第129話 奈落の声 二

 葬儀が終われば、数少ない親戚も帰って行く。初七日までにはまだ間がある。当時はきちんと七日目に行っていた。

 弥生はこの三日ほど、ほとんど寝てない、いや、恐くて眠れないのだ。うっかり眠ろうものなら、あの姉婿に襲われそうな気がして…。そんな弥生もさすがに睡魔には勝てない。


姉婿 「さっ、弥生殿お疲れでしょう。床を延べましたゆえ、お休みください」

  

 そこは以前は沙月と共に寝ていた部屋だが、その後は姉夫婦の部屋となっていた。また、敷いてある布団は、押し入れの隅に追いやられたままになっていた弥生の布団であるが、それを引っ張り出して来たのがこの姉婿かと思えば、それだけでも嫌悪してしまう。さらに、部屋の真ん中に敷いてあるならともかく、もう一組布団が敷けるように設定されているではないか。

 弥生は母の布団で眠ろうと思い、押し入れから母の布団を取り出そうとすれば、姉婿はまたも側に寄って来た。そして、体を押し付け、弥生のうなじに息を吹きかける。今までにも何度かあったことだが、あまりの気持ち悪さに、弥生は思わず布団を取り落としてしまう。


姉婿 「この様なことは私が致しますに…」


 弥生はもう嫌だった。さすがに、母も言った。


母  「わが妻が亡くなったばかりと言うに、見苦しい真似をするでないわ」

姉婿 「見苦しいなどと、私は弥生殿があまりにお疲れゆえ、床を延べて差し上げ

   たのです。この上、弥生殿に何かあったらどうするのです」

母  「では、私はどうなってもよいのか」

姉婿 「母上、その様なことを言っているのではありません。私はただ、ただ、こ

   の家の行く末を案じているだけです」

母  「とにかく、四十九日過ぎるまでは節度を守ってもらわねば」

弥生 「それはどういうことです!」


 弥生が語気を強める。


母  「どうもこうもないわ。これからはそなたがこの家の跡取りである。なら

   ば、どうすべきはわかるであろう?子供でもあるまいに。幸いにもこの婿が

   そなたでもよいと言ってくれた」

弥生 「いやです!私はいやです!」

母  「何を戯けたことを!この家を潰すつもりか!」

弥生 「では、私も死んだものと思って下さい」

母  「それは、一体、どう言うことである」

弥生 「ですから、私も死んだものと思って下さいと言いました」

母  「どうして、気でもふれたか。これから、この家はそなたが継がねば、この

   家はそれこそ、断絶の憂き目にあうわ」

弥生 「では、養子をお取りになれば。そちらの方でも構いませんけど」

母  「何を!我が娘がいながら、なぜに、他人を養子にせねばならんのじゃ!戯けた

   ことを申すでない」

弥生 「私は本気です」

母  「もう、これ以上、この母を煩わせるのは止めてくれ。沙月が死んだだけで

   も堪えておるのに、この上、残った娘まで世迷言を言うとは…。あ~あ、沙

   月が生きていてくれたら…」

姉婿 「弥生殿!どちらへ」

弥生 「厠です。厠まで付いて来られるのですか」


 部屋を出た弥生はそっと、家を抜け出す。そして、夕暮れの道を走った。


弥生 「お咲ちゃん!お咲ちゃん!」


 真之介の家の裏口は閉まっていた。弥生は必死で戸を叩く。気付いた忠助が戸を開けてくれた。


忠助 「弥生様…」


 台所で水を飲み、やっと一息付けた弥生だった。


真之介「弥生、どうしたと言うのだ。先ずは上がれ」


 お咲から知らされた真之介がやって来た。


弥生 「も、申し訳ございません」


 弥生の疲れ切った表情に、ふみも驚きを隠せない。


弥生 「こ、この度は色々と…」

真之介「そんなことより、何があったと言うのだ!」

弥生 「それは…。お願いでございます。せめて、せめて今夜だけでも泊めてくだ

   さいませ、お願いします」

真之介「お咲、弥生の床を」

ふみ 「弥生、これを」


 と、ふみが自分の膳から椀と箸を取り、弥生に手渡す。礼を言って、椀を受け取れば、鮮やかな山吹色が目に飛び込んで来た。そして、一口食べれば、何とその美味なこと。それは、近頃食欲のない、ふみのために作らせた卵粥だったが、弥生には生まれて初めての卵粥だった。

 子供の頃、沙月が病気になれば、母が卵粥を作っていた。その時の母は、弥生が側に来ることも嫌ったものだ。捨てられた卵の内側からわずかに残った白身を舐めて見たが、何の味もしなかった。それでも、自分も病気になれば卵が食べられると思ったものだ。だが、弥生が麻疹にかかった時も白粥だった。また、沙月が残した卵粥は母が食べていた。

 いかに裕福な家とは言え、短い間の付き合いでしかない自分に、ふみは卵粥を食べさせてくれた。余りのおいしさに涙が出そうになるが、その後は欲も得もなく眠った。


ふみ 「一体、何があったと言うのでしよう」

真之介「それは明日聞くとして、先ずは食事を」


 お咲が卵粥の残りを持って来てくれたが、ふみはどうにも食欲がわかない。それでも、粥だけは何とか流し込み、ふみも床に付くことにした。

 弥生が家を飛び出して来たのは、おそらくあの姉婿とのことだろう。真之介には弥生の気持ちが痛いほどわかる。

 今日の昼間、拮平に会って来た。辛いことだが、伝えなければならない。


拮平 「そう…」


 事のいきさつを知った拮平がつぶやくように言った。


拮平 「どうにもならないね」


 と、どうしようもなく寂し気な笑いを見せる拮平だった。

 真之介も掛ける言葉が見つからない。前の弥生とのことが吹っ切れ、ようやく新しい一歩を踏み出そうとした矢先だった。それが、まさかの沙月の死とは…。

 これからの弥生の生きて行く道は、姉婿と夫婦になることでしかないのか。そうして、家を守っていくしかないのか。だが、拮平は弥生が姉婿を嫌っている訳を知っている。


----あんな、嫌いな男と…。


 もはや、なす術はないのだ。いや、この前もそうだった。年末で慌ただしいからと言うことで、すべてを年明けにすれば、八百屋お七の火付けに巻き込まれてしまった。今回も、嘉平の一周忌が終わってからにすれば、何と、姉の死が待っていようとは…。

 どうして、あの時、すぐにでも行動に移さなかったのだろう。さすれば、もっと違う展開になったかもしれない。

 どうして、悔は後からしかやって来ないのだろう。 


拮平 「大丈夫だから…」  


 最後に拮平は言った。そして、帰宅してみれば、弥生が倒れ込むようにやって来た。さらに、ちょうどその時、玄関に慌ただしい人の気配がした。


----お出でなすったか…。


姉婿 「失礼します、弥生殿は?」

真之介「お静かに。眠っております」

姉婿 「それでも、連れ帰らねば。どちらの部屋です」

真之介「お静かにと申した筈です。先ずはお座りください。生憎、手前の愚妻も加

   減が悪く臥せっております」


 その時、お咲が茶を運んで来た。


真之介「先ずは茶でもお飲みください。それからと言うことに」

姉婿 「しかし…」


 それでも姉婿はぐいと茶を飲み干す。


姉婿 「いくら、何でも、これ以上こちらにご迷惑をおかけすることは出来ませ

   ん。すぐにも連れ帰ります」

真之介「迷惑などとは思ってもおりません。それより、何があったと言うのです。

   葬儀を終えたばかりと言うに」

姉婿 「それは、ちょっとした…」

真之介「ちょっとしたことで、夜も眠れぬとは、何があったのかお聞かせ願えませ

   ぬか」

姉婿 「いいえ、ですから、私は弥生殿がお疲れなので、床を用意して差し上げた

   のです。そして…。それから、母上と口論になり、弥生殿が家を飛び出され

   と言う訳です」

真之介「その口論とは」

姉婿 「それは…。よくは存じません。それより、弥生殿はどこです。早よう、連

   れて帰らねば」

真之介「良く、眠っておりますゆえ、今夜はこのままと言うことには参りませぬ

   か。夜も更けて参ました。」

姉婿 「何を言われるのです!弥生殿は私の妻となる方です。そんな女性にょしょうを他家で

   眠らせるなど!」

真之介「奥方を亡くされたばかりなのに、もう、その次をお考えですか」

姉婿 「これは、このことは、父上、母上、ご親族の方からのたっての頼みです。

   それに、よくあることではございませんか」


 長子相続が確立したこの時代、長男が亡くなれば次男が後を継ぐ。その時、特に兄に子供がいた場合、兄嫁ともども、そのまま弟が引き継くことはあることだった。

 弥生の場合も、姉が亡くなれば妹が家を継ぐ。その際、姉婿がいれば、通常はそのまま横滑りとなったものである。


真之介「その様な大事な方をどうして夜も眠れぬ程、追い詰められたのです」

姉婿 「追い詰めるなど…。断じて、そのようなことは致しておりません!」

真之介「お静かにと申した筈です。家ではおちおち眠れぬと申されておりました

   が」

姉婿 「そんな、その様なことはありません。私がどれだけ弥生殿に気を使ったと

   お思いか」


 その時、お咲が茶のおかわりを持って来た。姉婿はまたも一気に飲もうとする。


姉婿 「熱い!」


 と、お咲を睨みつける。


姉婿 「先程の茶はぬるかったのに、次にこんなにも熱い茶を出すとは」

真之介「二杯目の茶は熱いものです」


 茶の最初の一杯目は、喉の渇きを潤すためにぬるい茶。二杯目からは茶を味わうため、熱い茶を半分。三杯目は多め。これで、汗も止まる。


姉婿 「それより、早よう弥生殿を」


 と、茶のことはなかったことにする姉婿だった。


真之介「せっかく寝入ったところです。今宵はこのままと言う訳には参りませぬ

   か」

姉婿 「そうは参りせぬ!お引渡しなくば、家探しさせていただきます」

真之介「私の妻も加減が悪いのです」

姉婿 「それは、そちらのご都合にて」

真之介「そこのところを」

姉婿 「いいえ!」


 真之介は刀を右手に持つ。刀は左腰に差す、抜く時は右手であるが、他家などを訪問した際など、座敷に上がる時は右手に持ち、着座した時も右側に置く。これは、あなたの敵ではない、危害は加えませんと言う意思表示である。


真之介「それほどまでとおっしゃるなら、ここはひとつ、お手合わせ願いたい。こ

   れでも、いささか腕に覚えもございます」

 

 と、今の真之介は刀を右手に持っているが、いつでも左手に持ち替えられる迫力に思わずたじろぐ姉婿だった。


姉婿 「そ、その様に、腕づくとは、大仰な。わかり申した。今日のところはこれ

   くらいに…」

----しておいてやるわ!


 姉婿は帰って行ったが、当然翌日もやって来た。ずかずかと上がり込み、弥生の姿を見れば、満面の笑みで言うのだった。


姉婿 「これは、弥生殿、ご無事で何より。ささっ、一刻も早ようお戻りを」

弥生 「何と、ご挨拶が先ではありませんか」

姉婿 「これは失礼をば。いや、弥生殿がお世話になり申した。さっ」

弥生 「私はまだ、動けません」

姉婿 「何をおっしゃる、その様にお元気ではありませんか」

真之介「この姿が元気に見えますか。実はつい先ほどまで、医師がおりまして、弥

   生殿は大層お疲れで、心の臓も弱っておいでとか。ここ二、三日は静かに養

   生なされた方がいいとの診立てです。よって、このまま当家にて休まれるの

   が良かろうと、医師が、申しておりました」

姉婿 「養生ならば、自宅が一番ではないですか。それに、今はこうして座ってお

   られる。歩いて帰宅出来るのでは?ならば、駕籠を呼んで参りましょうかな」

真之介「その自宅が落ち着かないのだそうです。何やら、常に騒がしい方がいらっ

   しゃるとかで」

姉婿 「誰が、騒がしいなどと!弥生殿、当家は喪中ではないですか。それに、父上

   や母上のことが気にならないのですか。また、沙月もあの世で嘆いているこ

   とでしょう。妹は手も合わせてくれぬのかと」

弥生 「手は合わせております」

姉婿 「その様な言葉遊びをしている場合ではありません!もうすぐ初七日ではあり

   ませんか!その時に、弥生殿がいなくてどうするのです」

真之介「その沙月殿がお亡くなりになられたのは、心の臓の発作ではございません

   か。まだ、お若いのに…。この上、弥生殿に何かあらば、どうされるおつも

   りで」


 その時、お咲が茶を持ってくれば、姉婿はぐいと飲み干し、大きく息を吐く。


姉婿 「では、どうあっても、弥生殿は引き渡さぬと」

真之介「しばし、お預かりするだけです。初七日には私が責任をもってお連れ致し

   ます」

姉婿 「それでは、初七日の準備は誰がするのです」

真之介「それは、どなたかご親族の方にお願いされては。こう言う場合、ご近所の

   方たちもお手伝い下さるのでは」

姉婿 「しかし、それでは、あまりにも…」

真之介「あまりにも?」


 その時、お咲が二杯目の茶を姉婿の前に置く。前日の轍を踏まないつもりか、今度はそっと手を出すが、それにしては湯呑が熱くない。見れば、今日の湯呑は昨日の湯呑より分厚く茶は冷めていた。


姉婿 「冷たい!これでは水も同じではないか!」


 一口飲んだ姉婿はまたもお咲を睨みつける。


お咲 「夕べ、茶が熱いと申されましたので、ぬるめに致しました」


 と、澄ました顔で言う。


姉婿 「うるさい!い、いや、失礼。とにかく、母上が一刻も早く連れ戻せとうるさ

   いので、そこを何とか…」

弥生 「旦那様、疲れましたので、また、休ませていただきます」

真之介「それがいい」


 弥生は隣の部屋へと言ってしまう。 


姉婿 「弥生殿!」


 憤懣やるかたない姉婿だった。


姉婿 「こんなことがあってよいのですかな!これが、町方の流儀ですか!」

真之介「具合の悪い時に、武士も町方もございません」

姉婿 「それでは、私にどうしろとおっしゃるので。これでは子供の使いと同じで

   はありませんか!」

真之介「見たままをご報告なさればいいでしょう。初七日には私がお連れ致しま

   す」

姉婿 「本田殿、これで、済むとお思いか。ならば、私にも考えがあります」

真之介「どの様なお考えですか。是非にもお聞かせ願いたいところです」

姉婿 「それは…。ひとまず、いや、出直して参るで、その時に」

----首でも洗って待ってろ!


 と、姉婿が帰って行けば、両方の襖が開き、ふみと弥生が入って来た。


弥生 「本当に、申し訳ございません」

ふみ 「まだ、寝ておればいいのに」 

弥生 「奥方様こそ、お加減が悪いでは。この様な時にお役に立つどころか、ご迷

   惑をおかけ致しまして、申し訳もございません」

ふみ 「私は大丈夫です。それより、寝てないのでは?遠慮せずとも好きなだけ眠る

   がよい」

弥生 「ありがとうございます。久し振りによく眠れました」

ふみ 「そうですか。でも、これから大変なのでは」

弥生 「はい、何とかのり切ろうと思っております」

ふみ 「これから、どうなるのでしょうか」


 と、真之介に問いかける。


真之介「おそらく、母や親族を連れて来るのであろう」

ふみ 「それでは…」


 やはり、弥生は母や親族には逆らえず、あの姉婿と夫婦にさせられるのだろうか。


弥生 「それだけは、死んでもいやです」


 拮平と別れるだけでも辛いのに、どうして、あんな姉婿なんぞと…。 

 何としても、それだけは阻止してみせる。しかし、こんな時でも思い出されるのは拮平のことだった。

 拮平に逢いたい。逢ってどうなるものでもないけど、それでも、逢いたい…。 


 そんな翌日、姉婿は姑は無論のこと、坂田夫妻に実兄まで伴い、意気揚々とのり込んで来た。まるで、囚われの姫を助けに来た正義の味方とでも言いたげな顔だった。


真之介「お手数をお掛け致します」


 真之介が小声で坂田に詫びる。


坂田 「いや、今日は奥が取り仕切るらしい」


 弥生を真之介の許へ派遣したのは利津である。上座に坂田夫妻が座り、脇に母、姉婿とその実兄。向かいに、弥生、真之介夫妻が座った。

 着席早々、咳ばらいをした姉婿は胸を張り、声を張るのだった。


姉婿 「坂田様、奥方様。本日は私共のためにご足労頂きまして、まことにかたじ

   けなく存じおります。何しろ、我が家の存亡にかかわることにて…」

利津 「これ、話は後でゆっくり聞く。喉が渇いた、先ずは茶など」

 

 ちょうど、お咲と忠助が茶と菓子を運んで来たところだった。昨日のうちに忠助に茶菓子を買いに走らせた。やはり、多めに買って置いてよかった。まさか、坂田夫妻まで引き連れて来るとは…。


利津 「これは、また、美味な…」


 利津は茶を飲み、姉婿がイラついているのもお構いなしに、一人だけゆったりと茶菓子を食べているが、これには、さすがの坂田も顔をしかめる。姉婿は例によって、茶をぐい飲みする。

 ゆうべ、この姉婿は姑を伴い、坂田家に押しかけて来た。何と、喪中であるにもかかわらず、弥生が家を出て、真之介の家に行ったきり、迎えに行っても戻って来ない。もうすぐ初七日だと言うのに、困っている。あれは、絶対、裏で真之介が糸を引いているに違いないと、まくし立てたものだ。

 坂田夫妻にしてみれば、あの真之介のことだ。何か訳があるに違いないと思うものの、姉婿の剣幕はともかく、姉娘を亡くし、さらにもう一人の娘まで側にいない。そんな母の心情を慮ってのことと、弥生を真之介の家に派遣した責任もあり、こうしてやって来たと言う訳だ。


利津 「では、早速に」


 茶菓子をを食べ終わった利津がおもむろに口を開ければ、待ってましたとばかりに姉婿が身をのり出して来る。

  








































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