第29話 コーディーリア

 ごおう、と耳元で唸る風が冷たい。走る足が、鈍く痛む。間で何度か立ち止まり、息を整えた。冷たい空気が気道を抜けると、喉の奥に血の味を感じた。仁科は暗い路地へ滑り込み、早足にそこを駆けていく。

 走る気力は、萎えかけていた。発作的な義務感だけで、これ以上走る事はできなかった。衝動は、疲れに塗り潰されつつあった。そして消えかけた衝動の空隙を、砂のように乾いた後悔が確実に埋めていく。

 何を、やっているのだろう。

 何を、しようとしているのだろう。

 自分で自分の行動の意味が分からず、だからといって今更引き返す事も考えられなかった。そんな事をしてしまったら最後、この行為は本当に無為で無駄なものになってしまう。だが、これ以上進む意味もまた分からない。

 ただ、ここは暗く、寒く、学生服を着た自分にはあの日背伸びして入った喫茶店のように不釣合いで、己の矮小さを突き付けられたような気分になり、居心地の悪さに足が竦んだ。これ以上進む事に対する抵抗が、仁科の中に芽生えつつあった。

 そんな時だった。

 細く暗い路地の真ん中で、出口の先から溢れるけばけばしいライトを背に受けながら、誰かが歩いているのに気づいたのは。

 ああ、と思った。

 見つけた。

 見つけてしまった。

「宮崎」

 ぴくりと、影が動く。

 逆光になった人影は仁科の呼び声に反応し、止まった。

 かろうじて表情が読み取れるほどの近さ。見間違うわけがない。顔を上げた宮崎侑のセミロングの髪が、夜の光を透かせて全然違う色に見えた。

「……お前、って言わないのね」

 侑は仁科の方を胡乱げに眺め、それから探るような上目遣いで言った。

 ひどく張りのない、疲れた声だった。

 仁科は、いきなり言葉に詰まってしまう。

 狭い路地の真ん中で、学生服姿の中学生が二人見つめ合って、それで何になるのだろう。何も起こりはしないのだ。仁科が何も言えずにいると、侑が口火を切った。

「仁科。なんで、こんなとこにいるの?」

「じゃあなんで、お前はこんなとこにいるんだ」

 気づけば、弾丸のような速さで言っていた。ひゅうう、と互いの間をひどく冷たい風が吹き抜け、仁科のブレザーと侑のスカートを、それぞれ嬲っていく。

「また、お前って言った」

 侑は文句を言ったが、やはり声には疲れが滲んでいた。

「……お前、どうしたんだ」

 あまりにも、憔悴していると感じた。だから、半端な気遣いを向けてしまった。

 そして、そんな半端な優しさは案の定、侑の逆鱗に触れた。

「どうしたんだ、って? あははは! 仁科、知らないの? 私は謹慎処分中なのよ」

「知ってる」

「じゃあ、退学処分が下った事は?」

「……。それも知ってる」

「……それだけ知ってるくせに、どうしたんだ、なんて訊くのね」

「……」

 風が、冷たい。走って来た時よりも、肌に触れる空気がぴりぴりする。感覚を失いかけた指先が、凍えて腫れたような気がした。

「……お前、謹慎中なのになんで制服着てるんだ」

「いいじゃない。最後なんだから」

「お前は謹慎処分下ってる身だろ。制服着て外で歩ける身分じゃない」

「もう謹慎じゃなくて、退学じゃない」

 自嘲気味に、侑が言い捨てた。そして再び、声高に笑い出す。

「感傷だって、笑う?」

「……俺は、どうでもいいよ」

 哄笑を聞き流しながら、仁科はぽつんと言った。

 ぴたりと、電源を切ったテレビのように音を失くし、侑は笑いを収めた。

 無言で、仁科に投げかけている。それはどういう意味なのかと、問うている。

 そんな期待のような何かに応える事にさえ、仁科はその時思ってしまった。

 面倒臭い、と。とても怠惰に。

「俺には、お前が分からないからだ。何が不満なのかも知らないし、興味もない。どうでもいいんだ。だから」

「……だから?」

「お前の感傷に、興味はない」

 凍えた指先を握り込んで、仁科は淡々と、そう言った。

「……じゃあ、なんで来たのよ」

「……」

「なんで、こんなとこに仁科は一人でいるわけ?」

「それは……」

 侑の声は乾燥していて、同時に氷のように冷たさで、薄暗い路地裏に響き渡った。そして仁科は一番訊かれたくなかった事を訊かれたにも関わらず、大した動揺も苛立ちも感じなかった自分に、ほんの少しだが驚いて、ほんの少し、安堵を覚えた。

 侑の言葉が、仁科はとても恐ろしかった。自分を脅かす侑の言動が、この上なく忌まわしかった。

 だが、もう何も感じない。侑の一挙手一投足に、仁科の感情は動かなかった。宮崎侑という侵略者に打ち勝ったのか、それとも不感症にでもなったのか。だが寒さ故の痛みも、長い距離を走った後の微かな苦しさも紛れもなく本物で、それなのに心だけが、静かに凪いで平静を保っている。

 打ち勝ったのだ。きっと。仁科はそんな風に、結論付ける。それ以上何も考えずに思考をぶった切って、侑へひたと顔を向けた。

「お前が、家に来たから。用件言わずに逃げただろ。だからわざわざ来てやったんだ」

「何、それ」

「あー、あと。この辺で殺人犯うろついてるらしい。バラバラ殺人。さっきここテレビで映ってた。お前知らないだろ」

「ふざけないでよ」

 侑はその時初めて、怖い顔で仁科を睨んだ。

「そんな理由で、仁科が動くわけない」

「じゃあ、どんな理由ならお前は納得するんだ」

 売り言葉に買い言葉で、仁科は間髪入れずに言い返した。

「何が気に入らないのか知らないし、俺はそんなの、興味もないよ。ただ、用件くらい言ってからにしてけ。お前は俺に用があったんじゃないのか?」

 仁科は侑に用などないのだ。むしろ用があったのは、わざわざ家にまで仁科を訪ねてやってきた、こいつの方だ。

 それを思うと、急に情けなくなってきた。自分は何をやっているのかと、どうしようもない無力感と空虚感に苛まれて、今すぐ家に帰ってベッドに倒れこんで、そのまま朝まで死んだように眠りたいという欲求が、爆発的に膨れ上がって思考を圧迫していく。

 侑は、何も答えなかった。

 ただ、もうその顔には何の表情も浮かんでいなかった。

 そして、互いが黙り込んだまま時間が経ち、数秒の後に、侑の唇が動いた。

「仁科」

 仁科は、身構える。何を言われても動じないように。それでいて自分の心は、最早何を言われても動かない気がした。だから仁科は自然体で、侑の言葉を待つ。

 だが、次に侑の口から飛び出した台詞はあまりに突拍子もないもので、仁科を少し驚かせた。

「死ぬってどういう事だと思う?」

「……は?」

「だから、死ぬって事。どんな感じなのかなって、ずっと考えてた」

「何? お前、自殺でもするのか?」

 仁科はあっけらかんと言ったが、侑は相変わらず仁科の台詞などそっちのけで「ね、臨死体験とかした事ないし、考えたって分かんないの。仁科はそういうのないの?」と自分のペースで訊いてきた。

「ない」

「ふぅん」

「ついでに言うと、興味もない」

「私はあるわ。だって、痛いのはヤだし」

 そう言って、侑は薄く笑う。

「苦しくない死に方なんて、そうそうないわよね。溺死は苦しいし、縊死も辛いだろうし。それにどちらも見苦しいでしょう? 顔とか、酷い事になりそう」

「黙れ」

 冒涜的な事を言う。

「楽な死に方って、やっぱり老衰しかないのかな? でもそれは、老衰を迎えるまでがとても辛い。それまでの人生に意味がなくて苦痛しかなかったなら、老衰なんて、溺死や縊死より遥かに残酷だわ」

「幸せな人生とやらを送ればいいだろ?」

「そうね」

 いい加減な仁科の台詞に、侑は白々しく笑った。そして怠そうに「でもそれは、私にはもう無理よ」と言った。

 仁科は、その意味を考える。そして、それはそうだと他人事のように納得した。

 侑は、中学を退学するのだ。きっと公立の中学ならば退学処分までは下らなかっただろうが、萩宮第一中は私立だ。侑の騒動で初めて知ったのだが、私立の場合だと退学処分が生徒に下る事もあり得るのだという。そして退学になった中学生は、おそらく公立の中学に転校という形を取る。義務教育を全うする為だ。中卒という学歴は侑には必要で、手放す事の方が難しいのだろう。

 あまり実感は湧かなかったが、頭では分かっている。

 宮崎侑はもうすぐ、仁科の前から消えるのだ。

「どうせなら、綺麗に死にたいって思わない? ああ、あと、『不思議の国のアリス』。あれとか最高だと思うわ」

「はあ?」

「ルイス・キャロルの。知らない?」

 侑は小馬鹿にするような目で、仁科を挑戦的に睨む。

 知らないわけがない。有名な物語だ。それについ最近読んだばかりなのだ。「知ってる」と、仁科はぼそりと答えた。

「アリスが兎を追いかけて、不思議の国に迷い込んで、そこでの冒険の末にハートの女王に首を刎ねられそうになる」

 侑は歌うように言うと、「小火騒ぎ、見てたんでしょ」とぽつりと付け足した。

「燃やした本、何の本か仁科知らないでしょ。私、アリス燃やしたの」

 突然の告白だった。

 同時に、要領を得ない告白だった。

「アリスの最後の章を、燃やしたかったの」

 そう言って、侑は仁科を見た。会話を促されているのだと、すぐに気づく。だが仁科は何も言う気になれず、ただ無感動に侑を見返した。

 どうして、と。そう訊いてやればいい。だがそれをしたくない自分を、確かに感じた。何も言わない仁科を侑はただ見つめていたが、やがて諦めたように薄幸に笑い、「だって」と言葉を継いだ。

「最後の章……アリスが目覚めるところを燃やしてしまえば。アリスは帰って来られないでしょ」

「……」

「アリスが不思議の国から帰ってこれなかったら、どうなると思う? きっと女王様が首をはねて、アリスは死んでしまうんだわ。夢のままで」

「いい加減にしろ」

 堪えきれず、仁科は叫んだ。

「何がアリスだ。そんなこと考えてぶらぶらするくらいなら、早く家に帰れ」

「嫌よ」

 はっきりとした拒絶の言葉が、路地裏の空気をぱしんと叩く。

「絶対に、嫌」

 あまりに明確な拒絶に、仁科は少し面食らった。

 家に帰らなければ、侑の家族が心配するだろう。何しろ退学処分まで下っている娘なのだ。

 そして、不意に気づく。侑の家の事に意識を向けたのは、これが初めてだった。

 侑の非行。それの鮮烈さに圧倒されて、考えれば誰も家の噂などしていない。どこかで聞いた気もしたが、仁科は思い出せなかった。

 連想が、働いた。

 もしかしたら――家に帰るのが、嫌なのか。

 だがそんな台詞、仁科には到底口にできなかった。もしもこの非行が侑の家庭環境などと関わっているならば、宮崎侑という一個人のプライバシーであり、最も触れられたくない部分に違いないのだ。仁科は、侑なんて嫌いだ。だが、だからといって侑にとって不快かもしれない話題を、わざわざちらつかせるつもりはなかった。

 そして、ふと思い出す。自分が、いつの日か見逃された事を。

 ――愕然とした。

「仁科……?」

 黙り込んだ仁科を、怪訝そうに侑が見ている。

 ――私たちって結構似てるでしょ? 境遇とか。周りに対する見方とか。

 ねえ、仁科。――仁科はどうして、そんなに勉強がんばるの?

「馬鹿、言うなよ」

「え?」

「俺はお前なんか嫌いだ、って。そう言ってる」

 なんて事だ。分かってしまった。一体どこが似ているのか。歓楽街の明かりを背にして頼りなげに立つ侑へ、仁科は強く言い放った。

「俺は、認めないから。俺がお前と似てるなんて、絶対に認めないから」

「……突然、何を言い出すかと思ったら」

「いつも、突然めちゃくちゃ言い出すのはお前の方だろ」

 絶対に、御免だった。こんな、互いの傷を舐めあうような怠惰な関係、仁科は絶対に御免だった。ああ、似ている。とても似ている。否定など肯定の裏返しだ。仁科は明確に、おそらく侑と同じくらいに理解してしまった。仁科と侑は悍ましいくらいに似ているのだ。その魂は鏡に映したなら確実に、同じ形で同じ傷を負っている。

 そしてその傷を、視界から締め出す事も。

 隠し、誤魔化し、諂う事さえ。

 その弱さを容認して目をつぶり、そのくせ他者には理解を迫る高慢さまで。

 馬鹿みたいだ。滑稽だ。もうここまで来ると、こんなにもどうしようもない少女と同列に並んだ自分を自分で笑いたくなってしまう。情けなくて仕方がなかった。たった今仁科が見放した少女と、この自分こそが本質的に同じなのだ。自分で自分を見放したようなものだった。失望した。目の前が暗くなった。何もしたくなくなった。本を、無性に読みたくなった。

「お前がなんで俺に勉強を頑張ってるかなんて訊いたのか、やっと分かった気がする」

「……仁科。何も言わないで。私はそんな事、訊くつもり、ない」

 微かに震えた制止の声に、やっぱりだ、と確信した。残酷そうに笑うくせに、侑はこんなにも詰めが甘い。仁科の方こそ笑いたくなった。

「勉強して、高校は御崎川に行く」

 親にさえ言わなかった目標を、気づけば口にしていた。

 御崎川といえば、県下第一の学力を誇る高校だ。

 ただ、ここからは少し遠い。

「ここを離れて、違う所で生活する。違う場所、見てみたいから。ここじゃない場所を、見たいから。あの仁科要平が? って笑いたきゃ笑えよ。馬鹿みたいに嘲り笑うのは、お前の専売特許だろ? 仁科要平っていう人間は元々全然格好良くないし、そんな青臭い目標の為に親に隠れてこそこそ勉強するような、どうしようもない奴なんだ。これで分かっただろ。お前の望むような仁科要平なんて、初めからいないんだ」

 笑えよ、と仁科は繰り返した。

「お前が寄り掛かるのに、都合のいい人間は。初めからどこにも、いないんだ」

「仁科……」

 侑が、信じられない事に、初めて狼狽えた。

 予想外の反応に、仁科はぷつりと電池が切れたように正気に返る。だが一度ついた勢いはもう止まらなかった。

「俺は、そういうどこの家庭にでもあるような平凡さに飽き飽きして、勉強するようになったんだ。なあ、お前、これで満足だろ? 格好いいって持て囃された仁科要平の正体が分かって満足だろ? 仁科要平はこんな馬鹿みたいな理由で勉強も家業の手伝いだって、何だってできるような」

「やめてよ!」

 侑が叫んだ。

 初めて、悲鳴のような声を聞いた。嘲りでもなく罵倒でもなく、ただ悲しみの通った声が、初めて二人の間に鋭く走った。

「……そんな仁科なんか、知らない。聞きたくない」

 侑は、頭を振った。長い髪が表情を隠す。見せたくないのか、偶然なのか分からない。もう、仁科には分からない事だらけだった。

 何をしたいのか、どうしたいのか、何故ここにいるのか、会話しているのか。

 疲労が、身体を蝕んでいく。外気の冷たさが、体温を奪う。

 そしてどんどん、分からなくなっていく。

「……俺だって言いたくなんかなかった」

 気怠さに任せて、茫洋と呟いた。

「じゃあ、なんで言ったのよ」

「……終わりにしたかったから」

「え?」

「宮崎。もう俺ら、会う事もないと思うけど。もう、こういうのなしにしよう」

「……」

 侑は何かを吹っ切るような達観を滲ませた顔で、小さく息を吐きだした。

「これって修羅場よね。お別れなんだね。仁科」

「馬鹿言うな。お前とは付き合ってもない」

「でも、仁科といて楽しかった。私、仁科になら殺されたっていいや」

 びっくりするような事を言う。勿論、本気のわけがないだろうが。侑は、からからと笑った。

「仁科。私はね、成績あんまりよくないわよ」

「知ってる。見るからに頭悪そうだから」

 あけすけな物言いに侑は唇を尖らせたが、不意に笑みを浮かべて、言った。

「だから私、やり方間違っちゃった。もう萩宮にも、家にも、どこにも戻れない……」

 言い終えると、侑はポケットから携帯を取り出した。じゃらりと、鈴なりにぶら下がったストラップも一緒についてくる。

 侑はそれらを、無表情に眺めていた。

 そして何の前触れもなく、携帯を地面へ叩きつけた。

 ばしん、と。想像していたよりもずっと呆気ない音が、夜の喧騒に紛れて消えた。叩きつけられた瞬間に携帯のカバーが跳ね、プラスチック片が弾け飛ぶ。同じく外れたバッテリーが、こん、と弾んで溝に落ちた。

「おい……」

「いいのよ。もう、要らない」

 侑は荒んだ目つきで、足元に広がる残骸を見下ろしていた。

「こんなものでだって、もう、繋がってるのが嫌なの」

 がりっ、と。ローファーを履いた足が携帯のディスプレイを踏み躙る。ぱきん、とプラスチックが砕ける音がした。

「ね、仁科。さっきの。私、本気で言ったのよ」

 侑は両手を腰の後ろで組んで、くるりと仁科へ背中を向けた。

 そして、「ねえ」と、もう一度言う。

「仁科、最後に私と、ゲームしない?」

「……ゲーム?」

「そ。ゲーム」

 夜のネオンを全身に受けて、その光に髪色を透かせながら。

 振り返った侑が笑い、密やかに囁いた。

「明日、学校に来て」

 だがその声を聞いた時、仁科は踵を返していた。

 もう、限界だったのだ。この場所の空気も、こんな所に来てしまった自分も、侑も、何もかもが嫌だった。

 無言で歩み去る仁科を、侑は追い駆けてこなかった。

 夜風がひどく、冷たかった。


     *


 翌朝、電話があった。

 眠れない夜を過ごした仁科は、早朝のリビングでそれを取る。

『……』

 今思い返しても、不思議な瞬間だったと思う。普段であればまず起きていないであろう早朝で、仁科自身がその電話を取ったのは奇跡に近かった。

「もしもし」

 無言の電話に苛立って、受話器を置こうとした瞬間『仁科』と呼ばれ、手が止まる。

『家族の誰かじゃなくて、よかった』

 声は、そう言った。

「……家族だったら、どう言い訳する気だった」

 無感動に、仁科は答えた。

『連絡網、とか?』

 くすくすと、声は笑った。

『来てよ、学校。放課後、仁科の教室で待ってるから』

 仁科は、受話器を耳から外す。

『硝子を割った時も。誰もいなかったから、窓を殴ったの』

 声が、耳から離れていく。

『もし、人がいたら。私は、もしかしたら』

 ガチャン。

 ツー、ツー、ツー……。


     *


 茜色の光が濃く差し込む教室の中で、風にはためくカーテンを眺めながら、仁科要平は一人立ち尽くしていた。

 揺れるカーテンの向こうには、開け放たれた窓。四角く切り取られた空は夕暮れの色彩をいっぱいに湛えて、肌寒い空気が教室内へと吹き込んでくる。

 今、ここで。一人の女子生徒が身を投げた。

 だがそれは、二度目の事だ。

 仁科は結局、同じ人間が同じ死に方をするのを、ただぼんやりと立って見下ろしていた事になる。


 ――仁科っ。


 声が、離れない。

 女子生徒の、声だった。ここに来て、過去を見て、何度も何度も聞いた声。

 仁科要平を呼ぶ、声。

 追いかけられてばかりだった。最後の最後で追いかけたが、結局それさえ見捨てて帰ってしまった。

 ゲームの意味を、仁科は考える。

 あれは、どういう意味だったのだろう。侑は何を思って、最期にゲームなど持ち掛けたのだろう。それが仁科には、いまだ不明のままだった。

 侑に何があったのか。何が侑にそこまでさせたのか。仁科は知らない。分からない。こんなものを見ても尚、分からないままなのだ。

 侑の台詞を思い出す。

 もう、死にたいかな。

 そればかりが、頭を巡る。

「……」

 侑の事など、仁科は嫌いだ。

 だが、目の前で命を絶たれて、何かが仁科を変えたと気づいている。気づけば侑の事を考えて、中学二年の秋に縛られた己に気づくのだ。

 何も、変わっていない。高校二年になった今でさえ、何も。

「宮崎、〝ゲーム〟の答え、分かったよ」

 仁科は、ぽつりと言った。

 言いながら、窓際へ近づいていく。机と椅子の間を縫うように進むと、あっという間に窓の桟へ手をついた。

「俺だ。俺なんだろ。〝アリス〟は」

 開け放した窓から、一際強い風が吹く。

 茜色の輝きが、ひどく眩しい。

「もう、分かった。分かったから。だから」

 ――仁科っ。

 脳裏を掠める、顔があった。

 振り返ってこちらを呼ぶ声に、優しさを湛えた微笑。黒い髪がさらりと流れ、同じくらいに真っ黒な制服の胸で、臙脂のリボンが揺れている。白い光の中で、快活に笑う顔。もうすっかり見慣れてしまった、二年二組のクラスメイト。

 きっと、女王様が、首を、刎ねて、アリスは。

 眩暈がした。

 声が、掠れた。


「佐伯を、巻き込まないでくれ……!」


 桟に掛けた、手が滑る。

 がくん、と身体が傾いた。身体が一瞬、浮いた気がした。だが次の瞬間には肩を桟に手ひどくぶつけ、鈍い痛みに仁科は喘ぐ。

 ああ、と思った。

 このまま身体を少し乗り出して、体重を少し、ずらすだけだ。

 簡単な事だった。勉強よりも楽だろう。家業の手伝いよりも、級友との無駄話よりも、音楽を聴くよりも、読書よりも。

 くだらない狂人の、相手をするよりも。

 そう考えると、何だか笑えた。

 何となくだが、一つだけ分かった。

 もう、自分は壊れているのだ。中学二年の秋に、同級生を目の前で失ったあの日から。心が罅割れて、麻痺して、痛みと感情をうまく享受できないようになっている。

 馬鹿馬鹿しかった。もう、何もかもが。

 仁科は眠るように、桟に額を付けて俯く。窓の桟は冷え切っていて、金属の冷たさを直に感じた。

 気づけば落ちていた。そんなオチでも全然構わない。悲劇などそんなものだろう。そして悲劇という言葉で、一つ思い出した。

 コーディーリア。

 仁科の家の、美容院の名。リアの三女の娘の名。

 

 ――結局『リア王』、まだ読みきれてないや。


 そんな事を考えながら、仁科は目を閉じ、蹲る。

 自分の身体が教室へ崩れ落ちようが、窓の外へ投げ出されようが、もうどうだって構わなかったのに、何故だかその時唐突に、吉野泰介の言葉を思い出した。


 ――葵と、三人で帰るって言っただろうが!


「吉野」


 御崎川に。

 三人で。


「ごめん」


 仁科の意識は、闇に呑まれた。

 結局落ちたのか転んだだけなのか、分からずじまいだった。

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