第27話 すれ違いの手

「触らないで」

 感情のない、機械のような声が聞こえた。

 だがそれは紛れもなく、聞き覚えのある少女の声だ。

 人だかりを掻き分けながら、仁科は廊下を進む。するとこちらを見たギャラリーの誰かが、縋るような声で「仁科君」と呼んだ。

「……何。呼んだの誰」

 気怠く訊いたが、呼び掛けの主と思しき女子生徒は、蒼ざめた顔で震えるばかりで、何も言えないでいる。

 ただならぬ空気が、そこにあった。

「……これ、何」

 言えば誰かが答えるだろうと踏んでいると、今度は一人の男子生徒が「分かんないけど」と、言い難そうに言った。

「ここのクラス、揉めてるみたいで……宮崎が、なんかやらかしたっぽい」

 その声と同時に室内から、声が再度聞こえてきた。


「触らないでって言ったの、聞こえなかったの」


 密やかな声だった。だが緊迫感と静寂が、その恫喝を傲然と大きく響かせた。

 仁科がここを通りかかったのは、ただの偶然に過ぎなかった。もう少し遅刻するか真面目に登校していれば、こんな修羅場には出くわさなかった事だろう。

 仁科は時々、悪夢のように思う事がある。この瞬間に、ここを通らなければ。現在の辛さと窮屈さは、少しでも軽くなっただろうか。

 だがそんな自問をする時、その後必ずこうも思うのだ。

 たとえ、ここを通らなかったとしてもだ。異変はもう、目に余るものになっていた。トラウマの代表格の一つが変異するというだけで、きっと何も変わらない。こんなものを見ようと見まいと、何も。

「私のケータイ見たの、誰。まだいるでしょ。誰。ねえ、誰よ、答えて」

 仁科はいつも、夢に見る。この情景。教室の扉が、細く開いている。はっきりと覚えているのだ。ここは仁科の、隣の教室。

「野田さん、金井さん、あと、誰? 五人くらいで回して見てた気がするけど」

 がしゃん! と、破砕音が聞こえた。教室から悲鳴が上がり、曇り硝子越しに聞き耳を立てていたギャラリーが総毛立つ。その場から何人かが血相を変えて走っていく。恐怖の沈黙の中で、暗鬱な笑いが響き渡る。

「早くさあ、名乗り出てくれない? 誰?」

 そして、仁科は気付かれる。

 扉の隙間から見ている自分と、そいつの目が合ったのだ。

 あはははは、とそいつは笑った。あまりに狂的なその様に、教室の隅で円陣を組むように避難した生徒達が、恐れをなして引いている。

 ははははは、と笑い続け、不意にぜんまいが切れた人形のようにふっと笑いを収めると、

「死ねばいいのにね」

 放課後付き合って、と言うのと同じ口調で、宮崎侑は言ったのだった。


     *


 宮崎侑は、精神異常者だ。

 それは既に学年中どころか、学校全体が知り及ぶ所となっていた。

 だが本当に精神に異常をきたしているかなど、誰も知らない。精神病院への通院暦などがまことしやかに語られても、それは信憑性の薄い噂の域を出なかった。

 ただ、誰もが侑を遠巻きにし始めた。今までよりも、より露骨に。

 そしてそれは、宮崎侑の自業自得によるものだ。少なくとも、周囲はそう捉えていた。

 そしてその捉え方は、仁科もまた同じだった。

「宮崎さん、どうしたんだろ」

 嫌な噂が飛び交う中で、塩谷だけはそう言った。

 心配そうなその顔は偽善にも見え、やはり皆がそうであるように怯えが目立つ。様々な感情が混在した顔で、塩谷は本人に届かない言葉を繰り返す。髪色が以前より鮮やかになり、素行の悪さが際立っていく侑を目にする度に、遠巻きにしている一団の中にいながら、言うのだ。どうしたんだろ、と。何度でも。

「そんなに気になるなら、本人に訊けば?」

 例の如くこちらの席まで来た塩谷へ、仁科ははっきり言ってやった。

 すると、あからさまなショックの顔をされてしまった。

「仁科が、そんな風に言うとは思ってなかったよ」

 言葉に込められた思いは、失望とは違うのだろう。塩谷の声音はただ驚き一色で、だからこそ仁科を揺さぶる少し力があった。

「どうしてお前はそう思うんだ」

「だって仁科は、宮崎さんの事を一番気にかけてると思ったから」

 声が、喉で引っかかった。

 何故、今、間を空けた? その一瞬が命取りになると知っているのに、自分で自分が信じられない。後悔と自己嫌悪が身を焼くようだった。

「……なんで、俺なんだ」

 着席したまま、仁科は身体ごと塩谷から逸らした。

 そうやって侑にまつわる一切を、徹底的に拒絶していた。

 萩宮第一中学では、ここ数日で様々な事があった。

 最初は、小火騒ぎ。

 図書室が焦げ臭いと訴えた生徒によって発覚したが、これは仁科も現場を通りかかったので知っている。侑が校舎のベランダで、本をライターで炙っているのを見た。その燃え滓を何食わぬ顔で本棚に戻した所為で、匂いが図書室に充満したのだ。

 そして、次の騒ぎは少し派手だった。

 ある朝登校してみると、昇降口前に黒山の人だかりができていた。

 不審に思って覗き込むと、下駄箱の向こうに見える窓硝子一面に、青いビニールシートがびっしり留めてあった。日光を遮られた廊下は歪な水族館のように不気味に青く、自分達が通っている中学とは到底思えないような違和感を、水槽のように湛えていた。

 仁科は侑に、何の言葉も掛けなかった。掛ける言葉がないからだ。会話の必要も感じない。侑が金属バットを野球部の部室から持ち出した事も聞き知っていたが、まるで関心を持てなかった。

 センセーショナルな事件に、不謹慎にも皆沸いた。犯人探しがちょっとしたブームになったが、すぐに教師によって濫りに騒ぐなと粛清された。

 冷静に考えてみれば、学校側の対応は奇妙だったと今なら気づける。校舎の窓硝子が異様な割れ方をすれば、事件として扱われるはずだ。だがこの珍事はニュースにならず、それどころか犯人について全く触れられる事がなかった。

 皆、分かっていた。大っぴらに騒ぐと叱られるので言わないだけで、多分全員が、その理由を分かっていたと思う。

 犯人はきっと、校内の人間だ、と。

 学校側のこの対応は、間違いだったのだろう、と。全てが終わってから仁科は思った。実際、その対応を不審に思った父兄との間で、後にトラブルになったらしい。

 それにこちらも後で知った話だが、数学教師の戸川だけは、強硬に学校側の方針に逆らったそうなのだ。仁科はそれを知った時、茫然と思った。

 もし侑が、戸川と出会っていたら。

 もしくは、戸川がもっと早く、侑の存在を知っていたら。自分のようなはみ出し者に、手を差し伸べるのと同じように、戸川が侑の事も見てくれたら。いいや、違う。誰でもいいのだ。侑の事を心から気にかけてやれる人間が、侑の前に、現れたなら――もし、そんな風に。時間を、巻き戻すことができたなら。

 この悲劇の結末を、書き換えることはできただろうか。


     *


「久しぶり。仁科」

 侑は、口の端だけで笑った。開け放した窓から風が入り、赤茶けた長髪がふわりと揺れる。放課後に喫茶店へ行ったあの日以来初めて、互いの視線が交叉した。

「何やってるんだ。お前は」

 切りつけるように、仁科は言った。侑との接触を避け続けた仁科だが、この時だけは別だった。蜘蛛の糸に引っかかるように、視線に絡め捕られてしまった。

 無視しようと思ったらできた。目を逸らすなど、顔の向きを変えるだけ。自分と同じ歳の少女。拘束力など知れている。

 だが仁科は受けて立ち、侑の支配する教室前に立っていた。

 その行動理由はおそらく、侑が理由ではないのだろう。厄介事が嫌いな仁科だが、どうしてか泣く女には弱かった。情けないとは思うが、仁科は侑の所為で泣かされた女子生徒が不憫になって、ここに居残ってしまったのだ。そんな風に、仁科は己を分析していた。

 そうでなければ、こんな狂人に絡まれるような危機的状況に、わざわざ身を置くわけがない。

「何って? 見てたじゃない。分かるでしょ?」

 つれないとでも言うように、侑は肩を竦める。余裕の滲み出た仕草からは、衆目を集めていることに一切動じていないのが見て取れた。

「知るか。今通りかかったんだ」

 仁科もまた怯むことなく、冷めた声で言い返した。

 面白いくらいに、何の感情も動かなかった。クラスメイト達は怯えながら、はらはら成り行きを見守っている。そうやって静かになると、泣き声の他に呻き声も聞こえてきた。教室の隅で、腕を抑えて蹲る女子生徒の姿が目に入る。何人かの生徒に囲まれている所為で見えにくいが、大丈夫、しっかり、と気遣われ、なんとか頷き返している。

 侑の足元には、件の金属バット。

 何が起こっていたか、容易に知れた。ドラマや映画でしか拝めないような非日常を前にして、仁科はすっと目を細めた。

「なんか揉めてたんだろ。お前のそれが仕返しだって事くらい分かるさ。……でも、やりすぎだろ」

 足元には倒れた机や中身の散乱した弁当箱。惣菜から出た汁が、誰かの手提げ鞄に染みていた。女子生徒の泣き声が大きくなると、侑が「泣き虫」と鼻で笑い、蔑みの目で吐き捨てた。女子生徒は友人の肩に顔を埋めて、一層激しく泣き出した。

「おい」

 厳しく眉根を寄せたのが、自分でも分かってしまった。

「やめろ。その辺で。今のお前、すげぇかっこ悪いから」

「ふうん?」

 にやにやと笑う侑の目が、不意に厳しい光を帯びて、細められた。

「仁科。私が怖くないのね?」

「まさか」

 即答した。仁科はもう、宮崎侑など怖くない。

「ねえ、周りはこんなに私を怖がってる。ばっかみたいでしょ? なのに平気で人のケータイの中身は見るんだから可笑しいわよね」

 侑はちらりと、視線を女子生徒の一人に投げた。見られた生徒が、竦み上がる。

「やめろって言ってる」

 見るに耐えず仁科は止めたが、侑はやめようとしなかった。

「電話帳と、メール、見たでしょ。人のもの勝手に見たんだから、あんた達のも見せなさいよ。知ってるのよ。ケータイ持ってるの。校則違反」

「もうよせ。見られたら困るのはお前の方だろ」

「……へえ? なんで仁科は、見られたら困るって思ったの」

 侑は、余裕の笑みで受け流した。皮肉の通じない相手と分かっていても、仁科は込み上げる侮蔑を抑えきれない。乾いた声で、吐き捨てた。

「随分と、広い交友関係だな」

「あら。仁科は狭いわよね」

「ああ。でも、お前には言われたくない」

「台詞、矛盾してるわよ」

 侑はにやにや笑うまま、小首を傾げて仁科に問うた。

「ねえ。どうして私の交友関係が広いだなんて思ったの? ケータイ、何があると思ったわけ?」

「……それを、ここで言えってか」

 仁科には、それは途方もない質問に思えた。

 気力が、急激に削がれていく。自分の皮肉を逆手に取って、そんな質問をする侑の神経が信じられなかった。こんなにも一方通行で噛み合わない会話は、続けること自体馬鹿げていた。

 だから仁科は、退場を決めた。

「その弁当、お前が片付けろよ」

 それだけを言って、侑に背中を向けたのだ。

「仁科?」

 その時だけ侑の声から笑いが消えたが、仁科は振り返らなかった。緊迫した空気も、固唾を呑んで見守る生徒達の視線も、最後に仁科を追いかけた声も、その全てを一切引き摺らずに、仁科は淡々と自分の教室へ向かう。

 自分が動かなければ、というような義務感はなかった。あの騒ぎはいずれ、教室を飛び出した生徒が連れてくる教師によって片がつく。怪我をした生徒も意識がはっきりしていた。仁科がしなければならない事など、何一つないのだ。

 鞄を置いて着席し、教科書を取り出す。

 シャーペンを握り締めて、それを紙の上に走らせる。

 そうやって何もかもを遮断していけば、怖いものなど何もない気がした。


     *


 宮崎侑に、一週間の停学処分が下った。

 その決定は瞬く間に、学校中へと広まった。

「窓を金属バットで割った犯人、宮崎さんだって誰かが言ったみたいだよ」

 またしても仁科の机まで寄ってきた塩谷が、気遣わしげに言った。

 仁科が返事を寄越さないので、それらの言葉は全て塩谷の独り言のような状態になっていた。だが塩谷は特に気にした風もなく、こちらに話し続けている。タフなものだ。ぼんやりと仁科は思った。

「一組の桂だって聞いてるよ。告げ口した奴。でも、桂は宮崎さんがやったってほんとに知ってたのかな。実際に最初に目撃したのは警備員さんみたいで、その噂が一番今のところ有力っぽい。……先生達、最初から分かってたのかな」

 ぽきん、とシャーペンの芯が折れて、跳ねた。それが教科書の上でころころ転がり、ページの間の隙間へ滑り込んでいく。仁科はとんとん、と教科書を机に当ててみたが、しっかりと挟まった芯は、爪で掻いても届かない。

「宮崎さん、他にも色々あったじゃん。前の小火騒ぎも認めたって聞いたよ」

 仁科は諦めて、教科書に芯を挟んだまま勉強を再開した。あと二問、数学の問題を解いてしまえば今日の宿題は何もない。それで、全部終わる。

「で、それに加えて前の騒ぎでしょ。隣のクラスで女子泣かせたやつ。怪我人も出ちゃったって。でも、怪我した子は文句全然言ってないみたい。それより前に宮崎さんに何かしたっぽい。喧嘩両成敗って事で、片がついてるって」

 図形を眺め、公式を浮かべて、シャーペンを紙の上へ滑らせる。まっさらで何もない場所を、芯の黒で、数字で、書いて、埋めて、脳に刻む。

「一週間って、長いよ」

 そんな仁科に、それでも塩谷は語り掛けている。返ってこない返事を苦にせずに、ぺらぺらと喋っている。邪魔をされて、苛ついたわけでは断じてなかった。ただ、思っただけなのだ。件の宮崎侑に言われた言葉を。友達。仁科の友達。それに、塩谷の言葉。そりゃ、友達でしょう。

「……そうだな。長いかもな」

 シャーペンを置いて答えると、塩谷がまじまじと、仁科を見た。

 あまりに驚いた様子なので、こちらも驚いて見返した。

「何?」

「いや……その、話、聞いててくれてたんだ、って」

「はあ?」

 何なのだ、それは。仁科は呆れながら頬杖をついた。

「俺が聞いてるって分かってるから、そんな無駄話を延々と塩谷は喋ってたんだろ。俺が聞いてないって前提で話してたなら、お前の台詞は全部独り言って事になるけど?」

「あー、そうかも……うん。そうだね」

 あけすけな物言いにも関わらず、塩谷は気分を害するどころか、仁科の台詞に頷いた。

「だから、僕は喋ってたんだね。仁科が聞いてるって確信してるから」

「……」

 そんな言い方をされたら、悪態をつくのが躊躇われてしまう。肩透かしを食らって沈黙する仁科に、「ねえ仁科、心配じゃないの?」と塩谷は言った。

「何が」

「何が、って……だって。仁科。宮崎さん、学校にいられなくなるかもしれないんだよ? 家の噂も、あんまりいいこと聞かないし。学費がもう払えないとか、家庭問題とか。他にもいろいろ」

「俺は別に、あんな奴停学になろうが退学になろうが知った事じゃないさ。俺には」

 関係ない。

 そう言おうとして、その台詞の陳腐さが凄く幼稚に思えてしまった。

 一瞬でも思ったら最後、ぶつ切りにした台詞の続きなど到底言えそうになかった。仁科は変に言葉を切ったまま黙り込むという、何とも体裁の悪い事になってしまった。

 塩谷は、そんな仁科を見ている。仁科は、塩谷から目を逸らす。関心を失ったように見えるよう、できるだけ自然に。だがそんな自分の心の動きさえ、既に見透かされている気がした。塩谷の方を見なくても分かる。どんな顔で、自分を見ているのか。

 ぞっとした。仁科が言うのをやめた言葉の続きを、塩谷に言い当てられてしまう。確信のように、そう思った。

「もうよせよ」

 だから仁科は、もっと格好悪い台詞を言う羽目になる。

「もう……あいつの話は、よせ」

「……うん。ごめん」

 後悔と自己嫌悪が、気道を静かに閉塞した。

 その苦しさから逃れる為に、何をすればいいのか。シャーペンを手放して、クラスメイトと向き合うだけの仁科には分からなかった。

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