度心を落ち着かせると、努めて冷静に訊ねた。


「千夜子、今のはほんと?」


『――うん。でも、コウを嫌いになったわけじゃない。ただ……、なかなか逢えないコウよりも、近くにいる人が良かったから……』


 千夜子の言葉に、宏樹はただ黙って耳を傾けるしかなかった。


 彼女の気持ちは分かる。

 宏樹も、千夜子と逢えない時間は淋しくて不安だったのだから。

 しかし、それでも千夜子との未来を信じ、いつかは一緒になろうとも考えていた。


「――そっか……」


 やっと出たのは、それだけだった。

 もう、頭が真っ白で何も浮かばない。


 千夜子は電話の向こうで、何度も『ごめんなさい』を繰り返している。


「いや、俺にも非があるから……」


 今にも泣き出しそうな千夜子の声を聴きながら、宏樹は呟く。


 自分が悪いと思い込まないと、心変わりした千夜子を責めてしまう。

 だから、必死で自分に言い聞かせた。


「――千夜子」


 宏樹は、一番訊きたかったことを訊ねてみた。


「お前は、俺といて幸せだったと想ってくれたことがある?」


 千夜子は一呼吸吐いたあと、『もちろんよ』と答えた。


『私にとって、コウは初めての恋人だったもの。コウといられた時間は、本当に幸せだった。でも……、今はもう、コウを愛せる自信がないから……』


「――そう……」


『ほんとにごめんなさい。せっかく久々に電話してきてくれたのに……。いきなり別れを言うなんて私もどうかしてると自分でも分かっているけど、今言わないと、もっとコウを傷付けていたと思う……』


 千夜子はそこまで言うと、『それじゃあ』と切り出した。


「あ、待って」


 宏樹は、慌てて電話を切ろうとしている千夜子を引き止めた。


「ひとつ、お願いしたいんだけど……」


『――なに?』


「最後に、一度だけ逢えないかな……? もちろん、それで俺も終わりにするから……」


 千夜子は少し黙り込んでいたが、結局、彼女から肯定の返事はなかった。


『ごめんなさい。もう、コウとは逢わないと決めてるから……』


 ここまではっきりと言いきられてしまっては、引き下がる以外にない。


 宏樹は、「分かった」とだけ答えた。


「それじゃあ、元気で……」


『うん、コウも……』


 それを潮に、今度は本当に千夜子は電話を切ってしまった。


 耳の奥に、電話が切れた後の音が鳴り響いている。


 もう、千夜子の声は聴こえない。

 それなのに、その無機質な音のどこかで、千夜子の声の幻が届いてきそうな気がしていた。


 宏樹は目を閉じた。

 そうしていれば、しばらく逢えなかった千夜子の笑顔が見えるかもしれない。

 そんな幻想を抱きながら、宏樹は受話器からゆっくりと耳を離した。


[第三話-End]

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