第133話 同じでない日々 一

 ふみの懐妊を三浦家に伝えれば、早速に播馬夫妻がやって来た。その時はお弓もいた。


お弓 「殿様、奥方様、おめでとうございます」

播馬 「いや、お内儀には世話になったそうではないか」

お弓 「世話だなんて、私にとっても初孫でございますので、当然のことです」

播馬 「そうであったな」

加代 「店の方も忙しいであろうに。明日から、いえ、今日からは私が、ふみの世

   話をします」

ふみ 「母上、もう、大丈夫にございます」

加代 「これからはつわりもひどくなります。そんな時に、あの下女はまだ子供で

   はないですか」

お弓 「どなたかいらっしゃらないのですか」

加代 「そうですねえ」

お弓 「しばらくは私が通わせていただきます。やはり、お屋敷には奥方様がい

   らっしゃらなければ。私の方は娘も婿を迎え、しっかりして来ましたし、も

   はや気楽なものです」

加代 「では、早急に誰か手配しましょう」

播馬 「ふみ、男子を生むのだぞ」

ふみ 「はい…」


 翌日から子育てを終えた家来の妻が通いで来てくれることになった。それも、男子を三人生んでいると言う「縁起のいい」妻女だった。

 そんな中、やって来た弥生は、ふみが懐妊と聞いて心から喜んでくれた。


弥生 「おめでとうございます」

ふみ 「ありがとう。弥生の方は少しは落ち着きましたか」

弥生 「はい、お陰様で」

ふみ 「母は、どうしています」

弥生 「あれから、少し寝付いておりましたが、今は元気になりました」 


 寡黙だった父が最近は弥生に話しかけて来るようになった。それも短い言葉でしかないが、弥生も短い言葉で応える。主に聞きたがるのはやはり、本田家でのことだった。


弥生 「はい、あちらには珍しいものがございました」

父  「どの様なものだ」

弥生 「時刻のわかる時計ですとか、地球儀と言うこの世の模型もございました」

父  「地球儀とな、それはどの様なもの」

弥生 「この世はとてもなく大きくて丸いのだそうです。そこから、人が落ちてし

   まわないのは引力と言うものがあるからだそうです。それ以上のことは難し

   くて、よくわかりません」


 と、弥生は張り終えた傘を移動させるべく立ち上がり、ついでを装って台所へ向かう。ここが今一番落ち着くところである。台所なら一人になれる、いや、ここしかない。

 今までも弥生一人の作業場であったが、その都度、沙月が何か言ったものだ。だが、今はそれもない。

 確かに家の中心人物だった沙月が死んだのだ。火の消えたような寂しさがあるが、父が弥生に話しかけて来るのは、沙月より弥生の方が扱いやすいからでしかない。

 今まで、何があっても見て見ぬ振りをしてきた父が、沙月が死んだことで急に自分にすり寄って来た。つまるところ、父は沙月が苦手だったのだ。それが元来の無口をこじらせたようだ。だが、今は弥生である。母と姉から散々余計者扱いをされて来た弥生なら、あれこれ話しかけてやれば、喜ぶと思ったようだが、逆に弥生は鬱陶しい。だから、こうして台所に一人になりに来るのだ。

 そんな、父と娘でも傍目には仲睦まじく見えるのだろう。ついには、それまでふて寝していた母が起きて来た。


母  「ああ、沙月が生きていたくれたなら」

 

 あれから、幾度聞かされたことやら…。


母  「ほんに、沙月はいい娘でしたよ。武士の娘としての品に満ち、何事にも動

   じない芯の強さよ、ああ…」

父  「気持ちはわかるが、沙月はもう帰って来ない」

母  「何と、かわいそうな沙月よ。もはや父にも忘れられようとしておるわ」

父  「そんなことはない。ないが、いつまでも嘆いていてもなあ」 


 そこで、またも泣き出すと言うのが母のいつものパターンであるが、本当に泣きたいのは弥生の方だ。

 まさか、こんなにもあっけなく沙月が死んでしまうとは、誰が想像しただろうか。後、もう少しで幸せに手が届くと言う時に…。

 沙月が死んだせいで、この家を継がなければならなくなった。同じ死ぬなら、もっと早くに死んでくれれば良かったのにと、恨み言のひとつも言いたくなる。沙月がもっと早くに死ねば、ひょっとしてあの元姉婿と夫婦にさせられたかもしれないが、それはそれで受け入れたことだろう。いや、仮に拮平と夫婦になった後でも、母は引き離そうとするだろうが、その時はそれこそ全力で阻止する。


母  「やれやれ、弥生よ。当主になれてよかったな。さぞかし笑いが止まらぬで

   あろう。そんなところで一人で笑ってないで、仏壇の前で笑うたらよかろう

   に」


 別に、笑ってなどないのに、何か言わなければ気の済まない母だっだ。


弥生 「私が何を喜んでいると言われるのです」

母  「姉が死んで当主の座が転がり込んで来たではないか」

弥生 「私は当主の座など、元から望んではおりません」

母  「いやいや、それこそ、棚ぼたであるからして、それは致し方ないこと。死

   んだのだからな。誰のせいでもない。しかし、まさか、姉婿まで追い出すと

   は…。それも、いつの間にやら、味方を増やしおって、とんだ、恥さらしを

   してくれたものよ。今後、どの様な婿がやって来るか知らんが、一銭たりと

   も出す金はないで。ああ、どこぞで借りるなりの算段があるのか、それはそ

   れは。だがな、その前にしっかりと食い扶持くらいは稼いでもらわねばな。

   何しろ、私はもう歳で余り動けぬでな」

弥生 「では、何もなさらないでください。家のことも内職もすべて私がやりま

   す」

母  「それは助かる」


 家のことは何もしなかった沙月に代わり、今度は母がずぼらを決め込んでいるが、弥生はそれこそ何もさせなかった。


弥生 「それは私がやります。お年寄りは、何もなさらないでください」


 家族が一人減った。その分、家事はわずかでも楽になるが、沙月の場合は、弥生のためにわざと用事を増やしたものだ。だが、母はそこまでのことはしない。  

 今、改めて考えてみるに、沙月は弥生の用を増やすことに多くの時間を割いていたように思えてならない。着物も下駄も脱ぎっ放し、廊下で拭き掃除をしていれば「邪魔」と言って水桶を倒したりと、数え上げればきりがない。

 それが今はない。だから、家事のはかどること。その空いた時間で弥生も傘張りに精を出す。その出来栄えに感心した傘屋の店主が、女性用の高価な雨傘を回してくれるようになった。だが、傘張りをしながらも思い出されるは拮平のことだ。


----逢いたい…。


 今日は思い切って、外へ出た。行き先は真之介の家だが、それでも母は散々文句を言った。


母  「ああ、沙月が死んで、弥生は伸び伸びしておるわ。その着物も沙月が着れ

   ば良く似合ったことだろうに。かわいそうな沙月よ」

父  「また、その様に言わずとも。沙月が生きていた頃には、家事が大変だと嘆

   いておったではないか。今は何もしなくていいのだから、楽なものではない

   か」

母  「まあ、では、沙月が死んだ方が良かったと言われるので」

父  「誰もそのようなことは言っておらんわ。死んだ者はどうしようもない。嘆

   いてみたとて帰っては来ぬ」

父  「何と、薄情な父親だこと。ああ、沙月がかわいそう」


 もう、いい加減聞き飽きた。弥生が外に飛び出せば、隣の妻女に呼び止められる。なんと、あの元姉婿がまだ、この辺りをうろついていると言う。いつだったか、裏戸を叩く音がした。もしやと思い、放って置いたが、それでも執拗に叩いていた。尚も無視すれば諦めたようだ。

 弥生は周囲に気を配りながら、真之介の家へと急けば、ふみが懐妊したと言う。

 久しぶりに、人の笑顔を見た。家では笑うこともない、これからずっと、そんな家で暮らさなければならないのだ。

 弥生は思い切って、真之介に言った。


弥生 「拮平さんに逢わせてください。今一度、逢いたいのです」


 真之介が拮平と会う手筈を整えてくれた。

 明日は、拮平に逢える…。

 それだけで、なかなか寝付けない弥生だった。


拮平 「弥生さん」

弥生 「拮平さん」


 弥生は拮平の胸で泣いた。こんなにも逢いたかったのに、本当に、悲しくて悲しくてどうしようもない。


拮平 「大変だったね。聞いたよ。頑張ったんだって」


 確かに頑張って姉婿は追い出したけど、新たに婿を迎えねばならないこの身のつらさ…。


----ああ、このまま死んでしまいたい…。


 その思いを見透かしたかのように拮平は言う。


拮平 「駄目だよ、死のうなんて考えちゃ。沙月さんだって、本当は死にたくな

   かったと思うよ。あの時、誰かが側にいてくれたら、死ななくても済んだか

   もしれないのに、誰もいなかった」

弥生 「では、これからの私に誰がいると言うのです。例え、誰がいようと、心が

   通うことはないでしょう」


 母は言った。父と心が通ったことなど無いと。自分もそんな男と暮らすことになるのだ。すべては家のため。


拮平 「先のことは誰にもわからない。まさか、沙月さんがこんなにも早く死んで

   しまうなんて、誰が思った。だから、これから先何があろうとも、心の持ち

   方一つじゃない。弥生さんなら、それが出来ると思うよ」

弥生 「もう、何も言わないで。このままずっと、このまま…」


 男と女に、言葉はいらないが、時が過ぎれば、否応なく別離はやって来る。


拮平 「もう、逢うこともないと思うけど、もし、町であっても…」


 別れ際に拮平は言った。


拮平 「弥生さんに逢えてよかった」

弥生 「拮平さんに逢えてよかった」


 そして、右と左への別れ。

 終わったのだ、すべて終わった…。


 重い足取りの弥生が家の近くまで戻って来た時、名を呼ばれた。


----その声は!


 やはり、姉婿だった。とっさに逃げようとしたが、すぐに行く手は遮られてしまう。


弥生 「止めてください!もう、私どもとは関りはございません!」


 それでも、元姉婿は何か喚いていた。その時、近所の若者が通りかかり、姉婿を追い払ってくれた。弥生は礼を言って家に駆けこむが、そこでまた衝撃的なことを聞く。何と、姉婿を家に上げたと言う。


母  「沙月に線香をあげたいと言うので仕方なかろう。ちょうど、お前もおらぬ

   で。さすがにも、仏壇の前で泣いておったわ」

弥生 「そんなにも、あちらの方がお気に入りとは。では、あの方を養子にお迎え

   くださいませ」

母  「何で、他人を養子にしなければならぬ」

弥生 「それでも、わが娘よりお気に入りなのでしょ」

母  「別に、気に入ってはおらぬが、その様に、邪険にしなくとも」

弥生 「では、私がどの様な目にあってもよいと言われるので」

母  「何と、大仰な。あの男にそんな度胸はないわ。第一、お前が黙って出て行

   くのが悪いのじゃ」

弥生 「行き先はちゃんと告げましたが」

母  「さあ、聞いたかな。いや、聞いてはおらん。例え、聞いていたにせよ。こ

   んなにも長う家を空けおって。一体、どこの傘屋まで行ったと言うのじゃ」

弥生 「……」

母  「どこぞで、自分だけうまいものでも食ったのか、それで、手土産もなしと

   は。いやはや、偉くなった者よ」


 一時いっときほど前の拮平との濃密な時間が思い出されてならない。


弥生 「とにかく、あの男に、絶対この家の敷居を跨がせることは止めてくださ

   い」

母  「ならば、家にいればよかろう。お前が家に居さえすれば、上げぬわ」


 翌日、またも弥生は家を出る。行き先は坂田の屋敷である。もう、父も母も当てにはならない。


利津 「少しは落ち着いたか」

弥生 「いいえ、さっぱり落ち着きません」

利津 「それは、また、どうして」

弥生 「実は…」


 弥生は昨日のことを利津に話すのだった。


利津 「何と。そなたの母にも困ったものよ。私には娘一人しかおらぬが、どちら

   も我が娘ではないか。ましてや、今はそなたが家を継いで行く身と言う

   に…」


 いくら血を分けた親子と言えども、二人の子を同じには扱えないものである。まして、大事な長女が死に、その後を次女が継いだからと言って、今まで散々見下して来た次女である、そこは親のプライドが許さない。親子とはいえ、人は見下せるものはずっと見下すものである。


利津 「わかった。後は私に任せよ」

弥生 「ありがとうございます…」


 帰りには、下男を一人付けてくれた。この下男は弥生が最初に坂田家を尋ねた時、門前払いをした男である。それが、今度はその時の娘の用心棒とは、当然、面白くない。


下男 「これはこれは、どちらのお嬢様かと思えば。はあ、偉くなったものよ」

弥生 「もう、ここで結構です」

下男 「はいはい、そうですかい」


 と、下男は帰って行くが、どうせ、どこかへ寄り道をするのだろう。それより、周囲を見回してみたが、今日は姉婿に出くわすことはなかった。


母  「やれやれ、あれ程家を空けるなと言っておいたに、馬の耳に念仏であった

   か」

弥生 「坂田様のところへです」

母  「ほう、新しい婿の催促にでも行ったか。それをこちらへ」


 と、弥生が坂田家からもらった菓子包みを取ろうとする。 


弥生 「これは、明日のお供えです」

母  「わかっておるわ」


 翌朝、仏壇にその菓子を愚痴と共に、お供えする母だった。


母  「かわいそうに。何と、かわいそうな沙月よ…。昨日、弥生がこんなものを

   もらって帰って来た。それもこれも、沙月のお陰と言うに、感謝の気持ちも

   ないわ」


 それにしても、毎日毎日、似たような繰り言ばかり言えるものだ。いや、この母には、もはやそれしかないのだ。そして、夕刻に下げた菓子は母が一人で食べていた。



 


 







 

 

 


 















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