第11話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <11>
(このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)
〈一一〉
やせた中背の白人の男と小さなフィリピン女という組み合わせの若い二人連れが手をつなぎ合い、笑い声を弾ませながらショー・レストランに入ってきた。グリーンのポロシャツとグレーのジーンズを身につけた男の方は、髪の刈り方、日焼けのし方、腕や胸の筋肉のつき方からみて、休日を楽しもうとオロンガポのスービック海軍基地からマニラに出てきたアメリカ兵に違いなかった。ライトブルーのミニのワンピースを着た女は、化粧の具合や仕種から、エルミタ地区に何十とあるバーのうちのどこかで踊るスイムスーツ・ダンサーに見えた。
無人のステージを指差しながら、若い男が連れの女の耳元で何かをささやいた。女の笑い声がいっそう大きくなった。前のとは違うウェイターが一人、義務に忠実に、注文を取ろうと二人に近づいた。女はウェイターに向かって首を左右に振ると、連れの男の手を引いて、一番近い出口に向かって歩きだした。ウェイターに汚い言葉を浴びせながら、男はしぶしぶ女に従っていった。
レストランはすぐにまた、二人が姿を見せる前とおなじように静かになった。
「この世の中には、お金を節約しなきゃならない人が案外たくさんいるようですね」。メルバは笑みをつくって、涙をとめようとしていた。
「本当ね」。メルバの精一杯のユーモアにわたしは、わたしの粗末なユーモアでこたえた。「この厳しい世の中で、わたしたちだけがそうだったんじゃなかったことが分かって、嬉しいわ」
ほほ笑んだことで気がまぎれたのか、次に話しだしたときにはもう、メルバは元の自分に戻っていた。
「わたし、少し前に、とっても大事な友人を失いかけたことがあるんです」
「そうなの?」。その〔友人〕というのがだれのことなのかが分からないまま、わたしは言った。
メルバはつづけた。「ミスター高野は、わたしにとっても、初めてのお客さんでした」
「そうだったの」。メルバの耳にわたしの声は冷静に聞こえたかもしれないけれども、わたしは胸の内でひどく動揺していた。話題がそんなふうに唐突にあの人のことに戻るなんて、まったく予期していなかったからだった。
「その〔友人〕というのは、高野さんだったわけね?」
「ええ。[さくら]での最初の夜…」。テーブルの表面に視線を落としたままメルバはいった。「〔ママ〕リサはわたしを気づかって、お店の常連の中で〔一番親切で優しいお客さん〕をわたしにつけてくれたんです。それがミスター高野でした。…でも、正直に言うと、その夜は別にそんなふうには感じなかったんですよ。ミスター高野が本当にそんなに親切で優しい人なのかどうかが見分けられるだけの会話を、わたしたち、しなかったんです。あの人、あんまりしゃべらなかったし、ときどきは、なんだか陰気な感じにさえ見えたぐらいで…」
※
「カラオケのシンガー・ホステスとして初めてお店に出た夜のことだったでしょう?」。メルバは話しつづけた。「それに、ミスター高野は、それまでわたしが会ったことがなかった、直接話したことがなかった、だから、何も知らない、そんな日本人の一人でしたし、わたしの方から何をどう話しかければいいのか、見当さえつきませんでした。ですから、わたし、何度もぎこちなく黙り込んでしまいました。どんなふうに働けばいいかなんて、まるで分からないまま。
「気まずくならないよう、何とか会話をつづけようと努めたのはミスター高野でした。わたしの家族のことなんかについてぽつりぽつりと質問する、といった具合に。そういう点では、確かに、ミスター高野は親切な人でした。
「でも、あの夜のわたしは自分の方から心を開いたり、打ち解けて振る舞ったりできるような心の状態ではありませんでした。ですから、ミスター高野の質問に答えたのは、わたしの出身地はどこかとか、何歳かとか、姉妹は何人かとか、そんなふうな、自分が何となく〔ここまでだったらいいかな〕と感じたことだけでした」
※
わたしはふと、高野さんが前夜、どういう理由からだったにしろ、そんな個人的なことについてはわたしに何も質問しなかったことに気づいた。気づいて、何もたずねられなかったことをありがたいと思った。たずねられていたら、わたしはメルバ以上に返事に困っていたに違いなかった。
メルバはつづけた。「自分の暮らしのことはあんまり詳しく話さないようにして…。いえ、そんなものがあったとして、ですけど、わたし、自分の小さな〔誇り〕みたいなものを保とうとしたのかもしれません。詳しく話したって、たまたまこの国に来ているだけの日本人には、そんな話、なんだかみすぼらしく聞こえるだけだったかもしれませんし…」
わたしはうなずいた。わたし自身の人生にも、だれにも―親しい友人たちにさえも―明かしたくない、自分でも誇りに思えないことがありすぎるほどあった。…まして、通りすがり同様に知り合った外国人には。
メルバは言い足した。「実際、ミスター高野はわたしにとっては単に、ひょんなことから初めて顔を合わせることになった、もう二度と会わないかもしれない、そんな外国人だったわけでしょう?」
※
「そのくせ、わたし」。メルバは言った。「自分には〔カレッジに進んで勉強したい〕という大きな望みがあったことはミスター高野に話さずにはいられませんでした。いえ、自分の身の上話の中でもこの部分なら知り合ったばかりの人にも体裁よく聞こえるんじゃないか、みたいに考えたわけじゃなかったんですよ。そうじゃなくて…。働きだして初めての夜だったでしょう?そのことを急に、だれかに、いえ、常連の中で〔一番親切で優しいお客さん〕だと言われている人に、話しておきたくなってしまったんです。…話したことが原因となって、ミスター高野とわたしとのあいだにあとであんなに〔大きな混乱〕が起ころうなんて、わたし、もちろん、夢にも思っていませんでした」
「〔大きな混乱〕?」
「ええ。…本当に大きな混乱。でも、あの夜のことに限って言えば、わたしが〈いつか、できるだけ早く、学生生活に戻れたらいいな、と思っています〉と言ったあと、ミスター高野が突然無口になって―まったく黙り込んで―しまったことぐらいが〔混乱〕といえば〔混乱〕でした。…そんなふうに不意に黙り込んでしまわれただけでも、わたし、どうしたらいいかが分からず、すっかり困ってしまいましたから」
※
「その二日後、わたしはミスター高野に本当に驚かせられてしまいました」。メルバは、何があったかを言い当てさせようとでもいうかのように、わたしの目をじっと覗き込んでいた。
わたしは首を横に振った。
「ミスター高野は、わたしの家庭の事情が許すようなら、わたしがカレッジを卒業するまで財政的な援助をしてやるって、そう言い出したんですよ。…授業料をはじめとして、カレッジで勉強していくのに必要な費用は全部出してやるから、考えてみないかって」
「そうだったの」。わたしは高野さんのその提案に、なぜか、あまり驚かなかった。…驚く前に、前の夜あの人が見せた、自分を侮蔑するような苦笑を思い出していた。
※
「ミスター高野はすごく真剣な表情でした。軽い気持ちから出た案じゃないことがその表情から分かりました。でも、わたしは、その申し出をあまりまじめには受け取りませんでした。というより、受け取らないように努めたんです。…少なくとも、初めの何分間かは。
「だって、ほんの二日前に出会ったばかりの、ほとんど何も知らない相手に、そこまで親切にしようって人、この世にいます?何も知らない人からの、そんな申し出を真剣に受けとめるほどの恥知らずに、わたし、なれます?…わたし、そんなことって、現実離れしていると思いました。現実の人生では、そんなこと、起こりえないんだ、と自分に言い聞かせました。
「確かに、ミスター高野は[さくら]で一番親切なお客さんだって、〔ママ〕リサが説明してくれた人でした。でも、それだけのことでした。いくら親切だといっても、わたしのプライベートな暮らしとは無関係の人でした。そんな人からのそんな申し出をまじめに考えてみる理由はまったくないはずでした。ですから、あの人はなぜそんな申し出をする気になったのだろうかという、いま思えば、当然思いついていい疑問も、そのときはわたしの頭に浮かんできませんでした。
「でも、一方で、わたしはとても幸せでした。なぜって、学校でもっと勉強したいってわたしの望みを理解してくれているらしい人が、少なくとも、この世に一人いることが分かったんですもの。…それがだれであれ。…お互いのことをほとんど知らない一人の外国人であれ。
「そんなふうに幸せな気分になっていたからなんでしょう。わたし、思いのほか早く、構えが柔らかくなっていって。ミスター高野がお店を出るころまでに、わたし、その申し出を〔真剣に考えてみてほしい〕というあの人の言葉に、半分ぐらいは〔はい〕と答えてしまっていました。…というより、わたし、実際に〔学校に戻れる可能性があるかどうかを検討してみる〕って答えていたんですよ。…検討する気なんか、たぶん、全然なかったのに。なかったはずなのに。…ミスター高野はそれをわたしの〔宿題〕と呼んでいました」
※
「どんな運命に自分が捉えられているのか、わたし、よく分かっていました」。メルバは言った。「いえ、数か月前までのわたしは、クラスメイトたちとよく、自分たちの将来はどうでなきゃいけないかとか、どうなるんだろうかとか、そんなことを楽しく話し合ったりしたものです。わたし、機会に恵まれれば、大学で教育を専攻して、母親とおなじように教師になりたい、とみんなに話していました。あのころは、家の現実がどうであれ、将来はどこかバラ色に見えていました。でも、そういうのはもうみんな過去のことでした。ミスター高野に突然〔援助してやろうか〕と言い出された夜には、わたし、すでに分かっていました。…わたしにはそんな〔バラ色〕の未来なんかもうないんだって。…家族のためにカラオケのシンガーとして働いていくんだって心を決めたときから。
「ですから、ミスター高野にどう答えたにしろ、現実には、その〔宿題〕のためにわたしが時間を割くことはありえませんでした。割くつもりはありませんでした。
「なのに、わたし、その夜はあまりよく眠れませんでした。ミスター高野の申し出のことが頭から離れなくて…。いろんな考えが次から次へと頭に浮かんできて…。たいていは、夢見がちすぎていて、少し冷静になって思い返せば、自分でも思わず笑いたくなってしまうようなものでしたけど」
※
「翌朝、わたしは少し違っていました」。メルバはため息をもらした。「こんなことを言うの、恥ずかしいんですけど、わたし、いつの間にか、こんなふうに考えるようになっていたんです。〈家族みんなのために働かなきゃならないのは、なんで継父じゃなくてわたしなんだろう〉〈自分の家族を支えるだけの収入が得られる、安定した仕事もないのに、なんで継父は自分が生まれ育った町にへばりついているんだろう〉〈この国ではたくさんの父親が外国にさえ働きに出かけ、家族の暮らしを支えているというのに、継父はなぜ家にいつづけているんだろう〉〈まだ幼い娘たちがいるから?〉〈妻の体の具合がだんだん悪くなっているから?〉〈母や妹たちの面倒なら、わたしだって見てやれるじゃない〉〈どうしても家から離れられない、どんな事情が継父にはあるというんだろう〉
「わたしの考えはそこではとまりませんでした。わたし、やがて、〈その仕事が何であれ、どこで働くことになれ、継父がもっと真剣に仕事を探し、もう少し熱心に働いてくれたら、わたし、ミスター高野の援助で、来年のいまごろはカレッジに通っているかもしれない〉〈ということは、家族のいまの困難を、ぎりぎりでいいから、何とか乗りきれる程度に継父が働いてくれていれば、ほんの数年後にはわたしが教師になって、そのお給料でいくらかでも家族を助けることができるようになるということじゃない〉などと考えるようになっていました。そこから、〈家族が直面しているこの危機から脱出するためのいまの計画を見直すよう両親に頼んで、どこがいけないんだろう〉と思うようになるまでに、時間はあまりかかりませんでした。
「いま思えば不思議なことに、カラオケシンガーとして働こうと決めたとき、わたしの頭には、そんなふうな―わたしではなくて継父が働くべきじゃないかみたいな―考えはまったく浮かんでいませんでした。両親が困りきっているときだから、できるだけ〔いい娘〕でいなくては、と自分に言い聞かせていたからなんだと思います。ミスター高野の申し出でから半日後、わたしはそんなふうに変わっていたんです」
※
「でも」。メルバはつづけた。「ミスター高野から申し出があった事実を告げ、だからカレッジに進ませて欲しい、と両親に話すというのはまた別の問題でした。現実的には、そんなことはありえないはずでした。…カラオケの店で客とホステスとしてほんの数度顔を合わせただけの外国人に大学に通う資金を―それも何から何まで―援助してもらう?何年間も?
「ミスター高野はいく晩かつづけて、さりげなく、〈〔宿題〕はうまくいってる?〉ってたずねかけてきました。そんなときのあの人の声は、〔ママ〕リサから聞いていた以上に親切で優しく聞こえました。…そうたずねられるたびに、わたしは〈検討中です〉って答えました。
「ある夜、ミスター高野はこう言ったんですよ。〈君が僕の申し出を受け入れたとしてのことだけど、たとえば、折に触れてキャンパス内で撮った写真だとか、テストの結果だとか、カレッジ生活を君がどんなふうに楽しんでいるかが分かるようなものをできるだけ送り届けてもらいたいな。…そのとき僕がどこに住んでどんな暮らしをしていようとね。そういうのを見れば、僕もすごく幸せになれそうだから〉って。〈僕の方から望むのはそれだけだ〉って。
「キャンパス内で撮った写真?テストの結果?…わたしの暮らしがこれからこうなるかもしれないってミスター高野が描いて見せてくれた絵は、数日前にわたし自身が描いていたものとはまったく違っていました。そうでしょう?ミスター高野のそんな望みを聞いているあいだにも、ほうとうを言うと、わたしも、自分自身の夢を見始めていました。…うんと明るい未来の夢を」
※
「そんなことがあってから二日後、〔継父はどうして?〕という疑問に突然、自分なりの答えが出ました」。メルバは言った。「それは、わたしにとってショッキングな答えでした。…どういうものだったか分かりますか」 メルバはわたしの返事を待たずにつづけた。「わたし、継父が自分の故郷から離れようとしないのは、まだ幼い娘たちがいるからだとか、妻の健康状態が悪いからだとかいうんじゃなくて、その地区内の学校に教師として復帰したいという自分の夢にしがみついているからじゃないかって思ったんです。自分を長いあいだ知ってくれている人たちがいる町で、いくらかは尊敬されながら働ける、慣れた、肉体労働よりは楽な、元の仕事に戻りたい、と継父は夢見ているんだって、わたし、思い込んだんです。
「継父の現実は、そんなことが夢見られるような状態ではなかったでしょう?継父がクビになったのとおなじ理由で次に母が教師の仕事を奪われる可能性だってあったでしょう?…〈わたしが自分の夢を犠牲にして家族のために懸命に働いているときに、もし継父がそんな夢を見ているんだとしたら、そんなの公平じゃない〉と思わずにはいられませんでした。
「わたしの思い込みはまるで見当違いだったかもしれません。でも、あのときのわたしは、ほかに理由が見つかりませんでしたし、そう信じ込んでいました。…そうですね。自分ではちゃんと覚悟していたつもりでしたけど、もっと教育を受けたいという思いは、わたしの心の中から消えてしまってはいなかったんですね。ミスター高野の申し出を聞いて、もっと学校で勉強をしたいという思いが、そんな形で再燃してしまったんですね」
※
「わたし、一か八かやってみよう、と心を決めました。…わたしの夢が実現する余地がまだあるかもしれないって自分に言い聞かせながら。だって、仕事に関する考えを継父がもう少し現実的なものにしてくれれば、ですから、もう一度教師として働きたいという非現実的な夢を継父が捨てて、たとえばマニラででも、たとえばサウディ・アラビアででも、懸命に働いてくれれば、ミスター高野に援助されてわたしの夢が現実になる可能性はやはりあったわけでしょう?…いえ、とにかく、あのときのわたしはそう考えたんです。
「次にわたしがやらなきゃならないことは、数か月前には思いもつかなかった疑問を両親に投げかけてみることみたいでした。〈いま働かなきゃいけないの、なんでわたしなの〉って。
「その次の夜、わたし、ミスター高野に、わたしの次の―初めての―休みの日に田舎に帰って、申し出のことを両親に話してみる、と答えました。…両親が快く思わないことをしようとしているんじゃないかという、胸の片隅にまだ少しあったためらいを押し殺して。
「ミスター高野は〈うまくいくといいね、メルバ〉と言ってくれました。…でも、それ、あの人が自分自身にかけた言葉のように聞こえました」
*
<一二>につづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます