10
翠子さんとの美術館めぐりは、予想外の形で不完全燃焼に終わってしまった。
それを笑顔で許してくれた彼女は、やはり素敵な女性だと思う。
そればかりかお土産もくれた。
「よろしければお持ち帰りください」
と渡されたのは過去に音楽会でテーマになった楽曲の一覧である。
演奏の映像は残念ながら渡してもらえなかった。
たとえ在校生相手でも、貸し出しはできないという。
お嬢様学校ならではの規則っぽかったので、無理は言えなかった。
翠子さんと言えども……むしろ翠子さんのような立場にいる人こそ、おいそれと破ってはいけないと思う。
おそるおそるそう指摘したら、何故かとても喜ばれたのは不思議だった。
どうせ彼女にするなら、翠子さんみたいな人がいいんだけど、さすがに釣りあいがとれないよなあ。
釣り合い云々を言うのであれば、英陵に通っているお嬢様全員無理なんだが。
英輔さんはその辺理解がある人のようだったけど、実際そんな簡単な問題じゃないだろう。
あくまでも高校生同士のつきあいでは、気兼ねしすぎるなという意味だったんじゃないかと解釈している。
だって他に受け取りようがないじゃないか。
もしかすると真剣に努力していれば、友達付き合いくらいしてもかまわないって意味だったのかもしれないが。
このことはいったん置いておくとして、今さし迫っている問題に向き合わなければいけない。
大概のこと、ある程度までなら頑張れば何とかなると思うけど、さすがにこの短期間でさわったこともない楽器を幼少の頃からたしなんできたお嬢様たちの足を引っ張らないレベルとなると、無理難題だよな。
それともダンスが何とかなるくらいだから、楽器も何とかできるんだろうか?
……そんな訳がないよなぁ。
ダンスだってお嬢様たちや先生がたからすればツッコミどころ満載なのを、「初心者にしては頑張っている方だ」と見逃してもらっているだけなんだろうし。
頑張ったら何とかなるもんだといいなぁ。
少なくとも特訓付けは覚悟しておこう。
月曜日、少し早めに登校して職員室へと向かった。
小笠原先生ならばすでに来ているはずである。
相談するのはちょっとでも早い方がよいと判断したのだ。
たとえ気休めにしか過ぎないとしても。
職員室はと言うと、意外かもしれないが実に普通である。
立派な棟に入っていたり、豪奢な設備が充実しているわけでもない。
初めて入った時は「英陵の職員室なのに」と怪訝に思ったものだ。
お金持ちなのはあくまでも生徒側であって、先生たちはそうではないということなのかもしれないが。
「赤松君、どうかしましたか?」
小笠原先生の机まで行くと、先生は意外そうに目を丸くする。
クールな美女なのにこのような表情をすると不思議な可愛らしさがあった。
つくづく反則的な美人が多い学校である。
「いえ、音楽会の件なのですが、僕は演奏ができない可能性が高いと思いまして相談しにきたのですが」
「ああ、赤松君には指揮をお願いしようと思っていました」
おっかなびっくり切り出すとさらりと答えが返ってきた。
えっと指揮ってあの指揮でいいのかな?
「……全くの未経験なのですが、問題ないのでしょうか?」
「大丈夫です。権威がある大会で優勝しているような生徒など、各学年で二、三人ずつくらいしかいませんから」
二、三人いるんですか?
ひと学年に二、三人って十分多くないですか?
それともセレブな世界だと少ないのか?
「こういう言い方はよくないのでしょうけれど、他の子はあくまでもたしなみレベルですよ」
だから安心してください。
先生は優しい笑顔でそう言う。
ごめんなさい、とてもじゃないけど安心できないどころか、余計に不安になりました。
顔色に出ていたのか、先生が不思議そうに首をひねる。
「あら? たしか公立の中学でも生徒が指揮をするのでしょう?」
言われてみればそのとおりだ。
通っていた中学での合唱コンクールでは生徒が指揮者をやっていたな。
ただまあ、ただの公立中とお嬢様しかいない学校だと、演奏する人間のレベルが違いすぎると思うんですよ。
遠まわしにだけどそう言ってみたが、返ってきたのは微笑だった。
「赤松君なら大丈夫だと思いますよ」
ゆるぎない信頼を見せられたようで、言葉に詰まる。
情けない話なんだろうけど、これほどの美女にこう言われると何だか頑張らないといけない気がしてしまうのだ。
これ以上言えずにすごすごと退出する。
あまりごねると先生を困らせてしまう気もするしな。
一応クラスメートにも相談してみて、どうしても無理だったら改めて言ってみよう。
クラスに行けば案の定、大半がすでに登校してきている。
さすがと言うしかないし、こういう状況ではとてもありがたい。
さて、誰に訊こうか。
誰であってもみんな親切に教えてくれると思うが、個人的に訊きやすくて頼りになりそうなのはやっぱり小早川かデジーレかな。
いつも頼ってばかりで申し訳ないんだけど、この二人が一番いいんだよな、色んな意味で。
教室へ戻るとさっそく小早川に話しかけてみる。
「なるほど……指揮者かぁ。たしかに盲点だったわ」
彼女は意表をつかれたように目を丸くしていたが、すぐに納得した顔になった。
「おいおい、俺が指揮者でいいのか? そんな簡単にできるものじゃないだろう?」
「そうだけれど、楽器演奏者がある程度はフォローできるものなのよ。ダンスや音楽の授業を見たかぎりだと、赤松君のリズム感はそんなにひどくないから何とかなると思うわ」
そういうものなのか?
よく分からんけど、皆に迷惑をかけない可能性があるならよかった。
……フォローを頼んでいる時点で何なんだけど、それを迷惑と言ったら水臭いと怒られそうなんだよな。
それくらいの関係にはなれたと思う。
だから「迷惑をかけてごめん」じゃなくて「ありがとう」と言った方がいいだろう。
「毎度毎度ありがとう」
「困った時はお互い様でしょ」
お礼を言うとさわやかな微笑が返ってくる。
本当に頼もしい女の子だった。
「念の為、練習したいんだけど」
「それならクラス単位での練習時間が用意されるはずよ。まずは確認してからね。演奏する曲が分からないと難しいでしょう」
優しく指摘されてしまい反省する。
楽曲が分からないと練習しようがないというのはそのとおりだった。
「それに慌てなくても問題ありませんよ。ヤスに対する配慮はあるはずです。体育祭の時とは違い性差を考慮しなければいけないものではないのですから」
そう言われると気が楽になる。
小笠原先生や翠子さんに言われただけなら少し不安だったのにな。
自分でもこの違いが今一つよく分からない。
やっぱり同世代の気安さなんだろうか?
「ありがとう」
励ましてくれたデジーレに返事をしながらも、釈然としない気分だった。
まずはやってみようということで話は落ち着く。
すると小早川が休日のことを訊いてきた。
「翠子様との美術館めぐりはどうだったの?」
「うーん……先輩には申し訳ないことになっちゃった気がするんだよなあ」
とりあえず同級生相手には先輩と呼び続けることにしよう。
それにしても思い返してみると若干気まずい。
翠子さんの説明は半分以上頭に残っていないし、途中からは音楽祭の話になってしまったし。
正直なところ怒られないにしてもため息の一つや二つ、つかれたとしても文句は言えないぞ。
「そうなの?」
どういう理由があるのか、皆額面どおりには受けとれないと言わんばかりの反応だったが。
翠子さんは優しいから気にしなくても大丈夫だということだろうか。
「あれもこれもって大変じゃない?」
相羽が気遣わしげな疑問を口にし、女子たちがうなずく。
でもここでは素直に肯定はできない。
心配させたくないし、ちょっとくらい見栄をはりたかった。
「大変と言えば大変だけど、頑張って追いつかないとなあ」
だから問題はないよと言ったつもりだったけど、彼女たちを安心させられなかったのは確実である。
さてどう言えば上手くいったんだろう。
いい子たち揃いだからどう頑張っても無理だった可能性すらあるかもしれないが。
「本当に頑張りすぎたらダメよ、赤松君」
小早川に優しくたしなめられたので、ひとまず首を縦に振っておいた。
心配してもらうのはありがたいし、心配させている方が悪いのだろうし。
それに自覚できていない疲労が、周囲は感じ始めているのかも……不吉な予感がよぎった為これ以上はよしておこう。
ただ、念の為体調にも気をつけないといけないよなあ。
自己管理もできない奴が人に「心配はいらない」なんて言えるはずもない。
そこは忘れないように気をつけなければ。
「心配してくれてどうもありがとう。無理はしないように十分注意するよ」
「そう? ならいいけど」
小早川はもちろん、他の女子はそっと目をそらす。
若干頬が朱色になっているのは心配しすぎたと反省しているんだろうか。
悪いのはこっちなんだから気にしなくてもいいと思うんだけど、彼女たちとしてはそうもいかないだろうな。
下手なことを言うと謝り合戦悪いのはこっち合戦がはじまるから、うやむやにしてしまおう。
ちょうどよく予鈴が鳴ってくれたので自然に解散して席へ戻る。
小笠原先生はいつもより一分くらい早く登場し、連絡事項を話す。
「最後ですが今年の音楽祭の楽曲を伝えます。ワーグナーの交響曲第三番になりました」
ワーグナーの名前くらいは聞いた覚えがある。
交響曲第三番と言われても何のことなのかよくわからないけど。
ただ、周囲の女子の誰もが平然としている心強さときたら……足を引っ張ってはいけないというプレッシャーにもなるのだが。
「なお、指揮は赤松君にお願いするつもりでいます。何か質問はありますか?」
小笠原先生の問いかけに誰も反応しない。
本当に大丈夫なんだろうか?
ワーグナーは俺でも知っているようなレベルだけど、それだけに難易度は高くないのかもしれない。
うん、そうだよな。
俺がお嬢様たちと比べてそういうスキルを持っていないというのは今更なんだ。
その彼女たちが慌てていないのなら大丈夫だろう。
いい加減彼女たちを信じるべきだ。
そう言い聞かせてみたものの、胃痛は少しも変化しない。
理由は単純明快で、彼女たちのことは信用しているが彼女たちが信用している俺自身を信じられないのだ。
まあ、強がる必要はない。
休み時間になれば相談すればいい。
相変わらずの情けなさだけど、虚勢を張ってできもしないことをできるようにふるまうよりはマシのはずだ。
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