第154話 あさきゆめみし 五
密花 「殿様がお元気になられましたら、また、会えます、ですから…」
安行 「いや、まだ、よいではないか。まだ、陽も高い」
密花 「いえ、私はそうは参りませぬ。ですから、一日も早く、お元気になられま
せ」
----もう、しつこいったら、ありゃ、しない。
密花と安行の別れの「攻防」は続いていた。
安行 「ならば、せめて…」
と、安行は密花を抱きしめようとするが、するりと身をかわされてしまう。
思えば、密花の手を握ったことすらなかった。いつも、あと少しのところで、かわされてしまう…。
上手くかわす
芸妓も舞妓も必ず左手で
これは、芸は売っても身は売りませんよという意味であるのだが、今の蜜花は長い裾の着物は着ていないばかりか、体を密着しようとする安行の強引さにうんざりしていた。
それでなくとも、好きでやって来たわけではない。一刻も早くこの場を立ち去りたい。そこで、作戦を変えた。もう、これが最後と伝えていたが、ここは、また、会えると言う期待を安行に持たせることにした。
久し振りに会ったが顔色も悪く、聞いていたより、体調は悪そうだ。そんな安行が体力を振り絞るようにして、体を寄せて来るのだ。
いや、縋り付かんばかりなのだ。
密花 「名残は尽きませんけど、今日のところはこれにて」
安行 「もう、少し、後、少しだけ…」
密花 「そうは参りませぬ。次があるではないですか。この次、までにはお元気に
おなり下さいませ。さすれば、ゆっくりと…」
と、やっとの思いで安行の側を離れることが出来た。廊下で手を付き、すっと襖を閉めれば、ほっとしたものだが、これで終わりではない。
女中に付いて、玄関へ向かえば、ギャラリーが増えていくばかりか、なんと、正室の亜子までも見送りに来てくれたのだ。これには、さすがの密花も驚いたが、そこは元芸者である。表情は変えずに亜子に礼を述べて、やっと、仁神家の門を後にすれば、やっと、一息、付けた。
真之介「ご苦労だったな」
密花 「ええ、ご苦労も何も、もう、金輪際嫌ですから」
真之介「あい、わかった」
密花 「本当に、おわかりで。今度は
真之介「それで、どの様な話を。差支えなければ聞かせてくれぬか」
密花 「差支えませんたら。本当はこれで最後と念を押すつもりでしたけど、余り
にしつこいので、元気になれば、またこの次があると言っておきましたよ。
でも、実際のところ、どうなんです。あの殿の顔色…」
真之介「見ての通り、良くはない。しかし、この次があると思えば、お元気になら
れるやもしれぬ」
密花 「でも、もう、私にゃ、関係ありませんので」
そんな話をしているうちに、待機させてあった駕籠までやって来た。
密花 「そうそう、これをどうぞ」
と、帰り際に亜子からの返礼の品を真之介に手渡すのだった。
真之介「いいのか」
密花 「ええ、奥方様には申し訳ないのですけど、どうにも…」
密花にすれば、亜子の気持ちは嬉しいが、もう、安行、仁神家に関するものには一切関わりたくない。
密花と別れて帰宅すれば、早速に、ふみからの質問攻めにあう。お咲までも興味津々なのだ。
お咲と忠助は祝言こそ挙げてないが、今は夫婦同然に暮らしている。一つ屋根の下にいて、いつまでもお預けを食わせると言うのも、男にとっては酷と言うものである。
真之介「無理強いはするな」
と、一応釘は差して置いたが、そこは、男と女。いつの間にか、なるようになっていた。
真之介「どうもこうも、二人でどのような話をされたかなど、わかる筈もないわ」
ふみ 「それで、その後、密花は何か…」
着替えを手伝いながら、尚も、ふみは聞いて来る。
真之介「もう、これで、最後にと言うことだけであった」
真之介は密花からもらった、亜子からの返礼の品を渡せば、ふみは驚いてしまう。
ふみ 「まあ、折角の…。開けてもよろしいですか」
と、言いながらも包みを開ければ、お咲も覗き込み、今度は二人して、声を上げる。
まあ!と、女二人の声に、忠助も中身が気になる。
真之介「何である」
ふみ 「うふふふ」
それは、紅だった。
江戸時代(1600~1868)のお化粧は、白・黒・赤の三色のメークだった。白粉の白、お歯黒、眉化粧の黒の中で、唯一彩を添えるのが頬や口紅の紅化粧である。当時は、紅花から作った紅は、紅皿や
ちょうど絵の具を塗ってかわかした状態で、容器に塗られた良質の紅は、玉虫色に輝いていた。それを湿らせた筆や指に少しとって頬や唇に塗ると、ほんのり赤い色のメークになる。本来は薄くのところを厚塗りすると光のぐあいで金緑色から金紫色に変化する玉虫色に発色するので、笹の葉のような緑色から「
紅は、紅花の生花1㎏からわずか3gしか採れなかったので、
中でも、寒中(小寒1月6日頃から節分まで)の丑の刻、午前1時から3時頃に作った紅が一番質がよいとされていた。
紅製造には水を多く使う。それも冬の低温で細菌の少ない水がよく、また紅の成分が太陽光線に弱いので、陽の出ていない深夜が適していた。
紅屋では売り出し日には、
一年で一番寒いといわれる大寒(1月20日)も何のその、江戸女性の美しさを追及する気持ちは、寒さなど跳ねのけてしまう。
この様な理由から、江戸時代の口紅は現代のように唇全体に塗るものではなく、小さくこじんまりと塗るのが普通だった。そう言えば、浮世絵などに描かれている女性達は、皆、小さな唇をしている。
そもそも大変高価であった紅をたっぷり使うことができたのは、裕福な家の女性や売れっ子の芸者、遊女など一部の女性だけだである。そこで、高価な紅を塗り重ねることができない庶民の女性達は、工夫を凝らし節約メイクをしていた。
その方法とは、紅を塗る前の唇になんと「墨」を塗り、その上に紅を重ねるというもの!そうすることで「笹色紅」と同じような玉虫色を再現出来たとか…。
浮世絵の中には「赤」というよりは「緑」に近い色の唇をした女性が描かれていることがある。
時代が移り変わっても「美しくなりたい」という女性の願望は変わることがない…。
そんな高価な紅を、亜子が最初から、密花の手土産への返礼として用意していたのだろうか。生まれは大名家の姫であり、今は旗本筆頭、仁神家の正室である亜子にすれば、密花など、たかが芸者ではないか。
夫、安行が何か無理を言ったかもしれないが、格の違いを見せつけるために、紅を持ち帰らせたとは思えない。
きっと、密花の態度、いろは歌の着物に感じるところがあったのだろう。安行など、ただの「コマ」にしか過ぎない。
この静かなる「女の勝負」互角と言えた。
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