二年前 その三

 二時間に及ぶ電車移動の中で、愚かしくも暇つぶしの道具を忘れたあたしは、人形みたいに眠りこける彼女の隣でずっとそぞろに考え事をしていた。今朝一瞬だけ降った雨のこととか、購買のラインナップに新しく入ったパンの味とか、そんなことを。そして、それらの思考はまるで磁石に吸い付けられる公園の砂みたいに、今回の旅路についての思案へと収束した。今回の旅路。彼女に言わせれば逃避行。普段は針山に刺さった縫い針並にインドア派の彼女が、一体どんな圧力ストレスによってそんな奇行に走らされたのか。あたしにはそれを知る権利がある、と思う。いい加減、あたしは踏み込むべきなのかな、彼女のカラダとココロの後ろにあるものに。


 糸沙羅の温泉街に着いたのは十一時を回ったころだった。リュックをしょって彼女と一緒に改札を出て、ほとんど明かりの消えた温泉街を前にしてからようやくあたしはその問題に気が付いた。


「今夜の宿、どうすんの」


 彼女はあくびを噛み殺しながらスクールバッグを下ろすと、おぼつかない手つきでクリアファイルを取り出した。中には、プリントアウトされたメール画面。タイトルに『予約確認メール』とある。あたしはしぼんだ風船みたいな気分になった。なにが逃避行だ、これじゃ小旅行じゃないか。


「だいじょうぶ、偽名で登録したよ」


 なにが大丈夫なのかさっぱりだったけど、彼女は自信ありげな歩調で石畳の道を進んでいった。そこは温泉街の中で一番メインの道らしい。面する建物の多くは和風の木造建築で、江戸時代の城下町みたいな感じ。


 目的のホテルへ入る。七階建で、普通に洋風の建物だった。入ってすぐにロビー。奥に化け猫みたいなおばあちゃんがほおづえをついているカウンターがあった。彼女はそのおばあちゃんに例のプリントアウトを見せて、にっこり笑う。おばあちゃんは真ん丸の小さな目であたしと彼女を見比べると、なにやら彼女に言ってからキーを渡してくれた。部屋番号は五階のものだった。


「姉妹なの、似てないねって」


 上昇するエレベーターの中で彼女が言った。


「なにが?」

「さっきのおばあちゃんに言われた」

「姉妹って?」

「なにいってんの、わたしたち姉妹でしょ?」


 彼女のいたずらっぽい笑顔を見てあたしは納得した。偽名ってそういうこと。


 彼女の取った部屋は完全な和室で、すでに二つの布団が並べられていた。あたしたちは旅行にしては少なすぎる荷物を降ろして、とりあえず脳味噌を空っぽにして布団に背面で飛び込んだ。布団の海で背泳ぎ、体を反転させて、クロール。大して歩いてもいないのに、大量の洗濯物みたいな疲れがどっと覆い被さってきて、あたしはうつぶせのまま電池が切れそうになった。すぐ横で、彼女が立ち上がる気配。


「いこ、温泉」


 深夜の温泉には人がおらず、あたしたちだけの貸し切り状態だった。あたしは脱衣所の壁に寄りかかりながら、あたしの貸した水色のワンピースを脱ぐ彼女の背中を眺めている。こうやって彼女の裸の背中を見るのは、去年の夏のプールの授業以来だ。あのときよりも、少し白いかもしれない。彼女は全部脱ぎ終わると、あたしの腕を取って浴場の扉を開けた。広々とした浴場には湯気がひしめきあっていて、奥に大きな湯船、壁際には洗い場が並んでいた。あたしと彼女は軽く体をすすいでから、頭の上にタオルを乗せて、あつあつの湯船に恐る恐るつかる。


「窓が汗かいてる」


 あたしは湯船のすぐ後ろにある巨大な窓に触れてみた。触れたところの水滴が取れて、外の景色が目に入る。外にはひのきの露天風呂があった。


「露天風呂行く?」

「うん」


 彼女は頭の上にタオルを乗せたまま、それを落とさないようにバランスを取りつつ湯船を上がった。あたしは羞恥心がわずかに勝り、隠しているんだかそうでないんだか自分でも分からないような微妙な感じにタオルを体の前に垂らす。大きなガラス製の扉を二人で開けて、空まで広がる夜に足を踏み込んだ。体に付着した水滴を外の空気が冷やして少し寒い。湯船のお湯は表面が冷却されていたから、体をすんなりと入れることができた。


「きもちいねー」


 彼女は石の湯船に背中を預けるかっこうで天に向かって伸びをしていた。あたしはその隣に腰を下ろす。周りが高い木製の壁に囲まれていたから辺りの風景は見られなかったけど、あたしには空だけでじゅうぶんだった。夜空ではいくつもの瞳がまばたきしていて、あたしと彼女の旅路を見守っているんだ。もしあのベスパが空を飛べたのなら、あたしは迷わず空に逃げることを提案しただろう。空には、なんのしがらみもない、人がカラダとココロだけで生きられる世界が広がっている、そう思う。サブカルをこじらせた女子中学生みたいな発想だけど、今はそんなものが湯の中をたゆたうように心地よかった。


 となりで彼女がもぞりと動く。湯に波紋が広がって、あたしの体にぶつかって砕けた。


「ねえ」彼女の肩が触れる。「見て」


 あたしは目を上げる。彼女は左足を水面より上に掲げていた。薄い水の膜をまとったふくらはぎは露天風呂の控えめな照明を反射していて、かかとからはしずくがいくつも落ちていた。それらがなんだか色っぽかったから、あたしの心臓は無駄にドキドキする。視線をさらに先端へ動かす。白い足の甲には細い血管が浮いている。そしてつま先には、


 小指がなかった。


「ここにね、悪い虫がいたんだ。一分間に、わたしの位置情報を三十回も衛星に向けて発信する虫」


 彼女は体を針金みたいに器用に曲げて、小指があったはずの場所をあたしに向けてきた。切断面は、てらてらとした光沢のある新しい皮膚に覆われている。


「自分で切ったの……?」


 あたしが問うと、彼女は軽い調子で答えた。


「まさか、知り合いのちょっとわるいお医者さんに切ってもらったんだ。麻酔してたから、あまり痛くなかったよ。家族に気付かれないように生活するのは大変だったけど」

「どうしてそこまで、」

「ね、知ってる? 人間が歩くときにバランスを取っているのって、主に足の親指らしいよ。一番要らないのが小指」

「……だから切ったの?」


 彼女は答えなかった。水面から顔を出していた足はお湯の中に潜り、ずっとあたしの二の腕あたりに触れていた肩も離れる。


「のぼせちゃった」


 彼女は湯船を波立たせながら立ち上がった。あたしもそれに続く。

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