第55話 憧憬・後

 襟首を掴む力は凄まじく、女性の力とは到底思えなかった。仁科要平にも同じように掴みかかられたが、脆弱な仁科とでは比べようがないくらいに、その手には躊躇が感じられなかった。

 気色ばむ泰介に、蓮香が、顔を近づけた。

「もう一回同じこと言うの、嫌なのよ」

「……同じこと?」

 泰介が訊き返すと、いきなり身体を放り投げられた。

「!」

 身体が、浮いた。風が、全身を打った。平衡感覚を失った身体に驚き、咄嗟に受け身を取った瞬間――硬い床に身体が叩きつけられ、がつん、と大仰な音が響き渡った。

「なっ……!」

 砂地では、なかった。もう何度目かも分からない風景の変化に、心がそれでも追い付かない。床へ転がされた泰介は急いで立ち上がり――止まる。

 泣き声が、聞こえたのだ。


「お母さんっ、お母さん……っ! やだ! やだよう! いやあぁ! あああぁぁっ!」


 薄暗がりの中で非常口を示す緑のランプが灯り、廊下の果てからは蛍光灯の白い光が、こちらを無機質に照らしていた。

 病院、だった。

 ここは、病院の廊下だった。

 ふらりと、泰介は立ち上がる。そして愕然としながら、呟いた。

「葵……」

 泰介のすぐ傍で、声を張り上げて泣いている幼い少女は――葵だった。

 ――過去だった。

 仁科の時にも見て、泰介自身の時にも見た。先程まで何度も見せつけられた過去映像が、今、眼前に広がっていた。泣きじゃくる葵の隣にはセーラー服姿の蓮香がいて、少し離れた所では葵の父が、医師と何事かを話している。

 そして、葵の、隣には――葵と同じくらいの背丈の、少年の姿が。

「……」

 これがいつの事なのか、泰介は知っている。

 ――この場に、居合わせたからだ。

 葵と泰介、さくら、他にも何人かのクラスメイトがいたと思う。葵の母を、皆で見舞いに行く途中だった。

 だが、病院へ到着した時。

 蓮香が、いた。

 葵の父も、そこにいた。

 ――危篤。

 それを、そんなタイミングで泰介達は知った。泰介達が小学校を出るのと行き違いになってしまい、葵と連絡が取れなかったのだ。

 多分皆、危篤の意味など知らなかった。小学三年生には難し過ぎた。ただ、険しい顔の大人達を見上げながら、その場のほぼ全員が悟ったのだと思う。

 今、自分達は。ここにいてはいけないのだと。ここにいていいのは葵であり、蓮香であり、葵の父だけだった。他の人間は誰一人として、ここにいるべきではない。子供心に、それだけは理解した。

 帰ろうと、誰かが言った。泰介だったかもしれないし、他の友人だったかもしれない。さくらでない事だけは確かだった。さくらは葵を支えるように立ち、離れようとしなかったからだ。

 だがその時、蓮香が動いた。

「ねえ。あんた名前は? 吉野泰介君で合ってる?」

 突然の名指しだった。泰介は大人に話しかけられた事に戸惑いながら、黒いセーラー服の女性を見上げて「はい」と答えた。

「ここに来てくれたって事は、おうちに帰る時間、まだ大丈夫よね」

「はい」

「あんたは、残っていい。残りなさい」

 断定的な言葉だった。許諾の声は、重い厳しさを孕んでいた。

 蓮香は他の皆へは来てくれた礼と、母の病状が悪くなったから会えなくてごめんねと、簡単なお詫びを述べた。そしてぐずるさくらを葵から剥がし、「来てくれてありがとう」と繰り返し述べながら追い返すと――小さな葵と泰介だけが、その場にぽつんと残された。

 隣に立つ葵の顔は蒼白だった。瞳にみるみる涙が溜まる。

 その時になって、泰介はようやく気づいたのだ。

 涙を堪え続けた葵の心が、もう限界だという事に。

 堰を切ったように泣き始めた葵の隣で、泰介はただ立ち尽くしていた。どう声を掛けたらいいのか、分からなかった。人の死を前にして泰介に言えることなど何もなかった。考えたことも、あまりなかった。

 人が、死ぬこと。その悲しみを、泰介は知らない。誰も亡くしたことがないからだ。

 これから死ぬかもしれないという、佐伯和歌子。数えるほどしか会ったことはなかったが、顔は知っている相手。子供を見る目がとても優しい、葵の母。

 葵は。そんな母に育てられて、笑顔を覚えていったのだろうか。

 だから、同じように笑うのだろうか。だから優しく、笑うのだろうか。掛ける言葉が、優しいのだろうか。

 では。どうして葵は、こんなにも脆いのだろう。

 葵は、声を張り上げて泣いていた。崩れ落ちそうになりながらそれでも立つのをやめないで、ぼろぼろに心をすり減らしながら泣いていた。

 優しさを引き換えにして、強さを手放したようだった。

 心と引き換えにして、命を削っているようだった。

 その時に、思った。

 なくなってしまう、と。

 このまま泣き続ければ、葵が消えてしまうと思った。

 何故その時の泰介は、そんな風に思ったのだろう。自分でもよく分からなかった。ただこのままではいけないという気持ちだけは紛れもなく本物で、そしてそれしか分からなかった。

 このまま、涙になって全部消えてしまう気がした。

 葵が、いなくなってしまうと思った。

 だから。

 ――手を、掴んだ。

 顔を覆う手を片方、無理矢理掴んで引っ張った。

 潤んだ目が、泰介を見る。だが泰介に言える言葉などやはり何一つなく、睨むような顔になっていると気づいていたが、どんな顔をすればいいかも分からなかった。

 いなくなってしまう。それを、止めたかっただけだった。

「……なんで、死ぬの」

 葵が、顔を歪めた。

「お母さんともっと、話したいよ。やだよ。まだ、死んじゃうなんてやだ。話したい。話したいよ……、まだ一緒にいてよ、行かないでよ、お母さん…! やだよう! 置いていかないで……死なないでよう……!」

 泣く葵の手は熱かった。心を削り落として泣く人間の手がこんなにも熱いことを、泰介は生まれて初めて知った。

 そしてその熱に触れた時、凄まじい喪失感に心臓を掴まれた。

 葵が、消える。いなくなってしまう。泰介の前から、葵が。

 ――嫌だ。

 強く、思った。それは、嫌だ。絶対に嫌だった。

「時間が戻ればいいのに」

 葵が、涙ながらに言った。

「お母さんがもっと元気だった時まで、時間が戻ればいいのに。お話で、読んだ。泰介くんが、読んでた本。私も、ちょっとずつ読んでた。……戻れば、いいのに。戻ってまた会ったら、もっとたくさん、お話して、一緒にいて、また、おうちで暮らせればいいのに。元気になって、また四人で、一緒に」

 泰介には、手を握り返す以外に何もできなかった。目の前で確実に削れていく葵の心に対する焦りだけが全てだった。手を繋いで繋ぎ止めて、それでもまだ足りないのだ。どうすればいいのだろう。焦る心で考えた。考えられずに余計に焦る。こうしている間にも、葵が消える。いなくなる。手の届かない所へ行ってしまう。焦るのか悔しいのか、苛立ちで心が埋まっていく。


 ――助けたい。


 そんな言葉が唐突に、意識に降ってきた時だった。

 手が、いきなり掴まれたのは。

 驚く。

 蓮香だった。

 蓮香が、葵と繋いでいない方の手を握り締めて、驚く泰介を見下ろしていた。

「駄目よ」

 静かすぎる病院の廊下に、響いた声は鋭かった。思考が一瞬止まり、そして真っ先に泰介が感じたのは反発だった。突然の駄目出しに腹が立ったのだ。

 蓮香は腰を屈めると、片膝をリノリウムの床につけた。そうやって目線と泰介と葵に合わせると、葵の肩にも優しく触れた。

「蓮香お姉ちゃん……」

「時間は、戻らないわ。葵」

「本で、読んだよ……なんで、駄目なの?」

「駄目よ。それだけは」

「どうして……?」

 葵の目に、哀しみが浮かぶ。だが蓮香は諭すような眼差しで、穏やかに葵を見ると――泰介へ、視線を戻した。

「タイムスリップしちゃう人って、さ。どうしてそんな事ができちゃうのかしらね。あたしにはいくら考えても分からなかったわ。……でもね。普通、そんな事はできないのよ。できては、いけないのよ」

「どうして、できちゃ駄目なの?」

「それは、できないのが当たり前の事だから。人が人を傷つけたり、ひどい事をしたりするのはいけない事よね。それくらいに、当たり前の事なの。できないのが、普通なの。当たり前で、普通で、人間だっていう事で……でも、それなのに時間を超えてしまったら。あたしは多分、それはとても悲しい事だと思う」

「悲しい?」

「そう。悲しい」

「どうして?」

「普通ではなくなるからよ」

 蓮香は泰介の手を握りしめたまま、優しい声音で言った。

 その表情は、真剣そのものだった。

 真摯な眼差しで、真っ直ぐに向き合っている。

 葵へ? ――違う。いや、違わない。だが目線は泰介から逸らされなかった。泰介はその視線に戸惑い、刹那反発を忘れる。そして語られる不思議な話に、いつしか真剣に聞き入っていた。

「普通じゃなくなるって、何?」

 泰介は、蓮香へ訊いた。

「普通ではなくなるって事は……ううん、言い方をちょっと変えるわ」

 蓮香はゆっくりと首を振ると、泰介に言った。

「普通ではなくなる、じゃなくて。……そういう、普通ではない事へ自分を追い立てるまで、悲しい事があったから。……それが、悲しいの」

 そう言って蓮香は葵へきちんと目を合わせると、髪を撫でた。だが泰介の手は、離さないままだった。

「葵。病気で辛い思いをして、もしかしたら死んでしまうかもしれない人の運命は、時間をいくら戻ってもね、変えられない。お父さんも姉ちゃんも、誰もできないの。変えられるのは、思い出だけ。葵が時間を戻ってしまったら、一緒にお見舞いに行った事とか、お母さんは全部忘れてしまうの。新しい思い出ができても、前の思い出は、残らない」

 蓮香の言葉は優しく、そして厳しかった。誤魔化しのない言葉は小学三年の幼い心に、ひどく重く圧し掛かる。放心の顔で涙を零す葵を見た時、手を強く握り締めて泰介は言った。

「普通じゃなくなってもいい」

 蓮香が、こちらを見た。目と目を合わせ、泰介は言った。

「俺、普通じゃなくなってもいい」

「馬鹿言ってんじゃないわよ。マセガキ」

 あっさりと言い放たれた。言葉の後半の意味は分からないが、馬鹿にされたのは分かったので泰介は蓮香を睨んだ。姉だろうが大人だろうが、知った事かと思った。

 だが次に蓮香の放った言葉が、泰介を打ちのめした。

「あんた、葵と過ごした時間、消えてもいいの?」

「!」

「あんたが葵を連れて病院に来てくれた事とか。今まで葵と話した事。全部。葵に何もかも忘れられて、それでも吉野君、耐えられる?」

「……」

「やだ」

 手が、引かれた。

「やだ。泰介くん。そんなの、やだ」

 葵が、泣いた。涙がまた、一筋零れた。

「忘れたくない。そんなの、やだ。全部、覚えてたい。お母さんのことも。お姉ちゃんと一緒にお見舞いして、話したことも。ごはんの話をしたことも、宿題分からないとこ聞いて教えてくれたことも、泰介くんが、助けてくれたことも、私は、何も、忘れたくない……」

 泰介の身体に、葵がぶつかる。

「忘れたく、ない……」

 握り合ったままの手に、葵の涙がぽつんと落ちて、跳ねた時。


 ――佐伯蓮香が、吉野泰介の襟首を掴んだ。


「……っ」

 どんっ、と激しく背中を壁に打ち付けて、喉を圧迫する力の強さに息が詰まる。喀血するかのように喘いだ泰介は、壁に自分を押し付ける長身の女性の姿を、霞む視界の中に見た。

「……あんたさ、なんで葵、置いてったの」

 俯いたままの蓮香は、長い髪が頬を隠して目元が見えなかった。

 ぎりっ、と首が締まる。両手で首を、絞められていた。

 だが、抵抗などできなかった。

 普段なら、絶対していた。こんな拘束、あっさり振り払っただろう。

 今だって簡単に、振り解ける。

 ――それでも、できなかった。

「分かってる。無意識だって。自分の意思でやったわけじゃない。分かってるの。あたしだって……実子の時、そうだった。気づいたら塾にいて。誰に何を話しても、全然話なんて通じなくて。……実子、塾を飛び出した事があるの。不良っぽい男子生徒に連れられて。それがきっかけでカンニングの計画に加担する事になった。それを、ものすごく後悔してた。ずっと気に病んでた。ついてなんか、いかなければよかった、って。

 ……だから、あたしが実子を、連れ出した時。偶然だったけど、結末をなぞった時。終わったの。全部。そういうものなのよ。跳ぶのに失敗した時は、そんな風にしなければ終わらないの。それが、分かってたから――あたしは、あんたを探しに来たの!」

 首を絞める手に、力が加わった。

「っ……!」

「あんたの迷い込んだ場所ではね、人が一人死ななきゃ終われないのよ! 基準が、仁科君だから! 仁科君が死んで、葵を一人ぼっちにして、時間戻って、戻れなくて止まってて! ようやく動き出したと思ったら、今度は人が一人死ななきゃ終われない状況に追い込まれて? 吉野君、あたしの妹殺す気なの? あたしの妹、どこまで不幸にしたら気が済むのよ!」

 ――手を掴んだ。

 もう黙っていられなかった。

 無理矢理、剥がす。首の間に隙間を作り、その勢いのまま、泰介は叫んだ。

「不幸になんか!」

「してるじゃない!」

 平手打ちが飛んできた。ばんっ、と凄い音がして頬が左へ振れ、激痛が走る。

「あんたが失踪した一週間で、葵がどうなってたか知らないくせに! 知ったような口を利かないで!」

 叫んだ蓮香が、低い声で続けた。

「葵。吉野君がいなくなった日、ずっとあんた探して走ってた。次の日は疲れ果てて眠ってた。起きてから、また探しに出かけた。家族で止めたけど、聞かなかった。あんた、どこにも行かないって約束したんでしょ? だから、泰介が約束破るわけないってずっと言い張って、出かけてった。そんなに信じてるくせに探しに行くんだから、健気なもんよね。

 三日目、また疲れて眠ってた。このまま葵が駄目になるかと思った。でも、心は壊れてなかった。四日目に起きた時には、ちゃんと学校へ行ったわ。警察の人が動いてくれてるから、自分にできる事をするんだって。きちんと学校行って、普段よりずっときっちりノート取ってる。戻ってきた時にあんたが困らないように。周りに腫物扱いされながら、それでもがんばって学校行ってる。友達にも心配かけないように、いつも通りに振る舞ってるみたいね。――強いでしょ。強くなったでしょ。もう全っ然、弱くないでしょ。……あんたが、そうしたのよ。吉野君が半端に葵を強くした所為で、どれだけあの子が無理してるか分かってる? どれだけ無理させてるのか、分かってるの!? ねえ!」

 泰介に掴みかかった蓮香が、学ランをぐいと引いた。

 引かれた泰介はそのまま蓮香にぶつかり、そして、蓮香の顔を見た。

 ――泣いていた。

 怒りに眉を吊り上げた蓮香の頬を、透明な涙が伝っていく。

 蓮香は、泣かない。涙を見せない。そんな憧憬の言葉を思い出す。幼い葵が憧れた、佐伯蓮香という人間の生き方。蓮香は、強い。強いから、泣かない。そうなりたいと焦がれた葵の言葉が、まだ耳に残っている。

 その蓮香が泣いていた。泰介を睨み付けながら瞳に爛々と殺意を湛え、それでも隠しきれない悲しみに震え、涙が後から後から溢れてくる。孤独に突き落とされた義理の妹の為に、感情を堪えきれずに泣いていた。

 その涙が、頬を打つ。その熱さに泰介は声を失った。

「吉野君。あんた無意識の無自覚で跳んだから、ショックだか何だか知らないけど、ずっと目が覚めなかったのよ。分かってないでしょ。……ずっと、部屋で、眠ったまま。景色も全部灰色一色で……時間が、止まってた」

 唐突な、言葉だった。

「あたしが割り込んだら、それがきっかけになったみたい。時間がまた、動き出した。葵と仁科君もその時に巻き込まれたんだと思う。この場所で吉野君が目覚めるまでにかかった時間が、一週間よ」

「……」

「吉野君が消えて、一週間経った時。あたしは、こっちに来た。あの子は、葵は……仁科君が死んで、吉野君が消えて……あたしまで、失踪したの。葵は……吉野君に巻き込まれた事で、将来あんたが失踪する未来はなくなった。だからあの子は何も覚えてないし、これからもそんな辛い思い、しないで済む。――でもね、その一週間不幸のどん底に突き落とされた人間の気持ち、考えて見なさいよ!」

「……蓮香さん。教えて下さい」

 泰介は、言った。

「葵の元へ戻る事は、できますか」

 訊きながら、覚悟していた。その質問に意味がない事は分かっていた。この過去を見た瞬間から、もう。

「戻れないわよ」

 案の定、だった。

 蓮香は怒りに打ち震える声で、泰介へ言った。

「片道なのよ。行ったらもう、戻れない。吉野君はもう、葵に会えない」

「――そんなの、決めつけんな!」

 我を忘れた。蓮香へ心を砕く余裕など一瞬で消し飛んだ。

「もう会えないなんて決めつけんじゃねえよ!」

「あんたの所為よ!」

 蓮香が怒鳴った。

「時間を戻るしかできないのよ! あんたも! あたしも! 戻っちゃったら、元の場所へ一っ跳びで戻るなんてできない! そんな都合のいい事ができるわけないじゃない!」

「試した事あんのかよ!」

「あるわよ!」

 蓮香の頬を、涙が滑り落ちた。

「和歌子お母さんが死んだ時に! 一度、戻ったわよ! ……もう一度、会いたかったから!」

「……!」

「でも、後悔した。戻るべきじゃなかったって。

 あたしは、その時バスケ部と学園祭の出し物で忙しかった。やり甲斐、感じてた。それを母の入院を名目に、諦めたくなんてなかった。そんなあたしの態度はお父さんに叱られた。あたしはそれを、聞かなかった。

 お母さんが死んでから、気づいた。時間、いっぱいあったのに、って。話す時間を作らなかった事を、あたしは後悔した。でも、もう、遅かった。――だから! 時間、越えたわよ! 今度は自分の意思で! 学校サボりまくった。病院ばっかり来てた。葵が帰るまでに一度家に帰って、葵連れてまた病院に通った。お母さんには良くないよって言われたわ。でもその時のあたしが正しいって思う事をしたかった。もう、後悔なんてしたくなかった。あと一か月で、死ぬって分かってた。なのに時間を使わないなんて、あたしにはできなかった。

 ……でも、限られた時間の中で、途中から気づいてた。あたしがバスケやって、劇の準備して、それでも時間作ってお母さんと話した時間。全部、蔑ろにしてしまったんだ、って。少ない時間の中で、面会時間の終わりを気にしながら話したこと全部、その時もらった言葉も、心も、全部、あたしは……消してしまったんだ、って。――戻りたかった。時間、巻き戻す前に。でも、できなかった。……できなかったから、せめて、あんただけは、あたしみたいにならないようにしたかった」

 泰介は、蓮香を見上げた。

「顔見ただけで、何となく分かった。なんで分かるのか分かんなかったけど、あたしみたいだなって思った。……いつか、何かやらかすと思ってた」

「……」

「吉野君」

「はい」

「時間、戻りなさい。この場所からもう一度跳ぶの。ここを捨てて、今度はしくじらないで。修学旅行の前に。――仁科君が、死ぬ前に」

 蓮香が、はっきりと言った。

「葵と仁科君は、きっと忘れるわよ、今の事。ここで起こった事、全部。でもそれしか誰も死なないでここを出る事、多分できないわ。吉野君。昔、和歌子お母さんに質問されたでしょ。時間を戻れるとしたら、どうするか、ってやつ。……あんた、戻らないって答えたらしいわね。戻るのは狡い事だ、って。……手、汚してよ。吉野君。葵と、仁科君の為に」

「……なんでそれを手が汚れるなんて言うのか、俺には分かりません」

 泰介は。

 蓮香を、睨み返した。

「佐伯のおばさんに悪い事したって思ってるのは分かります。でも、それを自分の手を汚したって思う気持ちは分かりません。分かりたくありません」

「何綺麗ごと言ってんのよ。時間、消すのよ。自分の都合で。それを悪い事だと思わない、あんたの神経を疑うわ!」

「俺が何もしないのは、もっと悪い事だろ!」

 敬語はもう本当にもたなかった。だがそんなものにかまけていたら取り零す気がした。今言いたい事を言わなければ、それさえも後悔になる気がした。

 腹が立ったのだ。さっきから、ずっとだった。だが何故蓮香の言葉に腹が立ったのか、泰介自身先程まで分からないままだった。

 たった今、気づいたのだ。

 言われてようやく、分かったのだ。

「葵に俺は、会いに行く。会えないなんて事あるか! 葵はいなくなってなんかねえよ! 〝ゲーム〟の葵だって葵だ! これから俺が時間を巻き戻って、葵が全部忘れても、それが佐伯葵だって事は、全然変わんねえよ! 俺の事知ってて、泣き虫で、弱い葵だって事は、多少記憶が欠けてたって、全っ然変わんねえんだよ!」

「記憶が欠けたぁ? 何言ってんのよ、あんたが消したのよ!」

「そんなの、知るか!」

 泰介は叫び返した。感情に呑まれたわけではなかった。怒りがまた湧いたが、軸はぶれていなかった。

 仁科が死んで、葵と二人で過ごした時間を思い出す。

 何故あんな生活をしようと思ったのか、泰介にはそれが分からなかった。葵と一緒にいれば自ずと分かると思ったが、理由は分からないまま時間だけが流れていった。共に過ごす時間が傷を埋める確証もないままに、ただ寄り添った疑似的な家族関係。

 簡単な事だった。分かっていて当然のような答えだった。

 泰介は――葵と、離れたくなかったのだ。

 離れ離れになる事が――怖かった、だけだった。

 本当に、たったそれだけの単純な感情が全てだった。放っておけないとか、守ってやりたいとか、そんなものは全部何もかも後付けだった。

 こんな感情が強くなった理由は明白だ。

 仁科が、死んだ所為だった。

 人は、簡単に消える。いなくなってしまう。初めてはっきりと突き付けられた現実に、泰介の心がついていけなかっただけなのだ。

 そんな中で、泰介の隣に立つ葵はあまりにも弱かった。蓮香は葵を強くなったと言ったが、泰介はそんな風には思わない。まだ思えないのだ。涙を見る度に、消えてしまうと思う。小学生の時に感じたあの気持ちが、高校二年になった今でさえ残っている。多分ずっとこれからも、その気持ちは変わらない。そんな気がするのだ。

 見える所にいて欲しかった。消えないで欲しかった。ただ、離れがたいと思う。その心が全てだった。葵に既に、言われていた。答えはとっくに出ていたのだ。

 ――どこにも、行かないで。

 それなのに置いていってしまった泰介は、今、思う。

 最初は、罪の意識があった。次にもう会えないと言われ、逆上した。心が締め付けられて、怒りでしかその感情を表現できなかった。

 そして、今は――――希望に、変わっていた。

 なんだ、と思ってしまった。

 会えないなんて事は、ないのだ。

 会いに行ける。また会える。

 そしてそれが――泰介なら、できる。

 蓮香の言葉に則るならば、泰介は普通ではないらしい。だが蓮香のつまらない定義にわざわざ従ってやる気など毛頭なかった。他の誰がどう思おうとも、吉野泰介は吉野泰介以外の何者でもないからだ。

 葵の記憶が欠けたところで、泰介は葵を、佐伯葵だと思う。それと同じだった。何も変わらない。泰介だけが覚えているからといって、吉野泰介が変質すると怯えるのは馬鹿らしかった。

 自分が一番自分の事を信用してやらないで、人にそれを求めるのは傲慢だ。泰介は、そう思う。

 だから泰介は、蓮香の言葉に賛成したくないのだろう。

 口の端だけで、薄く笑う。仁科要平のような顔をしたと、自分でも気づいていた。その表情をすぐに引き締めると、泰介は蓮香を真っ直ぐ睨み据える。

 今、初めて――この喧嘩が楽しいと、思った。

 大きく息を吸い込んで、泰介は、叫んだ。

「――葵とした約束、俺、破ったままになってるだろ。だからこれから会いに行く。会えないなんて決めつけんな! ここで会えないなんて言ってたら、それこそ俺はあいつとの約束破った事になるだろ! あいつが忘れても俺の方は覚えてんだよ! 忘れようが消えようがどっちでもいいし、考えんのもうぜぇ! 俺が覚えてたらそれでいいし、あいつが忘れた分は全部、俺が覚えててやる! あいつと付き合うようになってからも、そんなに関係、変わってなかった。それが変わらないなら、細かい事なんか俺はどうでもいいんだよ!

 仁科にしたってそうだ。あいつ、ちゃんと元気になれるんだ。蓮香さん、知らねーだろ! あいつの事なんか、全然! ねちねち悩んでばっかだって思ったら、いつの間にかうぜぇ仁科に戻ってた。あいつには面倒見てやるって約束してるし、そっちも反故にする気、ねえからな! また根暗に戻ったら、何回だって叩き直せばいいだけだ! 簡単にいつもみたいなヤな奴に戻れるって、こっちはもう立証済みなんだからな!

 俺が……葵と仁科との約束守るのくらい、当然なんだよ! 守らない方が狡いしありえねぇんだよ! それを普通じゃないなんて、簡単に言うな!」

 言い切って、大きく息を吐き出した。

 一気に捲し立てたら疲れてしまった。だが、嫌な疲れではなかった。一言一言ぶつける度に、蟠りが消えていく。鈍い爽快感が泰介の身体を包み込んだ。

 蓮香は、肩で息をしながら罵詈雑言とも取れる長い発言をした泰介を、まじまじと見つめていた。

 そして、たった一言の短い感想を寄越してきた。

「……あんた、馬鹿なの?」

「うるせぇよ。姉妹揃って馬鹿呼ばわりしやがって。悪い事したなんて……もう、思ってねーからな!」

 泰介は蓮香を睨み返し、宣言した。

「俺は時間を遡って、葵に会いに行く。それで二人で、うっかりで死にやがったオレンジ頭の馬鹿を止める。……どの辺が手ェ汚す事になってんのか、言ってみろよ」

「……あんたってさ。本当に、自分のやる事は正しいって信じて、疑わないわよね」

「こんなの普通だろ。周りの奴らがごちゃごちゃ面倒臭く考えるから、俺が悪目立ちするんだ」

「……そっか。そうよね。あんたの周り、面倒臭いのばっかね。そういえば」

 蓮香が――不意に、笑った。

「さっきの、いい。気に入ったわ」

 仁科要平のように愉快げに言った蓮香は、泰介の襟首に掛けた手を離した。

 そして、ぱちん、と。指を鳴らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る