第101話 六郷の妖怪

ふみ 「旦那様、本当にこのような妖怪がいるのですか」

 

 ふみが一枚のかわら版を差し出しながら言う。


真之介「いる」

 

 と、あまりにあっさりした返事に、ふみも久も拍子抜けする思いだった。


久  「私も聞いたことはあるのですけど、本当だったのですか」

真之介「本当だ。久し振りにやって来てくれたか」

 

 かわら版には、いささか簡略なアザラシの絵が描かれていた。

 日本には、昔から漂着生物の記録がある。クジラ、アザラシ等は海流の関係で東京湾や周辺の川での出没記録がある。今で言う多摩川のタマちゃんである。

 近年では、残念なことに、2004年4月12日午前2時を最後に消息は不明となっている。また、多摩川のタマちゃんは、2003年2月に横浜市西区より特別住民票を与えられ西区の名誉区民となっている。登録名はニシ タマオ。住所は西区西平沼町帷子川護岸、生年月日は不詳、性別はオス。なお、住民票発行の根拠となる法律は存在せず、法的には市町村や特別区が配付する広報印刷物の一種にすぎない。

 そのアザラシが現れれば、当然、かわら版のネタになり、それに突き動かされるように江戸で一番数の多い、野次馬たちは見物に行く。

 もっとも、当時の人達は、誰もそれがアザラシと言う生物であることを知らない。そこで、妖怪だと騒く。


ふみ 「では、旦那様はご覧になられたことがおありなのですか」

真之介「この前来た時に、見に行った」

 

 あの時は、拮平と一緒だった…。


ふみ 「危険ではないのですか」

真之介「川の中にいるで、危険はない。それより、よく見れば、目が真ん丸でかわ

   いい顔をしておる」

ふみ 「そんなに近くで見られるものですか」

真之介「近くにやって来る時もある」

ふみ 「そうなのですか…」

 

 つまり、見に連れて行けと言うことだ。

 当時は多摩川を六郷と呼んでいた。今でも橋に六郷の名が残っている。

 翌日、なぜかその六郷に現れた妖怪を真之介たちが見に行くことが知られてしまい、近所の子供たちも行きたいと言い出す。また、親たちもこれ幸いと同行を頼むのだった。嫌とも言えず、にぎやかな出発となる。さらに、途中で三浦家の父母、兵馬夫妻に供侍、女中達とも出会う。だが、これは昨日のうちに、ふみが忠助を使いに走らせていた。

 思えば、三浦家のほとんどが六郷の妖怪などとは無縁の暮らしをしてきた。話には聞いても、それだけで終わっていた。それがどうだろう、今はこうして声をかければ、皆いそいそとやって来る。特に母の加代は嬉しそうにしている。


真之介「くれぐれも、はぐれぬ様に。もし、はぐれた時は、ここで昼を食べるで、

   しっかりと店の名を覚えおくように」

子供 「はい!」

 

 六郷土手の近くの蕎麦屋の前で、真之介は子供たちに言って聞かせる。そんなに小さい子はいないので大丈夫と思うが万一と言うこともある。ここは食べ物をぶら下げておけば、食べ盛りの子供たち、いや、大人でも忘れないだろう。現に供侍や女中たちの方が笑顔でうなづいていた。


子供 「わあ!坊主みたい!」

   「本当だ!頭も体も丸い」

 

 川の中から顔を出したアザラシを見た子供たちは歓声を上げる。案外、夜の海に出没する海坊主とはアザラシだったかもしれない。

 そんな真之介たちと離れたところに、何でも屋の三人もアザラシを見に来ていた。もっとも、三人とも真之介たちが来ていることは知らない。


仙吉 「人、多いっすねえ」

万吉 「江戸で一番多いのは、野次馬だからさ」

仙吉 「それにしても、あの妖怪、もっとこっちに来てくれねえかな。顔がよく見

   えねえや」

万吉 「呼んでみろよ。来てくれるかもしれねえぜ」

仙吉 「おうい!妖怪!」

万吉 「何か用かい。九日十日ここのかとおか

仙吉 「まったまたぁ。あの、兄貴。それにしても、姉さん嫌に静かですね」  

万吉 「本当だ。おい、お澄、そっちに違う妖怪でもいるのかい」

 

 お澄は陸の妖怪を見つけていた。


----こっちも、まるで、妖怪じゃない。 


お澄 「何さ。新婚のくせして、湿気た面してんじゃないよ」

佐吉 「ああ…」

 

 と、これまた、力なく答えた男は、お恭と祝言を挙げたばかりの佐吉だった。


お澄 「えっ、今日は一人で妖怪見物かい。それとも、野次馬の取材かい」

佐吉 「いや、何となく…」

お澄 「何が何となくだよ。どうして、こんな時こそ一緒に来るもんじゃないのか

   ね」

佐吉 「いや、前に見たことがあるんだとさ」

お澄 「へえぇ」

 

 いくら、見たことがあるにせよ、新婚の夫が見に行こうと言えば、普通は喜んでついて来るのではないだろうか。


佐吉 「もう、すべて、それ前に見た。それも知ってるってさ…」

 

 いくら、妻の方が年上とは言え、それではあまりにも素っ気ない。


佐吉 「所詮、俺は二番煎じっと。おっと、余計なこと言っちまった。じゃあ」

 

 と、言って、そそくさとその場を去る佐吉だった。


仙吉 「姉さん、今の佐吉じゃないすか」

お澄 「そうだけど。なんか、ちょいと、妙でさ」

仙吉 「妙って」

お澄 「うん、最初っから元気ないし、二番煎じとか言ったしさ」

仙吉 「何が二番煎じなんすかね」

万吉 「佐吉がどうしたって?」

お澄 「新婚なのに一人で来てたしさ。何か元気がなくて、二番煎じがどうとかこ

   うとか…」

万吉 「ああ、顔が俺と大して変わらないってことか」

 

 お恭の好みは、本田屋の手代、鶴七だった。


仙吉 「そんなの最初っからわかってることっしょ。ああ、若い男の方が良かっ

   た」

お澄 「なのに、その若い男が元気がないとはねえ」

 

 その時、真之介の姿を見つけるお澄だった。


お澄 「まあ、旦那。えっ、これは皆さま、お揃いで…」

 

 真之介の側には、ふみばかりか兵馬夫妻、また、少し離れたところには播馬に加代の姿も見える。これには、後から来た万吉と仙吉も驚いてしまう。だが、いつ見ても、ふみがまぶしく感じられるお澄だった。


お澄 「実は、旦那。先程、ほら、例の佐吉と会いましたの」

真之介「ああ、あの佐吉か」

お澄 「それが、新婚だと言うのに、一人でやって来てまして。何でも、お恭さん

   はあの妖怪は前に見たことがあるとか…。とにかく元気がないと言うか、

   まったく覇気がないんです。余程、こっちの方が妖怪みたいでしたよ。最後

   に、何か知りませんけど、二番煎じだとか。それだけ言ってどこかへ消えま

   した」

真之介「まあ、男と女は思案の外って言うからな」

お澄 「それにしても、まだ若いのに、どうしたって言うんでしょうねえ」

 

 お澄や万吉、仙吉にすれば、内心ざまぁみろと思っている。怪しげな占い師と結託して、丙午の女叩きの記事を書き、多くの女を不幸に突き落としただけでは飽き足らず、金を持った女に目を付けるも、どうやら思惑が外れたらしい。


お澄 「また、何かありましたら、ご報告します」

忠助 「旦那様、見当たりません」

 

 その時、忠助が戻って来た。実は、連れて来た近所の子供が二人姿が見えないので探しに行っていたのだ。


真之介「まあ、後から来るだろう。では、先に行くとするか。ああ、お前たちも一

   緒に」

 

 これから、蕎麦屋に行くのだ。


お澄 「まあ、ご近所のお子様も」 

真之介「ああ、子守を頼まれてな」

 

 だが、蕎麦屋の前に来てみれば、当の二人の少年が待っているではないか。珍しいものを見たが、見るだけ見れば、やはり、食欲に勝るものはない。


真之介「待ちくたびれたか」

子供 「はいっ」

 

 蕎麦をご馳走になって、お澄たちが帰ってみれば、繁次と徳市がお鹿と茶を飲んでいた。


お澄 「お待ちくたびれたかい」

繫次 「ああ、お待ちくたびれたわいなあ」

仙吉 「こんなことなら、ゲジさんたちも一緒に来ればよかったのに」

お澄 「そうだよね。私たち、六郷で旦那とばったり出会ってさ。それがまあ、三

   浦の殿様から近所の子供まで、何人いたかねえ。そんでさ、お蕎麦ご馳走に

   なっちゃった」

繫次 「へえ、そりゃ、よかったなあ。で、土産は」

お澄 「あるよ。ものじゃないけどさ」

繫次 「ものじゃないって」

お澄 「とんでもない土産話がさ」

繫次 「そりゃ、是非」

お澄 「実は、佐吉に会ってさ。それがてっきり夫婦して妖怪見物に来てると思う

   じゃない。それが一人で。それも、元気がなくてさ。こっちの方が余程、妖

   怪みたいだったよ」

繫次 「妖怪みたい?何だい、そりゃあ」

お澄 「だから、何で一人なのかって聞いたさ。そしたら、お恭さん、あの妖怪、

   前に見たことがあるんだってさ。でも、私だって、一昨年も見に行ったさ。

   何だかよくわからない妖怪だけど、大人しいし、かわいいし、やって来れば

   見に行きたくなるんだよねえ。それに何てたって、新婚じゃない。少しでも

   側にいたいと思わないのかねえ。そうそう、最後に妙なこと言ってた」

繫次 「妙なこと?」

お澄 「うん、二番煎じだって」

繫次 「何が、二番煎じなんだ」

お澄 「知らない、それだけ言うと、どっかへ行っちゃった。お終い」

万吉 「ゲジさん、ここんとこ、暇なんだろ。ちょいと、佐吉んとこ、覗いて見た

   ら」

仙吉 「そうそう、逆玉男の憂鬱なんて、記事にしたら」

繫次 「まあ、記事になるかならないかは置いといて…。そうだ、徳。お前、ちょ

   いと探ってみないか。顔知られてねえんでやりやすいと思うが」

徳市 「はい、やってみます」



 こちらにも陸の妖怪もどきがいた。

 お里にとって、拮平は玉の輿計画のキープ要員だった。もしもの時には拮平で手を打てばいいと思っていた。

 それなのに、去年の秋ごろから拮平はルンルン気分。好きな娘が出来、年が明ければ結納が交わされることになっていた。年明け早々から、二人のイチャつく姿を見せつけられたものだ。だが、それも火付け犯の八百屋お七と同名、同家業、同齢と言うことで話は壊れてしまう。

 正直、お里はホッとしたものだが、拮平の落ち込みようはすごかった。それでも、都落ちした娘に逢いに行き、戻って来た頃には落ち着いているように見えたので、今度こそ、拮平を慰め元気づけるチャンスが巡って来た。

 お里も世の中のことが少しはわかって来た。お店の女中ごときがおいそれと玉の輿にのれる筈もない。それなら、拮平で手を打つかと考えていた矢先、拮平の嫁取りが現実味を帯びて来た。だが、天はお里を見捨てなかった、と思ったのも束の間。拮平は家を飛び出した。

 それでも、お里は拮平は帰って来ると信じていた。事実、三か月程で拮平は戻って来る。良かったと安堵するも、今度はすぐに行方をくらまし、それっきり…。

 なんだか、今度は本当に帰って来ないのでは思ったりしたものだ。さりとて、お里は白田屋にいるしかないのだ。それなのに、お菊と女中二人に、挙句はあのお熊までが嫁入りするとは…。

 その代わりに、化石のように動かない一人と親戚のお泊まり会気分の三人がやって来る。しばらくすると化石はいなくなったが、後の三人の動くは口ばかり。


----若旦那、早く帰って来てえ…。 


 もう、祈るしかない…。 

 その時、ぬうぅと何かが前を横ぎる。


----なに、家の中に妖怪?


 それにしては何か騒々しい。 


お縫 「お里!何ぼんやりしてんのさ。今度はお前がお恭やんのかい」

 

 それは、今は女中頭のお縫だった。


お縫「昼間っから、寝そべって、空眺めてからさ。これじゃまるで、六郷の妖怪と

   同じじゃないか」

 

 その時、お里は積んである座布団に上体を載せていた。 


お里 「まあ、そんなあ…」

 

 いつの間にか、お芳の口癖まで、移ってあげたと言うに…。

 ここまでして、白田屋に馴染もうとしていたのに、肝心の拮平が戻って来ないばかりが、六郷の妖怪と同じだなんて…。


お縫 「なに、ご新造さんと同じこと言ってんのさ。まんまじゃないか」

 

 お縫もお芳の口癖くらい知っている。


お縫 「今日はこれから荷が入ってくるから、忙しんだよ」


 荷が入って来れば、荷運び人にも食事を出さなければならない。


お里 「そうでした。でも、お縫さんも少しくらい、あの三人に言ってやってくだ

   さいよ」


 お芳から、さっぱり仕事ができないと怒られたものだから、二三にさん日は何とかやっていたが、すぐに元の木阿弥。


お縫 「だから、それを今からやるんだよ。二人して。もう、遠慮なんかしないか

   ら。だから、いつまでもそんなとこに寝そべってんのさ、やるよ!」

お里 「わかったやります」

 

 それからは、二人して、三人に文句を言いつつ、今までやりたがらなかった拭き掃除、食後の洗い物をやらせることにした。


女中1「でも、私たちは…」

お縫 「でもも、ヘチマもあるもんか!四の五の言わないでさっさとやる!」

 

 そんな「特訓」が功を奏したのか、三人は一人ずつ辞めて行く。


嘉平 「今まで、ご苦労だったね」

 

 と、嘉平は娘たちに足袋と幾ばくかの小遣いを持たせるのだった。

 只より高い物はないどころか、ここのところの収支計算をして見れば、完全にマイナスであることに愕然とするお芳だった。それでも、かわら版で取り上げられたのだから、店の売り明けには貢献できた筈とそれとなく番頭に聞いてみるも、確かに数日間は客足も良かった。それだけだった。

 思わず、重ねた座布団の上に上体が倒れ込んでしまうお芳だった。


----六郷の妖怪もこんな感じだった…。


 今度は口入屋から、新しい女中が二人、派遣されて来る。今まで、散々下っ端扱いされて来たのだ、今度はそのお返しとばかりに、張り切るお里に、朗報がもたらされる。


 何と、兵馬夫妻が危ないと言う…。


----ひょっとして…。


 これはチャンスかもしれない。ただ、ここのところ、ずっと、兵馬とは疎遠だった。拮平が落ち着かなかったせいもあるが、真之介ともあまり話もしてない。また、兵馬の神経質なところが気にはなるが、何と言っても、相手はお旗本である。いかに貧乏旗本と言えど、後ろには真之介が付いているのだ。これを逃す手はないと何もかも放り投げて、真之介の家へと急ぐ。


お里 「ごめんくださいませ」

お房 「あら、お里ちゃん!」

 

 お房はいつ見ても明るい。


お里 「ひょっとして、若旦那から、何か…。いえ、大旦那があんまし元気ないん

   で、ひょっとして、こちらの旦那様が、何かご存じではと、思ったよう

   な…」

お房 「私は何も聞いてないけど」

お里 「そうですか…」

 

 と、残念そうな顔をして見せるお里だったが、拮平のことは単なる話のきっかけに過ぎない。


お房 「お里ちゃんも大変ねえ」

お里 「別に、それ程でも…。それで、あのう」

お房 「ああ、せっかく来たんだから、中に入ってよ。真桑瓜まくわうりがあるのよ」

お里 「えっ、真桑瓜、いいの?」

お房 「これは忠助さんの実家から頂いたものだから」

 

 お房は井戸水でよく冷えた真桑瓜を手際よく皮をむき、勧めるのだった。

 真桑瓜とは、メロンの一変種であり、岐阜県真桑村(現在、本巣市)の名産であったことからこの名がある。ウリ科の蔓性の一年草で、甜瓜てんかとも言う。


お里 「それで、そのぅ…」

 

 真桑瓜を食べ終わったお里は、いよいよ本題を切り出す。  


お里 「だからぁ、これは単なる噂話なんだけどぉ。その、兵馬様が、そのう…」

お房 「兵馬様がどうかされたの」

お里 「何だか、もう、危ないとか…」

お房 「何言ってんのよ」

----えっ、じゃ、離縁とか何とかじゃないの。

お房 「兵馬様はお元気よ。それを危ないだなんて、縁起でもないこと言わないで

   よ」

お里 「いえ、あの、そうじゃなくて。そりゃ、兵馬様がお元気だってことは知っ

   てますよ。ええ、ものすごくお元気だわ、ですね」

 

 兵馬夫妻の仲が危ないと言わなければいけないのだった。


お房 「何、それ」

お里 「だからぁ、そうじゃなくてぇ。兵馬様と奥方様がぁ、その、あまりぃ、お

   仲がおよろしくないとか…」

お房 「それは、今に始まったことではないし…」


 お房もそのことは知っているが、それにしても、もう、お里の耳にまで入ったとは…。ここは余計にでもうっかりしたことは言えない。


お房 「でも、お里ちゃんがそんなこと心配してどうすんの」

お里 「いえ、元があまりお丈夫でないところへもって来て、夫婦仲も悪いとなれ

   ば、さぞかし、ご心労ではないかなあって…」

お房 「言われてみればそうだけど、でも、あちらはお侍だし、うちの旦那様も付

   いてらっしゃるし。兵馬様の一番の相談相手は旦那様だもの。ここは…。で

   も、何か変」

お里 「変て、何が、兵馬様が何か」

お房 「兵馬様じゃなくて、お里ちゃんよ。若旦那の心配してたかと思えば、今度

   は兵馬様のこと心配してさ」

お里 「そ、そりゃ、どちらも心配が尽きないのよ。もう、私って、どうしてこん

   なにも心配性なんでしょう。嫌んなっちゃう」

お房 「それより、新しい女中さんたちはどうなの」

お里 「それは、何とか…」

 

 つい最近、白田屋の女中がまた変わったことをお房は知っているのだろうか。そんなことより、余り長居しては、お房から怪しまれ、近頃特にうるさくなったお縫から何を言われるやら。


----今日はこのくらいにしといてやるか。


 そんなお里が急いで帰宅すれば、そこには当然鬼の形相のお縫が待っていた。


お縫 「お里!この忙しいのに、私に全部押し付けて、お恭じゃあるまいし、一体ど

   こをほっつき歩いてたんだい!」

お里 「あの、若旦那のことで…」

お芳 「拮平がどうしたってえ!」 


 その、けたたましい声はお芳だった。いつの間にやって来たのか、拮平のことと聞いて、それこそ仁王立ちしている。


お里 「いえ、あの、若旦那によく似た人を見たって聞いたものですから」

お芳 「そんなことだろうと思ったよ。あの拮平が戻って来たなら、その辺うろつ

   いたりするもんか。すぐに、真っすぐに戻って来るさ。でも、今度こそ、こ

   の家の敷居は跨がすもんかい!いいかい、お前たちも、もし、私の留守にあの

   へなちょこ野郎が戻って来ても、絶対に家に入れるんじゃないよ。それで、

   一歩でも家に入れたら、その時は承知しないからさ。いいかい、よく覚えと

   きな!」


女中 「あのう…」

 

 それは新しい女中だった。


女中 「私たち、若旦那の顔、知らないんですけど…」

お芳 「ああ、そうだったね。ちょっと、かなり、顎が出ていて…。ああっ、思い

   出すのも気分が悪っ。拮平のでかい顔のことはこのお里にでも聞ききな。と

   にかく、裏口から入って来て、馴れ馴れしい、へらへらしてる。ずかずか上

   がり込んでくるような男がいたら、それだからさ。すぐに箒持って追い出す

   んだよ。いいねっ」

 

 それだけ言うと、お芳はさっさと二階へ上がって行く。


女中 「でも、私たち、そんなことできませんよ」

お里 「いいのよ。それらしい人がやって来たら、どなたですかって聞いて、拮平

   だって言ったら、すぐに店の誰かに知らせるの。そんで、後は大旦那や番頭

   さんに任せときゃいいんだから」

 

 と、訳知り顔で新しい女中達に言って聞かせたお里の耳元でお縫がささやくように言う。


お縫 「今日のところは、うまくごまかせたと思ってんだろうけど、これからはそ

   うは行かないよ」

----わあっ、お熊さんより、手強い…。

 

 お熊も厳しかったが、まだ情があった。こうなったら、拮平のいない白田屋にいつまでもしがみついても仕方ない。どこかへ、いいところへ嫁に行きたい。かと言って、お芳なんぞに頼む気はない。お芳に任せたら、それこそどんなところへ追いやられるか知れたものではない。

 今の希望は、兵馬の離婚。そして、傷心の兵馬を慰めたい、そして…。


----ああ、兵馬様のお側に行きたい…。


 六郷の妖怪こと、多摩川のタマちゃんの姿が見えなくなった頃、兵馬夫妻の離婚は決定的なものとなっていた。


























































































































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