ーⅣー The Darkest Midsummer



 ふと、俺は突然目を覚ました。違和感を感じたからだ。

 何かにのしかかられている。重いし、あったかい。

 「ちょうだい……」

 鼻にかかった甘い声が、やけにエロい。アダルトビデオのアイドル女優みたいだ。

 待てよ。

 ということは、俺は今、女の子にのしかかられてるってことなのか?

 鍵は閉めたはずだ。一体どうなってるんだ?

 次第にはっきりとしてくる視界が、上の女の子の身体を露わにさせた。

 おっほ。

 ヤバい。

 これはヤバい。


 これもうわかんねえな。

 グラマーな女性に襲われる夢を見ていた。果たして、そこまで欲求不満に陥ったことはないのだが。

 連日の熱帯夜で、とうとう脳みそも熱暴走を始めたのかもしれない。そろそろエアコンを使わないと、身体がどうにかなってしまうだろう。まずは掃除からだ。

 部屋の中はうだるような暑さではあるが、まだまだ最高気温に達するまでには時間的な余裕がある。僕はシャワーを浴びることにした。

 生ぬるい水滴を浴びながら、さっき見た夢のことを考えた。そもそも僕に性欲というものが存在しているかどうかすら怪しい。坪井がお気に入りのエロビデオの話をしていたり、山崎がエロ漫画の話をしていたりしたときに、そこに入れない自分を感じて、我ながら少し情けない気分になったことがある。別に女性に対してなにがしかの思いを抱かないわけではないし、女性の煽情的な姿や仕草に興奮しなかったわけではない。けれども、生まれてからこのかた、積極的に女性を抱きたいと思ったことはない。それは、志島咲子に対しても同じだった。

 そんな僕が淫夢を見る。どう考えても誰かとつながってしまったとしか思えない。すなわち、怪異の始まりというわけである。

 風呂場から出て、タオルで身体を拭いた。普段着に着替えて使い捨てマスクと紫外線カット用のサングラスで武装し、エアコン掃除用のスプレーを用意した。

 エアコンのカバーをはずし、フィルターを取り出してスプレーを吹きかける。泡が埃や黴を浮かせていく。現代の洗浄テクノロジーはすばらしい。ただスプレーを吹きかけて洗い流すだけで、掃除が完了してしまうのだから。

 十分後には、エアコン内部の掃除はすべて終わっていた。電源を入れると、涼しい風が部屋に吹き込んでくる。開けていた窓を閉めた。耐えがたい暑さと湿気に見舞われたこの部屋も、このエアコンさえあれば数分で快適な空間に早変わりする。日本に生きていて、本当によかった。


 気づくと二度寝してしまっていた。

 時計を見ると午前十一時をまわったところだ。まずい、坪井はもうゲーセンだろう。エアコンをかけっぱなしにしておくかどうか悩む。電気代はかかるだろうが、帰ってきた時に部屋から熱気が漂うのはごめんだ。それに、エアコンというのは文字通り室内の温度を変える時に電気エネルギーを消費する。ずっとつけっぱなしにしておいても、実はそれほど消費する電力は多くない。

 夏のボーナスももらったことだし、少しくらいは贅沢してもいいだろう。そう考えて、エアコンを消さずに外に出る。

 携帯電話で坪井に電話する。

 が、いつまで経っても出ない。ゲーセンは騒音がひしめくところだ、たとえマナーモードにしていたとはいえ、ゲームをプレイ中であれば出ないこともある。そう思って、特に気にせずいつものゲーセンに向かった。


 外に出なくてもよかったかな、と思う程度には夏の陽射しは厳しく、僕の目論見は甘かった。

 しかし、ゲーセンに入ると巨大な空調の風が外界と内部を隔てていて、結果ここに来てよかったな、と思った。なんだこの小学生の作文みたいな感想。

 とにかく、音楽ゲーム「ビートマン」の新バージョンが稼働したということで、早速段位認定の八段をプレイする。

 段位認定とは、ゲームのスキルのレベルを判定するモードで、普通の状態では五級から八段まで存在し、段位ごとに決められた六つの譜面からなるコースをすべてクリアすることができたら、その段の称号がもらえる。八段以上にも九段、十段、そして皆伝とあるのだが、それらは一つ前の段をクリアしないと出現しない隠しコマンドになっている。

 今まで八段というのは前三譜面が新曲、後ろ三譜面が定番曲という構成なのだが、今回のバージョンアップでは最後のステージである、いわゆる「ボス」を含めた全ての楽曲が新曲で構成されているとのことで、八段への期待が高まっていた。

 一曲目。新進作家によるドラムンベースだったが、序盤の速度変化さえ抜けてしまえば簡単だった。受験者の足切りの役割なのだろう。まあ、僕にとっては指ならしである。

 二曲目。ロングノーツというボタンを押しっぱなしにする指示を多用したハッピーハードコアだった。ラストの高密度譜面と途中に入ってくる声ネタのスクラッチがクリア難易度を上げている。八段を今作で初めて受ける人間にとっては鬼門だろうなと思った。

 三曲目。ダークな印象のあるニュースタイルガバだ。今時作る作家が多くない曲調で目新しかった。独特のリズムに慣れてしまえば、クリアするのは簡単だろう。

 そして、四曲目。アップテンポなトランス。前半のいわゆる発狂譜面がかなり難しく、僕でもかなり苦戦した。曲も中盤にさしかかろうというときに、

 ぱん。

 と、肩を叩かれた。坪井だろう。

「今八段やってるからちょっと待ってくれ」

 と大声で(じゃないと聞こえない)返す。

 今のでだいぶフォームを崩してしまいクリアは絶望的になったが、このまま低空飛行でいけば、まあ次の曲では持ち直すだろうと思った。

 しかし、そこが甘かった。ラストで最初と似たような構造の譜面が来たのだ。残りのゲージがあっけなく削れていく。

 ガシャーン。

 そして出てくるfalledの文字。

 うわあ。

 そして僕は振り返る。

「見たか坪井、八段だぜこれ?」

 しかしそこに居たのは。

 ショートボブをキメながら、緑色の縁の眼鏡をかけた、おおよそそこに居ることが予想できない女子大生だった。

「ミヤコ!」

 大学の後輩、雨宮桃子あめみやももこだ。

「真中さんこんにちは。ハードゲージで八段なんて、上手いんですね」

 雨宮の声は雑音の中でもなぜか聞き取れた。そんなに高い声でも、大きな声でもないのに不思議だ。

「いや、まあどうだろう……」

 前バージョンで皆伝をとっているなどとは言えず、適当な言葉でお茶を濁したのは、このレベルになると常人には上手い下手の差がつかない上に、上手い自慢をしたところで引かれるだけの可能性が高いからだ。

「私も、新バージョンになったのでビートマンを始めてみたんですが、初段がなかなかクリアできなくて……」

「えっ今作から始めてもう初段なの?」

「はい。一級はクリアしました」

「早いな」

「昔、ピアノを習っていたからかもしれません。坪井さんも筋がいいって……」

「えっ、坪井と知り合いなの?」

「はい、なんでも真中さんの方が段位が上らしいですね」

 ちなみに坪井は前作九段だ。

「まあそうだけど」

「上達したいんで、いろいろ教えていただきたいんですけれど、いいですか?」

「ああ……ってもしかして、坪井は俺をここに呼んだだけで来てないのか?」

「そういうわけではないようですが、なんでも今日はバイトだそうで。ちょっと前にそれを思い出して慌てて帰りました」

「くそーっ!」

 ようやく坪井と新作の情報を交換できると思ったのに。

「あの、私じゃ駄目なんですか?」

 雨宮が不服そうに睨んだ。

 いや、まあ駄目っちゃ駄目なんだけど。

「そういうことじゃないよ。ただ、こう、なんというか、坪井と話す気分だったから、驚いただけさ」

 いろいろと人が悪すぎだろ、あいつ。ゲーセンに来ておいてバイトを忘れたも何もない。なんなんだ、こいつら、もしかして付き合っているのか?

 そう思って雨宮と坪井のツーショットを思い浮かべるが、不釣り合い過ぎて笑いそうになった。

「そうですか。まあこちらとしても真中さんとデートしているところを見られたくはないんでおあいこですね」

「相変わらずストレートだな」

 ずいぶんな言いぐさだ。適当なことを教えて運指に癖をつけてやろうか。


 ゲーセンの中はうるさいし、変にクレジットを消費すると生活が苦しいので、僕は雨宮を外へ連れ出した。不健全な空気は一瞬にして去り、膨大な熱量を纏った現実の空気が僕らを迎えた。

「あっついな」

「ええ、今日はなんでも八月一番の暑さらしいですよ」

「なるほど、どうりで朝からクーラーが要るわけだ」

「ええ……」

 気のない返事に思わず彼女を見遣ると、困った顔をしている。

「最近、雨降ってないですよね……」

「ああ……確かに」

 彼女は以前、雨降らしの怪異と関わっていた。自分が雨を降らせていると思いこむことによって、縦波じゅうが連綿と続く平凡な雨に見舞われた。

「これも、私のせいなんでしょうかね」

 いちいちめんどくさい奴だなお前。

「うーん、どうなんだろうな。智子さん曰く、君の怪異そのものは消えたわけじゃないから、君の周りの天気は君の思うままになっているだろうけれど、今日は朝からずっと快晴だったしな」

 雨宮の怪異は、結局六本木舞によって授けられた、自分の周辺の天気だけを操る能力のみに収束した。よって、彼女が雨を降らせることをおそれていて、彼女の周りが晴れ続きだという可能性は否定できない。けれども、それは縦波全体を支配するほどの力はないわけで。

「いろいろありましたけど、やっぱり怖いんですよね……自分のせいで、縦波の気候が崩れていくかもしれないっていうの」

「ああ……まあ、わからなくはないよ」

 雨宮と初めて出会った、東雲真理菜しののめまりなの調査をしていたあの日、確かに突然雨が降ってきたが、僕らが東雲の家に着いた時には、彼女はすでに家の中にいたのだ。よくよく考えればその時点では雨は降っていなかった。つまり、雨宮が観測している範囲だけが、彼女の天気を支配できる範囲ということなのだろう。僕は勝手にそう思っているし、多分これが正解なのだろうと直感している。

「まあ、自意識過剰と言ってしまえばそれまでなんですが」

 と、雨宮はビル街の一角の小さな喫茶店の前で足をとめた。看板には綺麗な楷書体で「喫茶 ぴろしき」と書いてある。

「ここのオムライスおいしいんですよ。お昼、どうですか?」

 無愛想な顔で見下ろす雨宮が、ほんの少しだけかわいく思えた。


 喫茶「ぴろしき」に入ると、入り口のすぐ横の席に見慣れたカップルが座っていることに気づいた。

「おう、真中」

 吉岡和則よしおかかずのりのくぐもった低音が、僕に投げかけられた。

「こんにちは」

 振り向いた東雲真里菜の声が一拍遅れてついてきた。

 まったく、こういうときに限ってはち合わせかよ。

「こんにちは」

「もしかしてミヤコちゃん、真中くんとデート?」

 東雲は微笑みを浮かべながら雨宮を見た。うわあ。なんか、うわあ。それに大して面識もないのに「真中くん」だなんて、よしてくれ。

「確かに結果としてはそんな感じですが、別に真中さんに何かそういった類の感情があるわけではないです」

 雨宮が予想通りのストレートな答えを返した。

「しかしなんでまあこんなところに」

 僕は僕で吉岡に話しかける。

「ここはオムライスがうまいって評判だから、一度来てみたかったんだよ」

 だからといってカノジョ同伴ってのはどうかと思うぜ、って言おうと思ったが、よくよく考えなくてもこの喫茶店はカップルだらけのような気がした。

 辺りを見回す。明らかにカップルであろう組が三割くらいだった。男女の組で言えば六割程度。思ったほどはいない。店内が落ち着いた雰囲気で、お昼時だからだろう。

「だいたいお前だって同じ理由じゃないのか」

 吉岡があきれたように言った。

 そう言えば雨宮も同じことを言っていた。

「確かに。入ろうって言ったのはミヤコだけど」

「なんか、真中さんってオムライス好きそうなんで」

「思ったより突拍子もない理由だったな」

「まあいいじゃないですか」

 よく見ると、吉岡も東雲も、というか店内のかなりの率の客がオムライスを頼んでいた。なるほど、名物なのか。

「ほう、なんだかオムライスのお店みたいだな」

「あながち間違ってない。この店はオムライスが有名なんだ」

 吉岡がクールにそう言った。いや、顔はあんまりクールじゃないから、クールにとは言えないかもしれないのだけれど、なんとなくクールだった。

「ふむ、ともかく邪魔したな」

「こちらこそ」

 だからやめろって。カップルみたいな感じで見るなよ。こんな正直すぎる女をカノジョにするならまだ眞鍋の方がマシだ。

 と、言っている場合でもなく。

 僕らは吉岡たちからできるだけ遠くの席を選んで座った。

「とんでもないトラップでしたね」

「まったくだよ」

 雨宮と僕はほぼ同時にため息をついた。

「やっぱり私のような地味女は、真中さんのような冴えない系とお似合いだということでしょうか?」

「その命題の是非はともかくとして君はまずそのストレートすぎる物言いを少し改めた方がいいと思う」

「そうですか? まあ確かに、たまに人を傷つけちゃったかなって思うこともありますけど」

「自覚あんのかよ」

「でもやっぱり正直に生きないとって、思いません?」

「まあ、わからなくはないけどな、君はこう、隠さなすぎなんだ」

 水を差しだしたウェイトレスに、手早くオムライス二つを注文して僕は言った。


 その途端、窓の外が急に暗くなって、雨が降り始めた。


「あ、すみません、今、ちょっと雨降らないかなって思っちゃいました」

 雨宮が申し訳なさそうに言った。にしたって急に変わりすぎである。

「なんだよ、意識的に天気を変えられるくらいには安定したのか。よかったな」

 何がよかったのか自分でもよくわからない。

「そう言われてみれば、そうですね」

 そして雨は一瞬であがり、元の晴れ空に戻った。

「自在だな」

「まあ、多分私の周りしか操作できないんでしょうけれど」

 雨宮は少しはにかんで見せた。使う状況が微妙に間違っている気がしなくもない。

 そうこうしているうちにオムライスが運ばれてきた。


「どうでした?」

「うん、美味かったね。さすがに有名なだけはある」

 値段もなかなかリーズナブルだしな、と二人分の会計が書かれているレシートを見て思った。

 ふと雨宮を見ると、どこか不満げだ。

 成り行きとはいえ人におごらせておいてそんな顔をするなよ、とは言えるはずもなく。

「真中さんって、あんまり自分の感情を表に出しませんよね」

「どうだろうな、その言い方は語弊がある気がするけど」

 感情を表現するのが苦手なのだ。それはよく分かっている。むしろ、幼い頃一緒だった咲子はともかく、眞鍋のやつはどうして僕の表情で全部考えていることが見抜けるのか不思議なくらいだ。

「なんか、安定感があるのに冷たいんですよ、肝心なところが」

 雨宮は僕を見下ろしながら、考えをひねり出すようにそう言った。

《冷たい心の真中くんとは、恋愛なんてできないから》

 かつての咲子の答えが、二倍のエネルギーで突き刺さった。

「あ、言い過ぎちゃいました?」

 雨宮にまで気遣われるとは、本当にどうしようもない。

「いや、君のせいじゃない」

「でも、その冷たいところさえなんとかなれば、きっと真中さんにも恋人ができると思うんだよなあ……」

「それは治るもんなのか」

「治らないでしょうね、私の言葉と同じですから」

 雨宮は悲しそうに言った。

 ああ。なるほど。

 またやっちまったか。

「ごめんな」

「謝るなら言わなきゃいいんですよ。そこがダメなんです」

 雨宮はあからさまに怒った顔で言った。

「まあいいや、とにかく今日はありがとうございました」

 収まりが悪いのだろう、雨宮は逃げるようにその場を去った。何も走り出すことはないと思うが。

 雨宮はしばらく走って、急に何かを思い出して振り返ると、

「またあの店、一緒にいきましょう」

 と言った。

「ああ」

 とだけ僕は返した。


 地下鉄で、録音していたラジオ番組を聞こうとイヤホンを取り出したら、

「あ、真中さん、こんにちは」

 と、爽やかなテノールボイスに呼び止められた。

 佐貫悠太郎さぬきゆうたろうは、こんな真夏でもにこにこと笑顔を浮かべている。きっと彼の辞書に夏バテという言葉はないのだろうと、その時思った。

「どうしてお前が地下鉄に乗ってるんだ?」

 佐貫は大学から縦波市営地下鉄で数駅ほどのところにある、下町情緒を残した商店街で有名な地域に住んでいる。夏休みに入ってしまえば、大学に用などないはずだが。

「あはい、実は今日が集中講義の試験日でして」

「マジかよ。この時期に?」

「いや、多分うちの先生だけだと思います」

「へえ」

 こんな夏の真っ盛り、しかもお盆という一番人が来ない時期に授業をやる講師など、変わり者だらけの縦波大学でもそうそういない。

「でも、集中講義って楽なんですよね、まあ今日は試験だけなんですけど、こんなに暑い日でも教室の中はちゃんと冷房が利いていますから、朝から晩まで講義でも苦にならないんです」

「なるほど……」

 そんな利点があるとは考えたことがなかった。

「後期は、ちゃんと勉強して単位をとっていきたいですね」

 そう言った彼の顔がいつもよりも少し頼もしく見えて、僕は思わず、

「そうか、頑張れよ」

 と柄にもない激励をしてしまうのであった。


 冷房で冷えきっているであろう家のドアを開けると、

「おかえりー」

 と中から聞き慣れた女の低い声がした。

「なんでお前が中にいるんだよ!」

 寝転がって漫画を読んでいる侵入者に、僕はそう声をかけた。

「さあ、なぜかな? よーちゃんよくわかんないや」

 眞鍋陽子まなべようこは起きあがるなりすっとぼけた。白くてだぼだぼのTシャツとショートパンツという微妙にラフな恰好をしている。ははあ、さては大きい胸を隠すためのファッションだな。さしずめ女友達とどこかに出かけてその帰りに寄ったと見える。

 と、そんなことはどうでもいい。

 鍵はかけたはず。とすると答えはひとつしかない。

「出せ」

「ん? なにを?」

「鍵だよ」

「持ってないよお」

「そんなわけねえだろ出せ早く」

 しかしいつ盗んでいつ返したんだ。そう思うと鳥肌がたった。

「だから持ってないって。嘘だと思ったらさがしてごらん」

「こいつ……」

 隠し場所はだいたいわかった。

「あっ身体を触るのはなし!」

 やっぱりな。

「今のは完全に墓穴だな! 覚悟!」

 とりゃああああと声をあげて僕は眞鍋に突撃する。

「うわあっちょっまっ」

 瞬時に彼女を押し倒すと、だらけたTシャツの中に手を突っ込み、

「あっちょっやめ」

「よし見つけた」

 合い鍵を見事奪還した。

 しかし胸の谷間に隠すとは、ベタな真似をしやがる。

「ずるいよお」

「勝手に人ん家の合い鍵を作るやつに言われたくない」

「セクハラで訴えたら勝てるわ」

「その前に建造物侵入の現行犯で捕まるけどな」

 第一自力で僕の部屋に入った時点で合意の上になるため強制わいせつなどは成立しない気がするのだが、それは言う必要がない。

「だいたいなんで僕の家にいるんだ」

 問題はそこだ。

「え、そりゃその合い鍵を使ったからに決まってるでしょ」

「そうじゃねえよ」

「冷房利かせてそうだなあって思ったからです」

「マジかよ。それだけ?」

「うーんあと昼寝したかった」

 なんかそれだけじゃないような気もするが、追及するのも面倒なので諦めることにした。


 そんな感じで仕方なく彼女をほっておくと、ポケットが震えた。

「あいつめ」

 僕は電話に出る。

「フヒトさん、チッス」

 坪井だ。

「チッス、じゃねえよ。なんでバイト入れたの忘れてたんだよ」

「あーあれなー、実はバイトじゃないんだわ」

 衝撃の告白。

「じゃあなんだよ」

「なあフヒトさん、吉岡のおっさんから聞いたんだけど」

 そして急に真面目なテンションに。ちなみに吉岡と坪井は同じゼミである。どうでもいいけれど。

「憑き物落としをしているって、マジ?」

「それ、マジ? で聞くことか?」

 思わず訊き返してしまった。

「いや、信じらんないかもしんないんだけどさ……俺、ちょっとマジで呪われてんのよ」

 危うく噴出しかけたのをなんとか腹筋でおしとどめた。

「おいおいなんだそりゃ。というか、吉岡から何を聞いたんだ」

「いやマジなんだって! マジでマジで! おっさんにしゃべったらそれは真中に話をしろって言うからさ」

「ほう……」

 吉岡を持ち出されては、話を聞かないわけにはいかない。彼は一度怪異を間近に感じているわけだし、全くの坪井のでたらめということもないかもしれないからだ。

「確かにお前って、なんか憑き物落としとかできそうだしさ、もうとにかく話だけでも聞いてくれよ! ほんと頼むよフヒト大明神!」

 憑き物落としができそうな見た目ってなんだ。もっとも僕は強いて言うなら探偵で、憑き物落としではないのだが。というかフヒト大明神ってなんだ。

 しかし相変わらず勝手な奴だな。だいたいこの前のラーメンはどうなったんだよ。

「とりあえずその話は事務所でしてくれ。電話で言われても困る」

「ってことは引き受けてくれるのか? ありがとよ!」

 そんなことは言っていないし言うつもりもないが、どうせ引き受けることになるだろうなと、なんとなく思った。

「今日は非番だから、明日でいいか?」

「できれば今日がいいんだけど」

 無茶言うなよ。

「そんなに急なのかよ」

「急だよ! 明日になったら俺死んでるかもしんねえんだぞ」

 いやいや。どんな怪異だよ。また吸血鬼か。それにしてはターゲットに適さない。坪井はなにがしかの能力者ではないし、もちろん処女なはずがない。男なのだから。

「まあこっちの都合もあるんだ、とりあえず明日朝一番に事務所に来てくれ。いいか、場所は……」

 と、変なテンションの坪井をなだめすかして、彼と御厨を会わせる算段を整えた。

「はあ……」

「お仕事?」

 ため息をつくと、目の前には巨乳の美少女がいた。

「まあな」

 嘘だ。眞鍋は巨乳ではあるが美人とは言い難い。美人に失礼だ。

「私が美少女だったとしても、君は何も変わらないと思うけどね」

 よく僕の表情からそんな思考を類推できるな。だいたい合っているけど。

「涼しくなるまで居座っていい?」

「今更だな」

「出てけって言いそうだったから」

 眞鍋は拗ねた口で言った。

「別にいればいいだろ。わざわざ帰ることはない」

 僕は煙草を取りだそうとして、そういえば窓を閉め切っていることに気がついて、めんどくさくなってやめた。

「ふーん」

 眞鍋は僕の言葉の何が気に入らないのか、少し機嫌を損ねたようで、ぷいとそっぽを向いて寝てしまった。


 翌日、地下鉄を経由して事務所へ向かった。

 事務所の扉を開けると、真っ黒なワンピースを着た背の高い女子高生がいた。

「なんだ、ちゃんと早起きできるじゃないか」

 女子高生霊能力者、札切零七ふだきりれいなは、尊大に仁王立ちをして僕を迎えた。眼帯を新調したのか、真新しい白い布が痛々しい。

 というか。

「お前、ツインテールはどうした?」

 札切のトレードマークのひとつであるツインテールが見事にばっさりと切られ、すっきりとしたベリーショートになっていた。涼やかな目鼻立ちも相まって、美少年のようなおもむきだ。

「ああ、暑いし重たいからな、切った」

「切りすぎだろ」

 この前似合わないと言ったのが気に入らなかったのだろうか。にしたって、こんなに短く切らなくてもいいのに。

「まあ、お前ならそう言うだろうな。なにせセミロングが好きなんだろう? 童貞が最も好みそうな髪型だもんな」

「うるせえ」

 確かに僕は童貞だけれど。

「さて、御厨智子がお待ちかねだ」

 札切はそう言って御厨のもとに案内した。

「おはようございます智子さん」

「お早う。真中から先に挨拶がくるなんて、今日は何か不思議なことでも起きるのではないかしら?」

 御厨智子は快活そうに微笑む。比較的機嫌がいいらしい。

「智子さん」

「吉岡君からの紹介つて、ねえ……一体どんな怪異ものなのかしらね」

「いやまだ怪異と決まったわけじゃないでしょう」

「そうかしら。吉岡君が持ってくる事柄ものなのだし、怪異あたりだと思うけれど」

 確かに、実際僕が本格的に他人の怪異に関わった最初の事件、東雲真理菜と吸血鬼侍の件も吉岡が持ってきたものだし、こういったものは特定の人間の周りで起きるものだ。なんだかんだで雨宮も佐貫もつながってしまっているし、ここの輪に坪井が入ってもおかしくはない。

 だがしかし。

「吉岡はどう見ても一般人ですよ。最初の怪異は、まあ、あいつの想い人が絡んでいたっていうのもあるし、たまたまだと思うんですけど、たまたまが二度も起きますかね?」

 僕がそんなことを訊くと、御厨は意地の悪い表情をして、

「あら、そんなことを云えば、佐貫君や雨宮さんだってもとは一般人じゃない」

 と言った。

「それにね真中」

 僕はその表情が、

「偶然は二度起きる程偏ってはいないのよ」

 子供を諭すような顔に見えた。


 事務所に入った坪井は好奇をあからさまにした目で札切を見つめると、

「ほう、思ったよりそれっぽいじゃん」

 と言った。

 札切の左目が怖いことになっているので、僕は特に言葉をかけずに御厨のもとへ案内した。

「ふふ、貴方が坪井浩之君ね、待っていたわ」

「どうも」

 御厨の微笑みに大した動揺もせずに、いつもと同じようなテンションで接する人間というのを、僕は初めて見たかもしれない。さすが坪井、大物の風格すら感じさせる。

「貴方、怪異こちらがわに関わるような人間にはとても思えないのだけれど、果たしてどのような怪異ことが起きているのかしら?」

 御厨もそんな坪井に気圧されることなく、普通通りにいつものような言葉をかけた。

 坪井のような人間が怪異に関わることがないというのは、確かにその通りなのだ。怪異を認識できない人間にとって怪異は怪異ではなく、人為的な別の事象と同じなのだから。

「はあ、それがですね、最近変な女に迫られて困ってるんすよ」

「はあ?」

 僕は思わずゴミ箱を蹴っとばした。

 微妙に命中がそれ、ゴミ箱はころころと倒れて部屋の隅まで転がった。

「いや怒るとこじゃねえんだよマジで。お前、家の中にいきなり知らない女がいたらビビるだろ?」

 ちょうど昨日似たようなことがあったな。まあ知らない女ではなかったけれど。

「それは、もしかして、夜かしら?」

「はい、決まって俺が寝ている時ですね」

「その女性、かなりいやらしい身体つきをしていると思うのだけれど、いつも襲われるのかしら?」

 まさか。いやそんなまさか。

「はい、たしかにめちゃくちゃエロい身体でしたわ。そりゃもうボンキュッボンって感じで」

 坪井は頼んでもいないのに女性のシルエットを手で表現した。

「マジかよ……」

 それを見て気づいたが、眞鍋の身体のラインってめちゃくちゃ綺麗だ。それこそまさにボンキュッボン。またひとつどうでもいいことに気づいてしまった。

「どうした?」

「いや、なんでもない」

 本当にどうでもよかった。

「でも、そうだなあ、なんか襲われるっちゃ襲われるんですけど、いつもこう、上にのっかられてから記憶がとびとびになっちゃって、ヤってるかどうかは曖昧なんすよね……」

 はあ、そうすか。

「成る程……」

「それ、吸精鬼サキュバスだろ」

 それを言った瞬間御厨の視線が僕の方を向いた。僕の気持ちがわかったか。ざまあみやがれ。

「吸精鬼? あの、エロ漫画でよく出てくるヤツか?」

「ああ、たぶん」

 吸精鬼サキュバス。夢魔、淫魔とも書く。ローマ字そのままでスクブスと言われることもある。

 その名の通り、美しい女性に変化して男性のもとへ現れ、精気を吸い上げるという化け物だ。ちなみに、男性版は色魔インキュバスと呼ばれる。

「じゃあ俺、搾り取られてるってこと?」

 坪井は僕の方を見た。なにか心当たりがあるらしい。

「ああ、間違いなく」

「どうりで最近だるくて力が出ないわけだわ……」

 坪井は一瞬だけうなだれた。一瞬だけ。

「早めに事務所ここに来られて佳かったわね。吸精鬼なんて、かなり危ない怪異もののひとつだから」

「だから言ったじゃねえかよ死ぬかもしれねえってさあ」

 坪井はわざとらしく肩をすくめた。

「まさかそんなレベルだったとは思わなかったんだよ」

「ひっでえな。友達が困ってるっていうのに」

 ずいぶんと一方的な友達だなおい。

 とは言わなかった。

「まあとりあえず、吸血鬼も対処できたんだし、これも真中の案件ってことでいいかしら?」

「よくないでしょ」

 というか最近ほんと仕事しないなあんた。

「まあでもコトがコトだし、俺もフヒトさんによろしくお願いしたいっす。憑き物落としなんすよね? 京極堂みたいな」

「似たようなものね」

「全然違うだろ! いい加減にしろ!」

 副業がちゃんとしている人と一緒にしないでほしい。

「でも、貴方がやっている案件ことに限れば、さほど違いはないはずよ」

「いや……」

 僕にとってはそういう意識はないんですがね。

「で、フヒトさん、いくらなのこれ?」

 そんな僕の逡巡もむなしく坪井は財布を取り出す。

「坪井君、対価はお金とは限らないから、気をつけてね」

「なるほど、それっぽいっすね」

 本物なんだから当たり前だろ。

 まあいいや。咲子を取り戻すためなら、そんな細かいことはどうでもいい。解決すればいいんでしょ解決すれば。

「とにかく、俺は元の生活に戻れればそれでバンバンザイだから、吸精鬼ちゃんをやっつけなくてもいいわけよ。要は俺から持ってくなっつう話。簡単でしょ?」

「言うだけならな」

 そんなに簡単にはいかない気がする。

「何だかんだ云っても、真中はちゃんと解決してくれるから、安心しなさい」

 御厨の微笑みが恨めしく思えた。


「まったく簡単に言いやがって」

「今まで聞き分けのいい奴しか来なかっただけだろ」

 坪井を帰したあと、僕は一息入れようと煙草を探そうとしたところを、札切に無言でコーヒーを差し出され、仕方なく飲んでいるのだが。

 苦いな、これ。というか、量がめちゃくちゃ少ない。これは、もしかしてエスプレッソとかいうオシャレなやつではなかろうか。

「そういえば、気になることがあったんだ」

 札切が自分のコーヒーを持ってきて、僕の隣に座る。

 彼女のコーヒーはどう見ても薄い。アメリカンにもほどがある。つーかもうそれ麦茶だろ。

「あの、坪井という男から、札切家の波動が感じられた」

「えっ? 嘘だろ?」

 そんな馬鹿な。

「嘘じゃない。あの男、おそらく本来は吸精鬼に狙われるような男じゃないはずだろ。あいつ、標識が刻まれているぞ」

 標識。

 霊能力者の一族である札切家に伝わる特殊な霊能力である。といってもそれはいわゆる願掛けのようなもので、つまり様々な人間を怪異に引き込むような力がある。

 だが。

「おいおい、札切家っつったって、お前しかいないじゃないかよ」

 そう、札切家は目の前にいる札切零七を残して数年前に全滅してしまっている。

「そのはずだ。そのはずなんだ……」

 よく見ると札切零七の手はさっきから震えている。そりゃそうだ、自分以外にかけられるはずのない術が、かけることのできない人間に実際にかかっているのを目の当たりにしてしまったわけだ。コーヒーだってまともに淹れられなくなる道理だ。

「まさか見間違えたんじゃねえのか?」

「そんな訳あるか! 何年標識を使ってると思ってる!」

「見間違いではないわ」

 その言葉に振り返ると、御厨が自室から顔を出した。

「坪井君には、確かに札切家の標識が刻まれていた」

 御厨はなにを考えているのか全くわからない完全な無表情だった。

「じゃあ一体誰が……」

「恐らく、もうすぐ理解わかると思うわ」

 御厨は相変わらず涼しい顔をしている。

「そうね、焦点てがかりとしては、生きている人間とは限らない、と云う事実こと、かしら」

「……つまり、幽霊でも標識は刻めるのか?」

「ああ、意識と力さえあればな。だが、そんな人間はまずいない。生前の時点でよほど強力な能力者でもない限りな」

「……お前、それを早く言えよ」

「ああ、知っているものだと思ってた」

「いや、そうじゃなくて」

 というか、札切は今自分で言ったことにどうして気づかないのだろうか。

「お前、いるだろ。身内にすごいのが」

「……あ。いや、まさか……信じられん」

 札切が立ち上がった瞬間に、

 ピンポーン。

 ドアのインターホンが鳴った。

「今回の主役、ってところかしら。少なくとも何か賞は貰えるでしょうね」

 御厨智子が藤色の豪奢なワンピース(勝負服とも言う)に着替えていたことに、僕は初めて気がついた。


 玄関を開けると、そこには意外な人物が立っていた。

「よう」

「何でお前が……」

「お前と御厨さんに、用があってな」

 吉岡和則よしおかかずのりは、気難しそうな四角い顔をしながらことさら低い声でそう言った。

 とにかく、案内する。

 札切は彼を見て目を丸くし、御厨はいつも通りの邪悪な微笑みを浮かべている。

「まず真中、お前に謝るべきことがある。すまなかった」

「いきなりどうした」

 一体何がどうしてこうなっているのか、全く分からない。

「吉岡君、真中は貴方が思っている以上に鈍感な存在よ、ちゃんと全て云わなくては、きっと判らないわ」

 まったくだ。

「そうだな。俺としたことが、お前を買いかぶり過ぎていたようだ」

 吉岡は他人を買いかぶるのが好きだ。きっと自分に自信がないのだろう。

「お前に黙っていたことが、二つある」

「二つ、か」

 全く心当たりがない。

「まず一つ。実は、お前のことを中学から知っていた」

「え?」

 そんな馬鹿な。

 そもそも僕と吉岡は同じ中学、高校ではあるが学年が違う。吉岡は浪人しているから僕よりひとつ上のはずだ。

 同じ学年の人間ですら把握するのが難しいのに、どうして学年も部活も生活範囲も違う僕のことを昔から知っていた?

 まして、僕も吉岡も目立つ生徒ではなかったはず。

「そしてもう一つ」

 だが、僕はこの後の彼の言葉の方に衝撃を受けた。



「俺は霊能力者だ」



 事務所にわずかな戦慄が走った。

「なるほど……どうりで」

 札切は理解したらしい。けれど僕は無理だ。

「な、なんでそんな嘘を……」

「嘘はついていない」

「じゃあなんで今まで嘘を」

「だから俺は嘘を言ったことはない。ただ、言わなかっただけだ」

 吉岡は神経質に声をとがらせた。

 彼と最初に出会った日を思い出す。確かあれは経済学部の最初の英語の授業だ。たまたま近くの席に座っていた人とグループで授業を受けることになっていたので、近くにいた彼と何人かで組んだ。

 確かにそのとき、出身校を桐島学園とは言ったが、僕のことを知っているとも初対面だとも言っていなかったような気がする。

 それに、よくよく考えれば、吉岡が一般人というのは、僕だけの主観だ。

《一般人にしか見えない、というのが正しい》

 なるほど、一般人にしか見えない、けれど本当は霊能力者、ということか。

「智子さん」

「正直ここまで断片てがかりを与えたのに全く気づかないとは思わなかったわ。貴方、やっぱり酷く鈍勘なのね」

「いや、だとしてもさすがに人が悪いでしょうこれは」

「本人が云いたくなさそうなのにあえて口にするほど、野暮な生き物ではないわ」

「まあ、ボクも気がつかなかったし、真中にわかるわけないだろうがな」

「難しすぎたようね」

 散々な言われようだ。

「本当は出会ってすぐに言えばよかったんだ。だけど、タイミングを逃してしまって。すまない」

「すまないじゃねえよ」

「ああ、実は俺の力で解決できるものもいくつかあった」

 そうだろう。

 ん?

 いや待てよ。

「じゃあどうしてあの時、僕らに頼ったんだ? 自分で解決できなかったのかよ?」

「しようと思えばできたさ」

「はあ? じゃあ解決しろよ! なんで僕を巻き込んだんだよ!」

 正直納得がいかない。こちとら、能力がないなりにがんばって怪異を解決しているというのに、こいつはわざわざ自分で解決できるものを人に押しつけて、あまつさえおいしいところだけ持っていったのだ。簡単には許せない。

「はあ……」

 と、札切が呆れたようなため息をついた。

「真中、本当にお前は頭が悪いな」

「うるせえ」

「吉岡君の能力では東雲さんの精神状態を悪くする恐れがあったのと、わざわざ真中に怪異を解決させたかったからに決まっているでしょう」

「えっ」

「御厨さんの仰る通りだ。俺は志島咲子とお前の関係を識っている。お前がどういう怪異を背負っているのかも、そこにいる札切さんがどういう人間かも、あの時点で識っていた」

 吉岡は淡々と語る。

 そうか、こいつ。

 僕と真逆なんだ。

 そう、直感した。

「正解ね。貴方にしてはいい勘ね」

「はあ……」

「俺の能力ちからは、怪異を人間から能力ものだ」

 吉岡はなおも淡々と言った。

 僕は、怪異と人間を無意識に引き寄せ、しまう。彼は、怪異を人間から意識的に切り離すことができると言う。

 まさに、対極だ。

「だったら、吉岡が坪井の怪異を切り離せばいいんじゃないのか? それで全部解決だろ?」

「それでは駄目なんだ。あんたも見ただろう、札切零七。あいつの身体には札切の標識が刻まれている。人間の人為が関わってくると、俺一人ではどうもできない」

「そうか……待て、その標識を打ち込んだのは」

 札切の左目がぎらりと光った。

「気がついているだろうが、あんたの姉、札切二三ふみだ」

 吉岡は淡々と、そう言った。


 札切二三ふだきりふみ

 札切零七の姉にして、霊能力者の一族、札切家の最後の当主だった女性。その強過ぎる能力は、霊能力というよりも、異能と呼ばれる別次元のものだったらしい。

 数年前、たった一人の妹の目の前で、六本木舞に殺された。

 もちろん、この情報は札切零七からの又聞きにすぎない。

「だから、俺は坪井の怪異には、あまり関わりたくない」

 なるほど。

 御厨がその言葉を聞いて、妖しく微笑んだ。

「真中は意識できない代わりに強い力を持つけれど、あなたは意識できる代わりに限界もすぐに観える。そういうことかしら?」

「さあな、断定はできないが、多分そうだろう。なにせ、俺は霊能力はあるが、自分に必要な時しか使ったことがないし、これからもそうするつもりだからだ」

 本当に自分勝手な奴だ。

「この怪異は、札切二三の標識を解きさえすればいい。坪井は、吸精鬼に襲われるような特徴はないからな」

「だが、姉貴の標識を解くには、ボクがあいつに会わなきゃならないってことだろう?」

「そうなのか?」

「ああ。もっとも、そこにいる魔女がやる気を出せば話は別だが」

 札切の左目が御厨をとらえる。

「一度真中に投げた怪異ものは、拾わないわ。私の為にも、真中の為にも」

 だそうで。

「それなら大丈夫だ。札切二三は縦波大学にいるはずだ」

 吉岡はなおも淡々と言った。

「……? 何故だ」

「知らない。彼女は幽霊になっても自分の仕事をしている。大方六本木舞に何か頼まれたんだろう」

 淡々としすぎだろ。

「なんで殺した相手の言うことを聞くんだよ……」

 いや、わかっている。理由はわかる。あくまで形式的なツッコミだ。ツッコむ気力も気概も失ってはいるけれど。

「なるほど。仕方がないな。姉貴に会いに行くしかないか……」

 しかしまた結構複雑になったものだ。

 休みの始まりの単位売りや、梅雨前の雨降らしがずいぶん単純な怪異に思える。


 今日中に少なくとも標識だけはなんとかしないと坪井が危ないということで、僕らは夕方に大学へ向かった。なぜ夕方かというと、昼間は暑いというのと、幽霊と言えば夜、という僕自身の思いこみを優先させたからだ。

 夕方とはいえ、一年で最も暑い時期であることに変わりはない。坂を上るのも、自然と億劫になる。

 大学の正門を抜け、まずは経済学棟に向かうことにする。

 誰もいない経済学棟の掲示板前は、どこか寂寥としていた。夕陽のオレンジ色が余計にそうさせているのかもしれない。

「ん?」

 ふと、メインストリートに目を戻すと、真っ黒な日傘をさした女子大生がゆっくりと歩いていた。図書館帰りだろうか。ふわっとした長い髪の隙間から、もっちりとした質感の白い肌がのぞいた。

 汗をかきすぎたのか、背筋が急に冷たくなった。

「おい真中」

 吉岡に肩を叩かれた。

「顔色がよくないが、どうした?」

 そこにあるのは無表情の四角い顔だ。

「いや、何でもない」

 さっきの女子大生はどこかへ行ってしまった。

「それより、ゼロの姉さん、見つけられるのか?」

「わからんな。幽霊とはいえ、相手も相当の霊能力者だ、身を隠そうと思えばいくらでもできる」

 吉岡は顎をさすりながらそう言った。

「私が隠れる? 馬鹿なことを言うものだ」

 札切の声がキャンパスに響く。


 ん?

 「私」?


「久しぶりだな、零七」

「目の前で死んで以来ですね、当主様」

 声のした方を見ると、札切零七のすぐ先に、見慣れない長身の女性がいた。背格好は札切とほぼ同じだったが、女性は(妹にはない)ふくよかな胸と厚い唇があり、縁のない眼鏡をかけている。そしてそのぶんだけ、妹より色気がある。なんかのゲームにこんな魔女がいたような、いなかったような。

 しかし、声があまりにも似通っていて驚いた。彼女たちを見ずにどちらの声かを聞き分けるのは難しいだろう。

「まさか、霊になっておられたとは」

「想定していなかったのか?」

「いえ、どちらかと言えば……」

 札切は眼帯を解いた。

「考えたくなかったのだと思います」

 その眼光は厳しい。

「随分と嫌われたものだな……」

「何度でも言いましょう。私は貴女が大嫌いです」

 札切が「私」という一人称を使ったところを初めて見た。

 しかし、なんというか、この札切二三、幽霊だというのにとんでもない存在感だ。下手したら、生きている人間よりずっと存在感がある。

「坪井とやらの青年に打ち込んだ標識の件か?」

 札切二三は、すぐに本題に入った。

「ああ。あれはあんたが打ち込んだんだよな?」

「もちろん。命令したのは六本木舞だ」

「バラすの早っ!」

「あの女にそこまで義理立てすることはないからな」

 その冷徹ですっきりとした口調が姉妹そっくりであるところも、両者の言葉の区別がつきにくい理由の一つであることに気がついた。

「だから、私は標識を消すつもりはない」

「力ずくで消せと?」

「消したいのなら、そういうことになる」

「貴女を完全に葬ることになりますが、よろしいのですか?」

 札切零七の丁寧語には明確な殺意が込められている。

「愚問だ。――可能であればの話だがな」

 これだけ殺伐とした姉妹の会話もなかなかないだろう。

「いくら当主様とはいえ、霊となってしまえば生前ほどは力を保てませんが……」

「たかだか数ヶ月程度でお前に負けるほど弱りはしない」

「そうですか……そう、仰るのなら」

 式紙を取り出す札切零七。

 ほぼ同時に、札切二三はどこからともなく真っ白な扇子を出現させた。

紅焔熱鎖捕獲ゲットワイルド!」

 目にも留まらぬ早さで式紙を燃焼させ炎の鎖が編まれ、札切二三のもとへと向かっていく。

 だが彼女の前で鎖は消え失せた。

 札切二三がとった動きは、扇子のひと仰ぎだけだった。

「マジかよ」

 思わず僕はそうつぶやいた。札切零七の技の速度から考えて、彼女が間違いなく本気を出した瞬間だったのに、その攻撃が一瞬で打ち消されたという衝撃。

 札切家史上最強の当主と言われた、六代目札切二三の力を思い知った瞬間だった。

「その程度で」

 しかし彼女はその言葉を続けることができなかった。

 妹の拳が顔にめり込み、数メートルほど吹き飛ばされたからだ。

「めちゃくちゃだな」

 吉岡がつぶやく。確かに、霊に物理攻撃が効くのはゲームの中だけだったような。

「私が何のために古武術を極めているとお思いですか?」

「忘れていたな……我々は霊体そのものに干渉できるのだった」

「ご自分の死因をお忘れになるとは、当主様もなかなかお間抜けでいらっしゃる」

 そう言いながら札切は式紙を散り散りに引き裂いて、一つに火を灯す。

 途端に式紙総てが燃え上がった。

散華桜乱ブリリアント・ブルーミン!」

 警戒しながら間合いを取った札切二三に、容赦のない蹴りが次々と浴びせられる。

「……!」

 彼女は防ぐこともあたわず、四方八方から繰り出される妹の蹴りを総て食らった。

 式紙から次々と現れた札切零七の影が動き回り、本人の動きを完全に隠してしまっているのだ。

「術を使わせる暇を与えない、か。なるほど」

 吉岡は深く頷いた。

 術の力に差があるのならば、術を使わせなければいい。札切零七らしい閃きだ。

 だが、そんな妹の快進撃をいつまでも許すような姉ではない。僅かに緩んだ蹴りをかわしざまに札切二三は再び扇子をひと薙ぎする。

 刹那、札切零七は影の軍勢もろとも数メートルほど吹き飛ばされ、コンクリートの地面にたたきつけられた。

「あがっ!」

 札切零七の身体が一瞬白く光った。

「魂を一つ、使ったな。そろそろ止めたらどうだ、零七」

 見ると、札切二三はあれほど蹴られたにも関わらず無傷で、不敵に微笑みを浮かべている。もっとも、肉体を持たない霊に対する霊能力者の蹴りが霊体そのものにどのようなダメージを与えるのか、わけが分からなくて想像すらできないのだが。

「くっ……」

「じきに暗くなる。このまま戦っても坪井とやらを救うことはできまい」

 目の前の戦いに気を取られてすっかり忘れていたが、本来は坪井を助けるために彼女に会いに来たのだった。

「いえ」

 札切零七は立ち上がると、短く、しかしはっきりとそう言った。その姿はどこか凛々しく、特に清らかな眼光は力強さを感じる。

「坪井浩之、彼を助ける方法が、ひとつだけあります」

 そう言って彼女は僕の肩に右手を置く。

「ふっ……」

 札切二三の言葉とほぼ同時に、僕の肩が不思議な熱を帯び始めた。

「なるほどな……」

「どういうことだよ」

「真中、すまない」

 札切零七は僕に、

「標識を刻んだ」

 と、涼しい顔で言った。

 言われたことの意味がよくわからない。

「なるほど、怪異を引きつける能力のある人間に標識を刻むことによって、より多くの怪異が引き寄せられる……すなわち、坪井の標識よりも真中の方に引き寄せられるということか……」

「貴女の標識がいかに強かろうが、真中と私の合力には到底及ばないでしょう」

 札切は誇らしげな顔をした。

「だろうな、最初からそうするしかないように仕組んだのだから」

「なん……だと……?」

「六本木舞の真の目的は坪井ではない。……少し考えれば判るはずだ」

 札切二三が少し呆れたように微笑んだ。

 まさか。

「最初から僕に吸精鬼をけしかけるつもりだったということか!」

「ああ、せいぜい頑張ることだ」

 札切二三は尊大にそう言った。

「もっとも、真中とやら、貴様は数奇な運命を辿っている。この程度の怪異でどうにかなるようなものではない」

 縁のない眼鏡は全くずれることがない。

「それでは、私は飽くまでも君らの敵である立場なので、これで失礼させてもらおう」

 そう言って札切二三は静かに消えた。

「敵の策にまんまと引っかかっちまったな」

「本当に済まない」

「どっちにせよこれで坪井は救われたわけだから、後は僕がどうにかしなきゃなんないってところか」

「ボクも、お前に押しつけた責任は取ろうと思う」

 札切零七の力強い声が、妙にうれしかった。

「あ、俺ももちろんついていくからそのつもりで」

 そしてついでの吉岡。

 と、大学を後にしようとすると、

「あっ、いたー!」

 と、元気な子供っぽい声がした。

 振り向くと、やたら露出度の高い女の子がいる。

 背が低いが、大きな胸の膨らみは一般成人女性を遥かに凌駕していた。金髪の巻き毛がくるくると豪奢に綺麗な顔を装飾している。これといった特徴はないのに、綺麗で引きこまれる貌というのも、珍しい。

 ちっ、と札切の小さな舌打ちが聞こえた。

「隠しても無駄だと思うから言うけどー、ぼく、さきゅ、さきゅば、吸精鬼でーす」

「お前やる気あんのか」

 あまりにも舌足らずでセリフを噛む自称吸精鬼少女に僕は思わずそうツッコんでしまった。

「うー、あるよー、だから真中しゃんの好みにわざわざ変身したんじゃないかー」

「えっ」

 全然違うんだけど。

 札切の視線が痛い。普段片目なだけに今日はどうも二倍くらい厳しい視線であるように思う。

「すげえ詰め込みすぎて失敗したエロゲのキャラみたいになってんぞ、お前」

「でもでもですねー真中しゃんはーそうゆうイターイ女の子がお好きだとゆうデータがですねー」

「うっ……」

 それは心当たりがないでもない。

 そして照れたように頭をぽりぽりかくな。こっちも照れる。

「ほう……」

 札切の視線が冷たい。

「もっとも、ぼくはいろんな人に変身できるし、乗り移れるから普段はあんまやらないんだけどねー」

 と、吸精鬼はふわふわとキャラの定まっていない調子で言う。

「たとえば……えい!」

 彼女は札切に抱きつく。途端にその姿が溶けて消えた。

「うっ……」

 札切の顔がどんどんと紅潮していく。

「かっ……はっ」

 彼女はふらふらと僕に近づく。

 と、

「そこまでだ」

 吉岡がぱちん、と指を鳴らした。

「うわあ」

 札切の身体からするりと吸精鬼が現れた。

「もう、いまいいとこだったのに!」

「いや、なんかヤバい感じがした」

 札切は出てきた吸精鬼に何の前触れもなく蹴りを放った。

 どうやら本気だったようで、無防備だった吸精鬼は二、三メートルほど吹き飛ばされた。

「いったーい!」

「ボクに何をした!」

「お手伝いだよ」

「ふざけるな!」

 札切の怒りはかなりのレベルだった。

「おいゼロ、やめろ、相手はガキだぞ」

「……本気で言ってるのか真中!」

 ヤバい。

 札切は僕の襟元をむんずと掴みあげた。

 カツアゲされるよりずっと怖い。何せ目が人殺しと同じだ。いや、人殺しを見たわけではないから、これはあくまで比喩だけれど。

「見た目はそうだろうが、こいつはあの坪井すら殺しかけた手練れなんだぞ!」

「んまあそれは間違ってないね」

 吸精鬼があっけらかんと口を挟んだ。

「いいから手を離せよゼロ。ここで僕にやつあたりしてもしょうがねえだろ」

 だいたいお前は貧乳コンプ持ちすぎなんだよ。

 なんて言ったら本当に殺される。

「それもそうだ」

「うわっ」

 いきなり手を離すな。盛大にしりもちをついちまったじゃねえか。

「で、ぼくはもうおなかがすいてしょうがないんだけど。真中しゃんの、もらえないかな? どーてーのやつって、すごく栄養価高いんだよねー」

「生々しいな」

「存在からしてそういうものだからね」

 というか、吸精鬼のキャラがもう完全に崩壊しているんだが、それはどこでツッコむものなんだろうか。誰か教えて欲しい。

「いや……断じて許さない……こいつはボクを侮辱した」

 札切は完全におかんむりだし、全体的に雰囲気がよくない。

「侮辱したっていうけどーあれはあんたのほんしょーなんですよー妹さーん?」

「うるさいうるさいうるさい!」

 札切は式紙を燃やした。

直下炎槍ストレート・パニッシャー!」

 尖った火柱が、吸精鬼を直撃する。

「あっつい! あついよ!」

 吸精鬼は間一髪で避けたが、尻尾が焦げてしなしなになっている。

「わかった! わかったから! ごめん! もうあのおとこのこにも真中しゃんにもあんまり近寄らないから! ゆるして」

「そんなんで済むと思ってるのか! 殺してやる! 燃やしてやる!」

 札切はなおも式紙を燃やして吸精鬼を追っている。

「わかったよおっぱい大きくする方法教えるから! 許してよおっ! ぼくも命がけなんだよ!」

「えっ」

 彼女の動きが止まる。

「本当か?」

「本当だって! だから見逃してくれないかな」

 吸精鬼がちらちらと札切を伺いながら少しずつ近づいてくる。まあそりゃ、命がけなんだろうけれど、そこをわざわざ聞くあたり、札切もまだまだ女子高生なんだなと思ってしまう。

「いや、その……大きくする方法……あるのかって聞いてる」

「そっちかよ!」

 思わずツッコんでしまった。

「ああ、それならあるよ。ぼくも最初はこんなんじゃなかったし。聞きたい?」

 吸精鬼はふわっとした笑みを浮かべながら札切に近寄り、耳打ちした。

「なるほど」

 札切はわかったようなわかっていないような微妙な表情だ。

「あんな美人でも、自分の容姿を気にするんだな」

 吉岡がぼそりとつぶやいた。


 札切と吸精鬼の間で協定が結ばれ、僕らに必要以上に干渉しないということになって、彼女はキャラが崩壊したまま帰っていった。

 何が起きているのか、実のところよくわからない。

「というかこれ、解決したことになってるのか?」

「どうだろうな、吸精鬼そのものはなくなっていないしこれからも坪井にとりつくだろうが、それによってあいつが死ぬことはないからな」

「あいつ、たぶん喜ぶ気がするな」

 吉岡がとんでもなく低い声でそう言った。

 僕もなんとなく、そんな気がする。

「じゃあ解決ってことで、いいんじゃないか?」

 問題は、この怪異を解決したとして、咲子を助けるための糧になるのかどうかなのだが、なんだかこの怪異についてはどうでもよくなった。まあ、坪井だし、死にはしないだろう。

 すっかり夜になった構内は、ほんの少し不気味だ。

 じめじめとした夏の空気が、より気味の悪さを引き出しているように思える。

「とにかく、帰ろう」

 札切の言葉で、僕らは家を目指した。


 シャワーを浴びて、冷房の電源を切った。

 布団を敷く。

 坪井に電話してみたが、電源が入っていないらしく連絡が付かない。充電するのを忘れたのか、それともまだバイトなのかもしれない。

 そう思って布団に入った。


 電気を消すと、辺りは真っ暗闇に包まれた。


 なんだか、なま暖かいものに触れた気がする。

 部屋の中に誰かいるのか!

「誰だ!」

「あはっ、バレちゃった」

 聞き慣れ始めた不愉快なアニメ声とともに、僕の身体がぎゅっと締め付けられた。暖かい湿った吐息が、うなじにかかる。

「このまま密かに添い寝したかったのになあ」

 声の主、六本木舞は耳元でそうつぶやいた。

「いいから離せよ」

「それはちょっとできないなあ」

「なんでだよ」

「だって、ふーちゃん、私の使いを行動不能にさせてるんだもん」

「使いって、まさか……」

「あの吸精鬼ちゃん、使えないから食べちゃった」

「食べ……食べた?」

「うん、もとはこの大学の女子大生だったんだよね。まあもう誰も覚えていないだろうし本人もその意識はないんだろうけど」

 六本木舞は依然として僕を抱きしめたままだ。

「かわいいからいつかは食べようと思ってたんだけど、結構能力ちからあったから、吸精鬼にして今まで働いてもらってたんだけどね。ふーちゃんとゼロちゃんが余計なことをするから……」

「人のせいにするなよ」

 簡単に人間を喰いやがって。悪い吸精鬼じゃなかったのに。いや、確かに、キャラは崩壊してたけど。

「いやいや、全部私のせいにされても困るんですけど」

 全部お前のせいじゃねえか。

「んふふふふ、やっぱりふーちゃん抱き心地いいわ。智子に好かれるのもわかるー」

「僕って智子さんに好かれてるの?」

 そんな風に考えたことは一度もない。御厨は初めて逢った時からずっと僕を雑用程度にしか思っていないだろうと感じていたが。

「男としては異例の好かれ方をしてるよ。まあもっとも、ふーちゃんを男として見ているかどうかっていうのもあるだろうけどね」

「うわあやめろ」

 首筋を舐められた。全身の毛が逆立つ。

「ごめん我慢できなくて」

「うわあ……」

「でもさ、今すぐふーちゃんを食べたいのは、私も智子も、きっと同じじゃない?」

 彼女のその囁きは、悪魔のように色っぽい声だった。

「……」

「ま、ここからは食事もメインに入ってくるって感じだから、そろそろ自分に下ごしらえでも施したらいかが?」

「ここからメイン?」

 今回もなかなかヘビーだったような気がするが。

「だって、私今ものすごおく欲求不満だもん。食べたくて食べたくて仕方がないって感じ」

 ここまでずっとエロボイスになっている。普段からそっちで接してくれた方が、僕的にはありがたいのだけれど。

「でも、ふーちゃんが何にも準備してくれないから、つまらないんだよねえ」

「準備するわけないだろ」

「そこがいけずなの。いい加減自分の立場をわかって欲しいのです、お姉さんは」

 年齢的には仙人のくせになにがお姉さんだと言いたい。

「ま、食べごろになったら、またくるから、よろしくね」

 ふと、身動きがとれるようになったと思ったら、彼女の姿は消えていた。

 暗闇に目が慣れるまで、その日は眠れなかった。


 翌朝、どこかだるくて重たい身体をひきずりながら、事務所に向かった。

「ちょうどいいところに来た。とりあえず中に入ってくれ」

 札切の言葉に促され、事務所に足を踏み入れる。

 そこには依頼人の坪井と、部屋の主の御厨がいた。

「なんか、吸精鬼出なくなったわ。ありがとな」

「いや、まだ出るかもしれないんじゃないか?」

 もちろんもうあの吸精鬼が出てこないことを僕は知っているのだが。

「いや、出ないと思う。なんか、部屋の中の空気が元に戻ったから」

「なんだそりゃ」

「吸精鬼が出てから、部屋の空気がやたら重たい感じだったんだよ。あ、そういや喋ってなかったな」

 初耳だ。

 しかし、坪井のやつ、ずいぶん大人しい。朝だからか。

「それで、対価として何を差し出すべきか、という話をしていたのよ」

 御厨智子はにんまりとした笑みを浮かべている。解決したのは僕なんだからあんたは関係ないだろ、と思うわけだが。

「対価か……」

 ぶっちゃけいらないというか、別に僕が解決したわけじゃないっていう。

「じゃあ、お前の守護霊をもらうわ」

 僕は適当にそう言った。

「はあ?」

 適当すぎた。

「お前の守護霊めっちゃ強いし、そのおかげで今回も助かったから」

 一度ついた嘘は上塗りを重ねるのが基本だ。

「はあ、そっすか」

 御厨は厭らしく笑う。

 後ろで札切が笑いをこらえるのに必死になっているのが見えた。

「まあ、いるんならフツーにもってっていいけど。もってけるやつなら」

「ああ、ありがたくいただくよ」

 坪井は釈然としない面もちで帰っていった。


「何だよ、守護霊って」

 彼が去ったとたん札切が笑い転げた。

「いや、そんな面白いこと言ったか?」

「あんな一般人に守護霊がいるわけないだろ」

 はっはっはと見事に笑い転げる札切。

「お腹が痛いぞ真中。どうしてくれる」

 いや、そんなこと言われても。

 だいたい冗談のつもりだったのに真に受けるんだもん。

「じゃあ坪井の守護霊、お前にやるよ」

「だからやめろって」

 札切は苦しそうに笑い転げる。

 御厨の不敵な笑みがなんだかぞっとした。

 そういえば。

 昨日六本木舞は何て言っていたっけ?

 僕はすっかり忘れてしまっていた。


 家に帰ると、携帯電話が震えた。

 吉岡からだった。

「今回は、いろいろと済まなかったな」

「ああ、いいよ。一応解決したわけだし」

「なら、よかった」

 どうやらあいつにしては珍しく、本当に済まないと思っているようだった。

「なあ、一つ聞いていいか?」

「何だ」

「僕のこと、いつから知ってたんだ?」

「中学三年の運動会の時だ。あの時、お前トイレで幽霊に絡まれてただろ?」

 一瞬で中学時代の記憶がよみがえる。

「ああ、トイレの山本?」

「そう、その現場をたまたま見ちまったというわけだ」

「なるほど」

 中学の頃、学校のトイレに入ると、山本と名乗る男が話しかけてきたことがあった。僕はいつも窓際のトイレを利用するのでてっきり窓の外にいる用務員か何かだと思っていたのだが、実際にそんな男は存在しなかったし、よくよく考えればそこは二階だった、という怪談である。

 この話は僕がついた嘘、ということで仲間内では信じてもらえなかったが、僕は確かに山本という男といろいろな会話をしていた。

「というか、やっぱり山本さんは幽霊だったのか」

「ああ、何の幽霊なのかは知らないが、幽霊だった。俺がお前との縁を切ったんだ」

 なるほど、道理で。

「ありがとう。しかしなんでそんなことを」

「あの山本という幽霊から、厭な空気を感じた。当時はお前のことなんてよく知らなかったけれど、でも目の前で同じ学校の人間が何か変な怪異に巻き込まれるのは嫌だったからな」

「へえ」

 実はずっと吉岡に見守られていたのかもしれない。

 などという気持ち悪い考えは一瞬で捨てることにして。

「あと、真中、これも知っておいて欲しいんだが……」

「何だ」

「東雲真理菜はお前と似たような能力を秘めている。おそらく、六本木舞によって何か、開花させられたのかもしれない」

「なるほど」

「俺は、なにがなんでも真理菜だけは守り抜く」

「なるほど、大丈夫だよ。お前に面倒を見てもらう筋合はないからな」

 先回りしてやった。

「お前ならそう言うと思ったぜ」

「ふっ」

「あと、ガハラを助けてくれて、ありがとうな。これも今更だと思うが」

「ああそうか、そりゃ知ってるはずだよな」

 関ヶ原健一の怪異。

 あまりにも単純な六本木舞のいたずら。

 でも、気がついているのが僕だけだということと、怪異を受けた当の本人が怪異に気づいていないということもつらかった。

 吉岡は気がついていたのだ。

 言えなかっただけで。

「まあいいよ。僕の目的は怪異の解決そのものにあるから」

「そうだったな。志島咲子を取り戻せることを祈っているよ」

「ありがとう」

「頑張ってくれ」

「お前もな」

「じゃあまた、授業で」

 電話は切れた。


 部屋の中が暑い。こんな日はクーラーをつけっぱなしにして、部屋が冷えるまでゲーセンに入り浸るに限る。

 今度こそ、快適な部屋を独占してやる。

 そう思って、ピンク色の毛虫のキーホルダーにつながれた合い鍵で、鍵をかけた。

 がちゃり、と鍵がかかった音がした。

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