File015. 三つの頼み


 地平線に浮かぶオレンジ色の太陽が、水平に近い角度の光を地表に照射している。

 おかげで太陽が動かないこの世界の影はかなり長い。

 ちょっとした山があれば、その裏側は常に日陰になってしまう。

 だから高い崖の上に建てられていたカイ・リューベンスフィアの屋敷は、日照に関して言えばかなり恵まれた立地条件にあったと言える。


 カイリがマティに確認したところによれば、太陽が居座っている方角は西ということだった。

 つまり今は夕方であり、この先もずっと夕方なのだろう。

 そして西の空のオレンジ色は青色と溶けあって上空の青色へと続いている。

 青い空には夕日に照らされたオレンジ色の雲が浮かんでいた。


 この世界の空は上層と下層の二つに分かれているようで、上層では気流の流れが極めて速い。

 カイリが初めて空を見たときには、それが雲の流れる速さの違いとなってはっきりとわかった。

 だが今は上層の雲が途切れているらしく、下層の雲がいくつかのんびりと漂っているだけである。


 カイ・リューベンスフィアの屋敷跡はそんな穏やかに見える空の下にあった。

 瓦礫がれきも地面も炭で真っ黒になっていて、木造の屋敷はすっかり焼け落ちている。

 そんな焼け跡を歩く人影がひとつ……と、もうひとつ小さな影。


 カイリとマティだ。

 彼らは〈品浮レビテート〉の魔法で黒焦げの瓦礫を持ち上げては、離れた場所まで運んで落とすという地味な作業をしていた。


 レビテートという言葉の本来の意味は“空中浮遊”であり、術者が自分の身体を宙に浮かせることを意味する。

 ところが実際には〈品浮レビテート〉の魔法で自分を浮かせることはできない。


「〈品浮レビテート〉が人に作用しないのは常識です」


 マティの真面目な言葉に苦笑するカイリ。

 〈品浮レビテート〉の魔法がこの世界で使われるようになってすでに二千年が過ぎている。

 マニュアルなど無くても、使用上の制約や注意事項は経験によって解き明かされているのだろうとカイリは思った。


「そっか。でも原理的にはできるはずなんだ。魔法システムの開発初期にはできたんだろうと思う。レビテートの名称はその名残なごりだろうな」


 よくわからないという表情でマティが首を傾けた。

 それに合わせて長い黒髪が流れる。

 疑問があるときに小首をかしげるのは、カイリが最初に気づいたマティのくせである。


 フェアリ族であるマティの身長は三十センチ程度と極めて低いが頭身は普通の人間と変わらない。

 すらりとしたその外見は十八歳のカイリより一つか二つくらい年上に見える。

 そんな女性が子供っぽく首を傾ける仕草は、あまり褒められたものではないかもしれない。

 ……が、そんなマティの癖を可愛いと思ってしまうカイリだった。



 〈品浮レビテート〉の魔法には人には作用しないという制限が設けられている。

 カイリが予言書から得た知識だ。

 理由は危険だから。


 〈品浮レビテート〉の魔法をかけられた物体は、魔法がかかっている間は立体映像のような半透明で現実感のないものへと変化する。

 例えば食事中の犬に〈品浮レビテート〉の魔法をかけると、その犬は半透明になり完全に動かなくなる。

 その間に餌を隠してしまい、魔法を解くとどうなるか。

 元の姿に戻った犬は食事を続けようとするが、すぐに餌がないことに気づき怒ったり悲しんだりする。

 つまり、〈品浮レビテート〉がかかっている間は完全に意識が無いのだ。

 もし人に対して〈品浮レビテート〉が作用すれば、魔法をかけられた相手は無防備になるためどんな犯罪でも可能になってしまう。

 これが、予言書に書かれていた“〈品浮レビテート〉が人に作用しない制限を設けた理由”である。


 魔法の原理については、いずれじっくりと話すことになるだろうとカイリは思っているし、マティに理解してもらうのは難しいだろうなとも思っている。


「マスタ……いえ、カイリ……様。この下にあるのが、そうです」


 口ごもり、たどたどしく話すマティを大きな瓦礫を置いたばかりのカイリが振り返った。

 マティが指で示す先。

 散らばった炭の間に白いままの布が見えた。


「“様”は付けなくていいって言ったろ」


 あきれたように言うカイリだったが、横を向いたマティの顔は不満気ふまんげだ。

 彼女が今でもカイリのことを“マスター”と呼びたがっているのは明らかだった。



  ***



 俺も頼みがある――。

 エルフの族長エステルを訪ねることを決めたとき、カイリがマティに話した頼みは三つあった。


 一つ目は部屋着のままでは格好かっこうがつかないので、服をなんとかしたいということ。

 カイリの服装はベッドで寝ていたラフな部屋着のままだった。

 二つ目は“マスター”という呼び方をやめて“カイリ”という名前で呼んでくれということ。

 三つ目は先に寄りたい場所があるからエルフ族を訪ねるのはその後にしてほしいということ。


 呼び方の変更については、マティがかなり抵抗した。


「呼称は精神のあり方に直接影響するもので、馴れ合いは役目を軽んじる態度へと繋がります。私がマスターをマスターとお呼びすることで、私自身が自分の気持ちを律することができますし、マスターは〝世界を救う者〟としての役目を普段から意識することができるのです」


 マティの目は真剣だった。


「何より、第三者に上下関係を表明することができ、私を敬う者は自然にマスターを敬うべき対象と認識します。それは誰かに協力を仰ぐ時に、少なからず効果を発揮してくれることになります」


 そんなマティの言葉に対し、カイリは首を横に振った。


「マティの言いたいことはわかる。俺はまだこの世界のことを何も知らないし、世界を救う目的に向かって人に協力を求める場面も多くなるだろう。ただ、何て言うか……」


 言いにくそうにカイリは続けた。


「マティにまで立場だけの呼び方をされると、俺としては心が疲れてしまうんだ。その……」


 言葉を詰まらせるカイリ。

 マティは黙ったままカイリを見つめている。

 自分の信念を曲げてまでマスターの言うとおりにする必要があるのかどうか、それを見極めるために。

 そしてカイリは、なんとか自分の気持ちを言葉にしようと努力していた。


「マティには……心を許せる相手であって欲しい。気を抜いたときの俺でも受け入れてくれる存在でいて欲しい。これは、甘えとは違うと思う。いや、甘えかも知れないけど……。もしマティが俺のことを……世界を救う道具のように見ているのでなければ……」


 マティの表情が固まった。

 カイリは目を伏せたまま話していて、彼女の方を見ていない。

 自分の動揺を悟られなかったことにほっとしたマティは、カイリからそっと目をそらした。


「出会ってまだ三日で……俺に心を許してくれとは言わない。ただ名前で呼んでくれるだけで――」

「わかりました」


 カイリが顔を上げると、小さな妖精が両目を閉じて息を吐いていた。

 そして開いた黒い瞳がカイリを見つめた。

 覚悟を決めた顔だ。


「私はマスターに、世界を救う者としての役割を期待しています。その気持ちはとても強いもので、まるで世界を救う道具と見なしていると言われても仕方がないくらいだと自分でも――自覚はありませんでしたが――確かにそうかもしれないと……思いました」


 今度はカイリが黙った。

 マティはカイリの言葉を否定しなかった。


「でもどうか――。どうかお許しください。一度諦めたとはいえ、私にとって世界を滅びから救うことは、とても言葉では説明できないくらい大切で……強い願いなのです。マスターには、納得できない言い訳かもしれませんが……」


 カイリは黙ったままだ。


「正直に申し上げて、今後も……マスターへの期待を隠すことは私にはできそうにありません。道具と見なすようなことはないつもりですが……役目を期待していることは確かですし……その……」


 言いにくそうに言葉を絞り出すマティ。


「……役目さえ果たしてくださるのであれば、マスターの人柄は二の次だと……そう考えていたことも確かです。それはマスターの人格をないがしろにするとても打算的な考えで……私はマスターの今の言葉を聞いて……自分の……心の醜さを……知った思いです」


 苦しそうな表情でマティが言葉を続けた。


「……それなのに今の私は、自分をどう改めたらいいのかわからなくて…………だって、世界を…………私は、世界を…………」


 震えるマティの閉じた両目から涙がぽろぽろとこぼれていた。


「だから……せめて、名前でお呼びすることは……受け入れたいと…………」

「ごめん」


 カイリが頭を下げていた。


「俺が言いすぎた。マティが俺のことを道具のように見ているなんて……そんなことはないとわかっていた。マティにはすごく良くしてもらっているのに……君を傷つけてしまった。本当に、ごめん。許してください」


 頭を下げたまま動かないカイリ。

 しばらく黙っていたマティが口を開いた。


「マスターは……ずるいですね。私に反省させておいて、すぐに謝るなんて。私がマスターに従うように、計算しているんでしょうか……」

「…………」


 そんなことはない。

 そう言いかけたカイリだったが、本当にそうだろうかと自問していた。

 そして自分とは逆にすぐに自己を反省し、心の醜さを認めたマティの勇気をうやまわずにはいられない……そんな気持ちになっていた。


「すみません」


 突然謝ったのはマティの方だった。

 顔を上げるカイリ。

 深く頭を下げたマティが頭を戻して微笑んでいた。


「マスター……いえ、カイリ様。

 カイリ様がそんな方ではないとわかっていました。

 出会って三日でも、伝わるものはあると思います。

 なんと申しますか……その……これで、おあいこでよろしいでしょうか?」

「…………」


 沈黙があった。

 気まずそうな表情のマティ。


 突然、カイリが吹き出すように笑った。

 ははは、と声を出して笑っている。

 それを見てマティも笑った。


「はは……マティには、かなわないって……よくわかったよ。ありがとう」

「マスタ……カイリ様が、私と真剣に話そうとしてくださったからです」


 ちょっと待って、と笑いながらカイリが言った。


「“様”は付けなくていいから。むしろ、付けないで」

「それは、でも……、いえ、はい。わかりました」


 反論せず了承するマティ。


(やはり気遣きづかってくれている。意見がぶつかって、譲ってくれている。マティにとっては、呼び捨てはかなり抵抗があることなんだろう……)


 そう思うカイリだったが、口には出さなかった。

 マティの気遣いが素直に嬉しかった。


こたえるさ。マティの気遣いに応えるには、世界を滅びから救うしかない)


 そう決意するカイリを、マティが複雑な表情で見つめていた。


(マスターを名前で呼びたくない本当の理由を、マスターに言えるわけがないし。私ももういいかげん、りてる……よね)


 この時のマティの思いをカイリが知るのは、ずっと先のことである。

 そっと目を閉じるマティ。


(きっと、大丈夫……)



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