第102話 江戸の離婚
江戸時代の離婚は、庶民の場合、嫁入り・婿入りを問わず、必ず夫から(妻からは渡せない)妻に離縁状を渡すだけで成立した。届け出は不要であった。ただし、離縁状無く再婚した場合は、双方とも罰せられた。
武士の場合は、夫の家と妻の実家からそれぞれの主君にあてた、双方熟慮の上離縁する旨の届けが受理されて、離縁が成立する。双方の家の格(妻の方が各上が多い)から見ても、夫による一方的な離縁はなされず、形式・実質ともに「協議離婚」であった。
離縁状(
一札之事
一其許義、此度手前存寄有之候て
離縁致遣候間、向後再縁は勿論如何様之
儀有之候共、此方差構無之候、為後日
離別状仍て件如
年 月 日 本人名 印
妻の名 どの
いっさつのこと
ひとつ そこもとぎ、このたび てまえ ぞんじより これありそうろうて
りえんいたし つかわしそうろうあいだ、こうご さいえんはもちろん いかようの
ぎこれありそうろうとも、このほうさしかまえこれなくそうろう、ごじつのため
りべつじょう よってくだんのごとし
と、離縁状(去り状)の内容は、この女と離婚すること、離婚した上は今後どこへ嫁ごうとも構わない、と言うものであり、後半部分は再婚許可証でもあり、細かな離婚理由は書かなかった。
三行半が夫から妻に渡されたからといって、妻が泣く泣く実家に帰っていた訳ではなく、江戸時代には離婚は恥でも何でもなかった。気に入らない男性を、さっさと見捨ててしまう女性もいた。
現在、離婚が増えているとか騒いでいるが、明治前期の離婚はすこぶる多い。現在の離婚率は、増えたといっても1パーセント台だが、明治初期には4パーセント近かった。これは江戸時代の離婚の多さを反映したものだと言われている。
当時の離婚は、夫による一方的な追い出し離縁の様に思われがちだが、実際は、追い出し離婚だけではなく、妻の方からの飛びだし離婚も多かった。それでも、女性が再婚するには、離縁状が必要だったので、必ず三行半は書かれた。夫には三行半を書く権利ではなく、書く義務があった。そして、下記の場合は、妻からの離婚請求が出来た。
1.夫が妻の承諾なしに、妻の衣類など持参財産を質に入れたとき
2.妻と別居もしくは音信不通つまり事実上の離婚状態が3~4年続いたとき
3.髪を切ってでも離婚を願うとき
4.夫が家出して12カ月(古くは10カ月)が過ぎたとき
5.比丘尼寺(縁切寺)へ駆け込んで、3カ年が経過したとき
江戸時代の縁切寺は、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺だけであったが、妻からの離婚靖求もかなりの程度に認められていた。そして夫の方にも離婚の確証が要求されたので、離縁状を渡した妻から「離縁状返り一札」を取る夫もあった。また、離婚率も高く、庶民は今のアメリカ並み。武士の場合も一割という高率で、しかも女性の再婚率は五割を超えていた。「貞女二夫にまみえず」とは、男性の願望に過ぎなかった。
兵馬の場合も言い出したのは園枝の方からである。元から、家庭内別居状態であったが、そこは双方すんなりとはいかなかった。何より加代が園枝を引き留める。
園枝 「こちらに輿入れして以来、妻らしい扱いを受けたことなどありません。も
う、いやです!」
兵馬 「母上、私もこんな能無しは要りませぬ。子供を連れてさっさと帰るがい
い」
園枝 「ええ、帰りますとも。でも、その前に、使った持参金の補てんを」
兵馬 「そのようなものは知らぬ。いくら持って来たかも知らぬし、何に使ったや
らも知らぬわ」
園枝 「まあ、それが常識ではありませんか。いいえ、それに足し分を付けるもの
です!」
加代 「園枝殿、私もそのようなもの受け取った覚えはありませぬが…」
園枝 「確かに正面から差し出してはおりませんけど、何かにつけて出費しており
ました」
加代 「それは如何ほど」
園枝 「まあ、切り餅一つくらいで…」
切り餅とは、二十五両包みが正月の切り餅に似ているところからの俗称である。
加代 「それは、いくら何でも…。それに、園枝殿にも暮らし向きの金は渡してお
る筈」
園枝 「あれしきでは到底足りませぬ」
加代 「確かに、当家も決して裕福とは言えません。些少の負担はしいたやもしれ
ぬが、それを二十五両とは法外も甚だしい」
園枝 「些少ではありません!」
加代 「些少でなくとも、妻の方から離縁を申し出たなら、持参金は諦めるのが常
であろうに」
園枝 「兵馬殿がそのように仕向けたのです!」
兵馬 「何だと!私がいつそのようなことを申した!さあ、いつだ、いつなのだ!有態
に申せ!さもなくば!」
加代 「兵馬!」
園枝 「確かに、口では申しておりませぬが、輿入れして以来、一度たりとも私に
も娘にも寄り付きもしなかったではありませぬか。それが何よりの証拠。私
を除け者にして追い出そうとの算段ではありませぬか」
兵馬 「それは、そなたが口うるさいからであり、赤ん坊を泣かせてばかりおるか
らではないか。うるさくてどうしようもないからだ!」
園枝 「赤ん坊とは泣くものす。泣かぬ赤ん坊などおりませぬ!」
播馬 「何事だ」
そこへ、播馬がやって来た。
加代 「ああ、殿。良いところへ、実は…」
加代から、離縁に際しての園枝の要求を聞く。
播馬 「そう言うことなら、坂田殿を通して話をするよう。いくら、この場で話
合ったとて水掛け論に過ぎぬ」
急なデキ婚であったため、坂田が形ばかりの仲人であったが、こうなっては第三者が間に入った方がいい。
坂田が呼ばれ、一応双方の話を聞くものの、只でさえ感情的になっているところへ勘定が絡むのだ。いや、勘定の方が先かもしれない。
常々、縁組をまとめることにかけては、右に出る者はないと自負している坂田だが、まさか、別れ話のそれも金の話に駆り出されようとは…。
坂田が今までまとめた縁組で離縁になったカップルはいない。例え、頼まれ仲人であったにせよ、坂田にすれば仲人業の汚点であるが、いずれにしても、何とかしなくてはならない。
----そうだ、真之介がいた。こう言う事は、あ奴ならうってつけ。
だが、園枝が異を唱える。
園枝 「これでは、そちらのお身内ばかりではありませんか。女一人に大の男二人
がかり、それも二人とも口のうまい人たちではないですか。これでは、余り
にも不公平すぎます!」
早速にお呼びのかかった真之介としては、冷静に双方の話を聞くつもりであったが、園枝の話にも一理ある。
真之介「では、そちらもどなたかお呼びください。そこでお話合いと致しませぬ
か」
園枝は兄を呼ぶつもりにしていたが、やって来たのは母と家来だった。
園枝 「どうして、兄上は来て下さらないのです。妹がこのように理不尽な扱いを
受けていると言うに」
母 「それは、色々と…。でも、園枝。私がやって来たからにはもう心配は要り
ません」
園枝 「でも、母上。相手は口のうまい仲人と、元商人ですよ。母上など、すぐに
言いくるめられてしまいますわ」
母 「そんなに…」
園枝 「ええ、特に、あの真之介は呉服屋ですよ。女の扱いには慣れております」
母 「大丈夫です。私も負けはせぬわ。そして、この者も」
と、家来の方を見る。
家来 「左様にございます。で、姫様はどの様になさりたいので」
園枝 「私は持参金の補てんと、兵馬殿の私に対する仕打ちの片を付けてほし
い」
家来 「仕打ちの片と申しますれば」
園枝 「それは…。もう、決まっておろう!」
家来 「ああ、やはり、金でございますか」
やれやれ、この調子では真之介に勝てる筈もない…。
女中 「失礼致します」
その声は三浦家の女中だった。見れば、真之介もいるではないか。
女中 「あの、若旦那様がお話を伺いと申されておりますが…」
真之介「ご無沙汰を致しております。また、この度はご心配、ご足労をお掛けして
申し訳ございません」
母 「それは、わが娘のこと。当然のことである。それで、何か」
母親は出来るだけ、真之介の顔を見ないようにしている。相手は女客を相手にして来たイケメンの呉服屋である。特に娘の手前、毅然としていなければならない。
真之介「先ずはそちら様のご要望をお聞かせ頂きたく参りました」
母 「要望は、娘が申した筈!こちらとしては、一歩たりとも譲る気はない!」
真之介「生憎、私はその場に在席しておりませんでした。そこで、改めて今一度、
お聞かせ願えないでしょうか。双方ともに言い分があろうかと」
母 「左様であるな。盗人にも三分の理とか申すよって」
いくら何でも、こんな時に盗人を引き合いに出すとは…。
真之介「それでは、どの様になさりたいのです」
園枝 「先ずは持参金の補てん。そして、私を妻として扱わなかった兵馬殿の仕打
ちに対する気持ちを示して頂きたい」
真之介「持参金とは、輿入れと共に婚家へ差し出す金のことを申すのであって、三
浦家と致しましては、その様な金を受け取ってはおらぬと申しております
が」
園枝 「とにかく、輿入れしてからはとかく物入りで、その都度私が出しておりま
した。いいえ、輿入れ前から、兵馬殿は私の財布を当てにされておったわ。
少しはそれも考えて頂かねば」
真之介「それで、二十五両ですか。確か、お付き合いをされてすぐにお子様がお出
来になったと伺っております。それから、輿入れ、ご出産で一年半くらいで
はございませんか。その間に二十五両とは…」
園枝 「ですから!兵馬殿の私に対する仕打ちの酷さは兄上、真之介殿もご存じの
筈!そんな私に対する、何のお気持ちもないのですか!」
こうなったら、母や家来に任せてはおけぬと、真之介を睨みつける園枝だった。要は慰謝料を出せと言っているのだ。
真之介「それより、お子様のことはどの様になされるおつもりですか」
金の話は出ても、子供のこの字も出て来ない。
園枝 「それは…。こちらで引き取ります」
真之介「それで、よろしいのですか」
園枝 「よろしいとは?よもや、私と娘を引き裂くおつもりか!」
真之介「いいえ、今後、園枝殿が他家へ輿入れされることもございましょう。その
時には」
園枝 「その時は。連れて…。その時はその時である!」
真之介「その時ではなく、今、お考え下さい」
園枝 「今は、今は、そんなことより、今のことをどうしてくれるのです!今が終わ
らねば先へは進めぬではないか!」
母 「孫の面倒は私が見ます」
真之介「大丈夫にございますか。腰痛もおありとか。お子様のことは今一度お話合
いをなされては」
その後、園枝たちは身内で話し合いをし、改めて両家が顔を突き合わすことになった。
園枝 「まあ、そちらのお身内ばかりではありませんか!これでは多勢に無勢、余り
にも…」
三浦家側には播馬夫妻、真之介夫妻が陣取り、本当は主役であるはずの兵馬が端に座っていた。
真之介「では、どの様にすればよろしいので。そちらもお身内の方をお呼びになら
れるとおっしゃったではありませんか」
坂田 「左様、それに私は仲人。これでも中立の立場はわきまえておるで」
頼まれ仲人の坂田が何を言おうと、すべては三浦家の意向でしかない。
真之介「では、私共がお邪魔なのですか」
兵馬 「いえいえ、邪魔なのは私です。後は兄上にお任せ致しますので、さっ、姉
上、あちらへ参りましょう。これで、双方同数となるでしょう」
ふみ 「兵馬!」
兵馬 「何ですか、姉上。そんなにも兄上の側を離れるのがお嫌なのですか。
あっ、そうでした。ここは母上も下がらねば同数とはなりませんね。何し
ろ、ずっと気鬱なことばかりで、こんな計算すら…」
と、日頃はろくに目を合わせることもない園枝を、この時は睨みつける兵馬だった。
ふみ 「何を戯けたことを。自分のことではありませんか。それを兄に任せると
は。そなたはここに座りなさい!私と真之介が退席します」
兵馬 「そんな、私より兄上の方がこう言うことは…。きっちりなさってるではな
いですか」
園枝 「あ~あ。別れてよかった…。まだ、正式には別れてないけど、こんな男、ほ
とほと、愛想が尽きたわ」
園枝がどうでもよさそうに言う。
兵馬 「何だと!」
真之介「とにかく、お座りください」
真之介に言われて兵馬は渋々座る。
真之介「では、どの様にすればよろしいのでしょうか。私共がお邪魔なら下がらせ
て頂きますが…」
真之介とて、好き好んでこの場にいる訳ではない。
坂田 「確かに、こちらの方が数は多いが、私もこの真之介殿もどちらの味方と言
う訳ではない。ここは、一つ、落ち着いて今後の話し合いと言う訳には参り
ませぬか」
数だけの比較で、つい感情的になってしまった園枝だが、坂田が言うようにここは、真之介がいた方がいいかも知れない。
園枝 「それは…。まあ、いいでしょう」
坂田 「では、改めて確認致すが、兵馬殿も園枝殿も離縁することに異議はござら
ぬかのか」
兵馬 「異議なし!」
園枝 「それは私の台詞じゃ!こちらから願ったことである!」
坂田 「まあまあ、お静かに…。それでは、園枝殿にお尋ね申すが、持参金とは輿
入れの際に」
真之介「あの、坂田様。先ずはお子様のことが先かと…」
坂田 「そ、そうであった。では、お子のことはどの様に…」
園枝 「そうですね。私も色々と考えました」
と、ちらと真之介を見やる園枝だった。
園枝 「やはり、ここは…」
と、一呼吸置く。
園枝 「置いて行きます」
と、平然と言ってのける園枝に実の母でさえ、驚きを隠せないでいた。
兵馬 「要らぬわ!連れて帰れ!」
思わず兵馬も声を荒げる。
当時の結婚は契約であり、その契約が切れることになれば、多くの場合、子は婚家のものとなる。また、女性の場合、再婚時に子がいない方が有利である。なまじ、今連れ帰っても、再婚時に実家に置いて行くも、別れは別れである。それなら、子が小さい間に別れていた方が子のためともいう見方もできる。仮に再婚時に連れて行けば、それはそれで苦の種となる。
しかるに、親には、親だと言う驕りがある。子とは親を慕うもの。いつか、会いたくなれば会いにやって来る。その時は。それこそ、涙、涙の感動の再会となる。理由の如何を問わず、子を手放した親はその状況を疑わないものである。
だが、断言する。どの様な事情があったにせよ、子を手放した親はその時点で、親ではない。だから、親に捨てられた子は、絶対に会いに行ってはいけない。
会えば、待っているのは良くて失望、悪ければ絶望。「お前のことは一日たりとも忘れたことはない…」こんな言葉も嘘である。
毎日毎日、捨てた子を思って生きてはいけない。現実はそんなに生易しいものではない。まして、その親に新たに子がいれば、尚のこと。稀に頭をかすめることはあるかもしれない。そんなものである。
只、大金を持って会いに行けば歓待してくれるだろうが「瞼の母」のように、今は裕福で過去を隠したい親にはそれも通じない。
兄弟は他人の始まりと言うが、親と言う他人もいる。なのに、とかく世間は、親を美化しすぎる。
兵馬 「要らぬ!要らぬ!女など要らぬわ!」
「兵馬!!」
二人の女が叫ぶ。
加代 「滅多なことを言うものではありません!たった一人の我が子ではありせん
か。私が育てます」
ふみ 「では、旦那様。本日はご足労お掛け致しました。さっ、戻りましょう」
兵馬 「いえ、別に兄上がお帰りにならなくとも…」
ふみ 「女が要らぬと言うことは、この家においては私は要らぬもの。では、その
役立たずの女の連れ合いも要らぬと言うことでは。後はどうぞ、男の方ばか
りで話し合いをなされてくださいませ」
坂田 「いや、ふみ殿。兵馬殿はいささか気が立っておられるのだ。ここは、落ち
着いて話し合いを。そうであろう、兵馬殿」
兵馬 「はあ、はい…」
坂田 「まあ、ここは、ふみ殿」
園枝 「ははっ、この期に及んで姉弟喧嘩とは、まあ…。そんな下らぬことより、
私のもう一つの要求の方を早く片を付けて頂きたいものよ。もう、一刻も早
よう、この家を後にしたいわ!」
真之介「では、お子は三浦家で引き取ると言うことで、よろしいのですか」
園枝 「よろしゅうございます」
園枝が言ったが、今度は兵馬は黙ったままだ。
坂田 「三浦殿のお気持ちは」
先程から黙ったままの播馬に、坂田が顔を向ける。
播馬 「孫は当家の孫である」
坂田 「では、お子は三浦家にと言うことで」
真之介「お待ちくださいませ。園枝殿に伺いたきことがございます。お子様は確か
にこちらでお育て申しますが、園枝殿にもそれ相応のお覚悟がおありか
と…」
園枝 「覚悟…」
真之介「はい、しばらくはお子様にお会いになられませぬよう。もし、どうして
も、お会いになりたい時は、こちらを通して頂けますか」
園枝 「そうですね。それでよろしいかと」
真之介「そして、こちらとしては、母は死んだと言うことに致したいのですが…」
園枝 「それで、いいでしょう」
何か、園枝は憑き物が落ちたようにサバサバしていた。
誰でも選択を迫られる時がある。それぞれに悩み、苦しみもするが、女は一度決めたことには振り返らない。前に進むべく模索する。
坂田 「それでは、お子のことは、双方ともこれでよろしいのであるな」
坂田の問いに、皆、黙ったままだ。
坂田 「では、了承を得たと言うことで、先程の持参金とやらの話に戻るとし
て…。園枝殿、いくら何でも差し出してもない持参金を返せと言われても、
それはちと、無理が過ぎると言うもの」
園枝 「ですから、形としては出しておりませんけど、それは色々と物入りにて、
出さざるを得ませんでした」
坂田 「それにしても、二十五両とは、これまた、法外ではござらぬか」
園枝 「はい、私が出した金は、そこまでのことはございません。ございませんけ
ど、先程申しました様に、私と兵馬殿は確かに子は
けにございます。婚礼の夜だけは同じ部屋でございましたが、それ以、ずっ
と別部屋で。今まで、ずっと…」
坂田 「いや、まさか…」
子が生まれるまではともかく、生まれて久しいのに、一度も同衾しなかったとは…。
園枝 「この様な仕打ちに耐えて来たのです。そこのところもお考えになって頂き
たいものです」
兵馬はそっぽを向いている。若い兵馬には、妊娠だけでも青天の霹靂なのに、その後のつわりの凄さ、旺盛な食欲など、気持ち悪いだけのものでしかなかった。
それでも園枝が嫡男を生めば、まだ、気持ちを抑えることは出来たが、生まれたのは娘。完全に興味を失ってしまう。
坂田 「真之介殿。ここはどうすればよろしいものか…」
坂田も弱り果てている。だが、当の真之介にしても、離婚の立ち合いなど初めてのことであるし、問題は子供のことだろうと思ってやって来たに、慰謝料とは…。
こうなったら、金額について話し合うしかない。いくらで折り合いがつくか…。
真之介「こちらでのお暮しが一年ちょっとですし、色々加味して、三両くらいでは
如何でしょうか」
園枝 「三両とは、また、見くびられたもの。真之介殿のお言葉とも思えません!」
真之介「では、いくらなら、よろしいので」
園枝 「二十五両、びた一文欠けても嫌です!」
真之介「しかし、こちらのお暮らし向きがどのようなものであるか、ご存じの筈で
は。それ故、お手持ちの中からお出しになられたのではないのですか。それ
なのに、この家に二十五両もの金があるとお思いですか」
園枝 「それくらい、都合付けて頂かねば」
真之介「しかし、これからの借財となりますと、お子様のご養育もございます。そ
このところもお考え頂けませんでしょうか」
園枝 「では、いくら…。いえ、三両では到底納得できません」
真之介「無い袖は振れません」
一両を今の価値にすれば、六万円から十万円くらいとされる。
園枝とて、三浦家に二十五両もの金があるとは思ってない。だが、後ろには真之介が控えている。そこで、吹っ掛けたに過ぎないが、いくら何でも、当の真之介が三両とは…。
----意外とケチね…。
その当たりのことは真之介もわかってる。三浦家もふみの結納金で、当時の借財は完済できたが、その後の兵馬のデキ婚によって、またも借金生活となる。もっとも、本田屋からの借り入れであるからして、利息に追われることはない。
真之介「では、十両お出しいたします。その代わり、お子様はお連れ帰りくださ
い」
十両と聞いて、園枝がしめたと思ったのも束の間だった。
真之介「借財の中でのお暮しとなれば、十分なご養育も出来かねます。どちらかお
選び頂くしかございません」
園枝 「そんな…」
真之介「お子様のことを一番にお考え下さい」
園枝 「……」
子供のことが気にならない訳ではなかった。だが、再婚への
園枝 「母上…」
どうすればと、母を見る園枝だった。
母 「好きになさい。もう、結論は出てるのでしょうから」
しばしの沈黙の後、園枝が口を開く。
園枝 「わかりました。その代わり、娘の養育は遺漏無き様…。それと、輿入れに
際し持参したものはすべて持ち帰ります」
それだけ言うと、園枝はすぐに立ち上がり部屋を出て行く。
母 「では、私共も失礼させていただきます」
と、母と家来が出て行く後を加代が追う。
兵馬 「何だ、あれは…。大体、あの様な者に三両でも多いくらいですよ。子供も
付けてやれば良かったのに」
播馬 「兵馬」
それまで黙っていた播馬が口を開く。
播馬 「いくら、生まれた子が娘であったからとて、その様なことを言うものでは
ない。子は国の宝である。大事に育ててこそ、将軍家のお役に立つと言うも
の」
兵馬 「何が、女に何ができますか。せいぜい子を生むくらいのこと。ああ、そう
ですね。では、いずれ大奥へでもやりましょう。さもなくば、尼にでもしま
すか」
ふみ 「兵馬!では、その役立たずの女である姉は最早、三浦家には用はないと見え
る。よって、これからのことは兵馬の一存にてすべて執り行う様、今後一
切、真之介にも頼るでない」
兵馬 「いえ、そんな。私は園枝のことを言ったまでで、姉上や兄上のことではあ
りません」
ふみ 「坂田のおじさま。本日はご足労をお掛け致しました。近い内に改めてお礼
に伺いますので、今日のところはこれにて失礼致します。父上、母上もご自
愛くださいませ」
と、ふみは兵馬を無視し、真之介に帰宅を促す。
兵馬 「そんなあ。兄上、あの、兄上にはちと話がございまして。私の部屋へ。姉
上はお先に、いえ、母上と…」
ふみ 「役立たずの女の連れ合いなど、頼るでないと申した筈!」
兵馬 「そこは、男同士の話がございます」
ふみ 「こちらは夫婦の話があります」
兵馬 「……!」
夫婦の話と聞いて、一瞬言葉のない兵馬だった。
真之介「いや、私も兵馬殿と話たきことがあり…。奥の話は今夜ゆっくり聞くゆ
え。それより、母上のところへ」
真之介に言われるまでもなく、ふみとて、園枝たちに付いて行った母が気になるのだ。それなのに、例によって兵馬の女役立たず発言を聞けば、つい、気が立ってしまった。
ふみが母の許へ行き、真之介と兵馬も去れば、残ったのは播馬と坂田だった。
坂田 「いや、ふみ殿も、しっかりしたいい奥方になられたではないか。真之介殿
もいつ見ても落ち着いておられる」
女がしっかりしていると言うことは、側の男が駄目だと言うことであるが、この場合は夫である真之介ではなく、弟である兵馬を指していることは、播馬にもわかる。
如何に、まだ若いとはいえ、商人上がりのにわか侍の真之介に、我が息子、旗本の嫡男が見劣りするとは…。
坂田 「いや、兵馬殿もこの度のことはいい教訓になったであろう。これからは、
しっかりなされる」
と、慌てて言い繕う坂田だった。
その頃、兵馬と真之介は寝ている赤ん坊の側にいた。
兵馬 「それにしても、兄上。どう思います?この顔」
真之介「何ともおかわいらしく、よく眠っておられるではないですか」
兵馬 「そう言うことではなく、ほら、良くご覧になってください。この顔のどこ
が私に似てます。娘は男親に似ると聞いてましたに、全く似ておらぬではな
ですか」
真之介「子供の顔と言うものは、変わって行くものです」
何か、嫌な予感がしてならない真之介だった。
兵馬 「それにしても…」
真之介「いえ、あの、兵馬殿、あちらへ」
真之介は急ぎ兵馬の腕をつかみ、部屋から連れ出す。
真之介「どうして、あの場で、あの様なことをおっしゃるのです。お女中が驚いて
いられたではないですか」
兵馬の部屋の障子を閉めた真之介が言う。
兵馬 「本当のことではないですか。誰に聞かれたって構いませんよ。あの顔を見
たでしょ。あの顔のどこが私に似ていると言うのです」
真之介「ですから、それは、赤ん坊の顔など当てになりません。成長とともに変
わっていくものです」
兵馬 「それにしても、どこか一つくらい似ていてもいいじゃないですか。それ
が、全く、全然…。あれ、本当に私の子でしょうか」
真之介「兵馬殿!滅多なことを言うものではものではありません!」
兵馬 「今から思えば、おかしなところもあったのです。どうやら、あの女。二股
かけてたようです。まあ、私もあの頃は世間知らずで…。騙しやすかったの
と、その相手とは一緒になれぬ事情でもあったのでしょう」
真之介「ならば、もしも、もしも、それが事実とすれば、どうして園枝殿は子を置
いていかれたのです」
兵馬 「それは、再嫁の時の邪魔になるのと、私への嫌がらせもあったのでしょ
う。そういう女ですよ。それを父も母も、兄上までもがすっかり騙されてし
まうとは、いやはや…」
真之介「兵馬殿。今更それを言って何になるのです」
兵馬 「ええ、もう、済んでしまったことです。どうにもなりません。だから、も
う…」
真之介「それを後の祭りと言うのです。済んでしまったことなら、男なら、尚のこ
と。後からとやかく言うものではありません」
兵馬 「でも、あれは私の子ではありません!」
真之介「だから、どうしろと」
兵馬 「兄上に差し上げます」
真之介「兵馬殿!」
さすがの真之介も怒りに震える。
兵馬 「いえ、貧乏旗本で育つより、兄上のところの方がいいと思ったまでです。
ああ、姉上に子が生まれれば、女中としてお使いください」
真之介「その様なことを言うものではありません!」
兵馬 「では、私は何も言うな、何も言えないと言うことですか」
真之介「そうです。先程から申しておりますように、今となっては如何様にも…。
既に決着のついたこと。では、もう一度、最初から話し合いなさいますか!」
兵馬 「ですから、あの赤ん坊の顔を見るのが嫌なのです。出来ればどこかへやり
たい」
真之介「それも、無理です。こちらで養育すると約束されたではありませんか」
兵馬 「まあ、そうですけど…」
真之介「武士たるもの、例え口約束と言えども疎かにしてはなりません」
真之介は二年前、ふみとの縁組がなかったことに、いや、なかったことになると思っていた時、坂田から言われた言葉だった。しかし、まさか、同じことをふみの弟兵馬に言ってしまうとは夢にも思わないことだった。
兵馬 「それにしても、兄上はご立派ですね。私など、旗本の家に生まれながら、
何をするでなく毎日過ごしておると言うに。誠に…」
しかし、武士であろうと町人であろうと、話し合って決めたことを後であれこれ言ってみたとて何も始まらい。少しくらいの愚痴ならともかく、この期に及んで、子の托卵疑惑まで口にするとは…。
兵馬 「そうですね、母上は女の子が好きなようですから、母に任せるとします
か。これはどうも、つまらぬことをお聞かせしました」
真之介「いえ、つい、私も口幅ったいことを申しました。お気を悪くなされませぬ
ように…」
兵馬 「それより、何か、面白いことはないですか。白田屋がいなくなってから
は、何か、面白くなくて」
真之介とて、拮平に会いたい。
真之介「その後、エゲレス語の方は」
兵馬 「ああ、しばらく休んでおります」
真之介「では、また、再開されては」
兵馬 「そうですね。それより、白田屋はどこに行ったのです。連絡はないのです
か」
真之介「ございません」
兵馬 「兄上にも言わないとは…。やはり、あの八百屋の娘と駆け落ちでもしたの
ですかね。だとしたら、羨ましい様な。私もそんな気持ちになってみたいも
のです」
真之介「こればかりは、どうにも…。それより、近い内に芝居見物にでも参りませ
んか」
兵馬 「芝居見物、いいですねえ。そうだ、夢之丞を呼んで兄上と二人並べると言
うのは」
真之介「はい。その代わりと言っては何ですが、エゲレス語の方もお忘れなく」
兵馬 「はい」
と、何とか、兵馬の気をエゲレス語の方へ向けることが出来たが、その夜は、当然ふみに詰め寄られる。
ふみ 「兵馬の話とはどの様なことにございました」
真之介「あれから拮平はどこへ行った、連絡はないかと」
ふみ 「それだけにございますか」
真之介「兵馬殿は拮平が殊の外お気に入りだった。また、夫婦別れの後だ。そんな
時に拮平がいてくれたらとお思いなのだ」
ふみ 「確かに兵馬と白田屋はよくつるんでおりました」
真之介「その様な、つるむなどと言う言葉を旗本の姫が口にされるものではない。
一体、どこで。あぁ…」
ふみ 「はい、私も今は御家人の妻にございます。それに、ご実家に参れば色々
と…」
真之介「では、これからは私の実家へは出入り禁止と言うことで」
ふみ 「もう、遅うございます」
久が笑っている。
ふみ 「それより、兵馬のことですが、あのままと言う訳にも…」
真之介「まさか、もう、次の縁組を?」
ふみ 「その様なことをしたら、うわなり打ちに合います」
「うはなり」(うわなり)とは後妻のことである。かつては妻がいる上にさらに迎えた女性(妾など)を「うはなり」と言ったが、後に先妻と離婚して新たにむかえた女性も「うはなり」と言う様になる。この「うはなり」を先妻が打つことを古くは「うはなりうち」と言った。
「嫐討ち」が本当の字であるようだ。
嫐討ちとは、離婚した夫が新たな妻を娶ったとき、先妻が後妻のもとに押しかけて乱暴狼藉をはたらくという日本古来の慣習である。
先妻側は仲間(全員女)を集め、箒、すりこ木、鍋などで武装して後妻の家に攻撃をかける。後妻の家には前もって宣戦布告を通達し、後妻側にも迎撃準備の時間を与えるのがルール。
嫐討ちを実行した有名人には、源頼朝の正室北条政子がいる。離縁はしてないが、頼朝がよそに女をつくるたびに嫐討ちをかけまくったと言う。
また、鍋島直茂の正室彦鶴姫は、最初の夫と死別し、実家に戻っていたところを直茂に見初められて結婚するが、直茂も初婚ではなく、慶円という前妻がいた。西高木城主、高木肥前守胤秀の息女だったが、胤秀が大友義鎮についたためやむなく離縁したのである。
そして直茂の後妻となった彦鶴姫。当然、前妻慶円による「嫐討ち」を受けることになったのだが、彦鶴姫は宣戦布告文書を受けても迎撃態勢を取らず、慶円の軍勢を穏やかな態度で迎え、茶菓子などで丁寧にもてなした。接待された慶円らは毒気を抜かれたのか乱闘にはならず、戦闘は回避されたと言う。
主に男性が妻を離別して一ヶ月以内に後妻を迎えた時に行われ、まず前妻方から後妻のもとに後妻打ちに行く旨を知らせる。当日、身代によって相応な人数を揃え、後妻方に押し寄せ台所から乱入し、後妻方の女性たちと打ち合う。後妻側も壊されてもいい様な家財を寄せ集めて応戦するが、多少の損害は免れない。
折を見て前妻と後妻双方の仲人や侍女郎たちがともに仲裁に入り、双方を治める形で引き上げるという段取りであった。待女郎とは婚礼のとき、新郎の家に来た新婦を家内へ案内する女性のことである。
また、この慣習も、慶長の頃より以前の話であり、寛永を過ぎた頃にはすでに絶えていたようだ。
真之介「今時、その様なことをなさる
ふみ 「あの、園枝殿ならやり兼ねません。しかるに、私とて何も兵馬にすぐに次
の妻を迎えよと申しているのではございません。あれでは、いましばらくは
どの様な女性を娶っても難しいでしょう。ですから、父と母に、特に父上
に、今一度兵馬に意見してくれるよう重々頼みました」
ふみは茶を飲む。
ふみ 「でも、人間とは厳しいばかりでは埒が明かぬものです。そこで、先ずは側
室をと思っております」
真之介「どなたか心当たりでも」
ふみ 「はい…」
!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます