第93話 七難隠せず

 お駒からの連絡はまだない。

 取り敢えずは、友達でもある医師のところへ行って見る。


医者 「拮ちゃんさ、私の往診中にやって来て、例の薬貰って帰ったそうだよ」

 

 例の薬とは、拮平専用の胃薬のことだ。だが、その中身はふくらし粉であり、子供の頃からよく腹を壊す拮平に、特別の薬だと言って飲ませたのが始まりだった。だが、プラシーボ効果でそれが効いたのだ。それからは、拮平にとってはなくてはならない薬となっていた。


真之介「それ、いつのことだ」

医者 「そうだねえ。十日ほど前かな。しかし、あの拮ちゃんが、思い切ったこと

   やったもんだ…」

 

 どうやら、この医師も拮平が弥生のところへ行ったと思っているようだ。

 いや、最早、世間の誰もがそう思っている。さらに口さがない連中は、今後の白田屋のことを心配口調で高みの見物をしている。


  「これで、あの白田屋は後妻のお芳さんのもんだね」

  「そう、大旦那亡き後は店を売るなり、若い手代を婿に迎えるなりして楽しく

  やることだろうよ」

  「それより、番頭に乗っ取られなきゃいいけど」

  「そこは、うまくやるだろうさ。何しろ、あのお芳さんだもの」

  「そうだそうだ」

 

 そんな店を捨ててまで、拮平はどこへ行った。ついでに、安行のことも聞いてみた。


医者 「あまり、変わりはないねえ。気の毒だけど…。こればかりは、薬ないの

   よ」

 

 今は釣りという趣味を見つけたからいい様なものの、いつ、あの激情型の性格が妙な方向に向かわないとも限らない。それはそれで、厄介なことだが、今は拮平の消息を知ることの方が急がれる。

 真之介はかっぱ寺へ行って見る。かっぱ寺と言うのは通称で、昔、この辺りで河童が出たという逸話があり、この荒れ寺に住み着いた和尚の風貌がどことなく河童に似ているところから、かっぱ寺と呼ばれるようになった。

 この和尚も子供の頃は真之介や拮平たちの遊び仲間の一人だったが、父親がケンカが元で誤って相手を殺してしまい、母親と共に夜逃げするしかなかった。

 あの時、偶然にも真之介はその夜逃げをする和尚母子と出くわす。真之介は言葉も出ないまま、巾着と脱いだ着物を押し付け、下駄も置いて一目散に走って逃げたものだ。

 それから十年後、坊主として戻り荒れ寺に住み着き、引き取り手のない罪人の子供の面倒を見ている。真之介は皆から金を集め、何でも屋は寺の修理に手を貸していた。

 仁神を縛り付けたのも、このかっぱ寺の近くの木だ。また、拮平も修行と称してしばらく寺で過ごしたこともある。

 ひょっとして、拮平はこの和尚に何か話はしなかっただろうか…。


和尚 「旦那様にも何もおっしゃらずにですか…」

真之介「そうだ」

和尚 「それなら、尚のこと、あの若旦那が私に何か言い置くとお思いですか」

真之介「ないとも限らん」

和尚 「何もないです。でも、よくよくの覚悟だったのでしょう」

真之介「いや、あれでも、ふらっと戻って来るやもしれん。特に、この寺辺りに」

和尚 「それなら、いいのですけど」

真之介「それなら、いい」

和尚 「やはり、あの女の方のところへ…」

 

 真之介はかわら版屋の繁次と徳市が弥生の許へ行ったことを話す。


和尚 「そうでしたか…。でも、旦那様がこうして捜してなさると言うことは、

   ひょっとして、そこへは行ってないとお考えなのですか」

真之介「そう言う訳でもないが、何か、引っかかってな…」

和尚 「案外、誰も知らない遠くに行かれたのかもしれませんね」

真之介「しかし、思い切ったことをしたものだ」   

和尚 「そのうち、知らせがございましょう」

 

 お駒からもまだ知らせはない。知らせがないと言うことは、思い当たる節でもあるのか…。

 しかし、お駒の返事も似たようなものだった。


お駒 「やはり、どこにもいませんでした。夢之丞も驚いてましたし、嘘をついて

   る様にも見えません。また、少しくらい人気が出たからと言って、小屋に一

   人の人間を匿える程の勝手は許されませんよ。とりわけ年功序列の厳しい世

   界ですから。無論、他の小屋にも当たって見ましたけど、どこもそんな人は

   いないとのことでした。まあ、今後と言うこともあるので、よく頼んでおき

   ました」

真之介「それはかたじけない。しかし、姉さんにまでとんだ苦労を掛けてしまった

   な。忙しかったのでは」

お駒 「いえね、私もちょいと…。気になってるものですから。こうなって来る

   と、やはり、弥生さんのところへ、ですかね」

真之介「さあ、それは、繁次たちの帰りを待ってみなければわからん」

お駒 「全く、若旦那も思い切ったこと、されたもんですね」

真之介「ああ、まさかな。ここまでのこと、やるとは思わなかった」

 

 まさか、あの拮平が誰にも言わずに姿を消すとは。それも、これだけ捜しても見つからないとは…。

 傍から見れば、のんびりしたひょうきん者にしか見えない拮平だが、その実は繊細で、傷つきやすいもろさを持ち合わせていた。だから、あの胃薬が手放せないのだ。


お駒 「さすがの旦那もお手上げですか。おっと、これは失礼。そんな筈はありま

   せんね」

真之介「……」

お駒 「いえね、私も物書きの端くれですから、日々、妄想逞しく生きてるもん

   で」

真之介「その妄想とは」

お駒 「さあ…。では、失礼します」

 

 と、二、三歩き出すも振り返りざまに言う。  


お駒 「多分。旦那と同じようなことだと思いますよ」

 

 思えば、お駒と初めて会った時も、仙吉から「姉さん」と声を掛けられ振り向いた姿だった。その時から、お駒は変わらないが、自分は変わった。そして、今、拮平も変貌しようとしている。

 お駒と別れて帰宅すれば、何と、繁次と徳市が待っていた。これで、ピンときた。

 拮平は弥生の許にはいなかった…。


真之介「こんなところで何をしておる。早く行かぬか」

 

 縁側で力なく茶を飲んでいる繁次と徳市だった。


繫次 「いや、それがですね」

真之介「とにかく、早く白田屋へ行け。ああ、一緒に行ってやるわ」

繫次 「そうですか、では…」

 

 と、立ち上がり、二人はふみに礼を言う。


ふみ 「あの、旦那様…」

 

 ふみの声を背で聞きつつ、真之介はまたも自宅を後にする。


真之介「繁次がこれほど気弱だったとはな」

徳市 「違います、違うんです。兄貴は早く行こうとしたんですけど、俺が喉も渇

   いたし、旦那のお屋敷も拝見したいって無理言ったんですよ」


 繁次も拮平は弥生の許にいるものだとばかり思っていた。そして、説得を試みるも拮平の決心は固く、ここで弥生と暮らすと言う。ならば、せめて拮平に手紙を書かせ、それを持って帰るつもりにしていた。だが、拮平はいなかった。辺りで聞き込みをするも、誰も知らないと言う。

 仕方なく帰途に就くものの、江戸が近づくにつれ、その気の重いこと…。

 そんな繁次を気遣うように徳市が喉が渇いた、真之介の屋敷が見たいと言う。それに態よく便乗した自分が気弱と言われても仕方ない。

 嘉平の落胆は大きかった。


繫次 「本当なんです、本当に若旦那の影も形もありませんでした」

徳市 「嘘じゃありません。本当なんです」

 

 嘉平にしても、拮平は弥生の許へ行った。もしや、帰って来ないかもしれないとの懸念はあったったが、まさか、そこにもいないとは…。


繫次 「申し訳ありません」

 

 思わず二人して頭を下げる。


嘉平 「いや、何もお前たちが謝ることはないよ」

徳市 「あの、これは、お預かりした金子きんすの残りです」

 

  と、徳市は路銀の残りと使った金を記した紙を差し出すのだった。


嘉平 「これはいいよ。取っときな。ご苦労だったね」

徳市 「ありがとうございます」

 

 またも二人して頭を下げる。


嘉平 「我が息子の仕出かしたこととは言え、本当にどこへ行っちまったんだろう

   ねえ。真ちゃんも捜してくれてる様だけど、その後、どうなんだい」

真之介「はあ、こちらもさっぱりで…」

徳市 「でも、大旦那。案外、ひょこっとお戻りになられるかもしれませんよ。ど

   こ行ってた。ちょいとそこまで、湯に浸かりに。ふやけそうになったから

   帰って来たよとか。若旦那はひょうきんで楽しい方じゃないですか」

 

 徳市が嘉平の気持ちを引き立てるかのように言う。


嘉平 「ありがとよ。そうだね、湯治にでも行ったのかもしれないね。それなら、

   一言言って行きゃいいのに…。全く、困ったもんだよ。こんな子供にまで気

   を使わせてさ」

繫次 「俺たちもこれから、色々当たって見ますんで。どうぞ、お力落としの無い

   ように」

嘉平 「いや、それにしても何だね。かわら版屋なんて、まっとうな商売でもな

   きゃろくなもんじゃないと思ってたけど、こうして話してみると、中々真

   面目で気のいい子たちじゃない。そうだ、足袋もってお行きよ。誰か、この

   子たちに足袋持ってきとくれ。紋数は?」

繫次 「いえ、大旦那。大してお役に立てなかったのに、そんなにして頂いては。

   それに、俺は以前若旦那から頂いてますので、それでしたら、この徳市に」

 

  最初の相棒だった伍助が、絶対に誰にも言うなと念を押したのに、繁次の出まかせをこともあろうに、当の本人、拮平に漏らしてしまったことから、白田屋の広告をかわら版に載せることで決着をつけたことがあった。その時、繁次は拮平から足袋を貰ったのだ。


嘉平 「いいよいいよ、そんな遠慮しなくても。これからも何か頼むかもしれない

   からさ。それより、あの娘さん、どうしてた?」


「八百屋お七の店」

 若い男二人、繁次と徳市の旅は順調だった。だが、繁次が真之介に刀で脅された場所近くの宿場で、ふと、耳にした言葉だった。


----まさか…。


 近くの店で聞いてみれば、宿場外れで八百屋お七一家が小さなよろず屋を営んでいると言う。ならば、拮平も一緒に違いないと勢い込む繁次だった。


繫次 「おい、徳。今から行く。いいな、わかってるな」

徳市 「へい!」

 

 急ぎ、その店に行けば、初老の男が愛想良く出迎える。弥生の父親だろう。


繫次 「あの、私共は、江戸の白田屋の者ですが、うちの若旦那は…」

父親 「えっ、白田屋さん…。若旦那、拮平さん…。えっ、ええっ…」

 

 父親は驚いている。何か、まだ、事態がよく呑み込めていないようにも見えた。


父親 「あの、それは、一体、どう言うことで」

繫次 「実は、うちの若旦那がもう十日ほど行方知れずなんです。それで、もしや

   と思いまして」

父親 「もしやも何も、確かに拮平さんは一度お見えになりましたよ。それもここ

   じゃなくて、親戚の家の方にです。それで、お帰りになったんじゃ…」

繫次 「ええ、確かにお戻りになられました。それが今月の頭から、お金を持った

   まま、誰にも何も言わずに姿を消されたものですから、もう、皆、心配し

   て。それで…」

父親 「いいえ、拮平さんとは、あれ以来お会いしておりません。本当です。何な

   ら家探しでもしてもらって構いませんよ。この通りの小さな家ですから。い

   え、それでも拮平さんをはじめ、白田屋さんにも本田様や奥方様たちから、

   結構な金子を頂きまして、本当にありがたいことです。お陰でこうして暮ら

   していけます。でも、本当です。拮平さんのことは知りません。本当です」

    

 やはり、ここにも拮平はいないのかと繁次が思った時、奥から声がした。一瞬、弥生かと思ったが、それは母親だった。


繫次 「あの、お嬢様は?」

父親 「弥生は、ここにはいません」 

繫次 「では、どちらに…」

 

 なぜか、父親も母親も黙ってしまう。


母親 「奥へ上がって頂きましょうよ」

 

 母親が言ったので、上がらせてもらえば、ようやく父親が重い口を開いた。


父親 「娘は…。娘は、芸者になりました」

繫次 「えっ、そんな…。だって、今、皆さまから頂いた金子でとおっしゃった

   じゃないですか」


 火付けの八百屋お七と、同名、同年、同家業の娘がいた。折からの丙午年の女叩きブームもあり、娯楽の少ない時代、それだけで嫌がらせをうけ、商売も立ち行かなくなってしまう。仕方なく店をたたみ次男の養子先に身を寄せることになったのだが、そこも安住の地ではなかった。

 すぐに、八百屋お七がやって来たと噂になり、当のお七はとっくに処刑されてしまったのだが、同名の丙午生まれとあっては、こんな、面白い偶然はないとここでも好奇の目にさらされる。


繫次 「でも…」

父親 「ええ、いくら、今はお七ではなく弥生だと言っても、誰もそんな名前、呼

   んでくれやしません。それも八百屋お七と…」

 

 話す方も苦しいが、聞いている方もやりきれない話だった。


父親 「そんな時です、拮平さんがお見えになられました。娘とどの様な話をされ

   たのか知りませんが、二時ふたときほどでお帰りになられました」

繫次 「だからと言って、どうして、お嬢さんが芸者なんぞに」

父親 「ええ、皆さまから思わぬお金をいただいたので、どこかで商売をと、ここ

   を見つけたような次第です。そして、次男の養子先を引き払う時、礼はする

   つもりでしたのに、逆に請求されましたよ」

繫次 「あの、ご長男もご一緒では」

父親 「長男は嫁の里へ行きました。あれから、嫁が娘を疎んじるようになり、店

   がこうなったのも、お七が丙午だからだと。息子にも子供がいますから。そ

   んなこんなで、有り金は次男側と長男と私たちで三等分しました。でも、あ

   りがたいことに、本田様の奥方様からの半襟の中に為替が忍ばせてくださっ

   たのを、娘は黙って持っていました。お陰で、こうして店を持ち暮らしてい

   けます。本当に…」

繫次 「そうでしたか…。それにしても、それなら猶のこと、お嬢さんが芸者にな

   らなくとも…。ここで、親子三人暮らしちゃいけませんか」

父親 「暮らすだけなら、何とかなりますが…。私たちも若くはありません」

 

 弥生の上には、六人の兄がいた。特に、弥生は遅くに出来た娘だった。 


父親 「いえ、娘は町も歩けないんですよ。歩けば、八百屋お七だ、火付けのお七

   だと指さされますが、それだけじゃないんです。袖を引く男もいます」

徳市 「ひでえ…」

 

 たまらず、徳市がもらす。


父親 「そりゃ、そんな人たちばかりじゃありません。中には親切にしてくれる人

   もいますが、それとて、単に同情しているだけかもしれません。とにかく、

   娘はこれから先一人で生きて行かなければならないんです」

 

 女の職業と言えば、髪結いか産婆くらいしかない時代である。芸者なら、本名も歳も伏せられる。花魁の様に身を売る訳でもなく、芸を売るのが芸者である。幸いと言うか、弥生は子供の頃から三味線を習っていた。


繫次 「それで、お嬢さんは今、どちらに」

母親 「駄目!駄目よ!お前さん!ちょいと、あんた達!」

 

 それまで黙っていた母親が声を荒げる。男三人は驚いてしまう。


母親 「本当に白田屋さんの手代?どう見ても見覚えないんだけど!」

 

 もう、ここは隠し立てしない方がいい。


繫次 「申し訳ございません。おっしゃる通り白田屋の手代ではありません」

父親 「何だってえ!」

 

 今度は父親が繁次を睨みつける。


繫次 「でも、白田屋の大旦那から頼まれて参ったことは本当です。お疑いはご

   もっともですが、この通り、大旦那から、お嬢さん宛ての手紙も持参して来

   ましたし、若旦那が行方知れずと言うのも本当です」

母親 「それじゃ、あんたたちは、誰なのさ」

繫次 「かわら版屋です」

父親 「お前たち…。この上、まだ、罪もない娘追い回そうと言うのかい!さっ、

   帰っとくれ!人の不幸がそんなに面白いのかい!ああ、飯のタネなんだよな

   あ!」

徳市 「違います!この兄貴はそんな人じゃありません。丙午のこと書いたのは別

   の野郎です。兄貴の書いたのはこれです。どうか、これ、読んでやってくだ

   さい」

 

 と、徳市は懐から取り出したのは、繁次が弥生のことを書いた、泣けるかわら版だった。


父親 「そんなものはどうでもいいさ。でも、もう、放っておいてくれないかね

   え。娘は何一つ、悪いことをしたわけじゃないのに、どうしてこんな目に

   合わなきゃいけないんだ!」

繫次 「おっしゃる通りです。本当に申し訳ありませんでした。一つの記事がこん

   なにも人の生きる道を狂わせてしまったんです。また、この度は先程から

   言ってますように、白田屋の若旦那を捜しに来たわけです。どうやら、こち

   らにはいらっしゃらないようで。あの、失礼ついでに、今、お嬢さんはどち

   らに…」

父親 「聞いてどうする。ああ、やっぱり、で、今度は何をどのように尾ひれ付け

   て書くんだい。誰が教えるもんか!」

繫次 「いえ、会って、一言お詫びを申したいだけなんです」

 

 だが、それ以降、弥生の二親が口を開くことはなかった。

 仕方なく店を後にした繁次と徳市だった、差し当たって今夜の宿を決めなければいけないが、客引きの声もそぞろに二人は歩いていた。


母親 「ちょいと、あんた達」

 

 その声に振り返れば、なんと、そこにいたのは弥生の母親だった。


母親 「明日、弥生のとこへ行くんだけど…」

 

 それを聞いてはもう一も二もなく、同行させてもらうことにした。繁次が書いたかわら版を読んだ母親は、二人が拮平を捜しに来たと言うのは嘘でもなく、弥生に詫びたいという気持ちもわかる気がして、後を追って来たのだった。

 翌朝、母親と落ち合い隣町の置き屋へと急ぐ。母が会いに来てくれたと喜んだ弥生だったが、側にいる見知らぬ二人の男のうち、一人には見覚えがあった。


----確か、かわら版屋…。


 ここに来てまでまだかわら版屋に追い回されるとは。また、それを母が案内してくるとは…。


繫次 「実は、白田屋の若旦那が行方知れずなんです」

弥生 「拮平さんが…」

繫次 「それで、もしやと思いまして、昨日、お宅をお尋ねしたような訳で…。そ

   れより、お嬢さん、本当に申し訳ありませんでした。連日、かわら版で…」

母親 「それは、この人が書いたんじゃなくて…」

 

 母親は繁次の書いたかわら版を弥生に手渡す。


繫次 「いえ、同じかわら版屋として、私も同罪です。日頃、白田屋の若旦那にも

   お世話になってるっていうに…。本当に、申し訳ないことです」

弥生 「もう、済んだことですから…。それより、拮平さんがどうして」

繫次 「ええ、金を十両ばかり持って出られたそうですから、皆、てっきり、お嬢

   さんのところへ行かれたのだとばかり…。それで、どこか心当たりはありま

   せんか。この前、若旦那とどの様な話をなさったんです。その時に、何か、

   おっしゃってませんでしたか」

弥生 「そんな、家を出られるようなことは一言も。ただ、全力挙げて守ると言っ

   たのに、守れなくてごめんね…。本当に、どこへ行かれたのでしょうね」

 

 弥生にも心当たりはない様だった。


繫次 「真之介旦那もあちこち捜してくれてますので、ひょっとしたら、俺たちが

   帰るころには見つかっているかもしれません。その時にはお知らせ…」

 

 弥生は拮平を忘れようとしているのではないか、だとしたら、余計なことを言ってしまったと繁次は後悔した。


弥生 「ええ、知らせてください。拮平さんとのことはいい思い出です。今の私は

   見習いですが、早く一人前の芸者になって、いつか江戸に帰りたいと思って

   います。江戸は生まれ故郷ですから。その時、縁があったら、お会いできる

   かもしれません。ああ、弥生と言う名で、出ますので」

 

 と、笑顔を見せる弥生だったが、本当のところはどうなのだろう…。

 また、このことを拮平が知ったら、何と思うだろうか。


繫次 「はい、若旦那にお会いしましたら、必ずお伝えします。では、これで失礼

   します。お嬢さん、弥生さん。どうぞ、お体にお気をつけなさって…」

弥生 「拮平さん、早く見つかるといいですね」

 

 もっと聞いてみたいこともあったが、自分たちがあまり話し込んでは、母と娘の時間が無くなってしまう。こうして、弥生に会えたのも、母親の好意なのだ。


繫次 「それにしても、徳があのかわら版を持って来てくれて助かったぜ。気が利

   くな」

 

 帰り道で繁次は言った。


徳市 「いえ、あった方がいいかなと思ったまでですよ。いや、それより兄貴、大

   旦那から手紙、弥生さんに渡しましたっけ」

繫次 「そんなものは、ねえよ」 

徳市 「えっ」 

繫次 「あれは、とっさの方便だ。大旦那は今は自分の息子のことで頭がいっぱい

   なんだよ。よその娘のことにまで気が回るもんか」

徳市 「そんなもんですかね。でも、ひょっとして、若旦那があの弥生さんと一緒

   になる、帰らなねえって言った日にゃ、そん時は…」

繫次 「そん時は、そん時…。諦めるん、だろうよ」

徳市 「でも、あの弥生さんが、まさか、芸者になるとは…」

繫次 「そこまで追い込んだ責任は、俺たちにもある。いや、一番ひどいことをし

   たんだ。悪い奴を悪いと言うのは簡単だけどよ、時にはこうして、関係のな

   い人まで不幸にしてしまうんだ。これが俺たちの飯のタネよ。だから、余計

   でも慎重にやらなけりゃなんねえんだ」

徳市 「そう言えば、あの、佐吉さんて人。今、どうしてんですかねえ」

 

 佐吉は丙午の女叩きの記事を書きまくった、かつての繁次の相棒だった。


繫次 「今も怪しげな記事書いて、あちこちのかわら版に売り込んでいるそうだ」

徳市 「でも、それらの記事を許可したのは親方ですよね」

 

 親方も最初の内は面白がっていたが、さすがに、ものすごい勢いでエスカレートしていく内容に難色を示すようになるもどう言う訳だか、佐吉に押し切られてしまう。それでも、最後にはきっぱりと拒絶する。その頃には一端のかわら版記者気取りの佐吉は、その足で他のかわら版屋に駆け込むのだった。


繫次 「もう、あんな奴の話はするな。気が滅入るだけだ」

徳市 「ええ。でも、本当の八百屋お七も付け火と言ったって、ボヤで済んだのを

   見逃してやろうとは思わなかったんですかねえ」

繫次 「ボヤでも付け火は付け火なんだよ。もし、その時見逃しても、この次また

   やらねえとは限らねえ」 

徳市 「そっかあ…。弥生さん、早く江戸に戻ってほしいですね」

繫次 「そうだな」

徳市 「でも、若旦那。驚くだろうなあ」

 

 もし、拮平と弥生が再会するようなことになれば…。

 いや、今は、そんな先のことを思いわずらうのは止めよう。

 そして、足取り重く帰って来た繁次と徳市だった。






 












 












 





 








































































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