朽木桜奇譚

望灯子

 まぶたをひらくといつもどおりの、黴臭い薄暗がりのなかだった。少女はその身を起こしもせずに、時を経て色艶をふかめた天井の木組みをただぼんやりと眺めていた。暗闇に紛れて我が身に起こるすべてのことは夜の夢で、目覚めたときにはきよらなしろい朝日に抱かれることを願った日々もかつてはあった。けれどもそんな願いはもう、すっかり遠い過去のものへと変わり、少女にとってはそのめざめすら、自分が今日も生きながらえてしまったという嘆息すべき事実の確認にしかなりえない。

 少女のからだ――ただでさえ脂肪のうすい幼い体躯は、ここ数か月まともに食事を与えられていないせいでひどい痩せぎすになっていた。その肉体のあちこちが、悲鳴をあげている。骨も、筋も、皮膚も、どこもかしこもがそれぞれに痛い。最も痛むのは脚のあいだの無毛の性器と排泄のための孔だった。日毎夜毎に、いたわられることもないまま男たちを迎えいれることを強要されたせいで、擦りきれ、腫れて、血が滲み、ずきずきと鈍い熱を持っている。

 人間の、おんなのからだというものは、思いのほか頑丈にできているものだと少女は心底呆れていた。いやだろうが、痛かろうが、もうこのごろでは自分のからだは男を迎えるための粘液すらも染み出すようになっている。男らが放つ醜い汚い欲望によく似たものがおのれの内からも滲み出て、それが男を悦ばせるという事実。それが少女を嗤わせた。

 体の痛みにはもう慣れた。蹂躙されるこころにも。けれど、もうこれ以上は。自分自身の肉体が、自分のこころを裏切っていく、それだけは。久方ぶりに少女は耐えきれなくなった。見飽いた黒い天井が、ゆらりと膨らみその輪郭を滲ませる。

 声を出さずに泣くことにも、少女はすっかり慣れていた。嗚咽も漏らさず、肩も揺らさず、ただ奥底から湧きあがるままに涙をこぼし、少女はそれを拭おうとすらしなかった。

 少女がこれまで自決をせずに今日まできたのは、ひとえに彼女の信仰心によるものだった。今よりずっと幼いころに、父母から教えられた舶来の聖母様。青い衣をまとって幼子を抱く、柔和な微笑を思い出す。けれども今の少女には、自らの身の穢れを思えばこそ、彼女を思い出すことすらも、してはならないことと思えた。しかし、それであるならば――自ら命を絶たない理由は、ない。

 少女は緩慢な動作で唇をひらきはじめた。この数か月、男たちの暴力的な欲望を満たすためだけに存在させられてきた少女の口唇。卑猥な言葉で男たちに命ぜられたときと同じように、ふるえながらも精一杯に舌先を伸ばしてみる。怖れでかたかたと歯がなった。弱ったからだは顎すら自在に動かせない。それでも少女がこころを決して、ゆっくりと、自らの舌を噛み締めようとした、そのとき。

 そろりと目じりに何かが触れた。ほんのおぼろげな、たよりない感触。少女は惑い、涙を湛えた目をみひらく。今は自分しかいないはずの、閉ざされた暗い蔵の中で、少女はそっと手を運び、自分の目じりに触れたものの正体をたしかめようとした。

 そうして摘まみあげたのは、ひとひらの薄紅色の花びらだった。――桜。少女がこの屋敷の主人に買われ、昼夜を問わずにこの狭い蔵の中で男たちから辱めを受けるようになった頃には世界はまだ雪景色であったのに。いつのまにか、そんな季節が巡っていたのだ。

 男たちの肩越しに、飽きるほど見てきたと思っていたはずの天井を少女はあらためて見あげてみる。隅の隅まで初めて目を凝らしてみると、明かり採りのためと思われるちいさな窓が天井近くにひらいていた。張り巡らされた太い梁に隠されて、これまでは気がつくことがなかったのだ。

 いびつなしかくに切りとられた、どこまでも清冽な色が少女の目に映る。指先の花びらをその空にかざしてみると、縁どる白色がぼんぼりのように光を透かし、まるでそこから空気に溶けて、はかなく消えていってしまいそうだった。


 ――ああ、わたし、最後になんて美しいものをみた。


 少女の目からふたたびひとつぶ落ちた涙は、もはや悲しみのためのものではなかった。これでもう、思い残すことなく世を去れる。少女はまぶたをゆるやかに伏せて、持てるちからを振り絞り、勢いに任せて歯を咬みあわせた。








 激しい痛みと、鉄の味。それらの訪れを覚悟していたはずだった。けれども現実には、舌を噛み千切るよりも早くに少女は恐怖で動きを奪われた。目を閉じた、その一瞬のに、彼女のからだに圧し掛かった重みがあった。

「ひ、」

 下卑た男に抱かれても、鞭打たれてさえ最近ではついぞ悲鳴もあげなくなっていた少女の咽喉から、怯えた呼気の音が鳴る。驚きまぶたをみひらくと、ひとりの青年が少女のからだに覆い被さり、その顔を間近からじっと覗きこんでいた。青年の長い、絹糸のような白髪はくはつが、糸雨が降りそそぐかのごとく少女の全身に落ちている。

 だれ、と言葉で問おうとしても、恐れのあまりに少女の声帯ははたらかなかった。薄曇りの空を写した着物をまとったその青年は、戸板や床を軋ませることなく蔵の奥へと進んできて、衣擦れの音ひとつたてずに少女の傍までたどりついたということになる。

「おや、まあ――かわいそうに」

 青年のうすい唇が、少女の眼前でたどたどしくうごめいた。言葉はぎこちなく、語りかけるその声は、低い場所を這うように響くなんとも不思議な音をしていた。どこかで聞いたことがあるようでもあり、これまでいちども聞いたことがないようでもあり。ころがる鈴の音のようにも聴こえたし、夕暮れどきに山深くから響いてくる鐘の音のようでもあった。

「かわいそうに、こんなにきずをつけられて。わたしなどにはこのいろも、うつくしくみえるからよいけれど」

 怯える少女を気にもとめずに青年はその手で少女の頬に触れた。つい昨晩に、男の狼藉によってつけられたばかりの幾筋かの創傷がそこにはあった。まだ血の乾かぬ、生々しい痕。

 つ、と青年が指さきで、少女の傷跡をたどり撫ぜた。生まれる痛みを覚悟して、少女はその身を硬くしたが、なぜだか彼のその所作は少女の肌には心地のよいものに感じられた。

 もしかして。わるいひとではないのだろうか。少女は恐怖をわずかに遠ざけ、青年の顔をよくよく眺めてみることにした。そうしてみると、奇妙なことに、男であるかもあやしく見えた。流れる筆致のように切れ込んだ目じりに、ほそい鼻筋。北国生まれの少女のそれより、さらにしろくも見える蒼褪めた肌。うすい唇は対照的に、不気味なほどの鮮やかな血色を湛えている。その表情も、若く潔癖なようでもあって、同時に老獪なようでもあった。

「面妖なことと、お思いかい?」

 少女の瞳と視線を交わし、青年がくつりと咽喉を鳴らした。

「おそれることなどないのだよ。お前はわたしの願いをかなえた。だからわたしも、礼に参ったまでのこと」

 笑みのかたちにほそめられると、青年のまなこには懐かしみが表れた。少女の心がほどけてゆく。語りながらも青年は五指を、少女の頬から首筋へ、鎖骨から胸元へと――ゆるやかに這わせ、撫でてゆく。

「おや、ここにも傷が……。なおしてやろうね」

 そう言って彼が触れたのは、少女のかすかな膨らみの頂、赤くちいさな蕾だった。遠慮を知らない男たちに日々むごたらしく扱われ、今では触れただけでも疼くほどに、痛むことが当たり前になっている。青年は少女の胸に顔を寄せ、くちづけをそっとそこに落とした。ぴくりと少女は腰を跳ねさせ、戸惑いに満ちた瞳を天に向ける。どうして、と少女のくちびるが象った。これまで何度も、もう何がしかの感慨すら生まれぬほどに、変わらぬことをされてきたのに。それなのに、青年がそこに触れると、いままで知らない愉悦の波が背中を駆けた。

「あ、あ……」

 抗えないまま少女は喘いだ。どれほど男らに穿たれようと、放ったことのない声だった。全身が、わなないて、この感覚をもっと欲しいと望んでいる。青年は微笑み、いたわるように少女の脇腹を撫でさする。

「これがお前ののぞみかい? ならばいくらでも、あたえてやろうね。お前が私にくれたように、よろこぶことをあたえてやろう」

 脇腹から、薄い腹へと――青年の掌は、ゆるやかに往復する。少女が気がつくことはなかったが、彼の掌がたどった箇所からは、赤い傷痕も青黒い痣もすべてが溶けて消え去っていた。そうして少女の肌は本来の、やわらかに発光するようなしろさとなめらかさを取り戻してゆく。

 青年の指が下へと潜る。浅い部分に指が沈むと、少女はくるおしい気持ちをおぼえた。腰が浮く。涙が滲む。そこにそうして触れられることが、こんなにあまやかなことであるなんて。知らなかった。誰も教えてくれなかった。少女の目のふちで涙が膨らみ、ぷくりと弾けて床を濡らした。

「かわいい子だね。私が欲しい?」

 青年は少女の内から指を引き抜き、その手で彼女の手をとると、自らの熱に触れさせた。少女は陶然としたまなざしで彼を見あげて、生まれて初めて、自らの意思でそれを望んだ。どうせ自分はまもなく死ぬ、遅かれ早かれ、屋敷の主人の暴力の果てに手折られる。恋も知らぬまま金に換えられ、この世の陰で朽ち果ててゆく、それが己の運命であるならば。――最後にいちど、やさしく抱かれることを知りたい。

「いいだろう。それがお前ののぞみだね?」

 青年はやさしく、宥めるように少女の髪をひとなでした。少女の目じりにくちづけて、溢れた涙を掬ってやる。

「お前ののぞみをかなえてやろうね。千蛇が池の姫様に、お前のことを頼んでこよう」

 彼が言わんとしていることは、少女にはまったく意味の解らぬことだった。けれども青年のその目を見れば、疑う余地など無いとわかった。

「待っておいで。日が沈んだら、迎えに来よう――暮れ六つの鐘が鳴ったらね。それまではしばし、眠っておいで」

 身の内の熱が醒めやらぬまま、眠れたりなどするものか。少女は心中で嘆いたが、彼の言葉は呪いのようで、すぐに意識が濁りはじめた。

「お前とわたしは似ているからね。世間から、打ち捨てられて、ただ果てるのを待たされた同士だ。それであれば寄り添って、慰めあっても誰にも文句はないだろう」

 青年の言葉を終いまで待たず少女はまぶたを伏せていた。夢か、うつつか――吸いこまれるように落ちてゆく意識の半ばで、少女は自らの思い出が目まぐるしく流れ去ってゆく様を視た。

 母の顔、父の顔、幼い弟妹たちの顔。故郷の空、故郷の風、故郷の山を霞のように彩った、春の花。

 触れたくて、手を伸ばす。見上げた自分の腕には、肌を埋めつくすほどにあったはずの創傷や火傷の痕が、ただのひとつもありはしなかった。少女の伸ばした手に向かい、ひらひらと、舞い落ちてくるなにかがある。ゆるりと掌をひるがえし、少女はそれを受け止める。桜の花びら。少女のまなじりに落ちてきた、あのはかなげな、ひとひら。

 少女は微笑み、指先でそうっとそれを包みこみ――しずかに、ふかく、最期の呼気を吐き出した。








 遠い山の向こうから、沈んだ太陽が燃え上がるような残照を放ちはじめた頃、醜く太った初老の男がひとり、蔵の戸口で忌々しげに舌打ちをした。男はすぐに、苛立ち任せに大声をあげ、威圧的な態度で使用人を呼び集めた。

「まったく、すこしばかり乱暴に扱ったくらいであっけなくくたばっちまいやがって。払った金の価値もねえ。臭うようになる前に、さっさと片付けろ」

 こわごわと蔵の中を覗きこむ下働きの男たちに向かい、屋敷の主人は顎をしゃくってその奥を指し示す。そこには、着るものひとつも身につけず、あちこち変色した傷だらけの肌を晒したままの幼い少女がひとり、仰向けの姿勢でこときれていた。

「裏庭に、朽ちかけた古い桜の木があったろう。来年はもう花もつけまい。あの下にでも、埋めてしまえ」

 主人の命に逆らえるはずもなく、下働きの男たちは言われたとおりに、少女のむくろむしろで包んで裏庭へと運び出した。

 裏庭と言えば聞こえはよいが、山の麓にあるその屋敷では、そこはもう、暗く鬱蒼とした山林の入り口のようなものだった。囲いやら、塀といったものがあるわけでなし、異形の領域との境界が区切りも持たずに渾沌めいた口を広げている。そんなところで、惨たらしい死を遂げた稚い遺体を抱えたままでいることは、汚れ仕事に慣れた下働きの男たちにとってもなかなかに堪えがたいものだった。

「おい、もう、日が暮れる。埋めろと言うが、穴を掘ってる時間はねえぞ」

「そうは言っても、ただその辺りに放り棄ておくってわけにもいかねえだろう」

「だからって、お天道様もない中で、手探りで墓穴を掘って屍を投げるなんてこと、わざわざ苦労してやりたいものか」

 男たちが喧々諤々言い合っていると、ひとりの男が一本調子に呟いた。

「だったらいっそ、あすこに沈めちまう手はどうだ。それならすぐに、片がつく」

 男たちが一斉に目を向けたのは、主人の告げた桜の古木の根元にひろがる沼だった。どろりと暗く濁っている。

「桜の下にはちげえねえし、見ろよ、あの色。屍体のひとつやふたつが沈んでいたところで、誰にもわかりゃあしねえだろうよ」

 男たちは目配せあって、ごくりと唾を呑みこんだ。一陣のなまぬるい風が吹き抜けて、あたりの木々が一斉に、低い葉擦れの音をたてて騒ぎ出す。沼の水面はゆらりゆらりと波立って、彼らを誘っているかのようだった。ついには朽ちた桜の枝先までが、男たちを手招くかのようにかぼそくしなりだす。

 そうして、しばらくの時が経った後。逃げるようにその場を去ってゆく男たちの背後には、ぶくりぶくりと大小の泡をたて、ゆっくりと重たげに水底に沈んでゆく筵があった。






 うすい皮膚を透かして届くまばゆさにくすぐられ、少女はまぶたを持ち上げた。あたりはぐるりから頭上まで、靄がかった緑色の光がとろとろと揺らめく様に満ちている。まるで見たことのない景色。少女は戸惑い、記憶を手繰る。

「やあ、よくおいでだね」

 なにもかもを思い出せないうちにかろやかな声をかけられて、少女が慌てて振り向くと、そこにはあの青年がいた。薄曇りの色を着流して、長い白髪をさらりと揺らし、少女に向けて手を伸ばす。

「さあ、こちらにおいで。姫さまはこころよく、わたしの頼みを聞いてくだすったよ。お前のような不憫な娘には、おやさしいからねあの方は」

 なんの話をしているのか、やはり全てはわかりかねたが、少女は不思議と彼の言葉を素直に受け容れ、言われるままに差しのべられた手をとった。そこで初めて気づいてみると、少女のからだからはあらゆる痛みが消えていて、腕も、脚も、思うがままに動かせるように戻っているのだった。

「さて、名残りは惜しいかもしれないが。早々に、わたしたちの新しい住まいを探しにゆかねばなるまいね」

 諭すように言いながら、青年は少女の頭をひと撫でする。と、傷み乱れてざんぎりになっていた少女の髪は艶やかな色を取り戻し、顎のあたりで切り揃えられた若くかわいらしいかたちに変わった。まだ剥き出しの肩や背中も、青年がするりするりと撫でてゆくと、今度は綸子のなめらかさがふわりと少女に纏わる。純白から薄紅へと、流れるように輝く桜の色。突如現れたうつくしい着物に少女は目を瞠る。

「思ったとおりだ。よくお似合いだね」

 本来持っていた愛らしさを取り戻した少女を眺め、青年は満足げに微笑んだ。少女はといえば、我が身に起きる不可思議にただただ驚くばかりでいたが、やがて年相応の無邪気さを滲ませながら、ほんのりと頬を朱に染めた。

「仕上げにあれを。わたしからの、贈り物だよ」

 そう言って、青年は少女の眼前で指先をつとひるがえす。導かれるように見上げると、ふたりの頭上に、こちらを覗きこむように枝をしならせている一本の木が見えた。いまにも命を潰えようとしている、灰色の木肌。それが桜だと少女にわかったのは、ほんの数輪、十にも及ばぬほどだが、揺れる花弁がたしかに枝先にあったからだ。

「もはや誰にも忘れられていた私を、お前が美しいと言ってくれたからね」

 青年は、真に慈しむようなまなざしを少女に向けて、うっとりと、泣き出しそうにも聞こえる声でそう言った。その手には、またたくうちに、頭上の桜が咲かせていたはずの毬のようなひと房がたずさえられていた。

「果てまでも、ともにゆこう。心ないものには知れぬ世界に」

 少女の髪に、青年がそっと花を挿す。目じりに触れた花びらの、あのたよりなげな感触を、少女はたしかに思い出していた。なんだろう。たしかにとても苦しいことが、あのとき我が身に起こっていたはず。いまでは少女が思い出すのは、ただ美しい故郷の風景それだけで、父母の貌さえ、胸になかった。

「――参ります。あなたが見つけてくださったから」

 何からか。どこからか。憶えはないが、たしかに口をついて出た。少女はにこりと微笑んで、迷うことなく青年の胸に頬を寄せた。

 月の光すらない夜の森で、水の跳ねる音がかすかに響き、沼の面にふたつの波紋がゆっくり広がる。

 そうしてもう、あとにはなにも残らなかった。







 薄暗い森の奥の、沼の縁にたつ桜の古木は、あくる年にはついに、一輪の花すらつけることはなかった。

 その古木の根元のうろには、寄り添い合うようにして咲く二輪の菫があり、時折踊るように風に揺れることがあったが、それを目に留めるものはどこにもなかった。




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