第138話 君とまた出会う


 歩は明日の試合のために早く床についていた。


 そこで彼は不思議な夢を見る。いや、それは夢だったのだろうか。



「……ここは?」



 彼が立っているのは真っ白な世界だった。平衡感覚はある、五感もある、意識もある。でもどこかクリアではない世界。



「クオリアネットワークの影響か?」



 クオリアネットワークが目覚めてから初めての感覚。でもこの場所はどこか知っていて、懐かしい感じがする。そう思って、ブラブラと歩き始める。



「……見たことがある、気がする」



 ふと、白い世界の真ん中に小さな扉があることに気がつく。



「これは?」



 どこからどう見ても扉でしかない。ただどうやって存在しているのかわからない。


「……なんだこれ、どこでもドアか?」



 某アニメの秘密道具のようなそれは、奇妙に思えた。その先にはきっと何かがある。



「行くしかないか……」




 迷いなくドアを開け、暗い道を進む。すると、一筋の光が彼を照らし始める。



「え……?」



 俄かには信じられなかった。そこには一面の花畑と……詩織がいたのだ。



「し、詩織さんなのか?」

「……?」



 花畑の真ん中にペタンと座り込んでいる女性は首をかしげる。


 そして、「あ……」という声を漏らして何かを悟ったように微笑みかける。


「そっか。歩くん、なんだね」

「……はい。七条歩です……本当に詩織さんなんですか」

「まぁそうだね……一ノ瀬詩織で間違いないよ」



 彼の知っている彼女とは裏腹にどこか悲壮感が漂っていた。



「そのここはどこなんですか?」

「知らずに来たの?」

「えぇ……確か寝ているはずだった気が……ここは夢?」

「夢であって夢じゃない。現実でもないし、夢でもない。意識の狭間。博士はこの世界のことをクオリアと名付けたわ」

「クオリア……ここが?」



 人の意識の根幹。脳科学の世界では感覚質とも呼ばれ、未だに解明されていない人間の不可思議な現象の一つ。



 人はなぜ感じるのか? 五感があるから。しかし、喜怒哀楽の発生はどこか? 一体なにが原因で人は、そう感じるのか?



 その答えがこの世界であるのか?



 歩はまとまらない考えをなんとかしようと、思考すると詩織の隣に少女が寝ているのに気がつく。



「会長……倉内楓?? でもどうしてこんなことに……」



 青ざめる。


 そう、そこに寝ている楓の体からは穴という穴から赤い液体がドバドバと溢れていたからだ。



「あぁ……これね。これは止まらないの。ここ最近はずっとそう。それで、目が覚めない……」

「もしかしてここは、詩織さんと倉内楓のクオリアの世界?」

「ふふっ。さすが私の弟子。ご名答。ここは唯一無二の世界。D-7もたどり着いていない領域よ。きっと歩くんはクオリアネットワークの覚醒が原因で来たのね」

「現実の詩織さんは……」

「知ってる。スワンプマンでしょ? そのことも含めてちょっと話そうかしら。久しぶりにあったんだし」



 詩織はスッと立ち上がると、そのまま歩き始める。



「行きましょ。楓はそのままでいいわ。どうせ、ここにしか戻ってこれないのだし」

「えぇ……」



 歩は怪訝な表情をしながら、彼女と共にこの世界を歩き始めた。



 § § §



「それにしても大きくなったね?」

「えぇ、もう第二次性徴も終わりだと思います」

「へぇー。もう私よりも背が高いんだ」

「そうですね。昔は俺が見上げていたのに」

「今は私が見上げているね」


 初めは他愛のない話をしていた。あれからどうしていただの、元気にやっているかだの、そんな他愛のないどこにでもある会話。でも二人にとっては何よりも掛け替えのないものだった。



「さて……歩くんはどこまで知っているの?」

「どこまで……ともかくD-7が俺を狙っている。かつ、クリエイターの根絶を望んでいることぐらいしか……クオリアネットワークが目的なんですよね?」

「惜しいね。なんでクオリアネットワークを狙ってると思う?」

「何か成し遂げたいことが、彼にはあるのでしょうか」

「……答えはね、これだよ」




 二人がたどり着いた場所にもまた、誰かが眠っていた。若い女性だろうか。かすかに息をしている。



「彼女は?」

七条しちじょう月子つきこ。私たちクローンの元となっている人よ。博士の娘ね」

「え……!?」


 

 驚愕する。自分たち三人がクローンであり、デザイナベイビーなのは知っている。でもそういえば、誰が元になっているのかなんて些事だと思っていた。しかし、これを見るに状況はそんなに簡単なものではないらしい。



「D-7の目的は彼女の完全な蘇生。ま、体はどうでもいいから……記憶の再生が正しいかもね」

「彼女を助けるために、クオリアネットワークを?」

「そう。そして、彼女の記憶を再生するにはクオリアネットワークを使って彼女の記憶の残滓を集める必要だがある。でも他者のクオリアを無理に介すると、脳が焼き切れるの」

「クリエイターの根絶って……」

「そう、それだけのためよ。彼女のためだけに、彼は動いている」

「それは……なんというか……」



 唖然とする。もっと壮大で、もっと大きな野望があるのだと思っていた。でもなんていうことはない、ただ女性を助けたいだけ。そのスケールが大きいだけで、ありふれている感情だ。


 そして、誰もが願い得ることでもある。


 愛する人が死に、生き返らせる方法がある。実行しますか?



 →YES or NO



 この選択肢を提示されたら、多くの人がYESを選ぶのは明白。D-7もその一人に過ぎない。



「落胆した?」

「いや……驚きました。それに博士の娘ですか……」

「彼女はね、普通の女の子だったの。普通に育って、普通に学校に行って、大学院卒業を機に父の研究を手伝い始めたみたい。その目的が何かは知らなかったみたいだけど……」

「どうして詩織さんはそれを?」

「彼女はここで寝ているけど、意思疎通はたまにできるの。たくさん話したわ。そして、彼女はずっとD-7のことを心配していた。月子さんはね、D-7の世話係だったの。でもいざこざがあって、射殺……」

「射殺……ですか」

「D-7の目の前でね」

「……それは」


 なんと言うべきなのか。言葉は見つからない。



「彼女は蘇生なんて望んではいない。人間はその生き死にを操れるようになるべきではない。死があるからこそ、生がある。その二つを取り除いてはいけない。概ね、彼女と私の意見は一致する。だからこそ、倉内楓というスワンプマンは生まれるべきではないの」

「スワンプマンは生まれるべきではない……」

「歩くんは、私の死を乗り越えたみたいだね」

「いや……俺は……」



 俺だって、詩織さんが生き返るなら……。そういう想いはある。でも、死とは必然であり自然の法則の一つなのだ。延命技術がどれだけ発展しようとも、死は平等にあるべきである。そうでないと生き物は生き物ではない。それはただの物体になってしまうから。


「歩くん、あなただけなの。あなただけがこの世界を知り、元の……外の世界を知ることができる」

「……そうですね。きっと目が覚めたら、試合をしに行くでしょう。いつもと変わりなく、通学路を歩いて……あの舞台に立つんでしょうね」

「そう。あなたはそこで、楓を必ず殺して。そしてもう一人の私も……」

「もう一人?」

「今話しているのは、歩くんと出会ってあなたを大切に思う私。でも今の楓の中にはもう一人の、あなたを憎む私がいるの。D-7によって生み出されたもう一つの人格。私であって、私ではない一ノ瀬詩織……」

「……詩織さん、本当に死は必要なんですか? 俺だって、あなたが……」

「歩くん、永遠に囚われてはダメよ。永遠には終わりがない、ずっと続く安寧安心安定、それが徐々に人の心を狂わせる。だから終わりは必要なの。人が人である間に死を迎える」

「俺は……」



 詩織との日々が脳裏によぎる。ずっと、ずっと一緒にいたいと願った。大切で、誰よりも愛おしかった。それがなくなるなんて……。



「なくなるからこそ、大切に思えるの。いつか、失われてしまうから今を生きれるの。歩くん、君ならできる。君はD-7と同じだけど、違う。そうでしょ?」

「……はい」



 右の頬に涙が伝う。


 詩織の死にはまだ整理しきれない思いがあった。もしかしたら、生きているかも……いや蘇生だって……そんな思いがあった。でも、本人は死を望んでいる。



「お願い、私たちを死なせて……?」



 死を願う。それはどんな気持ちなのだろう。


 ただ自殺がしたいと言っているのではない。終わりを、明確な終わりを望んでいる。彼女は、いや、彼女たちは終わりを探して彷徨い続けている。



「……分かりました。倉内楓を殺し、もう一人の詩織さんを殺し、そして……今ここにいる貴女も殺します」

「うん。ありがとう。待ってるね、待ってるよ……歩くん」



 意識が徐々に薄れていく。



 あぁ、俺は大切な人を殺すためにこれから進んで行くのか。


 でも、それが彼女の望みだった。


 死を与えることができるのは自分だけなのだから。



 D-7は生を求めた。彼は月子との永遠を渇望している。


 詩織は死を求めた。彼女はこの世界の終わりを、この終わることのない内在するクオリアの世界の終わりを渇望している。


 歩は死をもたらす。これから、全身全霊を持って倉内楓を殺し、D-7を殺しにかかる。それこそが、詩織の願いで……自分の望みでもあったからだ。



 自分はきっと正義ではない。そして、それを承知の上で進んで行く。



 全てを理解した気になっていた。詩織のことも、彼女は生を望んでいる……そう思っていた。いや、そう思いたかった。でも違った。彼女は死にたがっていた。本当の意味での終わりを望んでいた。



 結局他者なんて、本当の意味では理解できない。ただレッテルを貼り付けて、理解した気になっているのだ。


 自分のことさえ、理解できていないのだ。他者なんて、理解不能だ。いや、理解不能だからこそ、他者なのである。



「詩織さん……俺はずっと、あなたを探してきた。でも、あなたはもういない。いないんだ……」

「そう、私はあの時死んでいるの……ここにいるのはただの意識。さぁ、いってらっしゃい。大丈夫、あなたは私の最初で最後の最高の弟子なんだから! 負けなんて許さないよ!」

「えぇ。俺は詩織さんの最初の最後の弟子で、あなたは最初で最後の師匠だ。必ず、勝利の花束を届けにきます」

「ふふっ。楽しみにしているね」



 最後に二人は惹かれるようにして、唇を重ねた。


 感触はもうなかった。でも心が満たされる気がした。


 そして、歩がこの世界から消えたのを確認すると、詩織はぼそりと呟いた。



「……どうか、彼に輝かしい未来あしたを」



 彼女は願った。彼の世界がどうか、どうか溢れんばかりの光で満たされることを……。

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