見えない敵から逃げる少女とあたしの話

takemoana

二年前 その一

 彼女にその逃避行を持ちかけられたのは、高校に入って三度目の五月が終わろうとしているころだった。


 放課後の教室。窓から差し込むけだるい西日。埃っぽい中で静止する机と椅子。そして机の上に座る彼女。彼女の脚は組まれていて、その太ももの上にはテーブルクロスみたいにタータンチェックのプリーツスカートが乗っかっていて、ヤスリをかけたみたいにつるつるな膝頭はあたしの目の前にあった。


 それは、エンゼルクリームのドーナツとカスタードクリームのドーナツのどちらが美味しいか、という議論から平和の対義語が戦争であるのはおかしい、という議論にまで発展して、結局それに結論は出ずに幕を閉じた直後だった。


「逃げたい」彼女はいつもの調子であたしに言った。

「逃げたいって、なにから?」

「全部」

「全部かー……」


 あたしは机の上でパンクしたタイヤになっていた。指で彼女の膝頭をなでながら、あくびを噛み殺す。


「逃げ出してやろうよ、わたしと君の二人で。どう?」

「どう、って言われましても」

「逃げたくない?」

「うーん……」


 あたしがなにかから逃げたいと思っているか、という問なら、イエスと答えることはできる。あたしは確かに、あたしをがんじがらめにする全てのしがらみをライターで燃やして、飛行機を取って南の島にでもバカンスに行けたら最高だと思っている。でも、それは思うだけ。実行には移さない。なぜなら、そんなことは机上論だって知っていたから。そう、まさに机上の空論。今のあたしと彼女とでしているのがそれ。机の上で空論を交わしているのだ。


 もうお分かりの通り、あたしと彼女は自分で言うのもなんだがヘンテコなヤツだった。いっつも放課後暗くなるまで教室に残って、こういう観念的で抽象的な頭の緩い議論を交わしている。二人とも、他に友達はいない。でも、クラスからハブられているわけでもなく、微妙な立ち位置だった。あたしはともかくとして、微笑み一つで国を傾けられるような彼女ならいくらでも友達は出来そうだったけど、彼女はそうしなかった。その理由を、あたしは知っている。要するに、あたしと同類項の人間だってこと。ベン図の中で集合の外を漂う存在。どの円(サークル)にも属すことのできなかったドット。それでもアウトローになりきれなかった宙ぶらりんなヤツら。それがあたしと彼女。


「ねえ、逃げちゃおうよ、二人で」


 その話はまだ続いていた。いつもなら、あたしが軽くあしらった時点で終わりなのに。あたしは膝を指先でなぞるのをやめて、彼女の顔を上目遣いでうかがってみる。すると案の定、その瞳は下からライトを当てたガラス細工みたいな光をはらんでいた。つまり彼女の言葉は冗談なんかじゃないってことだ。あたしは内心で毒づく。彼女はときどき、机の上のおとぎ話を地上まで持ち帰ってくることがある。それが、悪いクセの一つ。ようは、彼女はあたしに、一グラムの疑いも抱かずにそのアイマイモコな逃避行をもちかけてきているのだ。


「でもさ、実際に逃げるとなると対象が必要だよ。〝全て〟なんて抽象的なものじゃなくて、もっと具体的な……明確な敵を設定しなくちゃだめだ」


 彼女はすぐに答えた。

「明確な敵ならいるよ」


 彼女の脚が不満げにうごめいた。どうやらなぞられ足りないようだ、とあたしは解釈して、彼女の膝頭に円を描く作業を再開する。


「へえ、どんな敵さ」

「わたしの、家」


 あたしは黙って、しばらく考えた。

 彼女の家。それが一体どんな敵で、彼女にどんな害を及ぼすのか、あたしは知らなかった。あたしたちは、お互いプライベートなことについては不可侵だったのだ。特に〝家庭の事情〟などと称されるもののような、個人の力ではどうすることもできないようなファクターについては。でも、あたしと彼女はドライだけど柔軟剤仕上げのシャツみたいに心地よい関係だった。だって、あたしたちは相手の表面カラダ内面ココロしか見なかったし、その出自バックグラウンドには興味も示さなかったのだから。あたしは彼女がエンゼルクリームが好きだって知っているし、彼女はあたしがカスタードクリームが好きだって知っている。それだけでじゅうぶん。それ以上はよけい。


 だから、彼女が家の話を持ち出してきたときも、あたしは反射的にバリアを張ろうとしていた。けれど、あたしの指が止まったことからそれを察知した彼女は、突然あたしの腕を掴んで引き上げて、まるで合気道の技を極められたみたいになったあたしの耳の穴に唇を寄せた。


「三日後、午後七時に、駅の南口。足は既に用意してある、クリーム色のオシャレなベスパだよ」

 息を吸う音、

「ルートは決めてあるんだ。ベスパで南に逃げる。たぶん衣前に着く頃にはわたしが逃げたってことは気付かれてるから、ベスパは乗り捨ててそこから電車移動。ひたすら下って糸沙羅まで行く。なんらかのアクシデントがあれば途中で降りて、また別の足を用意する。だいじょうぶ、お金ならあるから。一度、糸沙羅の温泉街で休息を取ろう。いい宿があるんだ、わたしが前に泊まったとこ。そこで一泊したらこんどは西に、とりあえず木礁まで逃げて、」


 そこまで一気にまくしたてて、彼女は思いっきり咳き込んだ。あたしは思わず首を引っ込める。彼女のつばが耳に入ったからだ。


「いっしょににげよう」


 彼女は、相変わらずガラス細工みたいな目であたしを見てきた。止めるのは無駄だと悟る。こうなると、あたしに残された選択肢は二つ。一つはここで首を横に振って、「あんた一人で行けば」って冷たくあしらうこと。メリットは彼女の酔狂に付き合わされることがなくなる、ってことだけど、その代わりに唯一の友達を永遠に失うリスクがある。もう一つは、首を振る方向を、さっきのから九十度変えることだ。


「分かったよ」


 あたしはうなずいた。そもそも迷いすらしなかった。あたしの天秤はもうずっと前から壊れていて、どんなものを乗せても必ず彼女の方へ傾くんだ。それに、やっぱり心のどこかには、どうせすぐに飽きるだろう、っていう甘い考えがあったんだと思う。彼女はあたしの手を離して、あたしは机の上で再びパンクしたタイヤになった。


「もう一つ、君には持ってきてほしいものがあるんだけど」

 なにさ、とあたしはきいた。

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