第26話 隠し事
喫茶店を出ると、雑踏の中を仁科と侑は歩いた。
冬に近い今、イルミネーションが街を煌びやかに彩っている。駅前の広場の方まで足を伸ばせば、早過ぎるクリスマスツリーを拝めるだろう。
季節が、確実に移り変わっていく。それを仁科は意識した。ブレザーの下にセーターを着た侑は温かそうだが、手元が冷えるのか裾を引っ張って握っている。クラスメイト達が冷やかすのも無理がないかもしれないと、他人事のように思った。これでは本当にデートだ。
不思議な気分だった。数日前まで仁科は、この変人から躍起になって逃げたのだ。それなのに今は、侑とこうして歩いている。日常が乱されるのをあれほど仁科は嫌ったのに、実際に変化してみると、それは思ったほど不快ではなかった。
これはまだ、日常ではない。だが非日常と呼ぶにはすっかりスリルが薄れていた。それは仁科とってやはり、不思議としか言いようのない感慨だった。
新聞記事の一件は、まだ頭に引っかかっていた。だが侑は何事もなかったかのように笑っていて、仁科としても蒸し返す気はなかった。
蒸し返せば、と、考えてもみた。
あの新聞記事をもう一度突き付けて、理由を問い質したならば。きっとあの瞬間の侑に、もう一度会えるだろう。
だがそんなくだらない事をする意味などなかったし、理由にも興味が湧かなかった。少し、疲れてしまったのかもしれない。
「――今日はここで」
侑は唐突に、そう言った。
「珍しいな。ストーカーのお前が俺を野放しにするなんて」
「ストーカーじゃないってば。今日は用事があるの」
鞄を肩にかけ直しながら侑は笑い、仁科へ軽く手を振った。
「ばいばい、仁科!」
そしてこちらを振り返らずに、軽快に走り出す。
仁科はその背中を見送った。足音と後ろ姿はあっという間に遠ざかり、街の光が煌々と瞬く中へ消えていく。きっと買い物でもするのだろう。仁科はそう結論付けて踵を返した。
夜風が、冷たい。家を目指して歩く足が、自然と大股になる。
頭が少しぼうっとしていた。考える事や考えた事、それらが頭の中で飽和している。交友関係が狭いのだから当前だが、仁科の口数は多くない。最近は侑の所為で会話の機会が増えていたが、今日ほど長く話したのは久々だ。疲れなのか達成感なのか、よく分からない余韻が残る。
侑は結局、何故仁科を付き合わせたのだろう。泣いていた侑と出会ったのは偶然なのだ。喫茶店へ行く事になったのは、あの出会いがあったからこそ得られた結果に過ぎない。
では、何故侑はあの時泣いていたのだろう。
そこで、気づいた。
仁科は一度、それを侑に訊いている。だが侑が答えないと分かると、それ以上は訊かなかった。訊く気も、元々あまりなかった。
そんなものかもしれない、と。仁科は妙に納得した。
何という事はない。仁科も侑を見逃していたのだ。仁科と侑は似ているらしいが、二人の述べた意見の尻尾を、ようやく掴めた気がした。
漠然とそんな思考を巡らしながら、ふと、仁科は立ち止まった。
母に頼まれていた買い出しを、今思い出したのだ。
内心で、胸を撫で下ろす。帰宅前に思い出せて良かった。いつものスーパーと場所は違うが、この近辺で買って帰った方が早い。母から頼まれたのは食パンと卵。食パンはともかく卵は夕飯に必要だったのかもしれない。だとしても後の祭りなので極力考えないよう努めながら、仁科は街へ引き返した。
そして仁科は、一度別れた侑の姿を、もう一度目撃することになる。
*
翌朝、久しぶりに遅刻をした。
遅刻の方が多いはずだった仁科の日常は、今ではすっかり変わっていた。久しぶりに遅刻をして初めて、仁科はそれが久しぶりだと思い至った。
*
「何かあったか」
そう親父が声を掛けてきた時、仁科は商品の品出しをしていた。店で使う整髪料が切れかけていたので、その仕入れだ。段ボール箱に貼りついたガムテープを剥がす途中だった仁科には、その声が聞き取りにくかった。「何?」ともう一度訊くと、寡黙な父は返事を面倒臭がった。
「何かあったか、って思っただけだ」
「別に」
短く答えた仁科は、ビニールとガムテープをぐちゃぐちゃに纏めて、ゴミ箱の方へ向かう。自然と親父に、背を向ける形になった。
今は閉店一時間前。だがこんな時間に来る客はいない。事実上最後の客は、五分前に店のドアから出て行った。残る作業は片付けだけだ。そうやって閉店準備をしながら、思う。
そんなにも、顔に出ていただろうか。
だとするなら、どんな表情が?
仁科はモップを持ったまま、鏡の前に立つ。ブレザーの上にエプロンを引っ掛けていてもだらしなく見えるのは、やはり髪と、着崩した制服の所為だろうか。
そこに映った自分は、いつも通りに見えた。何にも興味を感じていないような味気ない顔は、ある程度整っている自覚はあったが、それだけだ。ぼうっとした瞳には店内の白い照明が、唯一の光のように映っている。
白けた、いつもの顔だ。
「サボるなよ」
親父がすかさず檄を飛ばす。仁科はモップを動かしながら、言い返した。
「なんで俺に、何かあったって思うわけ?」
親父は、沈黙した。言葉を探しているように見えるし、仁科の質問を理解していないようにも見える。しばしの後に、親父は感情の読めない声で言った。
「何もないなら、いい」
答えになっていない。仁科はがっくりと肩を落とした。これでは質問した自分が馬鹿みたいだ。髪を掻き揚げていると、ふと整髪料に目がいった。
さっき仁科が、段ボール箱から取り出したものだ。
「……。親父」
「なんだ」
鋏をホルダーにしまいながら、親父が訊き返す。
「俺、髪の毛染めたら怒る?」
「どうしたんだ、突然」
言葉とは裏腹に、親父は冷静だった。仁科はその反応を半ば予測していたが、いざそういう態度を取られると、どう説明すべきか困ってしまう。
「別に。特に理由はない」
「じゃあ、やめとけ。せめて高校行ってからにしろ」
「ふぅん」
「要平」
「何?」
「今日はもういいぞ」
「……は? なんで?」
「後はもう俺がやる。さっさとあがれ」
唐突な言葉に、仁科は少し慌てた。
「定時までは働く。俺のバイト代かかってんだからな」
「今日はもういいって言ってる」
そこまで言われては、黙るしかなかった。
どうやら、変に気遣ってくれているらしい。そんなにも息子が元気を失くしているように見えるのだろうか。仁科自身は、そんなつもりはないのだが。モップをしまった仁科は仕方なく、自室にあがることにした。
部屋に行けば、まだ開封すらしていないCDがある。やる事は、他にもあるのだ。
二階への階段を上がり、足早に自室へ入ると扉を固く閉ざした。机へ直行し、そこに乗った青いショップ袋を逆さにする。ごとん、と重い音がした。真新しく分厚い本が、仁科の目の前に現れる。
高校受験対策の、英語の参考書。
真っ先に一番後ろのページを捲ると、シュリンクに包まれた英語のCDを剥ぎ取った。そのままろくに検めもせずに、コンポの中へ突っ込む。人差し指で、再生スイッチを押した。
カチ。スイッチが押し込まれる金属質な音が、狭い部屋に反響する。ぴこぴことチープな響きの効果音が鳴ってから、流暢な英語が男性の声で流れ出す。
仁科は、席に着いた。机に向かい、英語の参考書へ目を落とす。デスクランプに手を伸ばし、明かりを点けた。
「……」
慣れていた。容易かった。これで、このまま向こうへ消えられる。
読書と同じだ。集中して、呑まれて、意識が攫われる。目の前にあるそれ以外、何も考えられなくなる機械と同じだ。無機質で、ただただ生産性があるだけの、温度のない何か。
逃避だと、蔑まれても構わなかった。
何故なら逃避は、何処にも行けないわけではないからだ。前進する事を、放棄したわけではないからだ。
足掻く姿はきっと、みっともないだろう。
だが、それが仁科だった。仁科は己を知っている。格好悪い己の姿を、誰よりも一番知っている。
だからこそ。
見透かされるような目は、もう御免だった。
もう二度と、自分を暴かれたくはなかった。決して、誰にも、心の深い部分を見せたくないのだ。他人の心の深い部分も、決して、自分は見ないから。
自分はきっとこれからも、こういう生き方で世間と対峙していくのだろう。そのスタンスが誰にどう思われようと構わなかった。
なのに。
何故こんなにも、見られる事を恐れるのだろう。
ここまで分かっていながら、捨てられないプライド。その安さに、反吐が出る。
分かっていた。分かっている。分かっているのに。
狭い部屋の中で、音量を抑えた英語の音声だけが無機質に流れる。デスクランプに照らされた仁科の顔から、いつしか感情は消えていた。
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