第56話 酒場で絡まれたときのために
酒場でマッドドッグ・ビフ・タネンみたいなのに絡まれたら。
やっぱりダンスのトレーニングもしておいた方がいいんだろうか。ムーンウォークくらいなら多少出来なくもないが、スムースクリミナルを一通り踊れるほうがいいか?
などと馬鹿なことを考える休日。休日と言ってもヘンリー師匠の野鍛冶指導がないだけで、ベック師匠の指示による銃の鍛錬は継続している。自分で課した至近距離、複数対象に数発づつ撃ち込む練習も欠かさない。リボルバーとオート、両方ともだ。午後にはフライス盤でスライドに滑り止めを刻む作業がある。もっとも作業手順は覚えている。あとはミスをしないように、ゆっくりゆっくりと金属を削ってギザギザをつけてゆくだけだ。
毎日毎日、精神的に張り詰めていたらいつか爆発する。それはいけない。銃があるおかげで自殺もえらく手軽なのだ。思い立ったらバレルを咥えてトリガーを引くだけ。こんなことを考えてしまう程度にはよろしくない精神状態。
なので気が休まるときには出来るだけ馬鹿なことを考えるか、単純作業でよけいなことを考えられないくらいに集中し、脳みそを空っぽにするのがいい。敵の攻撃をリアルに想定した銃のトレーニングに集中。よけいなことを頭から追い出すのもいいが、気がついたら自分のこめかみに銃を当てていた、なんてのも危険だ。やるならできる限りシンプルな作業。
作業に集中するためにミリーに完成したブーツを取りにいってもらおうとお願いする。
「いいよー。かわりに算術の勉強は今日はなしでいいよね?」
上目遣いで返事を待つエミリー。
「たまには息抜きも必要だからね。今日はブーツ受け取りが終わったら休んでていいよ」
「やったー!」
ブンブンともふもふなしっぽを振るミリー。実に分かりやすくていい。「フンフフーン♪」とミリーの鼻歌が聞こえてくる。
この平穏な毎日を失いたくはない。
ミリーが届けてくれたブーツは実に馴染んだ。日常業務が終わった後に格闘の練習もしたい。しかしさすがに指導してくれる人間がいない。シューティングレンジの端に木の柱を立て、薄く造った土嚢をくくりつけてサンドバッグ代わりに殴ったり蹴ったりするのが関の山だ。前の世界での、見よう見まねで覚えている前蹴りや掌底打ちを繰り返すくらいしかできない。作業用の革手袋も師匠に新調してもらっていたので、古い方に柔らかめのゴム板と布を重ねて手の甲側を補強。人差し指と親指、中指部分を切り取ってオープンフィンガーグローブ代わりにする。銃やナイフも持てるし、相手を掴む事も細かい作業もできるグローブだ。
ある程度慣れてきたら次のモーションも練習。極至近距離、低いスタンスで立ち、見まねのフックで牽制しアッパーや肘打ちで
終わったら腕立て伏せと腹筋、荷物を背負って短距離のランニング。腕立て伏せは肩幅より開いた位置に手をつくパターンと肩幅よりちょっと狭く手を置くパターン。それぞれ胸筋メインと腕の筋肉メインのトレーニングになるはずだ。やはり効能はうろ覚えなのだが仕方ない。
この世界にスポーツトレーナーはいないし、体系化された筋トレもない。実戦の中で使う筋肉だけ、自然に鍛えられていくのが主流だ。というよりそれしか強くなる方法は存在しない。戦前の武道家のようだ。俺は前の世界の知識で効率を多少なり上げるくらいしか思いつかない。組み手が出来る相手でもいれば多少は違うのだろうが……。
ある程度慣れたら土嚢柱を増やし、囲まれたシチュエーションの練習も加える。前蹴りの代わりに横蹴りで距離を置くモーションも加える。トドメはやはり銃撃だ。複数人相手の場合、一人くらいは関節を極めるなりして殺さずにおく練習もしたい。しかし柱が相手では不可能。あきらめて相手の戦力、戦意を削ることを第一に動きを身体に叩き込んでいく。
これが毎日のトレーニングに加わった。
俺は鍛冶屋を目指しているのか、それとも戦闘、格闘術家をめざしているのか。だんだんと曖昧になってきている気がする。いちおう日中は銃鍛冶、野鍛冶をメインにやってるので鍛冶屋だと言い張りたいところだが。やはりよろしくない精神状態、その攻撃性が
なんにせよ俺には関係のないことだ。前の世界の薬が手に入る訳じゃなし。折り合いをつけて生きていくしか無い。セイヨウオトギリソウかその近隣種が手に入ればいくらかマシになるのかもなぁ。師匠に教えてもらった薬屋にでも行ってみるとするか。
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