現在 その五(最終話)

 あのあとあたしは拳銃を海に投げ捨てて、駆けつけてきた男たちに、彼女は自殺した、と嘘をついた。男たちはすんなり信じた。そいつらは帰りの車で、ずいぶん前から彼女にはその傾向があった、って話をしていた。それから、彼女の遺体はあとで回収するだろう、とも。あたしはなんのお咎めもなく秒針の欠けた時計みたいな日常に戻された。彼女の死は教室を一週間ほど賑わせるくらいの力しかなくて、卒業式のころにはほとんどの生徒が秒針の存在を忘れていて、あたしもそんな生活に適応していた。


 あたしはそれらのことを、多少のブラフを挟みつつ少女に話した。あたしが語るストーリーの中の彼女は、最後の瞬間にあたしから拳銃を奪って自分で引金を引いて自分で海に落ちた。些細な違いだ。でも、この少女にとってその違いは大きいだろう。人間って、そういうところを気にするいきものだから。


「ありがとうございます。すっきりしました。ここの料金は、わたしが払います」


 少女はテーブルにスプーンを置いた。伝票を取って立ち上がる。あたしはレジの方を向きかけた少女の腕を掴んで引き止めた。


「待って。一つだけききたい」

「なんですか?」

「君、いま何歳?」

「十八です。今日、十八になりました。姉と一緒です」


 あたしは少女の瞳をじっと見つめた。


「だいじょうぶですよ」少女は肩をすくめる。「このあとは、普通に家に帰ります」

「君は……死にたいって思わなかったの?」あたしはきいた。

「思いましたよ」今朝の天気を答えるような口調だ。

「だったら、」


「でも、普通そういうのって思うだけじゃないですか。どんなに健全な人だって、二ヶ月に一回くらいは、死にたい、って思うことがあるでしょう? でも、ほんとうに死ぬ人は少ない。そんな日常的な〝死にたいタナトス〟は、もうみんなそういうもの、って割り切って生きている。でも、姉は違った。割り切れなかった。たかが嫁に行くだけですよ? たしかに自由はなくなると思うけど、狭くて息苦しい世界だけど、でも死ぬほどのことじゃない、とわたしは思う。だから、姉が逃避行の果てに死を選んだことについて、どうしても腑に落ちなくて、わたしはここのところ、ずっと生きていたころの姉をなぞるように生活していました。そうやって、姉の考えていたことをトレースしようとしていたんです。でもやっぱり分からなかった。きっと姉とわたしでは、どこかが決定的に違っているんだろう、って思いました」


「それの最後の仕上げとして、あたしを呼んだの?」

「そうです」


 この質問は、しておくべきだと思った。


「旅路をなぞってみて、君は答えを見つけた?」

「それは……」少女はほほえんだ。「学校の先生みたいな質問ですね」


 答える気はないのだ、とあたしは解釈した。ずっと掴んでいた少女の腕を放す。これで、追憶の旅は終わり。あたしはこのお嬢様をあの町まで送り返して、帝都の大学寮に戻ってルームメイトと一緒に夕飯を食べて、それから寝る。そして次の日にはなんの変哲もない日常が、あたしのカレンダーには居座っているんだろう。


「あなたですよ」


 レジへ向かったと思った少女は、いつの間にかあたしの傍らに立っていた。


「え?」

「姉にはあなたがいた。わたしにはあなたがいなかった。それが違いです」

「それは、」


「友達、って意味じゃありません。友達ならあたしにだって沢山います。こういうのは悪いけど、無愛想な姉よりもよっぽど社交的ですよ、わたしは」


「じゃあどういう、」

「きっと、国民」

「は?」


 少女はあたしの目を見て、


「姉は自分の周りに国境を引いていたんです。姉の国土には何人たりとも踏み込むことはできなくて、その国境を一歩出れば、そこにいる人たちは敵国か友邦。だけどあなただけは違った。あなただけは、姉の国の国民になれたんです」


 わたしですらなれなかったのに。

 少女はかすれた声でそう言った。


「姉はたまに、あたしに学校の話をしてくれました。その日に起こったことを、モノクロ写真みたいに淡々と。それはきっと、わたしを友邦と認めてくれていた、ってことなんでしょうけど、やっぱり姉の話は近況報告以上の意味を持つことはありませんでした。けれど高校一年生のある時期から、姉の話には色が帯び始めます。わたしはすぐに気が付きました、これまで姉の世界に登場しなかった一つの影に。姉と会話をする、一人の女子生徒の存在に。それがあなたです」


 あたしは想像する。彼女が嬉しそうな調子であたしのことを話す様子を。彼女らしからぬ仕草で笑いながら、妹に語りかける彼女の姿を。


「だから、あなたを連れて逃げたんです。友達があなたしかいなかったから、ではない。姉があなたに抱いていた感情は、友達へ向けるそれよりももっと切実なものだったんだと思います」


 少女は言った。


「あなたは姉の世界の半分だったんです」


 世界の時間が止まった。


「それは……」


 それはあたしも同じだ、そう言おうとした。けれど舌はそこで止まってしまって、喉からは声帯を介さないかすれた声がもれるだけだった。だって、彼女が消えてからも、あたしは普通に生きている。むしろ、薬物の依存から抜けたみたいに、彼女が世界から失われて以降のあたしはすっかり普通の女の子になってしまった。大学では友達も作ったし、ルームメイトとだって上手くいっている。ルームメイトは紛れもなくあたしの親友だ。お互い家族に会ったこともある。夕飯は毎日一緒に作っているし、仲違いしたことは幾度もあれどその度に仲直りしてきた。あたしはそんな普通な人たちに囲まれながら、普通以上の生活を送っている。それじゃあ、


 あたしにとっての彼女って、なに?


「今から言うことは、わたしの完全な妄想です。もしかすると気を悪くされるかもしれないので、聞き流してくださって結構です」


 少女の口調からは、灯籠の隙間から漏れる炎みたいな隠しきれない悔しさがにじみ出ていた。


「姉はあなたに引金を託したと、そう言いましたよね。あなたに殺してもらおうと思ったと。でも、それはこう解釈できるとも思う。姉はあなたに二つの選択肢を与えたんだ、と。……わたしが言いたいこと、本当は、もう分かってますよね?」


 時間が動き出した。少女は床を踏みつけるように足を進ませると、レジに伝票と一万円札を叩き付けた。おつりももらわずに、引き止める店員の手も振り切って、夕日に変わりかけた陽光の中に、制服姿が飛び出す。そして、振り返らずに歩き出した。春の終わりの風が少女のプリーツスカートを揺らすのを、あたしはファミレスの席からずっと見つめていた。


 店員からおつりを受け取った。彼女は家のしきたりで帝都へ行くはずだ。もしかすると、向こうで会うこともあるかもしれない。それからあたしはファミレスを出ると、ケータイでタクシーを呼んだ。無愛想な運転手に目的地を教える。ここから先は、最後の道だ。



 さっき、あたしが彼女の妹についた嘘は二つある。一つは、最後に引金を引いたのは彼女だ、ってこと。もう一つは、あの逃避行の終わりの地の場所を、あたしが把握していない、ってこと。そう、あたしは覚えている。彼女がこの世界から旅立った場所のことを。あの崖の近くの電信柱に貼り付けられていた看板には、『木礁 5−1』って書かれてあったんだ。つまり、あたしたちは少なくとも、初めに彼女が行くつもりだったルートは全て踏破していた、ってこと。


 タクシーは二時間くらい走って目的地に着いた。あたしはお金を払って降りた。途端に潮風があたしの髪をさらって視界を塞ぐ。あたしは苦心して、髪の毛をクジラの潮みたいにまとめて手で押さえてから、崖に向かって歩き始めた。六時前くらいだろうか。西日は右手の方向にある。ガードレールから乗り出してみると、やっぱり海面は夕日を乱反射していて、直視してしまったあたしから視力を奪った。


 あたしはしばし、目をつぶる。そして考える。彼女の妹が去り際に置いてきた言葉について。


 彼女はあたしに二つの選択肢を与えた。


 一つは、そう、そのまま解釈すれば、簡単に分かる。つまり、彼女はあたしに引金を引く、という選択肢を与えたんだ。そうすれば、あの逃避行を一瞬で終わりにできる。彼女は家のしきたりに縛られずにすむし、あたしは彼女の酔狂から解放される。様々なものを失いつつも、物語は一応の大団円を見せる。


 もう一つは、全く別の解釈。〝引金を託された〟ことに対する逆転の発想。


 


 あたしは目を開けた。風は凪いでいる。西日もほとんど顔を隠していた。諦めの悪い明るさをはらんだ藍色の空が駆け足で過ぎ去って、やがて夜が来る。


 彼女の妹の言った通りだ。あたしは彼女の、その第二の期待にずっと前から気付いていた。彼女は生きたかったんだ。あたしと一緒に、二人で。だからあの日も、あたしが来るまで自殺しようとはしなかった。ずっと拳銃を握りしめて、ガス欠になった軽トラの中で、海を眺めながらあたしを待っていた。それはきっと、彼女にとっても最終手段的な選択肢だったんだろう。あそこで命を落とさなければ、彼女はしきたりによって帝都に嫁がされる。そうなれば、自由は永遠に失われる。なぜならそこは牢獄だ。カラダとココロを奪われて、家のイルミネーションの一つに成り下がる。だけど、だけど会えなくなるわけじゃない。一年に一回しか会えないかもしれないけど。五年に一回しか会えないかもしれないけど。十年に一回かもしれないし、一世紀に一回かもしれないけど。でも、永遠に会えなくなるわけじゃないんだ。


 カラダとココロは奪われても、世界の半分は失われない。


 あたしに会うことはできる。


 それが、彼女にとっての最後の希望だったのだとすれば。


 彼女にそんなふうに想われていたのだとすれば。


 あたしはどう思う? ……たぶん、嬉しいのだろう。


 だって、ほら、あたしは笑ってる。


 言われなくても分かっているさ。こんなの、妄想だ。実際には、彼女は単に宗教上の理由かなにかで自殺ができなかった、ってだけかもしれない。だから、都合良くその場にいたあたしを説得して、銃を握らせたってだけかも。もし、あたしがあのとき撃たなかったら、彼女はあたしを睨みつけて「絶交してやる」とでも言って、あたしのココロにホチキスで付けたみたいな小さな傷を与えたかもしれない。一つの友情が破綻しただけで、他にはなにも失われずに逃避行は終わったかもしれない。


 だけど、妄想くらいさせてほしい。


 それはとっても優しい妄想なんだ。まるで誰かの唇みたいに、温かい吐息をあたしのカラダに吹き込んでくれる。全身がぽかぽかとあったかくなって、湯船の中で二人並んで眺めた夜空の景色を思い出させてくれる。例えば、湯船の中で二人並んで眺めた夜空の景色とか。


 そこから記憶の時間はどんどん巻き戻されて、あたしは高校の廊下に立っている。スクールバッグを肩に引っかけて、壁に背をもたれてぼんやりと薄暗い天井を眺めている。いつぞやの放課後の光景。あたしたちはいつもみたいにくだらない議論をして、そして例のごとく決着はつかずに帰宅することになった。廊下に出た途端に彼女はどこかへ行ってしまう。もしかしたら帰ってしまったのかもしれないけど、一応あたしは待っている。十分くらい待つ。それから、あたしは壁から背中を離す。もう彼女は帰ったんだと思って、昇降口へ足を進める。突然、冷たい感触が頬に生まれる。死ぬほどびっくりして飛びすさると、炭酸飲料の缶を片手に国を傾けそうな微笑みを浮かべる彼女と目が合う。あたしは文句を言いながらも、彼女の差し出す缶を素直に受け取ってプルタブを開ける。二人並んで橙色の校内を昇降口まで帰る。お腹の奥の方には、湯たんぽみたいな温かさが生まれている。


 そうか。あたしにとっての彼女って、そういう存在だったんだ。


 抽象的で観念的な理解が、あたしの腰のあたりにすっと落ちた。


 空は最後の明るさすらも手放そうとしていた。海面は道路照明灯の明かりを反射していて、それらはどうしようもなく霞んでいる。潮風があたしの頬を冷やす。あたしはお腹の上の方にたまった塊を海に向かって吐き出した。それは形容しがたい声になって喉から溢れ出して、まぶたの端からこぼれるしずくと一緒に海に飲み込まれた。最後に彼女を飲み込んだ、あの海に。


 彼女が死んでから、あたしは初めて泣いた。


 やがて涙が涸れると、あたしはその海にさよならをして、ゆっくりと来た道を帰っていった。




おわり

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見えない敵から逃げる少女とあたしの話 takemoana @takemoana

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