二年前 その二

 そこには彼女がいた。彼女はベスパに寄りかかっていて、けれど夜闇の中では、そのベスパが本当にベージュ色なのかはあたしには判別できなかった。あたしは学校が終わってから一度家に帰って、カーゴパンツとケーブルニットのセーターに着替えてきていたけど、彼女は制服のままだった。あたしは彼女に接近しながら、彼女が大した量の荷物を持っていないことに気が付く。学校指定の紺色のボストンバッグが、彼女の足元で試合に負けたボクサーみたいに潰れているだけ。荷物の量については、トンネルの入り口みたいな形をした子供っぽいリュックを背負ってるだけのあたしも大概だけど。でも、彼女は立案者なのだ。教科書とペンケースと体操着だけでは、県境を越えるのもままならないと思う。


「荷物少なくない?」


 あたしは結局そのことに言及することにした。すると彼女はばつの悪そうな顔で、


「家族にバレないようにするには、こうするしかなかった」


 なるほど。あたしはだんだん分かってきた。なにがって、彼女の家庭状況についてだ。彼女と二年以上を共にしてきたあたしは、彼女の動作からにじみ出る次元の違うお行儀のよさ、身もふたもない言い方をすれば〝華族的雰囲気〟みたいなのを、この鼻でしっかり嗅ぎ付けていた。そこに投入されたのが今の発言だ。それらのことから推理すると、彼女の出自バックグラウンドがうっすらと見えてくる。立ち振る舞いはお上品で、ちょっとでも荷物を多く持つとすぐに心配してくるような家の娘。つまり、箱入りのお嬢様ってこと。もしかすると本当に華族なのかもしれない。最近では華族も庶民化が進んでいるから、あたしみたいなうだつの上がらない軍人の娘が通うような高校に華族の娘が通っていたとしても、なんらおかしいことはない。そこまで考えて、その先を考えるのはやめた。互いのそういうところには不可侵であるべきなんだ、あたしたちは。そうしなかったら、この関係は簡単に壊れてしまう。


 彼女はベスパのシートを持ち上げると、そこに現れた収納スペースに潰れかけたスクールバッグを突っ込んだ。それから蜘蛛の巣みたいな模様のついた赤っぽいオープンフェイスのヘルメットを被ると、似たようなデザインの色違いをあたしに投げて寄越した。あたしのは青っぽい。


「乗って」


 彼女はベスパにまたがって言った。あたしはその言葉にうなずいて、彼女のうしろにお尻を乗せる。それから思い出したように彼女は言った。


「例のもの、持ってきてくれた?」

「うん。でも、なんでこんなものを?」

 彼女は答えない。


 エンジンがかかった。フロントライトの白い光が夜を貫く。アクセルをふかす音。あたしは彼女の腰に腕を回して、体全体を密着させるように抱きついた。ベスパが発進する。夜の冷たい風が二人を包み込んで、周りの景色はだんだん線になっていって、まるで世界中の時間が止まってあたしと彼女だけが動き続けているかのような錯覚に陥る。あたしは彼女に回した腕に力を込めた。あたしが置いていかれないように。


 彼女の背中が小刻みに震えた。


「どうしたの?」あたしはきいた。もしかすると泣いているのかもしれない、と思ったからだ。

「腕の力、強いね」彼女の声が切れ切れに聞こえた。そしてどうやら、笑っているらしい。

「ごめん」


 あたしは腕の力を緩める。途端に慣性が強く意識された。


「いいよ、もっと強くしても」


 お言葉に甘えた。それからあたしは彼女の背中に顔を押し付けて、目をつぶった。風が耳元で不機嫌な獣みたいにうめく。どこか遠くを救急車か消防車が走っている。ときどき車のタイヤがアスファルトをこする音が後ろから近付いてきて、水に落としたインクみたいにすっと消えていく。


 ベスパはしばらく山間の道を走った。ところどころに防空壕の入り口があって、なんだか覗いたら吸い込まれそうだったからあたしは極力無視した。やがて視界が開け、周囲が多少明るくなり、市街地へ入ったことにあたしは気付く。なんという町なのだろう。街灯の灯りはこうこうと辺りを照らしているけど、道に並ぶ建物からはほとんど人の気配がうかがえない。まだそんなに遅い時間ではないはず。今、何時くらいなんだろう。腕時計は見えないけど、ケータイを開くわけにもいかない。お腹が冷えたからか、少しおしっこに行きたい。


「この辺は、けっこう見捨てられちゃったのかなぁ」


 彼女の声が聞こえてきた。あたしはヘルメットの後頭部を見つめる。


「この辺って? 今、どこ?」

「衣前だよ。そろそろわたしの行動が勘付かれるだろうから、ここからは電車移動。ベスパのままだと、ナンバーで探されるかもしれないからね」

「ベスパ、どうするのさ」

「捨ててく」


 ベスパはゆっくりと徐行していく。完全に停止すると、彼女はあたしに先に降りるよう促した。あたしは慌てて降りて、彼女に断ってから近くにあるコンビニのトイレへ駆け込んだ。お花を摘み終わって戻ってみると、ベスパは既になく、あたしはもの問いたげな視線を彼女に向ける。


「木を隠すなら森の中、だよ」


 彼女は得意げに言って、親指で近くにある放置自転車の列を指した。


 そこから五分くらい歩いたところに衣前駅はあった。小さな駅だ。路線は一本だけ。駅舎の中に人気はない。


 改札の前でポケットからICカードを取り出そうとすると、彼女はあたしの手を掴んで首を振る。


「そんなの使ったら足がついちゃうよ」


 その徹底ぶりに呆れるあたしを前に、彼女は券売機で糸沙羅までの切符を二枚買った。財布を取り出すあたしを制して、


「お金はいいよ。あたしが付き合わせちゃってるんだから」


 改札を抜けて、ホームへ降りて、二人で雪だるまみたいに電車を待った。駅の電光掲示板は現在時刻が午後九時七分であることを控えめに表示している。反対側のホームではバイト帰りと思しき大学生が、よれたTシャツみたいにベンチに引っかかって眠りこけていて、他に人の姿はなかった。ふと隣を見ると、彼女の姿が忽然と消えている。慌てて振り返ると彼女はベンチに座っていて、あたしはほっとしながら近寄った。彼女は上目遣いであたしを見る。


「ねえ、この服だと、家出した高校生みたいに見えるかな?」


 彼女があんまりにも不安そうにきくものだから、あたしは思わず噴き出してしまった。


「見える見えないじゃなくて、あんたは実際家出した女子高生でしょ」

「そうだけどー……、いや、違うよっ。これは家出じゃなくて、もっと切実な逃避行です」

「はいはい」

「着替えてくればよかったかなぁ」


 あたしはそのときになってようやく、彼女がなにを不安に思っているのか分かった。制服のまま逃げるのは、それだけで十分〝足跡〟になる。制服は一種の身分証だからだ。


「なんで一度家に帰って着替えてこなかったのさ」

「だって、怪しまれるし。親とかに」

「別の服は? 持ってきてないの?」

「出先で買うつもりだったから……」


 あたしは確信した。この娘は思った以上に抜けている。


「ったく、しょうがないなぁ」


 あたしは背負っていたリュックを下ろすと、虫の鳴き声みたいな音を立ててファスナーを開けた。取り出したのは、水色のワンピース。彼女に立つよう促すと、肩のところを持って広げてその体にあてがった。サイズはぴったり、だと思う。身長はあたしの方が少し上だけど、横幅はそんなに変わらないし、たぶん大丈夫。


「これ、貸してくれるの?」彼女はあたしに手渡されたワンピースをまじまじと見つめながらきいた。

「うん」

「ありがと」


 彼女の礼の言葉をかき消すように、まもなく電車がくるから黄色い線より後ろに下がれ、といった意味のアナウンスが流れて、電光掲示板には〝電車が参ります〟の文字が点滅し始める。こうなると、もう着替える時間はないだろう。とりあえず電車に乗る準備をするからワンピースを返して、と言おうと思って彼女の方を向くと、インパクトのある肌色がもぞもぞとプリーツスカートを脱いでいた。


「え」


 あたしは思わず一歩引く。彼女は平然と、まるで羞恥心なんて昨日の残飯と一緒に捨てたと言わんばかりに堂々と、下着姿を衆目に晒していた。衆目、といっても反対側のホームにいる推定大学生の青年は眠りこけているはずだから、彼女のその姿を見ているのはあたしだけだけど、それにしたって、


「なに?」


 彼女は不審そうにあたしの瞳を覗き込む。そうしているうちにも驚くべき手際でワンピースのボタンは留められていき、家出女子高生はものの十秒程度で所属不明の少女に変身していた。あたしの見立て通りサイズはぴったり。学校用ローファーと白のハイソックスはそのままだけど、彼女が着ているとそれも一つのファッションであるような気がしてくる。これなら怪しまれることはないだろう、きっと。突然脱いだことには驚いたけど、まあ結果オーライだ。


「ううん、なんでもない」


 電車がホームに進入し、大きく息を吐いて停まった。

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