第106話 側室にて候
真之介「例の話であるか。しかし、いきなりと言うのは…」
ふみは兵馬に新たな側室を勧めようとしているのだった。
ふみ 「では、どの様に。もう、兵馬にこれ以上の好き勝手はさせません」
兵馬には
真之介「しかし、今の兵馬殿に、押し付けるようなことはしない方が…」
ふみ 「ならば…。旦那様は反対なのですか」
真之介「決して、反対と言う訳ではないが…」
ふみ 「わかりました。では、後のことは旦那様にお任せ致します。兵馬も女の私
が言うことよりも、男の旦那様の話なら耳を傾けることでしょう」
ふみは、わが弟ながら、女を役立たずと罵った兵馬を許せない。それでも、実家三浦家のことを思えば、兵馬の側に明るい性格の女がいた方がいいと思う。
真之介「左様か、ならば」
思えば、兵馬にも世話を焼かされたものだ。たまには、小遣いも渡しているのに、あの登紀と言う札付きの女とのことを真之介に泣きつき、丸投げされたのを皮切りに、園枝の懐妊中の愚痴はともかく、あろうことか、妹お伸に食指を伸ばしてきた。
お伸には小太郎と言う決まった相手がいたが、正式なものではなく、姉を妻にしている真之介の妹である。旗本から側室にと望まれれば、嫌とは言えない。そのことに一早く気が付いたのは、弟善之介だった。
侍になった真之介の後を継いで、本田屋の主人となった善之介だが、あまり商売熱心でもなく好きな絵の道に進みたいとの希望もあり、急遽、お伸に婿を娶り店を継がせると公表すれば、さすがの兵馬も何も言えず、小太郎は晴れて、お伸の婿となることに決まった。
それからも、不平不満の絶えない兵馬をなだめ、エゲレス語を勧めてみたりと気を使っているのに、今度は側室の世話…。
また、ふみが兵馬の側室に考えているのは、何と、お房なのだ。確かにお房は明るく性格のいい娘であるが、姉の嫁ぎ先にいる下働きの娘である。
それをいきなり、姉が側室に迎えろと言ったところで、すんなり受け入れるだろうか。
そこは何かお膳立てしなければ…。
----芝居見物にでも行くか…。
幸いと言うか、久は父親の見舞いに実家へ帰っている。忠助には本当のことを教えて留守番をさせる。
お房 「えっ、忠助さんは行かないのですか」
真之介「ああ、忠助は男同士の遊びに行くそうだ」
江戸庶民にとって、芝居見物とは最大のレジャーである。その芝居見物に連れて行ってもらえると知ったお房は大喜びしている。
真之介たちは、前日から実家の本田屋に泊まり、お房は朝早くから化粧と、お伸の着物を着せてもらっていた。
ふみ 「まあ、お房。何てかわいいのでしょ」
真之介「本当に見違えてしまうわ」
お房は恥ずかしそうに、それでもうれしそうにしている。
真之介「では、参りますかな、お嬢様」
兵馬たちとは、船着き場で落ち合うことになっていた。そこには、三浦夫妻に坂田夫妻もいた。坂田には先だっての兵馬の離婚のことで、形だけとは言え立会人である。一応、ふみが菓子折りを持って礼には行っているが、今日の様な時にはいた方がいい人物である。
三組の夫婦とそれぞれの供侍と女中とで、カップルの様になっていた。船に乗る時は、男は女の手を取る。自然、お房の手は兵馬が取ることになる。
兵馬 「馬子にも衣裳とはよく言ったものだ」
と、最初こそ、いつも調子でお房をからかっていた兵馬だったが、さすがにカップルばかりの中にいては、お房と話をするしかない。
坂田 「いや、それにしても、今日のお房のかわいいことよ」
利津 「ほんに、どこに出しても恥ずかしくない娘ではないですか」
坂田夫妻も今日の芝居見物の目的を知っている。それでもこんなことでもない限り、坂田が妻を芝居見物に連れて行くなどないことだった。
----真之介の、いえ、お房のお陰…。
何も知らないのは、当の兵馬とお房だけだった。それでも、兵馬は悪い気はしてないようだ。
前妻の園枝との暮らしは兵馬にとっては、煩わしいことこの上なかった。今はその解放感もある。そこに現れたお房はいつもの女中ではなく、きれいな娘だった。
芝居の後、座敷に市之丞と夢之丞を呼べば、真之介と兵馬以外は一様に驚きを隠せない。客席からでも似ていることは確認できたが、真之介と化粧を落とした夢之丞が目の前に二人して並べば、一瞬、皆、言葉も出ない。
播馬 「何と!では、あの時の…」
夢之丞「左様にございます。殿さまから本田様と間違われ、もう少しで手打ちにな
るところでございました」
ふみが輿入れ間もない頃のことだった。夢之丞こと、本名清十郎は女房のお夏の従姉、お駒の許へ二人して転がり込み、お駒から貰った小銭を懐に町をぶらついていた時のことだった。
播馬の娘、ふみが輿入れした先は士分を金で買ったにわか侍である。そんなところへ嫁がせてしまった負い目のある播馬だった。ある日、町を歩けば、町人姿の真之介が目に飛び込んできた。それだけも腹立たしいのに、あろうことか、これまた、ふみによく似た女がそこに現れたのだ。
----自分だけでは足りず、旗本の娘である、ふみにまでこの様な姿をさせるとは、許さぬ!
とっさに刀の柄に手をかけた播馬だったが、その時、心臓発作が…。
幸い、事なきを得たが、益々真之介を疎ましく思う播馬だった。
播馬 「して、あの時の女は…」
真之介は咄嗟にしまったと思った。なぜか、ここのところ、お夏のことを失念していた。
夢之丞「さあ、今は存じません。只の知り合いでございますので」
播馬 「左様か…」
多可 「あの時の女とは?」
播馬 「いや、その時にこの夢之丞と一緒にいた女のことだ」
播馬はふと、思い出したのだ。確か、あの時、ふみに似た女もいた筈だと。だが、そこは夢之丞がうまくかわし、ホッとする真之介だった。播馬もここで、あの女がふみに似ていたなどと言わない方がいいと思った。
播馬 「世の中には、自分と似た人間が三人いると言うのは、本当かも知れぬ…」
一同が家路に着く頃には、兵馬とお房はすっかり打ち解けていた。
そして、翌日の午後、もしやと思ったが、そのもしやがやって来たのだ。
兵馬 「昨日は久々に楽しき時を過ごさせていただき、父も母も喜んでおりまし
た。兄上にはいつもお心遣い頂きありがとうございます」
と、いつにない丁寧な物言いの兵馬だった。
真之介「父上や母上はお疲れではございませぬか」
兵馬 「はあ、さすがにちと疲れた様子にございましたが、よく眠れたそうで。目
が覚めますと、見て来た芝居の話、特に母上は兄上と夢之丞のことが、未だ
夢のよう思えてならないとか申しておりました」
その時、忠助が茶を持って来る。兵馬は久が実家に帰っていることは知っているが、お房ではなく忠助が茶を持って来るとは…。
兵馬 「お房は?」
ふみ 「お房も今朝方より実家へ戻りました」
兵馬 「実家へ…。久も実家へ帰っているのでは」
ふみ 「ええ、でも、何やら実家の方で…」
兵馬 「そうですか…。では、食事は誰が?」
忠助 「飯は私が炊きます」
ふみ 「私でも煮物くらい作れます」
真之介「魚は私が焼きます」
ふみが言えば、真之介も言う。
兵馬 「はあ、それはそれは…」
供侍が笑っている。
真之介「昨日のお房はかわいかったでしょう」
ふみと忠助、供侍がそれとなく席を外した頃、真之介がこれまたそれとなく兵馬に尋ねる。お房が実家へ帰っていると言うのは嘘だった。
兵馬 「はあ…」
真之介「お房は明るくていい娘です。それと千花はどうしてます」
兵馬 「千花はいつもあのままです」
真之介「ちと、大人しすぎますか」
兵馬 「ええ、まあ…」
真之介「如何です。お房を側室にされては」
兵馬 「えっ!」
なぜか、今朝目覚めてからも、お房のことが気になり、つい足が向いてしまった。肝心のお房がいないことにホッとしつつも、真之介からお房を側室に言われ、思わず動揺してしまう兵馬だった。
真之介「大人しい千花とバランスが取れて良いのでは」
兵馬 「バランス…、ああ、そうですねえ」
兵馬 「お房も承知したのですか」
真之介「それは、これからです」
兵馬 「でも、それでは…」
真之介「何を気弱なことを。兵馬殿はお旗本の嫡男ではございませんか。町方の娘
にとって、何の不足があると言うのです」
それを聞いて、気が大きくなる兵馬だった。
兵馬 「まあ、そのぅ。何と言うか、お房もあれで、まあ、そのぅ、気の強いとこ
ろもあると言うか…」
真之介「それをしっかりしていると言うのです。千花にないものをお房は持ってい
ます。また、お房にないものは千花が持っているものです」
兵馬 「しかし、お房もいざとなると、うるさいのでは」
真之介「ここだけの話、女とは、特に妻ともなれば、うるさいものです。どこも同
じです…。え、では、この話、お気に召さないとか?」
兵馬 「えっ、いえ、その、そんな、また、兄上も性急なことを」
真之介「いえ、実は、お房には実家の方から、話がありまして…」
それで、先程、ふみが言葉を濁したのか…。
真之介「ですから、こうしてお話してしているのです。ああ、別に今すぐお返事を
と申しているわけではありません」
はっきりとした返事をしないままに、兵馬は帰って行った。
ふみ 「それで、如何でございました」
兵馬にお房をと言い出したのは、ふみである。誰より気になると言うものだ。
如何も何もあるものか、今日のところは照れ隠しで返事を濁していただけだ。それにしても、あの兵馬に側室が二人とは…。
----俺にも、一人くらい…。
いや、無理だ。特に舅の播馬からは、ふみに子が出来ないのは、真之介の夜遊びのせいだと思われている。
----あなたの息子より、真面目なんですけど…。
そして後日、兵馬の使いがやって来た。
侍 「若殿が承知されたとのことにございます。それだけで、おわかりになられ
るとか…」
ふみ 「そうですか、で、今日は兵馬は」
侍 「エゲレス語のお勉強に参られました」
笑いを堪えながら、ふみは次の行動を起こす。今度は、ふみがお房に兵馬とのことを話すのだった。
お房にとっては、それこそまさかの話であるが、町方の娘が武家の側室になれるのである。まさに、玉の輿ではないか。話を聞いても、それこそ半信半疑の、お房の二親が急ぎ駆けつけてきた。
父親 「それは、誠のことにございますか…。もう、有り難くて、勿体なくて、こ
の通りにございます」
と、揃って畳に頭を擦り付け恐縮していた。
ふみは実家へ帰り、お房を迎えるための指示をしながら、今の自分は三浦家と本田家にとって、なくてはならない存在であることを実感するのだった。
まだ、頼りない兵馬であるが、これからは三浦家の当主としての自覚を持たせなければならない。そのためのお房である。そして、数日後、兵馬がお房の催促にやって来た。
兵馬 「お房はいないのですか」
真之介「ここにはいません」
兵馬 「まだ、実家ですか」
あの日は真之介の実家へ、兵馬がやって来るのを見越して、それこそ何でもない用で使いにやったのだ。
真之介「坂田様のお屋敷に行っております」
兵馬 「どうして」
真之介「いくら何でも、あのままでは…。坂田様のところにて、武家の作法を学ば
せています」
兵馬 「それで、いつまで」
真之介「それはお房次第と言いますか、坂田様のご判断にお任せを」
兵馬 「それくらい、私が、私の屋敷にても教えられます」
真之介「それでは、お房がかわいそうと言うものです。町方の娘と申しても、ふみ
の手前もあります。何も知らぬでは…。今しばらくお待ちを」
----そう、がっつくな!
園枝との結婚前、兵馬は登紀と言う札付きの女に引っかかっていた。
この登紀と言う女。はやり病で夫と子を亡くしている。それだけなら気の毒な女性と言うことになるが、嫁入り前から兎角の噂があり、人妻となった後も人の口の端にのる様な振る舞いや、病に倒れた夫と子供の世話もろくにしなかったとか言われている。
出戻って来てからは、男の噂は侍のみならず町人、農夫と数知れず、いつしかその名からして「時知らず」と呼ばれるようになっていた。
「時知らず」とは時節・季節を選ばないこと。
人間には他の動物の様に繁殖期と言うものがない。そこから言えば人間も時無しであると言えるが、登紀の場合は常に男が切れることなく、色々な男を相手にするところから、年中盛っている女、いつでも誰とでもやれる女として、いつしか時知らずと呼ばれるようになっていた。
その登紀から、子供が出来たと聞かされ、慌てて真之介に泣きついて来た。真之介が登紀と会い、話をした晩のこと。男から呼び出された登紀は切り付けられ、深手を負ってしまう。
このことはかわら版にも取り上げられ、兵馬はここぞとばかりに登紀を悪く言ったものだが、真之介から諫められ、渋々登紀の見舞いに行き、登紀の兄から感謝された兵馬は、それさえ、自分の「手柄」にしたものだ。
----お前も、登紀の数いる男の一人ではないか…。
ここまでなら、若気の過ちと言えた。だが、その後、すぐに園枝とのデキ婚…。
----あの野郎、二股かけてやがった!
兵馬の前妻、園枝は年頃になっても、輿入れを焦ることなく日々暢気に暮らしていた。
何より、自分と同い年の、三浦ふみもまだではないか。さらには、ふみがあの暴力男の側室になるのを見届けてからでも遅くはない。
なのに、あろうことか、あれよあれと言う間に、ふみは士分を金で買ったに真之介のところへ輿入れしてしまう。
----何さ、高々にわか侍じゃないのさ!
貧乏旗本の中でも特に貧窮な家ではないか。そんな、ふみが幸せになれる筈はないと思っていたが、ふみの結納金で実家の借金は完済され、輿入れ後はきれいな着物を着て、毎日のように、卵や魚を食べているとか…。
----こんなはずじゃなかった…。
ふみの不幸な結婚を見届けてから、自分はきらびやかに輿入れするつもりだった。
それからの園枝は俄然焦り出す。多くの娘が十八歳までに輿入れしていく中で、十九歳を過ぎても残っているのは自分だけになってしまった。
これは大変とばかりに両親に泣きつくも、おいそれと園枝の条件に合う相手が見つかるものでもない。園枝も本気になって辺りを見回せは、ほとんどの男は妻帯していた。
そこで、目を付けたのが、ふみの弟、兵馬だった。
登紀とのことで、男としての少しは自信も持てた兵馬だが、違う女の誘惑に勝てるものではない。
そして、デキ婚。
だが、兵馬には妊娠の現実が受け入れられなかった。つわりなどは気持ち悪いばかりで、もう、園枝が女どころか、異質の薄気味悪い生物に見えてしまう。それでも、真之介より先に跡継ぎが生まれることが救いであり、その時は得意満面だった。
今まで、何をやっても勝てなかった真之介に勝てたと思ったのも束の間、園枝が生んだのは女の子だった。
それからの兵馬は園枝にも生まれた娘にも関心を持たないまま、先日、離縁状を書いた。
どっちもどっちの夫婦であり、離縁も成り行きと言えた。
いや、兵馬には好きな娘がいた。それは真之介の妹、お伸である。
ふみの輿入れに伴う両家の顔合わせの時、初めて会った。兄の真之介に似て、美しい娘だった。だが、お伸のガードは硬く、ろくに言葉も交わさないまま、時は過ぎて行く。
その間に兵馬は妻を迎えるが、懐妊中の女がこれほど気持ち悪いものだとは思わなかった。
そして、お伸が思い出されてならない。お伸は美しいだけでなく、性格も良いと聞いている。さらには実家の財力も魅力である。姉、ふみにしても豊かさに裏打ちされた暮らしから、すっかり落ち着き払っているではないか。
美も財も兼ね備えているお伸。今度こそ、お伸を手に入れようと画策する兵馬だった。
そのことに気が付いた、母のお弓と弟善之介は真之介を交え話し合いをする。
実はお伸には決まった相手がいた。ひょんなことから、真之介が助けた侍親子の息子で、名は小太郎。父親は早くに亡くなったが、商人として生きろと言う父の遺言を胸に今は知り合いの店で修行をしている。
その真面目な仕事ぶりから、いずれはお伸と夫婦にして店を持たせようと言う話になっていた。もちろん、当人同士もその気であり、店の者たちはみんな知っている。それでも、旗本からの側室話。ましてや、真之介はその姉を妻としているのだ。
話し合いの結果、もともと絵描き志望で家業に身の入らない善之介は家を出る。そして、お伸に婿を摂り、店を継がせる。このことを早々に世間に公表する。
こうなっては、さすがの兵馬もなす術はない…。
真之介は坂田に兵馬の身の回りの世話をする娘を頼めば、まだ、幼さの残る大人しい娘を連れてくる。これが千花である。だが、年上の女を相手にしてきた兵馬には今一つ物足りない。
お房も兵馬より年下ではあるが、明るく物おじしない娘である。ふみが、お房に目を付けたのもわかる気がする。
それにしても、側室が二人とは…。
またしても、真之介は落ち込む。そんな時に、能天気にお房はまだかと催促にやって来る兵馬。
----少しくらい、待ちやがれ。
いよいよ、お房が兵馬の許へ「輿入れ」する日が決まった。ふみは、お房に言って聞かせるのだった。
ふみ 「いいですか、先ずは姫をかわいがってください。それと、千花とも仲良く
するよう。そして、父や母にも気遣いを忘れぬように…。ああ、兵馬には酒
を控えさせ、もっとエゲレス語を勉強するように、少しくらいきつく言って
も構いません。うるさいと言うのは兵馬の口癖ですから。気にしないことで
す。それと、何かあれば、すぐに知らせるのですよ」
お房 「はい、誠心誠意、お仕えさせていただきます…」
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