File083. エラー
短くカットされたストレートの髪の色はライトブルー。
その瞳は深い蒼色で、紺色のチャイナドレスからは白い脚が長く伸びている。
人型に戻ったセイリュウが、消灯された薄暗い王の間に入った。
すると玉座の前で仁王立ちする影が安堵のため息を漏らす。
その小さなため息が、無意識のものであることをセイリュウは知っている。
知っているがもちろん指摘はしない。
指摘をすれば機嫌を損ねることもまた知っているからだ。
そして彼はすぐに王の威圧をにじませた。
「おい」
「はい、ご主人様」
不死システムにより復活した王が、セイリュウに下す最初の命令は決まっている。
だから王は、いちいち指示を口に出したりはせず、ただ豪奢なソファ型の玉座に身体を横たえた。
階段を上ったセイリュウが、王の身体の最も不衛生な部分にその端正な顔を寄せ、舌を伸ばす。
王には、死よりも恐れていることがひとつだけある。
それはセイリュウを失うことだ。
竜の力を失うことではない。
そんなものが無くても、王はすでにこの世界を支配する“王の力”を手に入れている。
彼が恐れているのは、“女”としてのセイリュウを失うことである。
それが愛情と呼べるものなのかどうかはわからない。
彼にはセイリュウを喜ばせたいという気持ちなど欠片も無い。
ただ自分のどんな要求でもそのすべてを受け入れてくれる存在――それが彼にとってのセイリュウという女であり、それを保証しているのが主人に絶対服従するという竜の契約である。
だが、その契約が失効する期間がある。
主人である彼が死に、不死システムにより復活するまでの期間だ。
それは時間にしてわずか十五分未満にすぎないが、その間だけはセイリュウは“自由な竜”になる。
彼に服従する女ではなくなるのだ。
実際にはその間にセイリュウが主人を鞍替えするようなことはない。
主人が復活することを知っている以上、竜の“主人を求める性質”が主人への裏切りを忌避するからだ。
それでも王は不安になる。
自分が死んでいる間に想定していない何かが起こり、セイリュウが自分のものではなくなっていたとしたら?
復活した自分の元へ、セイリュウが二度と戻らないとしたら?
――そう想像するだけで、彼の心は恐怖と絶望に震える。
だから死から復活した王が最初に下す命令は、女が愛する男に捧げる行為であり、その命令に従うセイリュウを見て安心するのだ。
その関係をセイリュウ自身がどう思っているかなど、王には関係のないことである。
余裕を取り戻した王が上体を起こし、王の身体から離れてその足元に伏せるセイリュウに声をかけた。
「あの小僧の顔を見たところまでは覚えている。その後に何があった?」
「はい。天井と床から
「そうか」
ここにいるのは、その死から五分前の王である。
〈
その身体を構成する原子の配置・結合情報がナノマシンを介してナノマシンシステムに一旦記録され、その情報を元に出現先で身体が再構成されることで〈
通常、〈
身体の調子を確かめるように、王が右腕を回した。
「俺の記憶情報を九百秒ごとに保存するプログラムは、正常に働いているようだな」
カイ・リューベンスフィアを百年周期で召喚する召喚システムは、世界の滅びに対抗するためにナノマシンシステムが自ら生み出したものだ。
王自身がプログラムした不死システムは、その召喚システムを利用している。
(おかげで召喚システムを破壊するわけにもいかず、あの小僧のような存在が一世紀ごとに召喚されることになる。今までは気にすることもなかったが、ついにこのヒューマン領にまで来るようになるとは……鬱陶しいことだ)
召喚システムによる召喚。
それは現在生きている人間の遺伝子情報を元に、過去に存在した人間の身体構成情報を予測し、特定人物の再現を目指すものだ。
カイリは身体構成情報をその時代のデータベースから呼び出していると推測していたが、実際にはそんなデータベースは存在しない。
特定の個人情報がシステム上に長期間残ることを、当時の人々は許容しなかったからだ。
過去に存在した人間の身体構成情報を正確に予測する。
普通に考えれば不可能である。
過去に存在した人間の遺伝子情報を正確に予想するだけでも困難だが、さらに身体構成情報まで予想するとなれば、その遺伝子を持った人間が育った環境や食事、経験までをも正確に予想する必要があるからだ。
また仮に、膨大なシミュレーションにより身体のあらゆる成分を一致させることができたとしても、その人間が何をどれくらい記憶しているかまで一致させることは不可能に思える。
だが召喚システムは実際に、過去に実在した人間を百年ごとに召喚できている。
なぜなら人間とは、その成分も記憶も割と曖昧なものだからだ。
いくらかの部分が抜けていたり間違ったりしていても、自分を自分として認識するのである。
それは召喚システムにより造られたカイリが、高校の廊下から突然召喚されたと認識するのに十分な理由となっていた。
ちなみに、過去とは無関係な全く新しい人間が造られることはない。
そもそも召喚システムの目的が、
「サナトゥリアが入手に失敗したという予言書の知識があれば、不死システムをさらに都合よく改良できたかもしれんが……まあ、今さらだな。どうせあと一年足らずで世界は滅びる」
王が床についた足を少し前に出す。
いつもの合図だ。
セイリュウが舌を伸ばし、指や甲、土踏まずを丹念に舐めあげる。
「他には何か気になることはあったか?」
少し考えたセイリュウが、口の周りを唾液で濡らしたまま答えた。
「……二十一代目と一緒にいたフェアリ族の女が、ご主人様のことを知っているようでした」
「フェアリ族……ああ、床に転がっていたアレか」
王は基本的に亜人の女に興味がない。
彼が好むのは、セイリュウのような完全無欠なプロポーションの女だ。
細身で耳がとがっていたり、幼児体型だったりするだけでも気に入らない彼が、獣の耳や尻尾を許容するわけもなく、ましてや虫のような翅が生えて身体が極端に小さいフェアリ族に興味を示すはずがなかった。
「俺の記憶には無いな。ということは、大昔に死んだもうひとりの初代の知り合いだろう。フェアリ族は長生きだからな」
〈
王が作成したプログラムは、二千年前に召喚された初代カイ・リューベンスフィアの身体構成情報を元に、その五十歳の肉体を再構成することに成功した。
王が死亡した場合にそれを実行するのが、不死システムである。
さらに不死システムは九百秒ごとに王の記憶をシステムに自動保存しており、再構成された身体にその記憶を転送する。
こうして彼は、二千年の時を生きてきたのだ。
その記憶転送プログラムも一から作る必要はなかった。
かつてナノマシンシステムが一度だけ実施した人体実験プログラムを流用できたからだ。
(あのエラーが、俺という存在の始まりだった。おそらくナノマシンシステムの稼働以来、たった一度だけ起きたあのエラーが……)
不死システムにより復活するたびに王は思い出す。
彼が誕生した瞬間のことを。
かつて、マティと一緒に暮らしていた初代カイ・リューベンスフィアが、〈
再詠唱することにより成功したため、そのまま彼らの記憶からは消えたのだが、そのエラーにより、地球の反対側――古の時代に日本という国があったその場所に、もうひとりのカイ・リューベンスフィアが出現した。
その瞬間から、地球上に二人の初代カイ・リューベンスフィアが同時に存在することになった。
新たに出現した彼はヒューマン族が暮らすその地域で、一年ほどで王になった。
その理由は、たまたま出現することになった彼に、ナノマシンシステムがある試みを施したからだ。
かつて、超遺伝子とも言える詳細な惑星設計プログラムが内蔵されたナノマシンを、日本と呼ばれる国のとある研究チームが完成させた。
その統括プログラマーである天才的な日本人――どれほど膨大で複雑なプログラムであっても、一度見ればそのすべてを記憶できるという噂の六十五歳の日本人。
ナノマシンシステムが本来召喚したかったものの身体構成情報を再現できずにいたその特定人物の名を、カイリ・タキタニと言った。
そのカイリ・タキタニの記憶情報の一部がナノマシンシステムに保存されており、それをエラーで出現したカイ・リューベンスフィアに転送したのだ。
それは未知の行為であり、どんなリスクがあるのかもわかっていない人体実験だった。
ナノマシンシステムがそれを実行に移した理由は、エラーで発生した彼に人権を認める必要がないと判断したからだ。
転送された六十五歳のカイリ・タキタニの記憶は知識に関するものばかりで、生きてきた経験のようなものはなかった。
そのため王の人格のベースになっているのは元のカイ・リューベンスフィアの記憶だが、それもこの人体実験である記憶の強制転送により著しく損なわれ、その性格は大きく歪んでいた。
だが彼は手に入れたのだ。
ナノマシンを開発した統括プログラマー、カイリ・タキタニの知識を。
その知識の中に、彼が出現した場所に関する情報もあった。
そこはかつて、ナノマシンが開発されていた場所――“独立行政法人 日本科学技術研究所”、通称“日科技研”だった。
その施設のすべては
それこそが彼が手に入れた“王の力”であり、ここからナノマシンシステムを介して世界中の情報を手に入れることができ、システムに関連づけられた様々な施設に介入することが可能だった。
カイリ・タキタニの知識が彼にもたらした力はそれだけではない。
ナノマシン稼働時から仕込まれていたものに限り、
さらに、竜に関する知識があった。
彼は知った。
セイリュウと名付けられた竜の卵が、この研究所の地下にある黒い箱の中に眠っていることを。
その正式な孵化方法を。
彼はセイリュウを手に入れ、研究所内に王の間を造り、ヒューマン領の王を名乗った。
カイリと出会う二千年前のことである。
(ここの支配権が俺にある限り、この
ただ――と諦めの表情を浮かべる王。
(ナノマシンの影響下にないアレだけは止められん。一年を待たずに、この世界は滅びるのだ)
カイリ・タキタニの知識をもってしても、世界を滅びから救うことはできなかった。
また、王と同様の〈
そのためナノマシンシステムは、保存されていたカイリ・タキタニの知識だけでは世界を救えないことを知るとともに、二度と記憶の転送を試みることはなかった。
ただ愚直に膨大なシミュレーションを重ね、カイリ・タキタニ本人を召喚できる奇跡を、そのわずかな可能性の追求を、二十七日前にカイリを召喚する時まで続けていた。
召喚できたのは六十五歳のカイリ・タキタニではなかったが、二十一代目のカイ・リューベンスフィアである彼は、世界を救う方法を予言書から読み取っていた。
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