第42話 追跡者

「出てきたぞ」

 ダミアンの工房から一台の乗用車が走り出す。アドラー社の白いフェートンにはゴーグルをした中肉中背の男が運転をし、助手席にはさらさらとした金髪をなびかせている細見で身のこなしの軽やかな青年が同乗している。

「ブレーメン署のベーレンドルフと人形師のダミアンか。随分と面白い組み合わせじゃないか。気づかれないように後をつけて下さい」

 二人が乗る車を、少し離れたところから観察していた背の高い男は、ライトグレイの帽子を黒い手袋をした右手で押さえながら運転手に指示をした。

「へい、へい」

 運転席の男は太く、かすれた声で返事を二度してエンジンをかける。

「こいつの性能なら、アドラーなんかには負けませんぜ、旦那」

 後部座席の背の高い男を振り返りながら、男はベンツのエンジンをかける。えんじ色のボディーが小刻みに揺れ、砂利を潰しながらタイヤが回り始める。

「すぐにおいつきますぜ、旦那」

 4つのタイヤがしっかりと岩畳の路面をつかみ、力強く加速していく。

「調子に乗って追い抜かないようにしてくださいよ。フランク」

 後部座席から背の高い男が物静かに苦言を呈した。銀縁の丸めがねの奥の細い目は、笑っているのか、怒っているのか区別がつかない。

「へい、旦那」

 フランツは少し首をすぼめながら、アクセルをぐっと踏み込んだ。えんじ色のベンツは黒煙を巻き上げながら一気に加速し、先に走る白いフェートンを視界に入れると速度を安定させた。

「仰せの通りに」

 フランクは大きな口をゆがめながら、ニタニタと哂っていたが、その表情は後部座席の男から見ることはできない。

「フランク」

 座席に深く座りながら、さっきよりもやや大きめの声で、ゆっくりと、強い口調で運転手の名を呼んだ背の男は、少し間を置いてからいはなった。

「あまりだらしのない顔で笑わないように。みっともないですよ」


 フランクはしかたがなく顔を引き締め、運転に集中することにした。この雇い主は相変わらず冗談が通用しない。わかっていたことだが、今回もし、前の車を見失うようなことがあれば、どんな酷い目に会わされるかもしれない。願わくは、前を走る自動車の目的地が面倒なところでないことを祈らずにはいられなかった。

「へい、旦那」

 二人が知り合ったのは全くの偶然だった。道端で車が故障をし、往生しているところをフランクが助けたのであった。フランクはブレーメン北部の港、ブレーマーハーフェン近くの整備工場で働いていた。最新のガソリン車から蒸気機関を使った運搬車両、小型の船舶のエンジンから特殊な工作機械や工具に至るまで、港で使われる機械という機械のメンテナンスを何でも請け負っている整備工場だったが、その日ささいなことから親方とケンカをし、タンカを切って飛び出したものの、これといって当てがあるわけでもなく、自分一人が食っていくには、そこそこの蓄えもあったので、しばらく遊んで暮らすのも悪くないと、景気づけに酒を煽ったものの、酔いきれずにふらふらと家に帰る道すがらの出来事であった。


「どうしたんだい? 故障か?」

 フランクはそれほど気さくな男でも、困っている人を黙って見ていられないというタイプでもなかったが、その日に限っては酒の力も借りて、少しばかり気が大きくなっていたが、それ以上に誰かに話を聞いてほしいという寂しさが、彼をそうさせたのかもしれない。

「どうにも困りました。急にエンジンがかからなくなってしまいまして」

 フランクは一瞬ドキッとした。自分が声を掛けたのは、さえない感じが遠目でもわかる小男で、だからこそフランクも気兼ねなく声を掛けたのだったが、その男は何かに怯えるようにしながら、必死でエンジンの調子をランタンで照らしながら見ていた。声は車の中からであった。車はメルセデス社のジンプレックスで、フランクは何度も整備をしたことがあった。それほどこの国ではポピュラーな自動車である。

「なにが、なんだか、さっぱりで……」

 小男は悲壮な表情でフランクを見上げた。

「高い金を払っているのですから、それなりの働きをしてもらわなければこまりますね。人も、自動車も」

 やや甲高い声だが、やさしさや、いたわりや、ひ弱さといったものとは無縁で、冷徹で剛毅、狡猾で無情とは言いすぎでも、前者に比べれば、はるかにそちらに近い声にフランクも一気に酔いがさめた。

「どれ、俺が見てやろう。うまく行ったら、美味い酒の一杯か、煙草ひと箱でも恵んでくれたらそれでいい」


 なるほど自分はなんだかんだ言っても、やはりこういうこと――人助けとかではなく、黙々と機械をいじっているのが性にあっている。思いっきりタンカを切ってでてきてしまったが、明日朝一番で詫びを入れよう。どんな整備工場でも、ブレーマーハーフェンくらい、いろんな機械をいじれる場所は、そうない――などと考えているうちに、エンジンがかからない理由がわかった。

「少し待ってなぁ、10分、いや15分で部品をとってくるから、そしたら元通りだ」

 フランクは後部座席に座ったまま動こうとしない声の主に聞こえるように小男に向かって言った。小男は後ろを振り返り、声の主にお伺いを立てたがすぐに返事がない。

「こちらの方が、修理をして下さると申しておりますが、どういたしましょうか」

 フランクは見るに見かねて後部座席の男に話しかけようと車内の様子を覗おうとすると、それを静止するように中から声がした。

「通りすがりの方には、感謝の言葉もございません。お言葉に甘えさせて頂きたいのは山々なのですが、こちらにもいろいろと事情がございまして、こう言うことを申し上げるのは非常に心苦しいのですが、ひとつよろしいでしょうか」


 フランクは決して勘が鋭い人間ではなかったが、この時ばかりはこの男がどういう素性で、これから何を言おうとしているのか察しがついた。

「ああ、面倒に巻き込まれるのはこっちも御免だ。ここであったことは誰にも言わないし、今から俺が行くところには誰もいない。10歳の時に父親は家を出ていき、残された母は女手一つで俺を育ててくれたが無理がたたって16の時に流行病で逝っちまった。以来20年、俺は天涯孤独の身さ。疑うのならこの男を俺のところまで一緒に来させればいい。俺は人間には、興味がない。興味があるのは機械だけさ」

 声の主は酷く喜んだ様子で、信用するからできるだけ早く戻ってきてくれ、礼は十分にするからと、相変わらず姿を見せないままではあったが、フランクに改めて修理を依頼した。

 10分後、フランクは工具と修理部品を携えて車まで戻ったとき、ある異変に気が付いた。小男の姿が見えない。

「さすが早いですね。感心しました。仕事ができる人、私は好きですよ」

 そういうことか、とフランクは思ったが口にしなかった。その時の礼が、今フランクが載っているメルセデス 65HPである――6気筒 9.5Lエンジンを搭載、最高速90km/h のこの車は、追跡しているアドラー社のフェートンのスペックを大幅に上回る。


 あの小男がどうなったのかは知らない。たった10分の間にこの世から消えてしまうということもないだろうから、命をとられることはないと、その時フランクは思ったのだったが、はたして、それが正しいのかどうか、あまり考えたくはなかった。以来3か月の間、フランクは後部座席の男と必要以上の会話をしないことを心がけていた。


 この世界には知らないことがいいということがある。


 だから前を走るフェートンに乗っているのが、どこの誰であるのか、そういうことにはなるべく関心を持たないようにしていたのだが、10分もしないうちに、あることに気付いた。

「それにしても、よく整備された車ですな。あのフェートンは」

「ほう、やはりわかるものですか。あの車は運転している男が自分で整備をしているらしいのですよ。まったく物付きというか、変わり者と言うか。もっとも助手席に座っている青年ほどではないですけどね。」

 珍しく饒舌だとフランクは思ったが、これ以上余計なことを言わないでおいたほうが身のためだと、口をつぐんでしまった。 


 沈黙のまま、追跡は続いた。


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