赤い宗家の白と黒⑧
「玉子ちゃん、これを付けてて」
「なんですかこれ?」
赤雪本家へと駆けるコンクリートの上。舞い上がった土の匂いはすっかり雨に撃ち落とされてしまって、濡れた草の香りが代わって空間を埋めていた。
僕はスーツの内ポケットから木製のネックレスを取り出し、玉子ちゃんに渡した。
「不可視の首飾りだ。付けている間、こちらから敵意や殺意を放たなければ、物理的に干渉するまで存在には気付かれない。今の君にうってつけのアイテムだ。ちなみに、僕はそこに玉子ちゃんが居ると分かっているから、見失う心配はない。長い時間視界から外れてしまうと見つけられなくなるから気を付けて」
完全なる防衛装飾。依頼された赤雪当主に渡す予定だった、日野浦商店の商品だ。
「でも、これでは交戦した時にばれてしまいます……殺気や敵意を完全に消す事は、とても私には出来ません……」
「君は戦わなくていい」
完全に存在を隠匿するそれは、刹那の攻撃意識にすら反応して、その効力を失う。だから、玉子ちゃんは戦ってはいけない。
「戦闘は全部僕がやる。玉子ちゃんは石を見つけ次第呑み込む係だ。この争いを終わらせる係。いいね?」
「……はい。あの、なにからなにまですみません」
玉子ちゃんは頷いて首飾りを装着した。
「依頼人だからね、当然さ」
「でも、正式なものではありません。むしろ、騙されてこの場にいる様なもの……それに、さっきの話を聞いた限りでは、本来なら家族同士の争いには決して加わらないと」
先程の車中での会話をしっかり聞いていた様で、玉子ちゃんは申し訳なさそうな顔で言う。
「過去に、なにかあったんですか?」
「んー……まあね。なんというか……なんでもない昔話だよ。今回の君達の様な、ね」
「そうだったんですか……」
「だから、君達を放って置けないのさ。家族を殺した僕は、家族を守ろうとする君達を放って置けない」
「え?」
雨の中を駆けて、赤雪本家に辿り着く。二メートル半程の壁に囲われた敷地は、見渡す限りの広大さ。その中にあって、更に大きい。正面に佇む門は高さ三メートルを超している。威圧的なそれは、門に取り付けられた外灯に照らされ、重厚にその戸を閉じていた。
「玉子ちゃん、簡単な此処からの経路って分かるかい?」
「はい、門を開けたら、本邸の玄関まで二十メートル程石畳が続きます。左右にはずっと庭が広がっていて……白王と黒王の在る庭は逆側です」
「なるほどね……皆見知った本家だ。正面突破する馬鹿は居ないって事か」
正門は開いていた形跡も、戦闘痕も見当たらない。皆、ここから入る事はしないのだ。
「なら、逆に美味しいかもね」
言って、僕は思い切り正門を蹴り付けた。雑に蹴り付けた足が雨粒ごと門を弾き飛ばす。鈍い破裂音を伴って、木製の門の片側が、千切れて飛んだ。
「ふー」
そうして壊れた門を潜る。僕の予想通りに、門の付近に人影はない。
長い石畳が続く先の玄関にも人の気配はなく、視界の端と端を埋める大きな屋敷は、灯りこそついているものの、なにか異様な雰囲気を纏っていた。
「ちょ、一片さん! なにをしているんですか!?」
「玉子ちゃんしっ。君はここからは雲隠れに徹しなければ。そうでなければ、態々僕が大袈裟にした意味がないだろう」
「あっ……」
僕が目立てば、その分玉子ちゃんへの注意は逸れる。不可視の首飾りをしているとはいえ、物理的な干渉で効力はなくなるし、玉子ちゃんが戦意を持ってしまってもだめだ。
そういう一切合財は、僕が引き受ける。
「っ——」
早速だ。右側。石畳横に広がる庭。その土を蹴り上げた影が一つ、僕へ一直線。
縁側の戸から漏れる光を弾く影は、長物を携えている。恐らく、槍。螺奈さんの一族だろうか。今は思考よりも行動だ。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ影から視線を切って、玉子ちゃんを見た。言われるまでもなく、玉子ちゃんは影を見ていた。じっと、凝視していた。
それなら、後は成る様に成れ。
速攻の一突きは僕の喉笛をしっかりと捕捉していたけれど、螺奈さんの一突きに比べれば止まっている様なものだ。
僕はその一閃を掻い潜って敵の顔面を鷲掴みにすると、そのまま石畳に叩き付けた。
鈍く鋭い音を立てて石畳が抉れる。叩き付けられた頭が割れる感触がして、敵は体を一度だけ痙攣させて、すぐに動かなくなった。
僕が殺害に至るまでに、敵は動きを止めなかった。それはつまり、敵意しかないという事だ。
「玉子ちゃん、遅れて確認するけれど、敵が君を視認していなければ、邪視は効かない?」
「……いいえ。邪視は、その人が内包している私への敵意や悪意、殺意によって効力を失います。ですから、不可視の首飾りで私が見えていない相手であろうと、私が視れば大丈夫です。今、私の邪視は効きませんでした。ですから——」
「行こう」
僕から尋ねた事だけれど、それ以上は余分だったから玉子ちゃんの言葉を遮った。
口上もなかったこの槍兵は、命の火を消した。もう、この敷地内は、どうしようもない虐殺空間だ。
僕が先行して、その後を玉子ちゃんが付いて来る。玄関の戸を横に開けると、倒れて戸に寄りかかっていたのであろう血塗れの死体が倒れ込んで来た。重力に引かれたそれが、頭部を石畳に打ち付けて鈍い音を発する。玉子ちゃんが、思わず目を閉じた。
「玉子ちゃん、目を背ける余裕はないよ」
「……すみません……すみません……でも……」
戸破の実家の三倍程はありそうな玄関。広い玄関からは、左右に縁側、そして奥に廊下が伸びている。綺麗に磨き上げられていた木目の廊下は、灯りが途中で消えている事も相俟って、三方向とも最奥部まで視認出来ない。旅館のそれに似た日本家屋から品位を感じ取るけれど、その合間合間に異物が混じる。
正面の廊下に、見えるだけで二つの死体。並ぶ襖の美麗な模様を、血飛沫が塗り潰している。
玄関に倒れ込んだ死体を踏み越えて、土足のまま家に上がる。静寂の中で、微かに怒号と剣戟の音がする。
「大分大きい屋敷だね……階段が見当たらないけれど、奥?」
「はい、階段は奥にある少し変わった造りをしています。地下も、螺奈さんと幽亜さんが向かった様に、逆側の庭近くに入り口が」
左右の縁側を交互に見ると、それぞれにも幾つか死体が転がっている。奥の廊下と違って、こちら側は廊下に際した襖の幾つもが破損している。所々戸も壊れており、そこから僅かに雨が侵入している。
本来であればさぞ壮観なのであろう屋敷は、既に退廃的な空気を纏い始めている。
幾度も嗅いだ事のある、血潮の匂い。
幾度も見た事のある、終わりの景色。
そういう経験則からくる嫌な予感が表情から漏れてしまったのか、玉子ちゃんが不安そうに声を震わせる。
「一片さん……どうしましょう……これから、何処へ……」
その声にはっとして、諦めの胸算を掻き消す。
「大丈夫さ。行こう。付いて来て」
僕は彼女の不安を払う様に、彼女の手を引いて歩き出した。右側の縁側を進み、屍を跨いで襖の外れた部屋を覗く。
廊下の灯りが微かに差す部屋の中では、血塗れの肉塊が井草の匂いを潰していた。二十畳程の部屋は、四方を襖に囲まれている。
「基本的に、部屋はこんな造りかい?」
「はい。手前は同じ様な部屋が幾つも繋がっています。奥に行けば、改築された洋間なんかもあるのですが……」
戦争には持って来いな造りな訳だ。
奥の襖を開く。暗がりで気付かなかったが、襖の取っ手が滑る。赤い赤い液体で、滑る。スーツで拭った手で開けた部屋には、幾つかの屍が折り重なっていた。
相変わらず、屋敷の奥の方からと思われる激闘の音はくぐもって聞こえる。
しかし、想像していたものと状況が大分違う。この場に来るまで、ここはもう息吐く暇もない厳酷苛烈な槍衾。そう思っていた。
暗がりと静寂。血の残り香と、人の油の匂い。
まるでこれは、終息の空気。
大惨事の後始末に訪れた様な、そんな空気。
僕がその空気を更に強く感じ取った刹那、体が反応する。
襖の奥の奥の奥。此処からそう遠くない、そして近くない距離からの、殺意。
襖越し、二十畳の広い空間を突き抜けて僕の命に狙いを定めた、明確な殺意。
「玉子ちゃん! 伏せて!」
僕の言葉に反応して、玉子ちゃんが身を屈めた。僕も数歩後退して構える。
集中して視界が一瞬点程に狭まって、また広がる。聴覚が一度その全てを掻き消して、復帰する。先程まで聞こえた、遠くの剣戟と怒号が完全に消え失せた。
だから、静寂の中でその殺気は、索敵が不得手な僕にすら知覚される程に浮き彫りだった。
だから、その音もはっきりと耳に届いた。
乾いた、擦る様な音がはっきりと耳に届いた。僕の右側の部屋。そこに続く襖が開く音。確かに、人の気配はなかった筈なのに。
殺意の方向から視線を切って、そちら側を見る。そこには、隣の部屋。同じ作りの部屋。そこは暗くて、誰も居なかった。
独りでに開いた襖に、気を取られた。
瞬間、轟音に形容される音が跳躍する。幾重も先から飛来したそれが、間間の襖を全て弾き貫いて、僕に直進した。
「あ!」
「あ!」
それと目が合った。良かった。一度見ておいて。気を取られた僕であったけれど、初見でない事が幸いした。
命を狙った必殺の一突きは、またも僕の右手が鷲掴みにしてその攻撃を止めた。
「十さん!」
「おいおい、まじかよ。同士討ちかよ」
螺奈さんの悲鳴にも似た声に続いて、螺奈さんの背後の暗がりから幽亜くんが現れた。
「あっぶ、危ない!」
「す、すみません十さん。人を見つけたものですから……こんな状況ですし、先手必勝と思って」
「見つけた? 螺奈さんの方から僕が見えたの?」
「ああ、これです」
螺奈さんは、言いながら自分の手に張った一本の糸を見せた。
「私の糸、振動で索敵も出来るんです。さっき囮に襖を開けたのも、私の糸でやったんです。念の為に、本家に来てから赤百合総出で索敵と自陣作成として屋敷に糸を張り巡らせておいたんです。一度持ち場を離れても、糸はある程度操作出来ますから」
言いながら螺奈さんが指を動かすと、先程独りでに開いた襖が開閉する。
「この糸、範囲はどれ位?」
「屋敷中隈なくです。庭も勿論。赤雪の敷地内は、全て」
敷地面積は、千坪だと言っていた。螺奈さんの眷属がどれ程協力しているかは分からない。けれど、それ程の範囲を網羅する能力など、最早千里眼に比肩する。しかも、その中で襖を開閉するなんて動作まで。
もしも螺奈さんが形成した陣内での戦闘であるなら、僕とて有利に戦闘を運べるか分からない。幽亜くんも相当の使い手であったが、螺奈さんも十二分に化け物だ。この国の中でも、相当に上位ランクの使い手。
その二人が居て尚、恐れる白王と黒王。
神に類する、山の神秘。
「螺奈さん! 幽亜さん! 石は見つかりましたか!?」
「ん? あれ、なんだ。おいおい、まじかよ。十一片、お前玉子どこやった?」
目の前から聞こえる玉子ちゃんの声に四方を見渡して困惑する幽亜くん。当然だ。今、玉子ちゃんは僕以外に視認されていない。
「本当だ、玉子の声だけする。十さん、これどうしたんですか?」
「ああ、ごめんね二人共! はい! これで見えますか?」
玉子ちゃんは螺奈さんと幽亜くんの肩に触れる。二人にとっては突如目の前に玉子ちゃんが現れたのと同義で、大層に驚いている。
「うわ! びびった!」
「きゃ! びっくり。玉子どうしたの?」
「これ、一片さんに借りたんです。不可視の首飾りだそうです」
「はあ……すげえもん持ってんだな、お前」
「でしょ?」
幽亜くんにどうだ、と言わんばかりの態度をしてみせるが、別に僕制作のアイテムでもないし、僕の能力でもないので少し虚しかった。
「それにしても、二人共合流が早かったね。この屋敷、随分と広い様だから、合流はもっと遅れるかと」
「はい、私達もそう思っていました。けれど……その、なんと言えばいいのでしょう……」
多分に、螺奈さんも僕と同じ事を感じている。
「もう、終わりかけの様だね」
「……はい。此処に来るまで、私と幽亜は一度の交戦しかしていません。ここまでの道のりで出会った親族は。殆どが屍でした」
「屋敷には何人居たの?」
「赤雪が三十、赤百合が二十ですね」
「随分と多いね……まあ、総動員ってとこだろうしね。えっと……」
思わずその言葉が憚れたけれど、幽亜くんが間髪容れずに続けた。
「全滅だ。螺奈の友達だっつー空間作成の呪術師も死んでたし、他の家の連中も何人も死体になって転がってたよ。しかも、石は見つからず仕舞いだ」
「もしかして、既に白王も黒王も回収されていて、この場を離脱しているなんて事は?」
「いや、それはねえ。俺と螺奈は庭側から来た。ちゃんと二つとも馬鹿みてえに庭に転がってたぜ」
幽亜くんが平然と言う隣で、螺奈さんが不安そうに唇を噛んでいる。
「螺奈さん、索敵でどれくらい人が残っているか分からない?」
「すみません。十さんと玉子の居たこちら側は糸が残っていたのですが、廊下を挟んだ反対側の糸が機能していなくて。恐らく断ち切られたか、戦いが激しくて消失したか……だから、地下室の後、糸の残っていたこちら側を探していたんです」
「じゃあ……反対側を行くしかないか」
暗がりの部屋を出て、灯りの残る縁側を歩く。逆に伸びる縁側と、奥へと続く廊下が交差する開けた玄関に戻る。
「さて、どうしようか。取り敢えず、四人で行動をしよう。玉子ちゃんは隠れたままで——」
「あ!」
僕の言葉の最中、螺奈さんが声を上げた。
奥へと続く長い廊下。その暗がりの方へ声を上げた。
三人揃ってそちらに視線を飛ばす。長く続く廊下の暗がりから、人影が現れた。
「空!」
僕程の長身で、がっしりとした体格をしていた。黒の短髪で精悍な顔立ちで、螺奈さんの様な和装だった。真っ黒の、和装。
螺奈さんはランスを置くと、空と呼んだ男に駆け寄る。ああ、そういえば、玉子ちゃんが言っていた気がする。
『ですから、幽亜さんや螺奈さん、それに、赤月のところの空さんみたいに、私を、私達八王子を受け入れてくれた人達に恩返しがしたいんです』
赤雪分家の一つなのだろう。玉子ちゃんを受け入れてくれた一人なのだろう。
記憶の片隅にあった言葉を思い出して、その光景を漠然と見ていた。見てしまっていた。
人は、基本的には救われたいのだ。
不幸になりたいなんて願う人は居なくて、だから、絶望を許容していたって、それは妥協が名前を変えただけ。元来、願うのは幸福だ。
人は、最後には救われたいのだ。
故に、人類は人類として発展し得た。手を取り合って、生きて来られた。種を絶やす事なく、生きて来られた。
だから、僕は、ただ、見てしまった。
その中で、玉子ちゃんだけが、我武者羅で遮二無二だった。玉子ちゃんだけが、地獄を理解していた。
僕達は、まだ甘かった。
「螺奈さん! だめ!!」
玉子ちゃんが叫んだ時には、螺奈さんは止まっていた。
止められていた。
廊下の灯りに煌めく穂が、赤を交える。螺奈さんの真っ白な和服、その背中に、赤が滲む。
槍頭が、螺奈さんの胸を貫いていた。
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