第57話 アリスの飛び降りた教室

 すう、と目を開けると、高い位置に天井が見えた。

 遠近感の暈けた眺めを漫然と見つめてから、泰介は顔を横へ傾けた。

「ん……」

 身じろぎする、声がした。

 目を覚ました泰介の隣で、葵と仁科が並んで床に座っている。二人とも目は閉じていて、軽く身体を寄せ合いながら、机に寄りかかっていた。

 そんな二人の姿を見た時、泰介は手に触れるぬくもりに気づく。

 手が、握られていたのだ。

 葵の手、だった。

 そして、その手に気づいた時。

 仁科の目が、薄く開いた。やがて寝転んだままの泰介と目が合い、切れ長の目が驚きに見開かれる。

「……吉野」

 呆けたような仁科の声に、葵の肩がぴくりと動く。そしてぱちっと目が開いて、弾かれたように起き上がった。

「あ……やだ、寝ちゃってた!」

「佐伯、吉野起きてる」

「えっ」

 泰介は、二人を茫然と見上げていた。

 言葉に、ならなかった。こんな風に言葉に詰まるとは、想像もしていなかった。胸に閊えた感情が、声の邪魔をする。だがその感情の正体が分からない。感動、だろうか。それとも別離の寂しさだろうか。それとも、また出会えて嬉しいのか。

 泰介がこの場所へ巻き込んでしまった――おそらくは修学旅行数日前の、二人。

 ここへ巻き込まなければ――一人教室から落ちたであろう、仁科要平。

 そして結果として――一人ぼっちになる、佐伯葵。

「泰介……っ、よかった……!」

 葵の顔に安堵が広がる。仁科の顔にも一瞬同様の感情が浮いたが、やがてそれがうっすらとした揶揄にとって代わり、泰介へ言った。

「……起きるの、遅かったじゃん。寝坊助〝アリス〟」


 泰介は、がばっと起き上がった。


「!」

 葵が、息を吸い込んだ。仁科が、ぎょっとしたように身を引いた。泰介は構わずそんな二人へ体当たりするように身体をぶつけ、硬直する葵も面食らう仁科も、一緒くたにして抱きしめた。

「きゃ!」

「うわ!」

 二人がそれぞれ悲鳴を上げた。仁科が凄まじい抵抗を見せて「吉野、お前ついに見境なくなったのか? 俺は佐伯じゃないから!」と非常に腹の立つ文句を喚きながら腕をぐいぐい押し返してくる。斜に構え続けていた同級生がそんな風に動揺するのは意外だったが、それさえも今だけは、泰介にとってどうでもよかった。

 生きている。

 仁科が。――――生きている。

「泰介……どうしたの?」

 葵が泰介の肩へ押し付けられていた顔を上げて、泣き笑いのような顔になる。

 近くで見る葵の顔は、やはり泰介の知る葵だった。葵以外の何者でもなかった。当たり前の事だった。そんな当然の事を疑った事など、今までに一度もない。

「葵。……俺、全部思い出した」

「泰介。それを私達に話す気、ないんでしょ」

「……」

「一つだけ、教えて?」

 葵が、泰介をそろりと見上げた。

「私、泰介と付き合ってるの?」

 直球だった。仁科が抵抗を止めて、口笛を吹き始めた。それをぎろりと睨んでから、「ああ」とぶっきらぼうに肯定した。

「……どっちが、先に言ったの」

「お前」

「嘘、なんでっ」

 葵の顔が、ばっと赤くなった。何だか騙しているような気分になったが、まあいいか、と思う。泰介としては、どちらでもいいのだ。

「あのさあ。こんな逃げ場ない状況でいちゃつくのやめてくれる? 俺、どうすればいいのか困るんだけど」

「うるせぇよ」

 泰介は聞かずに、むしろ二人を抱きしめる力を強くした。距離がさらに詰まると一番小柄な葵の身体が真ん中に転がり込み、仁科が上から被さるような形になる。肩同士がぶつかり合って痛かったが、全く気にならなかった。葵と仁科も窮屈ながら互いに顔を見合わせると、やがて可笑しそうに笑い出した。

「なんだか、可笑しくなってきちゃった」

「だな。こんななりで〝アリス〟だろ? うける」

「うけるとか言ってんじゃねえよ」

 泰介は言いながら、葵の頭を見下ろした。

「葵」

「なあに?」

「俺がここにいる時点で……お前との約束、一回破った事になってる。約束した事、お前はこれからも分からないだろうけど」

「……?」

「……悪かった。もう、破らねえよ。次はちゃんと、守るから」

「……分からないけど、でも」

 こちらを見上げる葵の目に、悪戯っぽい光が灯る。

「……許す!」

 そして笑顔を返した葵は、泰介の背に腕を回した。仁科がにやりと笑ったのが視界に入ると、泰介は思わず渋面になった。

「仁科。お前には謝る事なんかねーからな。むしろ俺と葵に謝れ」

「吉野、何言ってんの」

 呆れの目をした仁科を泰介は睨み返し、仕返しのように笑ってやった。

「お前の事も仕方ないから面倒見てやるって言っただろ。約束、果たしに行く。それでさっきの借りはチャラだ」

 それを聞いた仁科は、ふと思案気な顔つきになって泰介を見た。

「さっき佐伯の家の人から、お前の状態、少しだけ聞いた。すぐにいなくなったから全然話聞けなかったけど。……吉野が今からやろうとしてる事。何となくだけど分かる。お前が起きるまで、佐伯とそれ話してた」

「……うん」

 葵が、腕の中で同調した。

「泰介。私たち、ここであったこと、忘れちゃうのかな」

「……ああ」

 泰介は、躊躇を見せずに頷いた。

 反対されたところで泰介には決行の意思を曲げるつもりはなく、それを二人から非難されても甘んじて受け入れる覚悟だった。それだけの事を、二人に強いている。悪いとはやはり思わないが、背負い込む覚悟は決めていた。

「そっか。……私、いいよ。忘れても」

 葵が、溜息を零すように囁いた。

 意外な、言葉だった。

「泰介。私と仁科、どれくらいの期間を忘れちゃうの? 〝ゲーム〟の間だけ?」

「……多分、修学旅行前の、一週間くらい、だと思う」

 言い終えると泰介は、二人の反応を窺った。

 だがその反応は、やはり意外なものだった。

「……なあんだ。心配して損しちゃった。ね、仁科」

「ああ。吉野が深刻そうな顔してるから、どれだけ忘れさせられんのかと思った」

「……怖くないのか? お前ら」

 泰介は、あまりに軽いリアクションに面食らう。至近距離で向けられた拍子抜けの表情に、こちらにまで同じ感情が伝播する。

「だってそれって、大体三日くらい前に戻るってことでしょ? たったそれくらいの期間が戻っちゃっても、私たちの関係、そんなに変わらないよ」

「吉野がうるさいのなんて、ここに来てから一ミリも変わってないだろ」

「仁科っ、てめぇ!」

 額に青筋が立った泰介へ、仁科は飄々と続けた。

「ここに来ても全く変わらない吉野が、時間を戻すんだろ? 俺と佐伯は多少変わっただろうけど、そんな奴らが戻るよりは、ぶれない奴が戻った方がいい」

「は……」

「そしたらまた変わるだろ。俺達は。お前を中心にしてさ」

「仁科……お前……」

 本当に、言葉にならなかった。

 その台詞が仁科要平の言葉だとは信じられず、そしてその台詞が吉野泰介へ向けられたものだという事も信じられなかった。

 仁科は、変わっていた。もう〝ゲーム〟開始時の仁科とは考え方もスタンスも違っていた。だがそんな風に思った時、ふとそれは違うと思い直す。

 確かに仁科は変わっただろう。だが、多分それだけではないのだ。泰介自身が仁科の事を、以前より少しだけ知った。そんな今の泰介が仁科を深く知らなかった頃を振り返るから、変わったと錯覚しただけだった。

 なるほど、と思う。

 仁科が言うように、自分がぶれたつもりは全くなかった。だが仁科を見る自分の目は、僅かに変化していたらしい。泰介は、思わず挑発的に笑った。

「なんだ、お前。思ったよりいい奴じゃん」

「吉野の人を見る基準って、単純なんだな」

「前言撤回する。やっぱお前は、すっげぇ嫌な奴だ」

「まあまあ。許すって言ったでしょ? 泰介。私も仁科も、泰介ならいいよって思ってるんだから。そんなに怒らないでよ」

 とりなした葵が、不意に泰介の腕をそっと掴んだ。

「?」

「これ、持ってて」

 葵が、泰介から身体を離す。真ん中にいた葵が身体を動かすと、仁科も身体を持ち上げたので泰介の腕が外れた。

 すると、何かを腕に括り付けられた。滑々とした布が擦れる音がする。青い布地が光を受けて、飴色の光沢を弾いた。泰介は、はっとする。

 ――これを受け取るのは、二度目だった。

「……お前、これ。大事にしてるやつじゃん」

「だから、持っててよ。大丈夫だって思ってるけど、持ってて欲しいんだもん」

 葵は腫れた手を少し気にしながら、リボンを泰介の腕に結った。蝶々結びにしたリボンの長さを調節し、きゅ、と軽く引き絞る。腕に巻かれた青いサテン地のリボンを見た仁科が、泰介へ意味深な視線を寄越して笑った。

「これで少しはアリスっぽくなったんじゃないか? 吉野でアリスはやっぱり面白すぎたから」

「仁科、お前やっぱりうぜぇ」

 泰介は苦々しく吐き捨てたが、対する仁科は泰介の反応が予想済みだったのだろう。顔に揶揄が滲んだ。

「吉野、俺からお前にやれるものなんか、何もないから」

「期待なんかしてねーから。安心しろ」

 だが、泰介がそう言った時だった。

 仁科が、こちらへ手を差し出してきた。

「……」

 ぽかんと、泰介はその手を見つめたが――にっと笑うと、その手を掴んだ。

 ぱちんっ、と手のひらがぶつかり合う音が、景気よく響いた。

「葵の手しか握んないのかと思ってたぜ」

「まさか。……吉野じゃあるまいし」

 台詞に、嫌な既視感を覚えた。

「……余計な事、喋るなよ」

「お前次第だな」

「……」

 とんでもない弱みを握られた気がしたが、それを除けば不思議と気分は爽快だった。これからどうなるのか先行きは分からないが、きっと大丈夫だと確信できた。温かな予感を感じながら、泰介と仁科はどちらからともなく手を離す。

 にやりと笑う仁科の顔には相変わらずの揶揄が浮いていて、それを見るにつけ本当に嫌な奴だと泰介は思う。だから、思わず笑い返してしまう。

 だが、そろそろ潮時だろう。

「じゃあ。俺、もう行くから」

 泰介は、立ち上がった。

 葵は悲しみを顔に覗かせて、仁科は特に顔色も変えずに揃って頷く。

「泰介。どうやって、行くの?」

「何となくで。それで多分行けると思う」

「なんだ、それ。吉野らしくない発言だな」

 仁科が馬鹿にしたように言う。泰介はかちんときたが、自分でもらしくないとは分かっていた。「安心しろよ。絶対できるから」と返したが、実際のところどうすれば跳べるのか、泰介にはあまり分かっていなかった。

 できるという確信だけは妙に明白にあるのだが、どうにもやり方がぴんと来ない。蓮香に訊いておけばよかったと後悔するが、もう後の祭りだ。

 多分だが、取っ掛かりになるようなきっかけさえ作れば、簡単に跳べると思うのだ。

 ただ、そのきっかけをどう作ればいいかが分からない。それだけが今の泰介を、ほんの少しだけ思い煩わせていた。

 そんな曖昧な思考に苛立ち始め、泰介は教室の窓際を何気なく振り返り――止まる。

「……。葵」

 泰介は、葵を見下ろした。

 呼ばれた葵は、名前を呼ぶだけで何も言わない泰介をきょとんと見上げた。

 その顔を見ると、少し緊張した。いくら幼馴染とはいえ、ここで泰介が言葉にもしないものを正確に汲んでくれるだろうか。頼む、とも言えない。言えるわけがなかった。

 だが、そんな状況でも葵に賭けるしかなかった。

 葵にしか、できないのだ。そんな思いを込めて、泰介は葵を見下ろす。

 沈黙の中で、葵は驚き、やがて悲壮感を湛えた目で泰介を見つめ、こちらの覚悟が揺るがないものだと、呑み込んでくれたらしい。

「……」

 毅然とした表情で、笑った。

 そして、「仁科」と呼んだ。

 呼ばれた仁科が、小首を傾げる。

「何」

「ね、後ろ向いて?」

「ん? ……何すんの」

「いいから」

 仁科は怪訝そうな顔をしたが、やはり葵には甘いらしい。あっさりと言われるままに、葵へ背を向けて座り直した。

 後ろへ座った葵の手が、すっと仁科の顔へ伸びる。

 仁科が驚いた様子で、身体を少し動かした。

「動いちゃ、だめ」

 葵が、囁く。穏やかな、声だった。

「……目、開けた時。きっと皆で帰れてるよ。仁科と私が、それを忘れちゃっても。泰介が……代わりに全部、覚えててくれる。だから、また皆で会えるよ。……仁科、怖がらないで。私はいなくならないから」

 慈しむような声は、神聖なまでの母性を湛えて教室に響いた。

 そんな葵の声を聞きながら――泰介は二人へ背を向けた。

 足音を忍ばせて、床が軋まないように。

 そっと窓際へ歩み寄って、そこから見下ろす。

 二階。それでも高いと思う。落ち方を気をつければ怪我で済むだろうが、怪我程度ではここからの脱出は不可能だろう。

 だがそんな醜態を晒すより先に、こんなくだらない場所など離脱するつもりだった。泰介さえしくじらなければ、こんな場所、数秒後には全員で脱出だ。

 最後に一度だけ、葵と仁科を振り返った。

 仁科の目と耳を、背後から両腕で抱きしめるように覆い隠した葵が、泰介に笑いかけた。

 泰介がしくじるなどとは微塵も考えていないだろう澄んだ目には、優しさだけが浮いていた。そして、了解したとでも言うように、頷かれる。

 激励も、あるのだろう。泰介も力強く笑みを返した。

 もう、声は掛けなかった。

 掛けたら、ここにいるとバレてしまう。

 泰介は窓の桟に手を掛けると、そっと身体を持ち上げ、足を掛け、躊躇いを断つ。そして。


 そのまま、飛び降りた。


 瞬間、世界を照らす茜色の光が閃光のように駆け抜けた。

 線香花火のように儚い輝きを最後に散らせて消えゆく光に、意識が呑まれる刹那――――葵のリボンが腕で微かに光るのを、泰介は見た気がした。

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