第29話「もう逃げない」

 部屋に月光が差す。


 ラクロが眠るベッドの横に、セシルは腰かけていた。


 セシルとアメリアは、麓の街で別れた親衛隊員たちと合流した。

 彼らが戦っていたトロールたちも、雷に打たれて全滅したそうだ。


 頭に包帯を巻き、静かにベッドに横たわるラクロを見て、テレジオは優しくセシルの肩を叩く。


「ラクロを、よろしくお願いしますね」


 そして、静かに部屋を出ていった。


 テレジオが退室し、アメリアが退室しても、セシルはずっとラクロのそばにいた。


 もうとっくに日付は超えていたが、彼はまだ目を覚まさない。


 ……それから、どれくらいの時間が経っただろう。


「……おい」


 うつむいたセシルの耳に、不機嫌な声が小さく届いた。

 はっ、とセシルは顔を上げる。


 薄く開いた紫色の瞳が、セシルを見つめていた。


「……んだよ、泣いてるのかと思ったじゃねぇか」


「ラクロっ……!」


 ガタン、と椅子を蹴って立ち上がる。シーツを掴んで、じわっと潤んだ瞳をもう一度伏せる。


「おまえ、怪我は?」


「……馬鹿じゃないのっ……!?」


 目の奥が熱くなり、ぐっ、と視界が狭くなる。セシルは震える声で、


「死にそうだったのは、君の方じゃないか……!」


「……あそこで俺が助けなかったら、死んでたのはおまえの方だろ」


「そうだよ!」


 拗ねるような声が出た。


「君が助けてくれなかったら、僕は死んでたよ。でも……それでよかったんだ! 僕なんか、死んでもだれも困らないけど……でも、君は死んだらダメなんだっ! 君は強くて、優しくて、僕なんかよりずっと生きてる価値がある。君は死んじゃいけないんだっ! だって、だって……」


 月明かりに照らされたラクロの顔が、歪む。


「そんなの……僕が耐えられないっ……!」


 暖かいものが頬を伝った。


 上半身を起こしたラクロが、驚いたように目を見開く。


 一度溢れ出したら、涙はもう止まらなかった。


「やめてよ! 危ないことしないで……!」


 ──怖かった。今までで一番。


 スラム育ちのセシルにとって、死は珍しいものではない。


 人の死にいちいち心を抉られていたらやっていけない。平穏に生きるためには、悲しみに、不運に、理不尽に、慣れなくてはいけない。


 そんなもの、とっくの昔からわかっていたのに。


「死なないでよっ……!」


 ──ラクロが死ぬ。

 そう思ったら、どうしようもなく怖かった。


 ラクロは無表情にまぶたを伏せ、ゆっくりと長く息を吐く。


「……俺の命をどう使おうが、おまえには関係ねえだろ」


「ふざけるなよ!!」


 頭に血が上った。ラクロが怪我人だということも忘れて、平手を振り上げる。


 その手を、ラクロがつかんだ。


「俺はまだ死なない」


 冷たく燃えるような紫の瞳が、セシルを見つめていた。


 ふと、こんな目を以前にも見たことがあったな、と思う。


 ルンベックの街を出ると決めたあの日も、ラクロはこんな目をしていた。


 急に、胸がざわめいた。


「……ねえ。君はどうして騎士になったの」


 街を旅立った日の夜、同じことを訊いた。

 あのときは、どうしてかそれ以上を訊くことはできなかったけれど。


 でも、今、どうしてもその答えが聞きたかった。

 なぜだかわからないけれど、今、聞かなければならないような気がした。


「……騎士になって、君は何をするつもりなの?」


 睨むようなラクロの目を、しっかりと見つめ返す。


 逃げないように、負けないように。


「──復讐だ」


 低い声でラクロが言った。


 一度まぶたを伏せ、再び開いたとき、その目は凍るように冷たかった。


「イルナディオスに。スラージュに。俺の家族を、友を殺し、国を破壊したやつらに。……もうすぐ戦争が始まる。王国騎士なら、最前線で堂々と戦える。堂々とやつらを殺せる。俺は一人でも多く、あいつらを殺してやりたいんだ。……だから、それまで俺は死なない」


 セシルは息を飲む。そして、


「……そのあとは? そのあと、君はどうするんだよ。敵を殺して、戦争が終わって、平和になったら……」


「そのときは、俺はもう死んでるんだろうな」


「死んでる……?」


 どこか遠くを見つめるラクロを、セシルは息を止めて見つめる。


 信じられない思いで、震える唇で、問いかける。


「君は……そのために、生きてるの?」


(復讐で、死ぬために……?)


 ラクロはなにも答えない。


「……馬鹿なこと、言うなよ」


 ぐい、とセシルは涙を拭った。


「ふざけるな……」


 ──強くなりたい、と思った。


 もう泣かないから。

 女だからという言い訳も、しないから。


 どんなに怖くても、苦しくても、ここから……ラクロのそばから逃げないから。


「僕は、君を、死なせない」


 ──君を守れるくらい、強くなってみせるから。


 驚いたラクロがセシルを見た。


 月の光に、澄んだ瞳がキラキラと輝く。その口元がゆっくりと笑みを描く。


「……やれるもんならやってみな」

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