第59話 脱走
目が覚めたら、病院の個室にいた。
「…………へ?」
視界を埋め尽くすあまりの白さに、泰介は呆気に取られる。壁、天井、間仕切りのカーテン。シーツもベッドも何もかもが白かった。自分の着ているパジャマの水色が唯一と言っていい色彩だったが、それさえも泰介には馴染みのない色だ。普段はジャージで寝ているので、パジャマに袖を通す習慣自体ないのだ。
何故、こんなものを着て寝ているのだろう。唖然としていると、自分の左腕の異常にもすぐ気づく。
妙に冷たいと思っていたら、案の定だった。腕の関節辺りに点滴針が刺さっていて、透明なチューブを伝って何らかの薬液がとくとくと注入されている。
「……」
状況が呑み込めないでいると、ふと、サイドテーブルに視線が行く。パジャマの他にも何か、ひどく目を引くものがあったのだ。
途端、青色が目に飛び込んできた。
――青い、サテン地の、リボン。
「……っ! 葵!」
上体を起こして叫んだが、脱力しきった身体では起き上がる事が叶わず、泰介はベッドへ墜落した。身体が枕とシーツに沈み、点滴がかしゃんと澄んだ音を立てて揺れた。
身体は動くが、妙に動きが鈍かった。まるで油を挿さずに放置した自転車のような軋みと煩わしさを伴った身体は、それなりに運動に打ち込んできた自分の身体とはとても思い難かった。胃の底では空腹感にも似た吐き気がきりきりと淀んでいて、それだけが唯一明確な不快感として泰介の身体を蝕んだ。
とはいえ、視界は意外なくらいにすっきりとクリアだ。頭痛も嘘のように消えている。身体の不具合に悶々としながら泰介が点滴を睨んでいると、かたり、とスライド式の扉が開いた。
そこに立つ誰かが息を呑んで、手荷物を落とす音が遅れて響く。泰介は不機嫌の顔のまま、突然の闖入者を見やった。
そして、驚く。
「……泰介! あんた起きたの!」
母、だった。感極まった様子で両手を口元へ当てている。泰介はぽかんとしながら、涙ぐむ顔と向き合った。
何故。
悪いとは思ったが、それが素直な感想だった。
「よかった……っ、心配したのよ! よかった! よかった……!」
近寄ってきた母にいきなり覆い被さるように強く抱擁され、「うわあぁ!」と思わず全力で抵抗の叫びを上げた。身体を離した母は何事かさらに言い募ろうと口を開けたが、思い直したように病室の扉を振り返った。
「泰介、待ってて! 先生に声掛けてくるから!」
「母さん! ちょっと待ってくれ!」
泰介は慌てて、母の背中へ声をぶつけた。
「なんで俺、こんなとこで寝てんだよ! ありえねえ!」
「……あんた、声でかいのよ! ここ病院なのよ!」
母の堪忍袋の緒が、あっさりと切れた。
憤怒の表情で振り返った母がずかずかとこちらへ近寄って、すぱん! と泰介の頭を引っ叩いた。「てっ!」と堪らず泰介は叫ぶ。明らかに入院患者の様相を呈している人間に対して何という仕打ちだろう。そっちの方が声でかいだろ、と反射的に言い返しかけたが、母の恐ろしい形相を見た瞬間にバリカンで髪を刈られた記憶が蘇り、文句が喉の奥へ引っ込んだ。
「あんたね! いろんな人に心配と迷惑かけといて、起きて早々ありえねえとかほざいてんじゃないわよ! 何よ、元気じゃないの! ほんとにあんたなんで倒れたの! あんたの卒倒の方がありえないのよ!」
「……倒れた?」
「葵ちゃん、随分心配してたのよ! あんた、あの子の真ん前でぶっ倒れたそうじゃない!」
「……!」
思い出した。
今度こそ、泰介は上体を起こした。
「ちょっと、まだ寝てなさい!」
母が、ぎろりと泰介を睨んだ。
「これから多分いろいろ検査する事になるわよ。四日間も寝てたんだから!」
「はっ? ……四日ぁぁあ!?」
驚愕する。
耳を疑った。
母は泰介へあっさりと頷き、「この子ほんとに四日も寝てたのかしら……」と、頬へ手をやりながら暢気に話し始めている。目尻の涙は最早見る影もなかった。
「……」
訊くのは恐ろしかったが、訊かないわけにはいかなかった。
強張った顔のまま、泰介はおそるおそる、訊ねた。
「母さん、俺……倒れてから、四日間も寝てたって事かよ……?」
「ええ。ただの風邪だって思ってたのに。こんな事になるなんて……お医者様にも原因が分からないんですって。風邪の症状が少し残ってたくらいで、他は特に異常ないらしいから。目さえ覚めたら回復は早いだろうって仰ってたけど……」
そう言い終えた母は、まじまじとベッドの上の息子を見下ろす。そして、安堵よりも不可解さが勝る表情で小首を傾げた。
「なんか、感動的な気持ちが全部吹っ飛んだわ。あんた、元気過ぎて。普通もう少し意識朦朧としてたりするもんなんじゃないの?」
「そんな事はどうでもいいから! 母さん!」
泰介は母へ詰め寄った。
「今日、何日!」
母は切迫した様子で日付を確認する息子を、きょとんとした目で見下ろした。
「十月の、二十四日だけど」
「は…………はああぁ!?」
十月二十四日。
――修学旅行、初日、だった。
「おいっ……それ、修学旅行だろ、確か……!」
「そうよ、そんな時にあんたに倒れられて、母さんと父さんも仕事に穴あけちゃったんだからね。息子がぶっ倒れた所為で」
元気に目覚めた途端にちくちくとした悪態へ変わる辺りが現金だと思ったが、今はそんな事はどうでもよかった。
「修学旅行はっ」
「行けるわけないでしょ! 欠席よ!」
母がじろりと、先程より鋭い眼光で泰介を睨みつけた。
「泰介。あんた退院したら真っ先に葵ちゃんに謝りに行きなさい。あんたの所為で、あの子凄い怒られたらしいんだから!」
「は……っ?」
「葵ちゃん、あんたがこんな事になったから、修学旅行には行かないって言ったらしいのよ。それで担任の島田先生と揉めて、随分怒られたみたいよ」
「ちょっ……なんだよ、それ!」
話の展開が読めなかった。
「反省文書かされてもいいから絶対行かないって言い張って。今日もお見舞いに来てくれたから、修学旅行、本当に諦めたみたいよ。……あんたの所為だからね! 泰介!」
「葵、来たのか!?」
泰介はベッドから身を乗り出して叫ぶ。途端に頭を叩かれたが、気にせずもう一度叫ぶ。
「いつ!」
「うるっさいわね。そうね、十一時くらいだったかしら」
「じゃあっ、今、何時だよ!」
「午後の二時半。……あんた、本っ当にうるさいのよ!」
三度目は拳骨を食らったが、最早それえどころではなかった。
だが、この時母が口にした台詞に度肝を抜かれ、泰介は目を剥く事になる。
「そういえば泰介。葵ちゃん、彼氏できたの? 母さんすごく寂しいんだけど」
「はあっ……?」
真っ先に思ったのは、何故そんな他人事みたいに言うのだろう、という実に間抜けな感想だった。
そしてそう思った瞬間には、母の言葉のニュアンスがおかしいと気づく。
自分の事ではないと、気づく。
間が、空いた。
「い……っ、いるわけ、ねえだろっ、そんなの……!」
頭に血が上って叫んだ泰介を、母が憐れみの目で見下ろした。
「何むきになってんのよ。あんたがぐずぐずしてるから取られちゃったんでしょ」
「だからっ、あいつに彼氏なんかいるわけねえだろ! 誰だよ! そいつ!」
「すっごいイケメンだったわよ。髪が漫画みたいなオレンジ色してたけど、顔は綺麗だし優しそう。ああいうのがタイプなんじゃ、泰介じゃ敵わないわねー」
途端に、了解した。全て母の早合点らしい。
「……それ、彼氏じゃねえよ」
泰介は脱力しきってベッドに崩れ落ちたが、事の重大さにすぐ気付いた。
がば、と顔を跳ねあげると、泰介は母へ問う。
「仁科も来てたのか。ここに?」
「ああ、そんな名前だったわね。そうよ、葵ちゃんと一緒だったわ」
――仁科要平。
修学旅行後の療養休みに、唐突に命を絶った、泰介の友人。
泰介が卒倒してここへ担ぎ込まれ、葵が修学旅行を辞退し、その葵と連れ立って、仁科もここへ泰介を見舞いに来たのだ。
それが何を意味しているのか、泰介は一瞬で理解する。仁科も葵同様に修学旅行を辞退したという事だろう。大体、葵のいない修学旅行にあの面倒臭がりの仁科が行くわけがないのだ。泰介は、確信する。
葵と仁科の二人は間違いなく、今、御崎川にいる。
「……」
葵が修学旅行へ持参してしまった手紙を泰介が奪い、それを泰介が落とした所為で仁科の目に晒してしまった。その結果起こってしまった、あの惨事。
だが、事態は今や以前とは違った変化を見せていた。泰介の心に安堵と不安の両方が、さざ波のように広がっていく。この変化を、安堵として受け取るべきか。それとも不確定要素としてまだ緊張を緩めるべきではないのか。眉間に皺を寄せながら考え込み、泰介は後者を取るべきだと即断する。
完璧に可能性全てを消し去るまでは、安堵などできるわけがない。
「母さん。俺……倒れた時、何か握ってなかった?」
「? 何それ。知らないわよ」
母は首を捻っている。背に氷を押し当てられたような緊張が、すっと泰介の意識を張り詰めさせた。
手紙の所在が――分からない。
記憶が確かならば、泰介は倒れた時、手紙を握り潰していた。
葵が、回収したのだろうか。逸る鼓動を抑えながら思考したが、真相はこうしていても分からないままだ。
もし何かの手違いで、仁科の手に渡ったら。最悪の想像が、一気に膨らんだ。
怪訝そうにこちらを見下ろす母へ、泰介は言った。
「……母さん、俺の携帯どこ」
「持ってきてないわよ。病院だもの。あんたの部屋にある」
「母さんの携帯、貸してくれ。葵の携帯、登録ある?」
「おうちの電話だけなら、してるけど……」
「……っ」
内心で舌打ちしながら、泰介はサイドテーブルに乗せられた母の鞄を引っ手繰る。そして、携帯を漁ろうとしたところで――四度目も拳骨を食らった。
「だからっ! 寝てろって何回言ったら分かるのよ! あんたは!」
怒鳴った母は鞄を泰介から取り上げた。それを肩へ提げながら、のしのしと大股に歩いて病室を出ていこうとする。
「待っ……!」
「寝てなさいよ、泰介。先生呼んでくるから!」
そう言って母は、今度こそ扉を出て走っていった。
――冗談ではなかった。
こうなった以上、最早一刻の猶予もなかった。医師による検査がどれほどかかるものなのか知らないが、四日間も寝込んだ人間が今日中に退院させてもらえるとはいくらなんでも思えない。
今、捕まったら――多分、もう逃げられない。
本当に、冗談ではなかった。
泰介はざっと周囲を見渡し、着替えになりそうなものが視界に見当たらないのを確認すると、腕に刺さった点滴針を見つめ、刹那、躊躇する。
葵の顔が、脳裏を掠めた。
家族が好きだと衒いなく言う、佐伯葵の笑顔。家族の為に台所に立って料理をする姿が目に浮かび、その眼差しの慈愛の深さが、泰介の胸を突き刺した。
「……」
悪いとは、思っていた。四日間も寝たきりで、家族に心配をかけた。その意識は泰介にもあるのだ。罪悪感は当然の感情だった。悪いと、思っている。その気持ちに、嘘はない。
だがそれでも。
もどかしさの方が、段違いに上だった。
こちらも、人命が懸かっているのだ。
「……ちっ」
腹を、括った。
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