第28話 夜のネオンへ、もう一度

「ただいま」

 美容院の方から入らず、自宅の玄関兼店舗裏口から帰宅した。親父にクビ状態にされたまま、それは今も続いていたからだ。

 多分、申し出たら手伝わせてくれるのだ。だが何も言わなければそれでお終い。それに仁科も率先して美容師の仕事を手伝おうとはもう思えなかった。

 誰かの髪を切るわけではない。パーマの手伝いの際にほんの少し触れるだけ。あとは機材の準備や掃除、会計など。これは家業を継いでいるという立派なものでは決してなく、ただの学生アルバイト。働くのをやめた途端に、それを鮮明に意識してしまった。

 そうなると、どうにも以前のように動けなくなってしまったから不思議だった。どうせ稼いでもさほど使わない事も要因の一つかもしれない。本代やCD代に逼迫すれば事情も変わってくるのだろうが、ともかく。

 意欲が、失せた。

 その一言に尽きる。

「おかえり、要平」

 リビングに行くと、母はテレビを見ながら夕飯を食べていた。そして立ちっぱなしで自分を見下ろす息子に視線を投げると、「遅かったのね」と短く言った。

「連絡してくれないと。夕飯に間に合わないならさぁ」

「……」

 ――連絡するだけの金が、勿体ない。

 ――俺を一体、いくつだと。

 ――別に、夕飯くらい。

 目が眩む程に、一瞬にして湧き上がった言葉の洪水。頭が鈍く痛み、熱を帯びてくらくらする。だがどの台詞もあまりに幼稚で、口にする前に冷静な自分が嘲笑う。なんてザマだ、格好悪い、と。

「前までは電話くれてたのに。要平ったら最近どうしちゃったのよ」

 息子の葛藤にまるで気づかない様子の母は、箸でコロッケをつついている。揚げ物を食べる気が失せたが、気持ちとは裏腹に身体は空腹を訴えている。仁科は結局「ただいま」とだけ言って台所に向かい、自分の夕飯の用意を始めた。

「ねえ、要平」

「……」

「ちょっと、返事くらいしなさいよ」

 返事をしかけた途端に、詰られて口を噤んだ。反論しようと思ったが、そう思った端から気力は穴の開いた風船のように萎んでいく。

 どうも、調子が悪いらしい。家族のこんなやり取りにさえ苛立ちを感じてしまうほど、今の自分には余裕がない。その事実が意外だった。

 ふと、侑の顔が脳裏を掠める。

 即座に、思い出したくもないその顔を、脳内で抹殺した。

「ねえ、なんで遅かったのよお」

「なんでって、学校」

「学校がこんなに遅いわけないでしょ」

 それは、居残って、勉強していたから。その日やるべき義務的な勉強は全て終わらせていたが、どうしてかまだ、活字を目で追っていたかったから。

 だがそれを親に知られるのは、もの凄く嫌だった。

「なんで黙るの?」

 いつもはこんなにも息子に構いはしないのに、今日に限って母は突っ掛ってきた。ねちねちとしつこく、仁科を糾弾する。

「どうして答えないのよ、要平。ねえ。なんで理由が言えないの?」

「別に」

「あら。どこかで親に言えないような事でもしてたの?」

 気持ち悪さで鳥肌が立った。

 肺の中がその台詞で、真っ黒に侵される気がした。吸い込む空気が、とても汚い。吐き気にも似た感覚が喉元までこみ上げて、吐瀉物の代わりに仁科は稚拙な言葉を吐き捨てた。

「俺、飯いらない」

「え?」

「食べてきたから」

「ちょっと、要平!」

 母の顔が一瞬呆気に取られて、それから険しく吊り上った。だがそんな風に母が怒れば怒るほど、仁科からは普段の冷静さが剥離していくような気がした。

 らしくないと、やはり思う。そしてそんな風に自分を分析したら、少しだが頭が冷えた。反抗期のガキが、飯を抜くと騒いで親を困らせるという図式。ありふれた家庭不和の構図に自分が当て嵌ると思うと、酔いも覚めるというものだ。

「……ごめん、母さん。やっぱり飯食うよ」

「……食べてきたんじゃなかったの?」

「育ち盛りだから」

 滅茶苦茶を言っているのは分かっていたし、きっと言及されるだろうと踏んでいたが、嘆息した母は「用意したげるから、座っときなさい」とぼそりと言って腰を上げた。母の方も、どうやら息子にしつこく突っ掛り過ぎたと思ったらしい。その反応も少し意外で、同時にこれ以上無様を晒すような要因が消えた事に、仁科は単純に安堵した。

 台所を出た仁科は食卓を布巾で拭いたが、今から自分の食事の際にまたコロッケの衣が落ちると思うと、途単に無意味な事をしている気がして手を止めた。そうなると仁科にはもう、テレビを怠惰に眺めるしかする事がなくなってしまった。

 ニュースは明日の天気予報を映していて、「明日晴れるのね」とテレビを振り返った母が目聡く言った。先程までの不機嫌さはすっかり鳴りを潜めていた。切り替えが早いのが救いだな、と。仁科はこの時ようやくずっと張り詰めていた何かが、少し緩むのを感じた。

 その時、背後から声が掛かった。

「要平」

 仁科は、振り返る。

 親父だった。

「おかえり。仕事おつかれさん」

 労いを述べる仁科に、親父はしばらくの間何も言わなかった。ただいまともおかえりとも言わなければ労いに対する返答もない。リビングに入ってきたままの立ち姿で、憮然と息子を見下ろしている。

 何だか気味が悪くなってきた仁科は「……何?」とおそるおそる訊いた。

 逡巡するように黙した親父は、やがてぽそっと「お前の友達が来た」と言った。

「友達?」

「へえ、そんな事があったの。要平ったら全然話してくれないから、私あんたが誰と仲いいかなんて知らないわよ」

「友達が、来たって?」

 口を挟んできた母を黙殺して、仁科は問う。

「お前の学校の制服着た子だ。お前がいないかって訊いてきた。ついさっきだ。家に居なかったから、まだ帰ってきてないと伝えた」

「だから健吾さん、要平は帰ってるか、なんて私に訊いたのね。ねえ要平、行き違いじゃないの。だからあんた早く帰んなさいっていつも言ってるのよ」

 母の目が、また吊り上り始めた。折角少し落ち着いてきたというのに、確執まで蒸し返されては堪らない。そうなってくると、そもそもの原因である来訪者へ、自然と仁科の苛立ちは向いた。

 一体誰なのだ。こんな外も真っ暗になっているような時間にやって来た仁科の友人を名乗る者は。塩谷だろうか。不意に声が耳に蘇る。そりゃあ、友達でしょう。いい加減この台詞を、鬱陶しいと思い始めた。だが、すぐに違うと首を振る。塩谷ではない。塩谷は仁科の家の場所を知らないのだ。

 では、誰?

 そこまで考えて――うっすらと、脳裏に浮かぶ顔があった。

「それ、女子か?」

 突然顔を上げた息子を、親父が少し驚いた様子で見た気がした。だが普段と何ら変わらないポーカーフェイスはそれ以上崩れる事なく、親父は「ああ」と短く肯定した。

「名前……は?」

 どくん、と心臓が打つ。半ば以上予想はついているのに、訊かずにはいられなかった。だが親父は、首を横に振った。

「訊こうとしたら、逃げられた」

「逃げた?」

「走っていった。別に追う理由はないから、追わなかったが」

「……」

 仁科はただ、呆然とそれを訊いていた。

 何の為に、来たのだ。

 今、自分の中で動いた感情の名前を言い当てる事ができない。何を感じたのか、分からない。ただ、馬鹿の一つ覚えのように思うのだ。何の、為に、ここまで、来た?

 仁科の家が、美容院をやっている。その事実を知っている者は、同級生にはいないはずだ。仁科がそれを誰かに言った事はなかったし、言う必要も感じなかった。友人と呼んで差し支えないだろう塩谷にさえ、それは知られていない。放課後の家業の手伝いについては打ち明けていたが、美容院だとは教えなかった。

 誰も、ここへは来れないはずなのだ。

 ――あいつ以外は。

「要平、誰? その子誰? 友達? 申し訳ない事しちゃったじゃない」

 母がそう言った瞬間、ニュースキャスターが速報を伝える声が、リビングへと割り込んだ。

 何気なく振り返ると、バラバラ殺人のニュースだった。

 最初はただの既視感だった。どこかで見たという記憶の引っ掛かりがあるだけで、何も思い出せない。だが、すぐに思い出した。犯人は依然として捕まっていないという、あの。

 はっとした。

 それは奇しくも、あいつと出会った日の夜に聞いたニュースだった。

 母はコロッケをリビングへ運びながら、テレビを食い入るように見つめている。そして突然目を剥いて、「すっごい近いとこが映ってるじゃない!」と叫んだ。

 街のイルミネーションが煌々と、真っ黒に淀んだ空を彩っている。ざわついた喧騒や酔っ払いの怒号がまるで聞こえない映像は、遠目になら綺麗と言えたかもしれない。だが、どぎつい色彩のランプや客引きの水商売然とした女性がしっかり映り込んだ様が、煙って荒んだ夜の匂いを、カメラのレンズ越しに運んでくる。

「ここら辺で職質されて、それで逃亡、ですって」

「近くにいるのか」

 怖がりながらも興奮気味な母に、然して興味もなさそうに親父が相槌を打っている。

 そのやり取りを、遠く、聞きながら。

 仁科は気づけば、立ち上がっていた。

「要平っ?」

 母の上ずった声を背中で聞きながら、仁科はもうリビングを飛び出していた。

 見えたのだ。テレビ画面の、ニュースキャスターの後ろに。制服を着た女子生徒が一瞬映るのを。

 靡く茶髪とチェックのスカートが見えただけで、顔は暗く、見えなかった。ただそれだけなのにどうしてか、身体は玄関を目指していた。

「要平」

 玄関を出る直前に、今度は親父に声を掛けられた。

「親父」

 仁科は、背後に立つ親父を振り返る。だが、何を言えばいいのかまるで分からなかった。無表情の、仁科の父。仁科はいつも、親父のことが分からなかった。仕事中の会話以外、ろくに言葉を交わしていない。朴訥な父の思考は読み取りにくく、その心がどんな感情で構成されているかは、あまりに不明瞭だった。

 本当に、親子だと思う。これでは自分とおんなじだ。周囲の見る仁科要平は、もしかしたらこんな風に映っているのかもしれない。

 都合がいいと、分かっていた。会話の絶えた息子が、こんな時だけ理解をせがむ。あまりにおこがましいと分かっていた。

 だが、それでも汲んで欲しいと仁科は思う。

 今、家を出る事を。これから何をすればいいか、そんな目先の目的さえ分かっていない体たらくで、それでも汲んで欲しいと仁科は思う。

 親父は何も言えない息子をじっと見返していたが、「行くなら、早く行け」とぶっきらぼうに言った。

 仁科は返事もせずに、家を飛び出した。

「要平えぇぇ! 今は外に出ないでっ! 健吾さん、何やってるのよ!」

 息子を止めるどころか送り出した親父を、母が激しく詰っている。その怒鳴り声さえも秋の夜風が流していく。白く灯る電燈が夜闇を疎らに切り取る中を、仁科は一人飛び出した。寂れた夜の街へ、たった一人駆け出した。

 耳が馬鹿になったかのように、風の音で何も聞こえない。空気は、冷えていた。風が、身を切るように痛かった。吐く息が、ただ白い。

 走って、走って、走って、少しずつ道に溢れる電燈の数が増え、一際明るい光の筋を闇へ投げかけるスーパー前を駆け抜けて、以前ここを走った自分が、一人ではなかった事を思い出す。

 あの時は、一人ではなかった。二人だった。こんなにも、寒かっただろうか。あの時にここを駆けた時より、ぐっと空気が冷え込んだ気がした。

 二人で走る時よりもずっと速いスピードで、仁科は走る。道を照らす灯りは、どんどん数を増していく。あの時の道を自分が覚えているのかどうか、走りながら不安を抱いた。だが身体は覚えていた。外気とは対照的な肺の熱さを感じながら、仁科は己の記憶を頼りに走る。

 話したのだ。

 あいつにだけは、話したのだ。体育の授業をサボり、クラスメイトの誰もいない教室で、カーテンを揺らして入ってくる秋風を頬に感じながら、読書に耽る自分を見つけた宮崎侑にだけは、話したのだ。

 ――シェイクスピア、好きなの?

 侑は、訊いた。

 ――好きかどうかなんて、分からない。

 仁科は、答えた。

 確かに仁科はシェイクスピアの本を手にしているが、読みかけなのだ。そしてこの本以外にシェイクスピアの物語を、活字として追いかけた事はなかった。

 『ロミオとジュリエット』ならば、話の大筋を知っている。そんな風に内容を齧っているものも中にはあったが、それでもやはり未読なのだ。有名だから、知っている。それだけに過ぎない。

 仁科のぶっきらぼうな答えに、ふうん、と不思議そうに侑は首を傾げ、変なの、と笑った。

 ――『ロミオとジュリエット』じゃないのね。初めて読むシェイクスピアが。

 嘲笑のようなその顔は、最早侑の無表情と同義なのだと思っていた。そこに悪意はなく、それが侑のスタンダードだ。分かっていたつもりだったが、どうしてかむっとした。だから仁科は言ったのだ。無駄話だと、戯れだと承知しながら。

 それはもう知っている。どうせ読むなら、知らない話を読みたいのだと。

 そんな仁科に、侑はさらに質問を重ねた。

 ――それで、どうして『リア王』なの?

 どうだっていいだろうと、仁科は一蹴する。そして本を取り上げた侑に、ほら、もういいだろ、返せよ、と言おうとしたところで、侑がまた言ったのだ。知ってる? 仁科。

 ――『リア王』はね、シェイクスピアの四大悲劇の一つなのよ。『ロミオとジュリエット』は違う。『オセロー』なの。あと『マクベス』もそうよね。最後の一つは、えっと……。

 そこでふと言いよどみ、なんだったかしら、と呟いて小首を傾げた。

 ――『ハムレット』

 仁科が助け舟を出してやると、ぱあっとその顔が華やいだ。

 そうそう、と言って、侑は笑った。

 その顔は仁科が今までに見てきた中で一番人間的で、歳相応の笑顔だった。不意打ちを食らった仁科は、咄嗟に言い返せなかった。

 なんだ、と思った。拍子抜けだった。

 普通に笑う事、できるんじゃないか、と。

 童話の挿絵に出てくるような、悪い魔女の卑屈な笑み。そんな禍々しい雰囲気を湛えた得体の知れない表情よりも、ずっと綺麗に笑う事が、ちゃんとできるのではないか。宮崎侑という少女は。なんだ、とすとんと落ちた感覚は、失望なのか安堵なのか、仁科には分からなかった。

 ただ、周囲のように侑を煙に巻く気は、失せてしまった。逃げる気も、失くしていた。

 ――『リア王』なのは。

 『リア王』を、選んだわけは。『オセロー』ではなく、『ハムレット』でも『マクベス』でもなく、四台悲劇の中で、迷わず『リア王』を選んだ理由は。

 誰かに言うのは初めてだという意識もないまま、気づけば仁科は、言っていた。


「コーディーリアが、いるから」


 白い日差しに、秋の冷やりとした空気。柔らかな青色を湛えた空。揺れるカーテン。遠くで聞こえる授業の音。チョークが黒板を叩いている。がらんどうの教室。日の光を透かせた、茶色い髪。

 『リア王』の三女である勇敢なる娘の名と、凡庸な自分の家の店の名を、仁科は自然と、口にしたのだった。

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