リビングデッド・ラヴァーズ⑧

「ただいま」


 時刻はまだ四時半。夏の陽射しが高い中、帰宅した僕を出迎えてくれたのは、リビングで黙々と宿題消化に向かう桜だった。僕は手に持った紙袋を置きながら、スーツの上着を脱ぐ。


 七月二十七日、桜達にとっての夏休み初日。昨日帰宅してからかかりっきりの桜は、夏休みの宿題を初日に終わらせるタイプだ。

 桜が学校に行き始めたのは、東雲の家から救い出してから。それまでは夏休みも宿題も知らない子だったから、僕の教えを実直に守る事しか知らない。宿題を後回しにするべからず、この文言を桜は只管に守っている。


「おかえり、一片お兄ちゃん」


「ただいま桜。宿題の首尾は?」


「守備……? 宿題って、私と宿題の戦いだったの?」


「いや、その守備じゃなくて……えーっと、宿題は進んでる?」


「うん、進んでるよ。今日中には終わりそう」


 まだ小学生で、しかも田舎の学校だ。宿題といっても、簡易なドリルが三冊程。これを成してなにを得るか、ではなく、ただ成せば良いだけの身にならない学習だ。


「守備っていうから、野球の話かと思った。シャープペンがバットで、消しゴムがボール」


「桜は柔軟な発想をしているね。不思議の国のアリスも首を傾げる世界観だ」


 宿題をきちんとこなしているのは良い傾向であるが、この桜の変化はどうだろうか。

 ほんの二週間前までは野球の『や』の字も知らなかった少女が、今ではファンシーな空想にモチーフとして引っ張り出すくらいになっている。ナイターの放送は欠かさず視聴し、分からないルールがあれば僕に尋ねて来る始末。


 僕が戸破の家に来た時にはまだ子供で、姉さん達のそういう素振りには理解がなかった。けれど、今は僕が大人だ。鎖子はそういうのに興味がないし、真凛はまだ思考が幼い。だから、僕は家族の恋愛感情の機微に鈍感だ。なにせ経験がない。


 そしてなにより、その第一例目がよりにもよって桜とは。新しい家族の中で、桜が一番難しい。もしかしたら一番簡単なのかもしれないが、思考があまりにもブラックボックスだ。鎖子や真凛と違って、桜は独特。単一の意思は持ってはいるけれど、それを開示するという事はしない。


 それは僕が家族として技量不足なのかもしれないが、年頃の女子の胸中にずけずけと土足で踏み入るのは間違っていると信じている。だから、今回の桜については様子見だ。この年なら、間違いが起こる事もない。


 ない筈。ない。ないよな?


「一片お兄ちゃんの方はどうなの?」


「ん? どうって?」


「その、今回の件のシュビ」


「ああ」


 桜は視線をドリルに向けたまま僕に尋ねる。


 正直言って、収穫は殆どなかった。声合の村に来てからの山狩りで見つけたものはなに一つなく、せめてネクロマンサーの根城になりそうな場所でもあればと思ったけれど、別段異質な空間も、山神が居たであろう形跡も見当たらなかった。


 声合は、人里から隔絶されているかもしれないが、人の領域にあった。僕達の領域に非ず。此処はただの長閑な山村だ。


「うーん……あまり良くないかもね。なにも見つかってないから」


「なにもないんじゃないの?」


「そうかもね。僕達のやっている事は網漁業だ。ただ待つ事しか出来ない上に、魚が居ないのであればただ無為に終わる」


「ただ待つ身は辛いもんね」


「桜まだ小学生でしょ。何処でそんな言葉覚えたの?」


「漫画。そういえば、一片お兄ちゃん今日は何処に行っていたの?」


 桜は持っていたシャープペンを一度置くと、僕が朝家を出る時には持っていなかった紙袋に目をやる。


「図書館とスポーツ用品店」


「図書館?」


「ああ、凉ちゃんから聞いた、鬼憑きの話。声合に伝わる鬼の伝説。なにか情報がないかと思って文献を漁りに行ったんだ」


「それなら、この地域に住んでいる人に聞いた方が早いんじゃないの?」


 餅は餅屋、桜の言う事は合理的だ。普通、僕達の様な人間が、慣れない土地で活動をするとなったのならば、その地域に根を張る家を頼るのは自然な流れだ。活動内容によっては、挨拶に出向いていない事を理由に敵対する事もあるだろうし。時には外部干渉を断絶している様な家もある。群馬に根強く続く赤雪家なんかは、そういう一切の関わりを絶っていた憶えがある。


 けれど、今回は僕の方から頼る事はない。それどころか、僕がこの地域に入った事すら耳に入っていない筈だ。挨拶すら出向いていないのだから。


「僕もそうしたいのは山々なんだけれどね、今回の動きってのは、限られた人間関係の中で完結したいらしいんだ。冷然院家と、父さんと姉さん達。それに僕を含めた、極少数。これは今回の発起人である冷然院たっての希望だ」


「ふーん、そうなんだ。なんでだろうね? 皆で協力した方が絶対に早いのに。冷然院の人達って、協力してくれる人も多いんでしょ?」


「そりゃあこの国を組織化する事なく纏め上げた家だ。協力者には優秀な人が多いし、その数だって少なくはない。だから、僕が予想するに、これは外交だね」


「外交?」


「ああ、今回の討伐対象はアメリカの協会員を殺している。向こうさんにも面子ってもんがあるんだろう。自分の国を荒らした人間を異国の地に逃がしたってだけでも汚点なのに、その始末を異国の地の人達に任せました、じゃあ組織としての威厳ってものがない。この依頼はアメリカの協会が発端であるのだから、その内容を推し量るのは容易だ。どうせそんなところだろうさ。組織ってものはそんなものさ。そういうのを嫌ってこの国は冷然院が頑張っているけれど、事外交に限るならば、時には妥協も必要って事だね」


「んー……なんかよく分かんないや」


「そうだね。桜はそういうのは気にしなくていい。大人の難しい話さ」


 僕が言うと、桜はその話には大した興味を抱かずに、視線を僕が持って来た紙袋に移した。


「スポーツ用品店はなにしにいったの? その紙袋?」


「うん、ほら」


 紙袋の中から、黒い布袋を二つ取り出す。中には、新品のグローブが入っている。


「グローブ買って来たんだ。深一人だとキャッチボール出来ないだろ? 譲さんや綾さん、それに凉ちゃんも運動音痴だと言うから、僕が深のお兄ちゃんになってあげようと思ってね」


「え、私もやりたい」


「勿論、僕が居ない時は桜がやってあげてよ。ただ、今日は僕の役目だ」


「私も行く」


「桜は宿題するんだろう?」


「むー……」


 口を尖らせる桜も可愛いけれど、それ以上にこうも感情を露わにするその表情に驚く。桜は感情の起伏が少ないタイプだと思っていたけれど、事この声合に来てから、そして深に関してはその限りではなくなるみたいだ。


 お兄ちゃん複雑。年頃の女の子に心開かせるには、家族愛より恋心の方が有用なのだろうか。


「そんな訳だから、僕は深のところに行ってくる。家に居るかな?」


「うーん、練習するから、神社に居るんじゃないかな」


「ああ、裏の山にある神社か」


「そういえば、一片お兄ちゃん、あそこの神社は調べたの?」


「ん? 調べたって?」


「だから、裏山の神社。もしも神様が居たりした場所なら、私達の探しているねくろまんさー? だっけ、その人が秘密基地にしたりするんじゃないの?」


 秘密基地という言葉選びに思わず噴き出してしまう。先程の比喩も含めて、桜の可愛らしさには、愛おしさを感じながらも首を傾げてしまう。


「確かに、ああいう系統の人達は自分の拠点があれば自身の性能が向上する。故に拠点造りは必須だ。それは自分の能力に関連していたりすれば尚の事。けれど、その土地の神様の居場所や、神聖を保っている場所、これ等に関してはポジティブに働く面もあるけれど大体が博打だ。肌に合わない、神と相反する、そういった場合はむしろそれ等に敵対されてしまう可能性がある。だから、神聖な場所を拠点にするのはハイリターンであるけれどハイリスク。これから未開の地で事を起こそうとしている人間が行うにしてはリスキーだよ」


 神寄りの地に於いて力を増すなんて話は珍しくないし、なによりそこの神に見初められるだとか、土地に根付いた神話を再現するなんて話も奇異なものではない。けれど、それは全てはボタンをかけ間違えれば地獄の沙汰だ。神に喧嘩を吹っ掛けるに等しい。


「もしも僕が異国の地で拠点を作るのならば、まずは人目につかない場所、そして異質さの薄い、自分の性質に合った場所。以前にも話したけれど、今回の様なネクロマンサーならば、墓地であるとか、自殺の名所であるとか、ね。もう少し絞る事が出来れば僕の探索も楽になるのだけれど、こればっかりは可能性は無限に近いからね。只管虱潰しだ。靴を履き潰すしかないのさ」


「そっか。てっきり神様の居る場所に居るんだと思ってた」


「それだったら楽だったんだけれどねえ。まあそれに、あの神社に神様は居ないから」


「え?」


「この村に来て最初の日、桜と深が学校から帰って来る前に行ったんだよ。初めから分かっている事だったけど、神の社があるのならば、それは当たり前に向かう場所だ。その土地で事を構えるのなら、それをしない馬鹿はいない。結果として、あそこは蛻の殻。かつて神が居た訳でもない。人の信仰としてだけの媒介で、その結果神が生まれた形跡もない。ただの伽藍洞さ」


 連日の探索の疲れがあったからだろうか。それとも、単に僕が気が回らない木偶の棒だったからだろうか。


「そう……なんだ……」


 桜が目を点にして僕を見る理由を察するのは、至極簡単だった。


「ああ、でも、それとこれとは別さ。深の願いは神様に祈る様なものじゃない。願いは叶う。それは神に祈ればある程度の限界を超えて顕現するけれど、人一人の力でも十分にこの世に根を下ろす。僕という存在が此処に在る様に、人の願いに際限はないさ。だから、深の願いだって、きっと叶うよ」


 僕は馬鹿か。


 深があの神社で百日詣、神に願いをかけている事は既知だというのに、それを失念してただ事実を口にしてしまった。深を想う桜がそれに気を落とす事など容易に想像出来たのに。


「でも、神様に祈った方が確実?」


「確かにそうかもしれないけれど、神様は時に意思に反した願いを叶える事もあるから、やはり自分の力で叶える方が素晴らしいさ」


 もっとも、それであっても、自分の意思とは無関係に願いが顕現する事はあるけれど。

 

 僕だって、別にこんな力が欲しかった訳じゃない。


「じゃあ、僕はそろそろ深の所へ行って、キャッチボールをしてくるよ。あまり遅くなっては陽が暮れてしまうからね」


 僕は自分で居心地を悪くした空間から離脱しようと、話をぶった切る。脱ぎかけたスーツの上着をもう一度羽織り、グローブの入った布袋を手にした。


「いってらっしゃい」


 桜は宿題に視線を戻して僕を見送った。いや、これは見送っている内に入るのだろうか。入っていると信じたい。


 玄関を出ると、夏の陽射しはまだまだ元気だった。僕を焼き殺そうと睨みを利かせる。黒いスーツは夏に放たれた熱を余す事無く吸収するけれど、僕が上着を脱ぐ事はない。北風と太陽だって鼻で笑ってやるさ、可愛い妹達の為ならば。


 裏山へ向かう前に、深の家に寄ろうかと考えたが、今はいち早くグローブを見せびらかしたかった。勝手に物を買い与えるのは、自分の家庭に踏み入られたくない人にとってはタブーかもしれない。ただ、朝霧の家庭ならば恐らく大丈夫だろう。それに、これは日頃夕食の御裾分けを貰っている事に対してのお礼でもあるのだから。正義は我に有り、だ。


 かさかさの畦道を歩きながら、少しばかりの懸念を頭に走らせたタイミングで、ポケットの中でスマートフォンが振動する。取り出したディスプレイには、冷然院緋奈巳の文字。今回の依頼の大元。


「もしもし、どうしたんだい緋奈巳ちゃん」


「あー! 一片だー! 一片が電話に出たよ緋火璃ひかり


「本当だ! 一片だね緋火瑠ひかる! 一片ー! 元気ー!?」


 思わずスピーカーを耳から離す。甲高く、元気という言葉で括るには余りあるその声は、聞き間違える訳がなかった。


「緋火瑠ちゃん、緋火璃ちゃん、人の携帯でなにしているんだい?」


「だってー、パパも緋奈巳も構ってくれないんだもーん! ねー緋火璃」


「ねー! つまんないもんねー緋火瑠!」


 冷然院緋火瑠と冷然院緋火璃。緋奈巳ちゃんの従姉妹に当たる双子の姉妹は、とてもつまらなそうではない声色で続ける。


「暇だから一片相手してよー!」


「してよー!」


「勝手に携帯使ったら緋奈巳ちゃんに怒られるよ。というか、緋奈巳ちゃんは横浜に居る筈だろう? なんで君達が緋奈巳ちゃんの携帯を持っているんだい?」


 今回の依頼。ベルデマット・マクマフォンに張った網の数は七。緋奈巳ちゃんの担当は横浜のとある霊園の筈。そして、緋火瑠ちゃんと緋火璃ちゃんは桜と同い年の十。冷然が実戦に出るのは十五からだから、今は家に居る。だから一緒に居ない筈だ。


「一緒に旅行してんだー! 飛行機乗ったよ飛行機! ねー緋火璃」


「うん、乗ったね、楽しかったねー! えーっと……なんて所だっけ?」


「えーっとね……ヤシの木が——」


「こら!!」


 スピーカーから聞こえる二人の声に周辺の音が混じっていなかったから、向こうはスピーカーモードにはしていなかった筈だ。それでもこちらに届くくらいの怒号は、正体を推察する必要がない程に明確だった。


「なに勝手に人の携帯触ってんの!?」


「ひい、緋奈巳が怒ったよ緋火璃」


「逃げよう緋火瑠!」


 ドタバタしている様子を思い浮かべながら、思わず苦笑いする。数瞬間を置いてから、深い深い溜息を皮切りに、先程の二人とは違った美麗な声がスピーカーから流れだす。


「はあ……すみません一片さん、ご迷惑をおかけしました……」


「いやいや気にしないで。二人共相変わらず元気だね」


「先日冷然院にお越し頂いた時も、二人の相手を任せてしまい、もう私なんて言ったらいいか……」


「迷惑だなんて思っていないから、気にしないで」


「本当にすみません……一片さんそちらの様子はどうですか? なにか気になる事とか、変わった事とか」


 違和感があった。


 その会話の切り返しには、強い強い違和感があった。


「緋奈巳ちゃん、その切り替えはあまりに雑だ。本来する筈のない電話に現状確認だなんて尤もらしい理由をつけるのはどうしてだい? 直ぐに電話を切れば良い筈だ。理由はそうだなあ……緋火瑠ちゃんと緋火璃ちゃんが口走った台詞に、なにか僕に聞かれたくない事があった、とか」


 本来ない筈の電話に感じた異質さを、思いのまま口にした。電話先の緋奈巳ちゃんが口籠るのを確認して、意地悪に追撃してやる。


「沈黙は肯定だよ緋奈巳ちゃん。悪いお兄さん相手に手玉に取られてしまっているじゃあないか」


 図星を受けて表情を歪める緋奈巳ちゃんは想像に難くない。意地の悪い薄ら笑いが漏れそうになったタイミングで、電話口の雰囲気が一気に変わる。


「一片、俺の可愛い姪っ子を苛めてんじゃねえよ。ぶっ殺すぞ」


 緋奈巳ちゃんとは打って変わって、ドスの効いた男らしい声。


亜須佐あずささん、居たんですね」


「なにを言いやがる道化が。緋火瑠と緋火璃が居る時点で、俺も居るに決まってんだろうが」


 僕の浅はかな演技は簡単に見透かされた。


 冷然院亜須佐。冷然院家先代当主の弟。つまり、緋奈巳ちゃんの伯父に当たる。先程の怪獣達もとい、緋火瑠ちゃんと緋火璃ちゃんの父親でもある。


「それでは尚の事。どうして亜須佐さんは、緋火瑠ちゃんと緋火璃ちゃんを連れて持ち場を離れているんですか? 緋奈巳ちゃんは横浜、亜須佐さんは静岡という話では?」


「宮崎に釈迦郡しゃかごおり試練しれんという霊媒師が居る。知っているか?」

 

 声のトーンが急転直下、世間話をする温度から下がり始めた。 


「いえ、存じ上げませんね」


「今朝連絡があってな、その釈迦郡が殺された」


 夏の真下、暑苦しい空気が少し冷たくなる。


「霊媒師と言っても、死体が最後に見た光景を共有出来るってタイプの能力なんだけどな」


「ええ、なんせこの世界で霊魂の存在は確認されていませんからね。魂の定義は、その人達の様な人からしたら永遠の課題でしょう」


「ただ、死に纏わる能力である事は間違いない。関係者の話では、別段恨みを買う様な性格でも、そういう商売をしていた訳でもないそうだ。それなら現場に向かうのは当たり前だろう。異国のネクロマンサーがやって来てから殺された死に纏わる能力者だ。無関係と割り切れるかお前?」


 多分嘘のない言葉だろう。


 ただ、嘘がないだけだ。全てを話している訳ではないと思う。そこら辺をはぐらかすのは年の功か。まだ女子高生である緋奈巳ちゃんには難しい領域か。


「それで、ご家族皆で宮崎にって事ですか」


「ああ。緋鎖乃とアレは置いてきたけどな」


「アレ呼ばわりは酷くないですか、気持ちは分かりますけど」


「どうでもいいや。兎に角、こっちはそういう訳だから少し忙しい。進展があったら連絡するが、そっちも油断するなよ。宮崎のこの件はただの偶然の可能性もある」


「ええ、分かりました。留守にした横浜と静岡でなにも起きない事を祈っておきます」


「抜かせ」


 最後に嫌味を吐くと、捨て台詞と共に電話を切られた。


 冷然院と僕の関係を鑑みれば、なにか隠し立てされる可能性というのは低い筈だ。

 けれど、僕が推察している様に、アメリカの協会と冷然院の話し合い、ベルデマット・マクマフォンの件についてどの様なやりとりがあったのかは明確ではない。それ次第では、現状曖昧にされた会話の真意は僕の予想しない箇所へ着地するのだろうか。


「まあ、いいか」


 ただ、今は判断材料がない。それに、冷然院は僕と敵対する為に隠し事をしている訳ではない。お互いの関係値を考えれば、それはポジティブに考えれば僕にすら話せないなにかがある、というだけだ。それに深く立ち入る気もない。


 僕は僕の家族に不利益がなければいい。


 もう少しだけ思考を巡らせてみようかとも思ったけれど、暑さにうだる自分の脳みそをこれ以上酷使するのは嫌だった。


 畦道を往く中、畑作業を行う村の人数人とすれ違いながら挨拶をする。こういう閉鎖的な山村に於いて、余所者とは歓迎されないイメージがある。それは古い推理物の小説に登場した数多の山村の印象もあるし、実際に僕が仕事で色々な場所を訪れて感じた事でもある。だから、この声合は居心地が良い。村の誰もが僕と桜を敵視しない。


 畦道を抜けて、裏山へ。深や凉ちゃんが幾度となく通ったのであろう踏み明かされた道を登る。ああ、そういえば、この道はあの二人以外は使うのだろうか。神社には使われている様子もないし、村で祭りをしている話も聞かなかった。ただ二人だけの秘密の空間だったのかもしれない。そう思うと、此処に気軽に踏み入ったのは少し申し訳ない気がした。


 もしかして、凉ちゃんにとって桜はお邪魔者だったりしないのだろうか。


 そんな事を考えていたから、気付かなかったのだ。


 後々述懐してみれば、異様という言葉では括れない状況だった。ただ余計な事を考えながら裏山を登る僕の耳に、一切の虫の音が届かなかった事に、僕は気付かなかった。


 木々の隙間を抜けて、開けた神社の前に辿り着く。


「あ、一片!」


 そんな僕を見つけた深が、声をかけてくれた。


 そのまま素直に深の方へ視線を飛ばして、硬直する。深にプレゼントする筈だったグローブの事も、家で桜が宿題をやっている事も、先程までの冷然院との通話も、真夏の太陽から降り注ぐ光も、全部全部忘れてしまう程。


 それは、特殊合金で頭をフルスイングして打ち抜かれた衝撃に似て。

 それは、ヨーロッパで悪魔の出来損ないに噛みつかれた衝撃に似て。


「あれが東雲一片。最近この村に引っ越して来たんだ。一片、この人はベルデマット・マクマフォンさん。日本の神社とかが好きで、そういうのを見て周ってるんだってさ。昨日此処で会ったんだ」


 無邪気な顔で言う深を、今直ぐこの場から攫ってしまいたい。


 僕はその声に立ち竦んでしまう。距離が、遠い。


 いや、向こうの距離が近すぎる。


「おお! の登場ですね!」


 深の隣に立つ男は、心底楽しそうな表情で僕を見て言った。


 短パンに半袖姿で、唯一の荷物と思われる一眼レフを首から下げた筋肉質な男。金色の長い髪の毛の間から見える顔立ちは、堀が深く瞳が青い。


 どこか幼さの残るそんな顔で、ベルデマット・マクマフォンは笑う。

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