第10話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <10>
〈一〇〉
メルバとわたしは、ほかにひと気のないショー・レストランの、ステージ近くのテーブルの椅子に腰を下ろしていた。建物が背の高い木々に取り囲まれているせいで、いくつか大きな窓があったのに、レストランの中はうす暗かった。
わたしは再び疑い始めていた。〈メルバは初めから、ここで、昨夜のつづき、高野さんのことを話すつもりだったのかもしれない〉
ウェイターが一人、どこからか姿を現し、気乗りがしない様子で近づいてきた。そのウェイターを、メルバは手を振って遠ざけた。…わたしたちは、広い店の中でまた二人きりになっていた。
ウェイターの背を見送りながらわたしは、胸の落ち着きの悪さを振り払らおうと、冗談めかせてメルバにたずねた。「わたしたちここで、ソーダも飲んじゃいけないの?」
「いけないに決まっているでしょ」。真剣な振りをしてメルバは言った。「おなじ飲み物が外の通りでなら、たぶん、ここの三分の一以下の値段で飲めるんですから」
けれども、そう言い終えたメルバの顔からは笑みが消えていた。「わたし、妹たちのためにできるだけお金を貯めなくちゃいけないんです」
「いいお姉さんね」
メルバは小さくほほ笑んだ。でも、その笑みも長くはつづかなかった。「次の休みの日までに、あの子たちのためにチョコレートを買って帰ってやれるぐらいには…」
「ええ、[さくら]で働いている人たちの多くとおなじように。…トゥリーナさん、あなたも?」
「わたしは違うのよ。…運のいいことに」。長女でなかったことで何か幸運な思いをしたことが本当にあっただろうか、と自分にたずね返しながら、わたしは答えた。
「そうですね」。メルバはため息混じりで言った。「正直に言うと、わたしこれまでに何度か、長女だってことで自分の運命を呪ったことがあるんですよ」
※
わたしの疑いは的外れだったようだった。メルバの話は高野さんのこととは無縁の方向に向かっているようだった。
「中でも」とメルバはつづけた。「伯父―母の兄―がバタンガスのわたしたちの家にやっ<て来て、わたしのために、カラオケのホステス、というのでなければ、シンガーの仕事をやっと見つけてきたって、わたしの母たちに告げにきたときのことは、わたし、これからも決して忘れないと思います」
わたしはメルバに向かって大きくうなずいた。そのときのメルバの姿が見えるような気がしていた。
「伯父がカラオケという言葉を最初に口にしたとき、わたし、それが何であるのか、どんな意味なのか、まるで知らなかったんですよ。…伯父は説明してくれました。カラオケ―と民族舞踊―のビジネスについて自分がマニラで調べ出したことを全部話してくれました」
「それで、メルバ、あなたは」。わたしは言った。「この世界に入る前にすでに、カラオケのビジネスの実情をあんなふうに詳しく知っていたわけね」
「ええ。伯父は、その仕事に就くよう、わたしを説得しに来たんです。…わたしが長女だってことを、ですから、家族全体の暮らしを良くする責任が長女のわたしには―姉妹の中のほかのだれよりも―あるんだってことを、初めは、遠回しに仄めかしながら、あとでは、直接、露骨に口にしながら。一方で、〈なんてったって、お前の継父は失業中なんだし、しかも、まずいことには、母親もひどく体を悪くしてしまっているときなんだから〉って、ほかに選択のしようがない道にわたしを追い込みながら」
わたしはじっとメルバの目を見つめていた。
驚いたことに、メルバのその目は動揺しているようにも不安げにも、立腹しているようにも見えなかった。…もっと正確にいえば、メルバは途方もないほど毅然としていた。
「自分が長女だってこと、わたし、ちゃんとわきまえていたんですよ。長女として、どんなふうに生きていけばいいかも、分かっているつもりでした。でも、伯父がわたしに告げていたのは、わたしが〔こう〕と思っていた生き方と違いすぎていました。わたしの将来の人生として伯父が描いて見せてくれた絵は、話を聞いていたときのわたしには、まったく、とんでもないものでした。
「〈カラオケのシンガーになって、日本語の歌を歌え〉〈マニラで日本人客を相手に働け〉〈そのうちに日本に行って働け〉〈お前の家族がどうしても必要なカネを日本で稼ぎ出してこい〉などという話を聞きながら、わたしは何回も〈ちょっと待って〉と思いました。〈〔カラオケ〕って何?〉〈〔シンガー〕が〔客をもてなす〕?〉〈伯父はいったい何を言っているんだろう〉〈その〔マニラの日本人〕ってだれのこと?〉〈日本人がマニラのどこにいるというんだろう〉って。わたしはそれ以前に何度か、両親、本当の両親に連れられてマニラに来ていましたけど、日本人を見たことなんか一度もありませんでした。この国には、仕事のために住んでいる日本人が少なくないし、観光目的でやって来る日本人も多い、なんてことも、それまで考えたことがありませんでした。
「もちろん、最後には、カラオケシンガーというのは、簡単に言ってしまえば、パブだとかバーだとかいう、客がアルコールを飲み、歌を歌って楽しめる場所で、たいがいは日本人を相手にして働くホステスのことだって、ですから、カラオケシンガーというのは、客のために、客といっしょに、日本の歌が歌えるホステスにすぎないんだって、分かったんですよ。でも、わたし、何がなんだか分からなくなっていました。伯父の言うことに死ぬほど脅えさせられていたんです。…何しろ、まったく想像したことがなかった、想像がつかない、そんな世界でしたから」
※
メルバはひと呼吸してからわたしにたずねた。「こんな話は退屈ですか。何度も聞いたような話でしょう?」
「退屈だなんて」。わたしは急いで言った。「確かに、わたしたちの周囲はそんなふうな話でいっぱいだけど、どの話も実は、みんなほかとは違っているわ。それぞれにその人だけの事情があって…。あなたの事情が話せるのはあなただけよ、メルバ」
そのため息を聞いて、わたしは、わたし自身にはいったいどんな〔わたしだけの事情〕があるのだろうと思った。でも、答えはすぐには思いつかなかった。いや、頭に浮かんだ〔事情〕が複雑すぎて、整理しきれずにいたのかもしれない。
※
「お母さんの具合はどうなの、いまは?」。少し間を置いてからわたしはたずねた。…メルバがまだ[さくら]で働いているのだから、母親の病気が治りきっていないことはほとんど明らかだったけれども。
「あまりよくないんですよ。…糖尿病と高血圧が同時に悪化しているらしくて」
「うんと悪いの?」
「ええ。この前の休みの日にバタンガスに帰って母と話したときには、すぐにも入院しなきゃいけないって医師に言われているって。…集中治療が必要なんですって。母は四十歳なんです。半年ほど前に、四番目の娘―父親違いのわたしの妹―エレナを、医師の警告に逆らって出産したんですけど、医師は、そのときの無理で病気がひどくなったのだって言っているそうです」
※
わたしはメルバを慰める言葉を見つけることができずにいた。継父の失業と母親の病気は、メルバと彼女の家族が対処しなければならない最悪の不幸なのだろうか、と訝っていたからだった。マニラのカラオケの店で働く多くの女たちとおなじように―わたし自身がそうだったように―メルバも、この世界に入ったときに抱えていたものより何倍も大きく、何倍も厳しい問題にこれから出くわすことになるのではないか、という不吉な予感に捉えられていたからだった。
メルバは話をつづけた。「母は自分のボーイフレンドの子供がどうしてもほしかったんだと思います。…いまはわたしの継父となっている、そのボーイフレンドとの暮らしが、前の、わたしの実の父親との暮らしよりは幸せなんだってことの証として。
「母は自分の健康をかけても、そのことを、そんな形で証明して見せたかったんです。母は数年前に、わたしの実の父親―わたしと、わたしの二人の妹、ローサとマリアの父親―と別れたんです。…何か月もつづいたひどい諍いのあとに」
メルバの口調は、まるで大昔の出来事を回顧してでもいるかのように、淡々としたものだった。
※
「母はバタンガスの公立学校の教師で…」とメルバはつづけた。
「ああ、それでなのね」。わたしは彼女を遮った。
「〔それで〕って?」
「メルバ、あなたの話し方、とても…。そう、理性的だもの」
「ええ、そうなんですか?」
「ええ」。わたしは言った。「そういうお家で育っていたからだったのね」
「そうでしょうか。でも、とにかく、母は…」。メルバは話をつづけた。「子供たちに何かを教えるのが好きなんです。子供たちが学び育っていくのを見るのが好きなんです。教師だってことを誇りに思っていますし、その仕事が楽しいんです。でも、父―実の父―は、いつごろからか、母の仕事を良くは評価しなくなっていました。母を学校で、というより、そもそも家の外で働かせたくない、と考えるようになっていました。父は、妻を外で働かせなきゃならない経済的な理由があるんだというようには世間に見られたくない、とも感じているようでした。
「父は、大きくはないんですけど、質屋を経営しているんです。ですから、ええ、わたしはあの田舎の町では、どちらかというと裕福な方の家庭で育ったんですよ」
「それにも驚かないわ」。わたしは言った。
「ですから」とメルバはつづけた。「経済的な意味では、母は外で働かなくてもよかったんです。父には、母親は家で子供たちのせわをしているべきだ、と主張するだけの経済力があったんです。でも、母はどうしても仕事をつづけたがり、父はとにかくそれに反対しました。…二人の言い争いは、時間が経つにつれてひどくなっていきました。わたしにはそんなふうに見えました。
「似ているとよく言われますから、わたしを見てもらったら分かると思います。ええ、そうなんです。母は、わたしとおなじように、〔きれいだ〕と呼べるところからはうんと遠いところにいる女性ですが…」
「メルバ」。わたしは口を挟んだ。「そんなことを言っちゃだめよ。そういうことを言うのは、お母さんにもあなた自身にもよくないわ。それに、本当よ。あなたほど愛らしい目をしている子はめったにいない。あなたはとても魅力的な女性よ」
「昨夜思ったとおりでした。トゥリーナさんって、優しい人なんですね」。メルバはにっこりとほほ笑んだ。「でも…。でも、母はその代わり、周囲の人たちに親切で思いやりがあるんです。それに加えて、とても聡明ですから、そんなところに惹かれる人も出てくるんです」
※
「男と女のあいだの同情って、どういうことなのか、わたしにはまだよくは分からないんですけど…」。メルバはそこでちょっと言いよどんだ。
「〔分からないけど〕?」
「母は最後には、おなじ地区で働く教師の一人が好きになったんです。この人は、教師の仕事をつづけたいという母の望みにも、母の父との難しい関係にもすごく理解を示したんだと思います。…母にちゃんと説明してもらったことはありませんが、母はその人の同情に感謝しているようでした。
「噂って、かってに広がっていくものなんですね。母とその教師とのあいだに何が起きているかが父の耳に入るのは時間の問題だったようです。間もなく、父は母に対して野蛮で残忍に振る舞うようになりました。顔と頭は避けていたようですが、母を殴るようになったんです」
メルバは数度、首を横に振った。「わたしたち姉妹が経験したような、あんな恐ろしい日々を、それも数か月間もつづけて体験する子供って、あんまりいないと思います。二人の幼い妹とわたしには、程度はともかく、ほとんど毎日のようにくり返される両親の諍いから逃れていくところがありませんでした。いえ、父と母は、たいがいは、メイドに命じてわたしたちを家の外に連れ出させ、自分たちは家の中で激しく言い合ったりしていたんですよ。でも、ときどき怒声や悲鳴が聞こえてきて…」
「ある日、父が仕事で外出したとき、母はとうとう、一番下の娘、マリアの手を取って、ボーイフレンド―その同情的だった教師―のところへ逃げ出しました。母の決意を聞いていたわたしはもう一人の妹、ローサの腕を引っ張りながら、母についていきました。…というような事情で、いまはその教師がわたしたち姉妹の父親―継父―なんです。
「継父の奥さんは、その五年ほど前に乳癌で亡くなっていました。二人の男の子、わたしより二歳年上のバーニーと、一歳年下のロビンをあとに残して。…いまは、生まれて間もないエレナを含めて、みんながいっしょに、バタンガスの小さな借家で暮らしているんですよ。
「実父の家から出たあとも、わたし、ずいぶん長いあいだ、どんな形を取るかは見当がつきませんでしたけど、父がまた母に暴力をふるうようになりはしないか、と恐れていました。だって、父の怒りようはすごいものでしたし、最後のころの母との口論では、ほとんど正気を失っているようにさえ見えたことがありましたから。でも、幸いなことに、そんなことにはなりませんでした。わたしたち、ですから、どちらかといえば静かで幸せな暮らしを楽しむことができていたんですよ。…継父が突然教師の仕事をやめさせられるまでの二年間ほどは」
「まあ。あなたのいまのお父さんは失業中だということだったけど…。突然クビに?」
「クビになった理由が想像できますか」。メルバの声は相変わらず静かだった。
「いいえ。…どうして?」
「二年間ほどあれこれ策略をめぐらせたあと、父は結局、地元の教育委員会をうまく説得して、継父のクビを切らせたんです。…継父が教育委員会の関係者からやっと聞き出したところによると、父はずっと継父と母、あるいは、そのどちらかの仕事を奪う機会をうかがっていたらしいんですよ。
「そのことを聞いて、わたしはまた、ずいぶん恐い思いをさせられました。人間の執念っていうんでしょうか…。わたし、人間が生きる現実ってこんなふうなんだって分かったような気がしました。くクビを切らせるのに、父はどう言いたてたと思いますか」
わたしは首を横に振った。
「手短に言ってしまえば、父はこんなふうに言ったんですって。〈コミュニティー内のだれよりも先に法と道徳を守って見せなければならない立場にある公立学校の男女の教師が〔法に反して〕、女性教師の法律上の夫の意思を無視して、公然と同棲しているところを、この地区の児童生徒が目にしている現実は、教育的見地からみて大問題だ。この二人には教師の資格がない。女性教師が夫のもとに戻らないのであれば、この二人は共に職を解かれるべきだ〉
「母は父のもとには戻りませんでした。継父が免職処分を受けました。…母がおなじ処分を受けなかったのは、教育委員会の中の比較的にリベラルな委員が〔見せしめの対象は一人で十分だ〕と主張して譲らなかったからだそうです。それまでの母の教育への献身を高く評価していた委員が何人か、その委員に賛同したということです。
「父が母にふるっていた暴力にはだれも目を向けませんでした。父はあの地域の一部の人たちに対していくらか影響力がありましたから…。
「わたし、この出来事からは、本当に、いろんなことを学ばせてもらいました。多くのことを以前とは違った見方で見るようになりました。中でも…」。メルバは声をひそめた。「最も重要なのは、夫婦の離婚を事実上禁止している、あんなばかげた法律はいますぐ捨ててしまうべきだ、とわたしが考えるようになったことかもしれません」
「そんなことを言って…」。わたしも声をひそめていた。
けれども、わたしはメルバの意見に反対していたわけではなかった。わたしの頭には、セサールとわたし自身のあいだで果てしなくつづく争いのことが浮かんでいた。むしろわたしは、法的に離婚が許されているのだったら、セサールとの争いは、様相が醜悪になる前に、とうに終わっていたのではないか、と考えていた。…そんな考えをわたしが口にしなかったのは、たぶん、宗教上の信条に強く支えられたその法律を直接批判する勇気がわたしには欠けていたからにすぎなかった。
※
「不幸なことに」とメルバはつづけた。「この国の人間ならだれだって、公立学校の教師の給料が低いってことを知っていますよね。その給料では、教師になるのに必要な教育を受けるために使った費用を回収するだけでも、ひどく長い年月がかかってしまうってこと…」
「そうね」。わたしはつぶやいた。
実際、人々のあいだでは〈政府は教師を、同様に給料の低さで知られている警官よりさらに粗末で不公平に扱っている〉という、教師に同情的な、皮肉な冗談がささやかれていた。〈だって〉と人々は言っていた。〈警官には与えられている〔市民を脅して賄賂を受け取る特権〕が教師には与えられていないじゃないか〉
「なのに、わたしたち」。メルバは言った。「継父が仕事をなくして、その、もともと少ない給料の半分を失ってしまいました。大変な危機に陥っていました。…教育委員会が母もいっしょにクビにしなかったことに感謝していられる状況ではありませんでした。母のあんな小額のお給料で―月額一〇〇〇ペソやそこらで―いったいどうやったら暮らしていけたでしょう。継父が懲戒免職されてからほんの三週間後でした、母の妊娠が明らかになったのは」
どう反応したらいいか、わたしは分からなかった。状況が違っていれば家族がみなで喜べるはずの、母親の妊娠のニュースが、ここでは間の悪い不運として受け取られているのだった。
〔不幸がやってくるときはいつもまとめて〕。わたしはそんなことわざを思い出していた。頭の片隅にぼんやりと、わたし自身の過去数年間の人生を思い浮かべながら。
※
「継父は、教育委員会の決定に不服を申し立てるだけで日を過ごすわけにはいかなくなりました」。メルバは話をつづけた。「継父は働き始めました。でも、いい定職には就けませんでした。ほとんどが臨時雇いの、低賃金の肉体労働でした。あのとき継父はもう四十五歳。そんなに若くはありませんでしたし、国全体の景気が悪いときで、しかも、あんな田舎のことでしょう?継父の資格と経歴に見合う仕事なんかなかったんです。
「時間が経っていきました。自分たちが陥っている危機は初めに考えていたのよりさらに大きいものだってことに、わたしたち、ますます気づかせられるようになりました。
「やがて、その危機に、母の糖尿病が進行しているという新たな事実が加わりました。母がときどき仕事を休まなければならなくなるまで、それから数週間とはかかりませんでした」
メルバは長いあいだ、次の言葉を探していた。
わたしはただ黙ってメルバの顔を見つめていた。
※
「わたし、学校生活が好きでした」。メルバは言った。「家の経済状態が、どう見ても、いっそう悲惨なものになっていっていたあいだでも、カレッジ入試に備えて勉強をつづけたほどに…。いえ、本当は、家の状態がどんなにひどいのか―勉強をつづけることがどんなに無意味であるか―を正しく理解していなかっただけなのかもしれませんけど。だって、母と継父、近い親類が寄って、継父の長男―バーニー―にはカレッジでの勉強をつづけさせよう、と決めたことを知ったときでも、それがわたしにとってどんな重要な意味を持っているのかが、わたしにはすぐには分からなかったんですから」
わたしたち姉妹が協力しあって、家族の一人息子であるわたしの兄を大学で学ばせようとしたように、メルバの家族も〔長男〕バーニーには高い教育をつけさせることにしていたのだった。
「すぐに気づかれます?」。メルバはわたしの目を覗き込みながら言った。「その決定は、あとになって考えてみれば、わたしは〔バーニーのため〕にも働かなければいけない、ということを意味していたんです。カレッジに進んでもっと勉強したいという自分の希望を、わたしは〔バーニーをカレッジに残すために〕も捨てなきゃならない、という…」
わたしはやはり無言のままだった。
「本当にわたし、カレッジで勉強したかったな」。メルバの声に深い感情が混じったのは、たぶん、このときが最初だった。「…少なくとも、母がわたしにカレッジで勉強させたいと思っていたのとおなじぐらいには」
※
みな白人の老婦人だった。…外国人が数人、重なり合うようにして、階段のところからレストランの中を覗いていた。婦人たちがおもしろがるようなことは、もちろん、中では何も起こっていなかった。口々に何かを言い合いながら立ち去っていく婦人たちを見送りながら、メルバは言った。「トゥリーナさん、イラッシャイマセとかコンバンハとかの簡単なあいさつの言葉を別にして、[さくら]でわたし、どんな日本語を最初に覚えたと思います?」
第六感が働いていた。その言葉が何だったか、当てられそうな気がしていた。
メルバはわたしの返事を待たずにつづけた。「それ、シカタガナイなんですよ」
わたしの勘は当たっていた。〈ここにまた一人、あの言葉を覚えた女がいる〉。わたしは暗い気持ちでそう思った。
「その意味は」。メルバは言った。「ほかの人たちの使い方から判断すると、たぶん、〈そんなことをしても無駄だ〉とか〈そんなふうに運命づけられている〉とかいうんだと思いますけど…。[さくら]ではみんながこの言葉を、まるで〔おまじない〕か、ある種の魔法の言葉かのように使っていますよね」
「正しい意味はわたしにもよく分からないけど」。できるだけ冷静に聞こえるように努めながら、わたしは応えた。「わたし自身は、そうね、その〈そんなふうに運命づけられている〉という意味で一番たくさん使ってきたかな。…その日本語がどうしても使いたくなったときにはね。〈もう議論なんかいらない〉という意味でも、ときどき…」
ひどく気が滅入っていた。そんな言葉を口にするには、メルバは明らかに若すぎて見えるのだった。
「そうですね。〈もう議論なんかいらない〉ですよね。自分の不運をいつまでも呪ったって〈無駄〉なんですよね。わたし、カラオケホステスになるよう〈運命づけられている〉ですからね。…ホントウニ、シカタガナイ、デスネ」メルバの目から涙がこぼれ始めた。
自分の目が涙でいっぱいになるまで、わたしはメルバの顔を見つめつづけていた。
*
<一一>につづく
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