第145話 最終決戦:七条歩 VS 一ノ瀬詩織 7

 


「歩くん、最大の、この世界で最大の賛歌を貴女に贈るわ。誰よりも愛おしい貴方に」


「さぁ、歩くん……私と最高の舞台で踊りましょう?」



 変貌し、そう囁く詩織を見て歩はその変わりぶりに驚嘆を示すも何かを察する。



 今までとは違う。その笑いに狂気はない、その言葉に憎しみはない。天使と化したのは関係あるのかもしれないが、その心は一ノ瀬詩織そのものであると感じた。あの頃の輝かしい在りし日々を過ごしていた誰よりも優しくて、強い、一ノ瀬詩織に。



 だが、そんな彼女は自分に牙を向ける。たとえあの頃の詩織に戻っているとして、変わったとしても彼女が自分を殺そうとしているのはその殺意から明らかだった。純粋なまでの殺意。そこに先ほどのような不純物はない。全てが濾過され、取り除かれ、純粋に殺意だけが残った何か。



 そう言い表すのがもっと正しいと歩は直感的に思った。



 絶望はある。悲しみはある。


 でも、ここまで純粋に向かってくる彼女に自分が立ち向かわないでどうするのか。彼もまた殺意を研ぎ澄ませ、詩織と同等までに高める。



 もうあの頃の彼女には会えないのだ。


 

 一ノ瀬詩織には死がもたらされた。今いるのは亡霊。この世にとどまり続ける死を願う不完全な彼女。



 超える。超えてみせる。



 この圧倒的な力を前にさらに力を、いやもう抑えるのはやめよう。最期の力を、死を迎えてもいいという覚悟を持って挑もう。



 歩は覚悟を決め、とうとう最終手段であるクオリアネットワークの解放を試みる。全人類との意識の共有。それすなわち、この世界のことわりから外れるということ。




「……クオリアネットワーク、解放」




 そして、詩織と同等かそれ以上の粒子が彼を包み込む。




「ううううううああああ……ああああぁぁぁ……うあわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」




 奔流する意識。クオリアネットワークの解放により、彼は全人類の意識の共有を開始する。その意識とは顕在している意識ではない。潜在している意識、だがそれは無意識ではなく、クオリアと呼ばれるものだった。



 観客たちは彼の絶叫を聞いて頭痛がすると思っているが、それは実際にはクオリアへアクセスされたことによる頭痛だった。



 でも、それは人々の脳を破壊したりはしなかった。観客たちだけでなく、すべての人々は瞬間的な頭痛だけで終わった。だが意識は失われ、少なくともこの会場にいる人間は例外なく意識を手放しその場に倒れこむ。電子機器もまた全てがクオリアの奔流によって破壊され、今意識があってこの戦いを見守るのは歩と詩織だけになった。



 そして、その刹那で歩は全てを手にいれた。



 この世界の誰もが辿り着くことのなかった領域へと踏み込んだ。




 数秒が経過し、粒子の収束が終わるとその場に立っていたのはすべての傷という傷が癒えて今までさほど変わりのない歩だった。通常のクオリアの発現と同様にどこまでも白く、色素のない容姿。



 それを見て、詩織は攻撃を仕掛ける。翼をばさっと広げて、そこから無数の羽を鋭利な形に研ぎ澄ませて雨のごとき不可避の攻撃が降り注ぐ。



「……」



 歩はちらっと上を見ると、右手をスッと掲げる。すると、その羽はすべて何かの壁に打ち消されるようになり、彼に攻撃が当たることは決してなかった。



「……これならッ!!!」



 詩織は猛攻をやめない。



「……」



 変わらずじっと、詩織を見つめる歩。だがその瞳は誰も映っていないように思えて、彼女はゾッとする。



(でも、ここで……こんなところで……ッ!!!)



 翼を広げ、両手を掲げて自身の能力をさらに高めていく。


 彼女の原点となっているのは、ミカエル。その名は「神と同等の者」とも解釈され、天使の中でも、いや熾天使の中でも最高峰の天使。


 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、あらゆる宗教において偉大とみなされ、天使界でも最高位に位置するミカエルの能力を手に入れた詩織はあらゆることができる。だがしかしそれは、目の前の少年には届き得ないものかもしれないと彼女は思った。


 この力を持ってしても、勝てるとは思えないし、底が見えるとも思えない。ただ呆然と佇んでおり、その視線は彼女だけでなく、彼女を通じてその底を見ているようだった。




「私はッ!!! 、私はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」



 天から降り注ぐ光をすべて吸収し、レーザーへと収束させ歩へと解き放つ。その初速はすでに人が認知できる領域ではない。初速から終速にタイムラグはほぼなく、光が見えたと思った瞬間にはすでにレーザーは身体を貫いている。



 だというのに、歩は身体をたった、たったの半歩ずらしただけでそれを躱した。



 詩織はまだ諦めてはいない。一瞬の、ほんの一瞬でもいい。それを願って放った一撃だった。だからこそ、彼女はこの時をこの瞬間を待っていた。



 れるッ!



 音速を超える速度で彼に近づき、詩織は手刀を彼の首に叩き込む。



「な……え……!!!!??」



 たがその攻撃はいとも容易く防御された。いや防御と言っていいのだろうか。彼はそのまま詩織の腕を掴むと思い切り地面に叩きつけるようにして投げ飛ばした。



「カハッ!!!!!!!!!」



 体内で内臓が潰れたのか、口からの吐血の量はもう無視できないものになっていた。



「……」



 変わらず何も言わない。彼はただただ、見つめていた。



「あ……う……ああああああッ!!!」



 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。とてつもなく痛い。



 人を超えて天使になったとは言え、基本的な構造は人間と変わらない。痛覚はあるし、感覚もある。彼女は潰れた内臓の痛みに耐えながら、翼を杖のようにして何とか立ち上がる。



 その姿はあまりにも痛々しかった。


 もうそこには天上の存在である姿はなかった。ただの血塗れの、満身創痍の詩織だった。



 ヒューヒューとなる喉はさらに呼吸をしようと空気を懸命に集める。



「はぁ……はぁ……はぁ……」



 結局のところ、届きはしないのだ。


 だって彼はこの世界の究極なのだから。人外になった程度では、足元に及ばない。触れることさえできない。



「詩織さん……終わりにしましょう」

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