二年前 その五

 そこには彼女がいた。あたしは窓から顔を半分だけのぞかせて、男二人と会話をする彼女の様子を眺めていた。そこは崖の上で、ガードレールの向こうには、白い絵の具で塗りたくったように夕日を乱反射する海が見えた。彼女が運転してきたものと思われる軽トラは、道から少し外れたところに停車してあったから、きっと彼女はそこで休憩していたのだろう。男二人と彼女はしばらく会話をして、やがて男の片方がバンに戻ってきた。


「なあ、君」そいつがあたしに呼びかける。「お嬢様が君と話したいことがあるそうだ。二人きりで」

「ちょっと待て、せっかく捕まえたのにまた逃げられたらどうする?」運転席の男が言った。

「なあに、大丈夫さ。あのトラックのメーターを確認したがね、もうオイルは残ってないんだ。お嬢様も、もう観念したとおっしゃっている」


 運転席の男はしばらくコンピュータみたいに唸っていたが、やがて重々しく頷くと、あたしに外へ出るよう促した。あたしは彼女の側に残っていたもう一人の男と入れ違いで、彼女の前に降り立つ。


「五分だけです!」運転席から男が叫んだ。「五分経ったら戻ってきます。それ以上のわがままは聞けません」


 彼女はハエでも払うみたいに片手を振って、バンを追い払った。アクセルの音がだんだん遠ざかっていく。ついに、あたしと彼女だけが潮風の中に取り残された。


「ごめんね」まずは彼女が謝った。「お水に睡眠薬混ぜちゃった。ちょっと苦かったでしょ」


 正直味なんて覚えていなかったけど、あたしはうなずいておく。


「あたしも、ごめん。あいつらに連絡したの、あたしなんだ」

「うん、知ってる。でも、どっちにしてもそろそろ潮時だったんだろうね。君のおかげで、わたしの決心も固まったよ」


 海面からの光が眩しい。彼女の顔が、逆光でよく見えない。


「そうだ、あれ、返してよ。あんな物騒なもの、あんたにはふさわしくない。お嬢様なんでしょ?」


 あたしは少し焦りながら言った。煙の出ている部屋を見つけたときみたいな嫌な予感がしたんだ。あたしは右手を突き出しながら、彼女に一歩近付いた。


「ね、お嬢様、って呼ばないで」


 あたしが差し出した手を回り込むように動いて、彼女はあたしの右側に立った。くちびるを近づけて、吐息を耳に添える。


「わたしはわたし。カラダとココロだけを見て。他のものなんかぜんぶ付属物だよ」


 あたしは動かない。彼女はあたしの肩に指を這わせて、二の腕、ひじ、前腕、手首、掌と筋肉の形を確かめるようになぞる。やがて、彼女の指はあたしの指に到達し、それからどんな手品を使ったのか、次の瞬間にあたしの右手は拳銃を握っていた。9mmのパラベラムを発射する、あたしが親父の部屋から持ち出した自動拳銃オートマチック


「考えたんだ、あたし」あたしは手元の拳銃を見下ろして、「普通の家にはこんなものは置いてない。でもあんたは、なんの迷いもなくあたしに拳銃を持ってくるよう頼んできた。……あたしの家について調べたんだよね?」


 あたしの親父は軍人だ。兄も士官学校に通っている。あたしも趣味で銃器を分解したりするから、それらは簡単に手の届くところにある。


「うん、ごめんね。調べた、っていうか、前から知ってたんだけど、そのことを利用したのは謝るよ」


 彼女の指が、あたしの左手の指にからみつく。そのまま、あたしを引っ張りながら後退して、彼女はガードレールに腰掛けた。少しでもバランスを崩せば頭から海に落ちてしまう、そういう座り方だ。


「これでなにをするつもりだった?」


 あたしは核心に踏み込んだ。時計の針は止まってくれない。そろそろ二分が過ぎる。もう、話せる時間は少ししか残っていない。この時間が終わってしまえば……


 終わってしまえば、なんなのだろう。


「ねえ、あんたは、結局なにから逃げていたの?」


 彼女は答えなかった。代わりにその手はあたしの右手が持つ銃の銃身を掴み、そして銃口を自分の口へ。


「引金は、君に託すよ」


 あたしの体は動かない。右手の人差し指は、引金を外れて他の指と一緒にグリップを握っている。


「どうして、そんなにあいつらに捕まるのがいや? 元の日常が、また戻ってくるだけなのに?」


 彼女は首を振った。


「ううん、違う。日常なんて戻ってこないよ、永遠に」

「どういうこと? なに言ってるのか分かんないよ」

「もう、放課後に、君と一緒にいみわかんない会話をすることはできない、ってこと」

「どうして……」

「わたしのカラダとココロはね」彼女は歌い上げるように言った。「全部、十八歳になったら家のものになるの。そういう決まりなの」

「決まり」


 しきたり。風習。習わし。子供が逆らっちゃいけない家のルール。彼女が〝敵〟と定義したもの。


 それは。


「分家の娘は十八歳の誕生日と同時に、宗家のおぼっちゃまに嫁がなくちゃいけない。そして、わたしがその分家の娘。そういう決まり」


「そんな、前時代的な、」


 いや、違う。それはあたしがモダニズム的な傾向の強い家に生まれたからこその評価だ。この国が近代を自称してから百年以上が経過した今であっても、そのような風習の残る旧家はいくらでも存在する。


「わたしは今朝の四時に十八歳になった。ね、信じられる? 十八歳になったら、学校もやめなくちゃだめなんだよ。嫁入り道具を持って、たった一人で帝都に行かなくちゃならないの。そうなれば、そこから先はずっと牢獄。カラダとココロを奪われて、家のイルミネーションの一つに成り下がるの。もちろん君とも滅多に会えなくなるし、きっとそうなったら、君はわたしのことを忘れてしまうと思う」


 否定の言葉を放つ意志の強さは、あたしにはなかった。


「そんなんだったら、死んだ方がマシ」


 残り時間が一分を切るころだ。相変わらずあたしの持つ拳銃の銃口は彼女の口の中を向いている。銃口をその口に突っ込んで少し上を向けて引金を引けば、弾丸は脳幹をクルミみたいに潰して後ろに抜けるのだろう。こめかみを撃ち抜くよりも、きっと簡単で確実な方法。 


「最後に一つだけ聞かせて」あたしは人差し指を引金にかけた。「どうしてあたしを一緒に?」


 彼女は答える。


「友達が、君しかいなかったから」


 あたしはうなずいた。


 これで、逃避行は終わりだ。


 あたしの天秤はもうずっと前から壊れていて、どんなものを乗せても必ず彼女の方へ傾く。


 だから、彼女がほんとうに望むことを知ったとき、あたしから迷いは消える。


 銃口を彼女の口へ差し込んだ。




 銃声が耳を射抜いて、

 遅れて彼女が海に落ちる音がした。

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