退屈な朝/side:A

 長い夜は明けた。

 そしてまた、新しい朝が始まる。


 sideA:霞の話。



 光陽台市中心部から少し離れた高台にある、戦国時代の山城を思わせる立派なお屋敷が、国内の退魔師を束ねる霧雨一族の本拠地ホームである。

 各地に別邸があるため、此処は区別して「本邸」と呼ばれている。純和風の外観に対して内装は洒落た西洋風だ。建物自体は明治時代からあるが、昭和の頃に改装しているためだ。

 漆喰の壁に赤い絨毯、廊下には絵画や骨董が飾られ、木目の美しい天井からは煌びやかなシャンデリアが下がっている。成金くささを感じないのは、置かれた調度の品が良いからだろう。

 重要文化財に指定されてもおかしくなさそうなほどの建物だけれど、住む人の少なくなってしまった屋敷はガランとしていて、なんだかうら寂しい。物音ひとつしない家は怖いくらいに静かすぎる。

 彼女は物憂げな表情でため息をついた。

 およそ数日前。

 霧雨本邸から一人の少年が巣立っていった。先日、引退した前当主「霧雨 霜華」の代わりに当主の座に就いた彼女の義兄あにである託人は、光陽台市を危機に陥し入れた妖魔「夜光姫」を見張るため、本邸から居を移し市内のアパートに引っ越しでしまった。

 基本的に、 直系の人間しか住んでいない本邸で暮らしているのは、現在霞だけだ。母である霜華も少し前に屋敷を出て別の場所で生活している。「レイン」や他の霧雨一族の面々も光陽台市にいるとはいえ、特別な用がなければあまりこっちに来ることはない。

 つまり、彼女は今ひとりぼっちだった。

「あぁ、なんだかつまんないわね。あの人もわざわざ引っ越さないで、此処で一緒に住めばいいのに」

 退魔師ではない霞にとって、夜光姫など大した意味などない。あくまで怖いお化けの仲間、くらいの感覚だった。

 背中まで伸びた長い銀髪をサラサラと揺らし、軽やかな足取りで屋敷の奥深くにある部屋へと向かう。「長の間」と一族の者達から畏怖の対象となっているところの傍にひっそりとある隠し部屋が託人がかつて使っていた場所だ。

 真っ白い壁の中でそこだけ生成り色なのでそれと分かる。そっと押し込むと壁が鈍い音を立てながら動き、広大な居室が姿を現わす。ひんやりとした空気の漂う、照明も窓もない暗い室内に入り、彼女は思わず絶句する。

「うわぁ……。すご、本がたくさん」

 見渡す限り、本、本、本。

 ズラリと書架が並び、隙間なくぎっしりと書物が詰め込まれている。試しに一冊抜き取ってみると、それはドイツ語で書かれた専門書だった。他にもパラパラ捲ってみるが、内容は全て退魔師や退魔の一族、あるいは彼らが使う術について記したものだ。その道の人間ではない霞にはさっぱり分からないが、おそらくかなり高度な専門技術の本ばかりだろう。難しすぎてとても理解できそうになかった。

 だが目的はそれではない。深い書架の森を抜け、奥へ奥へと進むと、古びた小さな机がぽつんと置かれている。あちこち傷だらけで傷みの激しいそこに、一冊の本とノートがあった。ボロボロになるまで読み込まれたのだろう、表紙は擦り切れ端っこは破けている。

 薄っすらと積もった埃を払い、彼女はそっと持ち上げる。タイトルは、

「キミも退魔師になろう!〜入門編〜」

 そしてもう一つ。

 託人が自ら記したノートには、「霞へ」とある。一ページ目からいきなりたくさんの祭文が流麗な文字で並べ立てられており、分かりやすく解説もあった。


「これ、兄さんの?何故私に……、まさか、私に退魔師になれというつもり?」


 後日。

 霧雨 霞は外出していた。

 いつものセーラー服や好んで着ているワンピースではなく、レモン色のフードパーカーに白いシャツ、デニムとスニーカーを合わせた動きやすい格好だ。陽の光に透ける銀髪をきっちりと纏め、キャップを目深に被っている。

 梅雨を過ぎ、厳しさを増す日差しに目を細めつつ、霧雨本邸よりも高い山を登っていく。石造りの階段の周りは人の手が殆ど入っていない原生林が広がり、山草が無秩序に生い茂っていた。

「ふう…ふう…ハァ、ハァ…っ、くそっ!遠い、遠すぎる……。ああもう、まだ着かないの⁉︎」

 もとより色素の薄い肌は林檎のように紅く上気し、額からは汗が滴っている。可憐な面差しは悩ましげに歪んでいた。

 彼女の目指す先–––––それは、霧雨一族守護聖霊が一つ、「碧」が棲むと言われる祠だった。一族開祖「水雨」と契りを交わして以来千年以上にわたってこの家を護り、時に力を貸すことさえあったという。少し前に霞が襲われたときも彼女の身を守ってくれた、とても頼りになる存在だ。あのときからずっと、霞は何かお礼ができないか、と思っていた。

 汗ばんだ肌に張り付く髪を鬱陶しげに払い退け、荒く息をつき、笑う膝を懸命に動かし、一歩また一歩と進んでいく。意識が朦朧とし始める頃になってようやく目的地が視界に入ってきた。

「あ……、あぁ。やった、やっと着いたあ!はぁー、疲れたぁ……」

 鎮守の森を背景に、明るい灰色の小さな祠が静かに佇んでいる。こんなにも蒸し暑いのに、ここだけ空気が涼しく水のように豊潤だった。

 今すぐ石畳に倒れて涼みたいくらいだけれど、生憎とそんな暇はない。霞はヨロヨロと這い寄ると崩れ落ちるように膝をつき、ぱぁん!と柏手を打った。

「我、霧雨一族の名において懇願す。我が元に其方の姿を現し給え。……どうか、貴方の力をお貸し願いたい」

 入門書の一ページだけ読んで、簡単な言霊だけをなんとか覚えた。しかし完璧とは言い難く、おそらくだが間違えているところもあるだろう。

 こんな調子で果たして「碧」は降りてくれるのだろうかと不安になりつつも、霞は一心に念じる。

 ……やがて、どれくらいの時間が経ったのか。りぃん、と鈴の音がか細く鳴り、ザワザワと梢が揺れ始める。

 –––––瞬間。

 祠の方向から、突風が吹き荒れた。

 厚い空気の塊が弾丸の如く駆け抜け、その強すぎる圧力に負けて霞は思わず仰向けに倒れてしまう。背中が地面について体勢が大きく崩れる。慌てて身を起こすと、そこに一人の女性がふうわりと宙に浮き上がっていた。

 淡い水色の髪に涼やかな切れ長の瞳は浅葱色、すらりとしなやかな肢体を薄布に包み、額と首元を玉飾りが彩っている。人外特有の尖った耳には翡翠のピアスが陽光を受けて煌めいていた。柔和な顔立ちがにこりと微かに笑む。

 うっかり惚けていた霞はようやっと頭を下げ、大音声で挨拶をする。

「あ…貴方が、『碧』さんですよね?私は霧雨 霞です。この前は助けていただきありがとうございました!」

「あら、わざわざお礼を言いに来てくれたの?こちらこそ、会いに来てくれてありがとうね。ここまで来るの、大変だったでしょう」

 名のある聖霊という割にはなんだかフレンドリーだな、と感じつつ、霞はコクコク頷く。

「えぇ、まぁ…。でも良い運動になりました。此処は、とても居心地が良いですね。なんだか心が安らぎます」

「ふふ、そうでしょう。私も気に入っているの。いつでも遊びにおいでね。歓迎するわ、貴方のこと」

「あ…、ありがとうございます。あの、また来たいです。私も、とても好きになりました!」

 お世辞ではなく、素直な思いが口から溢れ出た。確かにここまで来るのに大分苦労はしたけれど、それを上回るほどに良いところだと感じた。やはり、聖霊が棲むくらいなのだ、神聖かつ清洌で穏やかな気に満ちている。

 さて、ここからが本題だ。何もかも見通してしまいそうなほど澄み切った碧の眼を真っ直ぐに見つめ、霞は震える声で言い放つ。


「……あの、実はお願いがあって来ました。私の式神になってはくれないでしょうか」

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