第79話 足袋に出にけり

友之進「本田殿、聞きましたよ。今回もお見事だったそうで」

 

 友之進は先日の茶会のことを言っているのだ。


真之介「いえ、あれは、私は何もやっておりません。本当です」

友之進「この度は裏方に回られたのですね」

真之介「ですから、私は何もしておりません。あれは、すべて、あの足袋屋が仕出

   かしたことです」

友之進「そのお膳立てをされたのでは」

真之介「そうではありません。拮平と言いまして、白田屋と言う足袋屋の息子で

   す。私とは子供、いえ、生まれた時からの付き合いと言うか、今では腐れ縁

   の様なものです。その拮平が茶会のことを聞き付けやらかした商人のあざと

   さです」

友之進「足袋を無償提供するのがあざといのですか」

真之介「決して、それだけでは終わりません。それが商人と言うものです」

友之進「まあ、そのあたりのことは私にはよくわかりませんが、結果としては良

   かったのでは」

真之介「はい、この度は足袋屋に助けられました。ああ、この先に私の実家があり

   ますので、お立ち寄りになりませんか。たまには、商家を冷やかしてみるの

   も一興では」

友之進「それは、是非、お邪魔させていただきます」

 

 この冷やかしとは、①困ったり恥ずかしがったりするような冗談を言って人をからかうこと②買う気もないのに店先を覗くだけ、入っても買わずに見るだけのことを言う。

 元は江戸唯一の公認遊郭である吉原から出た言葉である。

 元和三年(1617年)三月、点在していた私娼が一か所に集められ、日本橋葺屋町(現・人形町当り)に翌年十一月から昼間だけの開業となる。

 明暦二年(1656年)新吉原(現・浅草、千束)に移転。その近くの紙漉き職人(染物職人の説もある)が回収した古紙を水に浸け、ふやかすことを冷やしと言った。この間は暇なもので遊女を見に行く。何も知らない遊女たちが声をかけると、いわゆるやり手婆ぁが「冷やかしだよ」と言ったことから。

 そして、真之介と友之進が本田屋の裏口から入って行く姿を見ていた者がいた。


お里 「あのお侍、誰ですか」

拮平 「知らない。初めて見る顔だね」

お里 「本当に知らないんですか」

拮平 「知らないものは知らないさ。てことは、真ちゃんにも侍の友達が出来たと

   言うことか」

 

 真之介と友之進が本田屋の裏口から入って行くのを見た拮平とお里だった。


お里 「ちょっと、気になりません?」

拮平 「まっ、気にならないこともないけど。真ちゃんも侍だもの」

お里 「どう言うお侍でしょうか、ちょっと…」

 

 と、お里が嬉しそうに言う。


拮平 「何だい、お里。お前はいつから侍に興味持つようになったんだい。ひょっ

   として、侍の側室でも狙ってたりしてて、この、おマセっ」

お里 「い、いえいえ、違います、違いますったら!そんなんじゃなくて…」

 

 思い切り図星を付かれ、うろたえるお里だった。


拮平 「じゃ、どんなんだい」

お里 「いえ、あの、それは…。隣の、いえ若旦那の、大切なお友達の、真之介様

   の友達だから、気になっただけです」

拮平 「はあ、俺の大切なお友達の真ちゃんの、友達…」

お里 「だから、ちょっと、言い間違えただけじゃないですか!そんな子供の言い間

   違いを、そんなに言わなくてもいいじゃないですか!」

拮平 「何をそんなにムキになってんの。まあ、頑張れよ」

 

 お里の夢は、玉の輿にのることだが、貧しい農家の娘にそんな話が舞い込むはずもない。そこで、どこか大店へ奉公にでも行けば、その道が開けないとも限らない。そして、何とか白田屋の女中に潜り込むことが出来た。そこには拮平と言う若旦那がいた。ちょっと頼りない気もするけど、まあ、悪くはない。何より、大旦那が若い嫁を迎えたばかりで、当分、物入りな事は無しとか。だが、これもお里には助かることだった。何と言っても、まだ十一歳なのだから。

 それより、気になったのは隣の真之介だった。さすが、侍になるだけあって、その立ち振る舞いも美しいし、イケメンで申し分ないのだが、ちょっと相手にしてくれそうにもない。

 そこで、目を付けたのが、真之介の義弟の兵馬だった。生まれた子が娘だったのが気に入らず、元々も夫婦仲もよくなかったらしく、これなら何とかなりそうだが、ちょっと虚弱なところが気になる。

 それに引き換え、今見た侍は顔立ちもるくなく、何より健康そうのがいい。


----やはり、男は元気でなくちゃ。その点はうちの若旦那も申し分ないけど。やっぱ、侍って格好いい…。ああ、早く歳を取りたい、大人になりたい。

 つくづく今の若さ、幼さが恨めしいお里だった。だが、お里は知らないのだ。下級武士の暮らしぶりを。皆、真之介と同じ様だと思っている。やはり、まだ、幼いのだ。


拮平 「お里、お里!」

お里 「あっ、はいはい」

拮平 「返事は一回」

お里 「はい」

拮平 「はいじゃないよ。さっきからお熊が呼んでるのが聞こえないのかい。何だ

   い、子供のうちから男に色目使うんじゃないよ」

お里 「誰もそんなもん使ってませんよ!若旦那のさっぱり成功しない声かけと一緒

   にしないでください!」

拮平 「あんだって、あんなものとっくに卒業して…。うるせっ、ガキのくせにナ

   マ言うんじゃないよ」


 そこへ、お熊がやって来る。


お熊 「お里!お前はまた、サボりくせが付いたみたいだね。いつもいつも若旦那に

   くっ付いてばかりじゃないか。若旦那も若旦那ですよ。お里を甘やかさない

   でください。もう、お菊の二の舞になっちまいますよ」

 

 嘉平の後妻のお芳にすり寄り、楽をしているお菊だった。


お熊 「そこへ持ってきて、若旦那もこんな子供相手に大きな声出して。そんな声

   が余ってんのなら、店先で客の呼び込みでもしたらどうなんです」

拮平 「お熊!何かい、主人の私に呼び込みやれって言うのかい!」

お熊 「あっ、言い間違えました。若旦那が店の人に呼び込みをやらせてくださ

   いって言いたかったんです」

拮平 「呼び込みしなくったって、客は来るさ」

お熊 「ああ、あの一割引きの客ですか」

拮平 「そうだよ」

お熊 「それじゃ、儲けが減るじゃないですか」

拮平 「それはさ、売り上げが減るだけで、儲けはちゃんとあるのさ。何より、現

   金に勝るものはないよ」

 

 この度の客には掛け売りなし現金払いと言うことになっている。


拮平 「私ゃ、これでも商人だよ。白田屋の拮平だよ」

お熊 「そうでした。未だに嫁は来ませんけど」

拮平 「それは、あのお芳のせいじゃないか。だから、当分は物入りなことは無

   しって、おとっつぁんから聞いてるだろ。だから、嫁の来てがないんじゃな

   くて、当分お預けなの。俺がその気になりゃ、嫁の一人や二人…。いや、

   やっぱり駄目かな…」

お熊 「さすが、若旦那。ご自分をよくわかってらっしゃる」

拮平 「お熊!そんなんじゃないさ。あのお芳がいる限り、嫁は来ないさ。そうだ

   ろ、お芳にいびられるのわかっててくる嫁なんているもんか。きっと、娘た

   ちは思ってるよ。若旦那のことは好きだけど、あのお芳さんが嫌!怖いって」

お熊 「まあ、それも一理なくともないですけど。若旦那ももう少し、しっかりし

   ておくんなまし」

拮平 「何がしっかりだい。しっかり商売してんじゃないか。それなのに、ああそ

   れなのにそれなのに。お芳が生きてる限り嫁の来てもないだなんて…。かわ

   いそうな僕」

お熊 「そん時にゃ、このお里でも嫁にすればいいじゃないですか。後二、三年も

   すれば年頃になりますし、決して、ご新造様に引けは取りませんよ。さぞか

   し、毎日にぎやかで」

お里 「えっ、いやいやいや、それは…」

 

 と、拮平より先にうろたえてしまうお里だった。

 冗談じゃない。せっかくちょっと良さげな侍見つけたと言うに。そっちの方が良いに決まってる。拮平はあくまでもキープ要員に過ぎないのだ。それを今からその気になられても困る…。


拮平 「俺だってこんなのいやだよ」

お熊 「あら、そうですか。気にいってるので甘やかしているのかと思いまして」

拮平 「そうだった。お里、これからは俺のことだけじゃなく、お熊の手伝いもす

   るんだよ」

お里 「はあい」

拮平 「お熊、これからはお里を厳しく躾けとくれ。俺はさ、用のあるときだけ呼

   ぶから」

お熊 「何でしたら、私が若旦那のお世話いたしましょうか」

拮平 「いや、それには及ばないよ。とにかく、お里を頼むよ」


 と、お熊とお里を中へ急き立て、すぐに裏口の戸を閉める拮平だった。


拮平 「小太郎ちゃーん」

小太郎「拮平兄さん」


 いいタイミングでやって来たのは、正式にお伸の婿に決まった小太郎だった。


拮平 「どうしたのよ、今頃。さては、こっそりお伸ちゃんに逢いに来たな」

小太郎「違いますよ。仕事ですよ」

拮平 「仕事なら、店から入りゃいいじゃないの」

小太郎「まあ、そこは色々と」

拮平 「そう、色、色だね」

小太郎「何ですか、一体」

拮平 「いやさ、ちょいと、小太郎ちゃんに頼みがあってね」

小太郎「何ですか」

拮平 「ここじゃ何だから」

 

 と、裏口から本田屋の中に入り、おもむろに懐から一両小判を取り出す。だが、小太郎にはわざわざ小判を見せる拮平の意図がわからない。拮平にとって、小判がそれほど珍しいとも思えない。


小太郎「すごいじゃないですか」

 

 一両あれば親子四人が何とか一月暮らせる。二両あれば楽に暮らせた時代である。


拮平 「そこで、ちょっと頼まれてくれない。あっ、これは真ちゃんには内緒だ

   よ。お伸ちゃんにも言っちゃだめだよ。お伸ちゃんはすぐに何でも真ちゃん

   に言っちゃうからさ」

小太郎「はい、わかりました」

拮平 「そうお、それなら言うけどさ。これ、内緒金だから、誰にも言わないで

   よ」

小太郎「言いませんよ。それで…」

拮平 「これ、細かくして、くずして」

小太郎「それなら、店の番頭さんに頼んだ方が早いでしょう」

拮平 「だから、内緒金なんだって。本当に困ってたのよ、誰に頼もうかって。そ

   したら、まったくのどんぴしゃ、丁度折よくの小太郎ちゃんがこうしてやっ

   て来たというわけわけ」

 

 実は、この金は真之介から受け取った足袋代なのだ。そこはうまくごまかし自分の懐に入れたが、ここのところ金欠状態。そこに一両がやって来たのだから、嬉しいことこの上ない。だが、ちょっとした買い物で小判は使えない。受け取った方も釣り銭に困る。


小太郎「わかりました。では、どのようにくずしますか。まさか、全部一文銭と

   か。そりゃないか」

 

 小太郎が小判を受け取り、店に向かおうとした時、またも拮平に袖をひかれる。


拮平 「あっ、真ちゃんには絶対内緒だよ。今、真ちゃん来てるからね」

小太郎「えっ、兄さん、お見えなんですか」

拮平 「それが、知らない侍連れてさ」

小太郎「そうですか」

拮平 「だから、もし会っても何も言っちゃ駄目だよ。それより、両替が先だか

   ら」

小太郎「はい、では、すぐにくずしてまいります」

 

 それにしてもよかった。本当に誰に頼もうかと思案していた。うっかり頼んで、嘉平やお芳の耳にでも入れば大変なことになる。それにしても、白田屋の跡取り息子の自分が両替くらいでこんなに苦労するとは。


小太郎「はい、お待たせしました」

拮平 「ありがとうね、小太郎ちゃん。ああ、数が増えたよ」

 

 と、拮平が財布の紐を締めようとした時、小太郎が紙包みを差し出す。


拮平 「これは?」

小太郎「利息ですよ。細かいのも、入り用では」

 

 と、紙包みを受け取れば、その手触りで中に一文銭が入ってるのがわかった。


拮平 「えっ、いいの。まあ、気が利くじゃない」

小太郎「それほどでも。拮平兄さんには子供のころから色々よくしてもらってます

   から」

拮平 「まあ、あの小さかった小太郎ちゃんが、こんなに大きくなって。大きく

   なっても小さい太郎の小太郎ちゃんは、やっぱり、小さいことにも気が付

   くんだね」

 

 小太郎は苦笑するしかなかった。


拮平 「あっ、念を押すけど、このこと、真ちゃんには絶対内緒だよ。それと、お

   伸ちゃんもおっかさんも。とにかくさ、誰にも言っちゃ駄目だからね。

   いいぃ、わかった?」

小太郎「わかりました。大丈夫です。誰にも言いません」

 

 それを聞いて安心した拮平は浮き浮きと表通りへと向かう。


拮平 「やっぱり、小太郎ちゃんはいい子だね。いや、あれ、待てよ…。そうだ。

   お伸ちゃんの婿の座譲ってやったんだった。そんなら、これくらいしてくれ

   ても罰は当たらないっと。いや、まだまだ。この程度じゃ、治まらないよ。

   これからも…」

 

 小太郎は元は武士の子であるが、浪々の身となり途方に暮れていた時、ふとしたことで真之介と出会い、当時十三歳の真之介は父親から小さな太物屋を任されていた。そこで、その店に小太郎親子を住まわせることにした。

 それを知った拮平は自分の小さい頃の着物を小太郎にと持って来る。真之介には弟がいたが、一人子の拮平は弟が出来たように喜んだものだ。だが、その小太郎の父が亡くなり、今度は真之介が父が倒れてしまう。 

 真之介は小太郎を連れて本店へ戻り、父の死後、本田屋の主人となるが、小太郎も店で働きたいと言い出す。真面目に働くので、将来はお伸と将来は夫婦にし、別に店を持たせると言う話は拮平も知っていた。

 お伸には兄が二人いる。上の兄の真之介が侍株を買ったからと言って、弟の善之介がいるので何も心配はいらない。だが、何と言うことか。お伸が婿を迎えて本田屋を継ぐことになろうとは。どうやら、善之介が商売に身が入らないのでお弓が見切りをつけたらしい。

 その話は瞬く間に広まり、自薦他薦の婿候補が本田屋に押し掛けた。それを聞いた拮平も穏やかではいられなかった。いつも身近にいて、子供だと思っていたお伸がいつの間にか、きれいな娘へと変貌していた。こうなったら、こんな足袋屋なんぞ、お芳にくれてやっても構わない。本田屋の婿になった方がいいと押し掛けるも、真之介に刀で脅される始末。それでも諦めきれない拮平は、勝手知ったる隣の家に侵入を試みたが、あえなく撃沈…。

 そして、何のことはない、お伸の婿は小太郎に決まり、拍子抜けする拮平だった。無論、この度は正式なものである。

 それにしても、今思っても、あの騒動は一体何だったのだろう…。

 また、急にどうして本田屋をお伸と小太郎が継ぐことになったのだろう。

 善之介が商売に身が入らないとことは、今に始まったことではない。好きな絵を描いて暮したいと言っていた。真之介が侍になったからと言って、実家と縁が切れるわけではない。それどころか、侍と商人の両方やってのけるくらいの器量は真之介にはある。世間もそのことを知っているのに、お伸に婿取りをして店を継がせるとは、今から思っても唐突な出来事だった。

 そこには別の事情があった。ふみの弟の兵馬が色と金に目がくらみ、お伸に食指を伸ばしてきたからだ。そのことを善之介から聞いた真之介は悩んだ。三浦家から正式に側室に望まれれば、その姉を妻にしているのだ。到底断れるものではない。

 そこで話し合いの結果、善之介は主人の座を降り絵師に。お伸が婿を取って本田屋を継ぐと公表したのだ。

 そんな経緯を知らない拮平は、小太郎に婿を座を譲ってやった。また、小太郎も譲ってもらった恩義を感じていると思っている。


----お金は増えたし、どっかにかわいい娘、いないっかな。


 そんな浮き浮き気分で歩いていた拮平だが、ふと、足が止まる、

 その視線の先には、一人の若い娘の姿が…。


----何て、かわいい…。


 母親、手代、女中に囲まれる様に歩いて来た娘は、なんと、拮平の側を通り白田屋の暖簾をくぐったではないか。


----えっ、うちの店の、お客さん!


 拮平もすぐに店の中へ入る。


拮平 「これはようこそ、いらっしゃいませ。早く、お茶を」

 

 足袋の着用は武士のみであり、町人は儀式の時だけと決められていたが、時代が移るにつれ、裕福な町人も足袋を履くようになっていた。


拮平 「ご新造様の足袋にございますか」

----先ずは母親からと…。


 満面の笑みの拮平だった。


母親 「娘のも一緒に」

拮平 「まあ、お嬢様の足袋もご一緒ですか、それはそれは。あの、文数もんすうの程は…」


 足袋の文数(サイズ)は一文が2.4㎝である。

 九文   =21.5㎝

 九文三分 =22㎝

 九文半  =22.5㎝

 九文七分 =23㎝

 九文八分 =23.5㎝

 十文   =24㎝


母親 「九文半と九文三分を」

拮平 「かしこまりました。これ、お茶はまだですか」

お里 「お待たせ致しました」

 

 なんと、茶を持ってきたのはお里だった。一瞬睨み付ける拮平だが、お里は澄ました顔で娘の前に茶を出し、その顔を一瞬凝視する。


----へえ、これが、若旦那の好み…。


拮平 「まあ、一口に足袋と申しましても、布地もさることながら、仕立ての技術

   によっても、はき心地が違ってまいります。その点、手前どもの店は腕利き

   の職人を揃えておりますので、きっとご満足いただけるものと確信しており

   ます。それはもう…」

母親 「ええ、いつもこちらで頂いております」

拮平 「え、あ、左様でございますよね。これは私としたことが、つい、その、つ

   い…」

 

 お里も店の者も笑いをこらえている。どうやら常連客のようだ。


----えっ、そうだったの…。


 そして、男物の足袋も購入し帰って行った。


----もう、お帰りとは…。今来たばっかりじゃないですか。

 

 拮平は店先まで見送り、米付きバッタのように頭を下げまくるが、このまま後をつけて行きたい衝動に駆られていた。


拮平 「何さ、お前たち。いつもお見えになるお客様なら、どうしてもっと愛想良

   くできないんだい。お陰で私が恥かいちゃったじゃないか。それでさ、どち

   らのお嬢、ご新造さん?」

手代 「八百藤と言う八百屋のご新造様です」

拮平 「ああ、聞いたことある。それで、お嬢さんの名前は?」

手代 「存じません。いつもはご新造様と女中さんのお二人がお立ち寄りになられ

   ます。お嬢様には今日初めてお目にかかりましたので、お名前までは存じま

   せん」

拮平 「そう…」

----八百藤なら大体の場所はわかるから、いいか。

拮平 「でもさ、それならそうと、それこそ、そっと教えてくれたっていいじゃな

   いか。全く気が利かないったら、ありゃしない。もう、プンプン」

----古っ、若旦那、それ、古い。もう、とっくの昔の死語。

拮平 「うちのお得意様だったとは…」

番頭 「それは、若旦那があまりお店にお出になられないからですよ」

拮平 「それはさ、今の私は、蔵の番人じゃないか!」

 

 これでも仕事はして来た。先日の茶会で配った足袋も近い内にその成果が表れる。


----なんだい、みんな、すっかりお芳の機嫌ばかり取りやがって。それにしても、かわいかったなあ、あの娘…。


 こうなったら、明日、いや、今日から、そうだ、飯食ったら、すぐにでも店に出てやる。


拮平 「お里!飯の用意!」

お里 「まだ、出来てません」

拮平 「早くおし!」

お里 「それは…」

拮平 「なけりゃ、茶漬けでも持ってきな!早く食って、店に出るんだよ」

お里 「あの、若旦那。もう、そろそろ店仕舞いでは。晩御飯はその後です」

----えっ、なんだ、もう、夜かい。月日の経つのは早いねえ…。ようし、明日からは早起きして、蔵番は誰かにさせて、店のど真ん中に居座ってやる。あっ、でも、鍵は渡さないよ。 

 

 一念発起した拮平は翌日から、人が変わったように接客にいそしむのだった。根が陽気で話好きときているので、客受けもいい。


----こんなことなら、もっと早く店に出るんだった。


 だが、周りの番頭や手代たちは、いつまで続くことやらと冷めた目でしかない。

 それにしても、待てど暮らせど、あの八百藤の娘はやって来ない。母親すらやって来ない。まあ、足袋など一度買えばしばらく持つものだ。それも昨日の今日で、またも店までやって来る筈もなかった。

 拮平は口実を作って外へ出る。何か久しぶりに外に出た気がした。


----やっぱ、外の空気はいいなあ…。


 そうだ、ついでと言っては何だが、八百藤まで行ってみようか。大体の見当はついている。どんな店か見てみたい。ひょっとしたら、あの娘と逢えるかもしれない。いや、離れたところから顔だけでも見たい…。

 少し距離はあったが、八百藤はすぐに見つかった。


----繁盛してるじゃないの。


 しばらく店の様子を見ていたが、あまり、長居もできない。今頃、白田屋では拮平の三日坊主とか言われているかもしれない。


----これからは頑張るぞぉ! 


 そして、今来た道を帰って行く拮平だが、何の気なしに一本手前の道から曲がる。


----あれっ、この道は。ああ、やっぱ、そうだ。


 このまま行けば、以前に供の者とはぐれた武家娘、今は真之介の妻となっている、ふみが途方に暮れていたところではないか。


----そんなこともあったなあ…。


 あの時は真之介に怒られ、ふみからも不埒者に思われてしまった。


----それが、今ではいい思い出だとさ。いい気なもんだよ。こっちは逢いたい人にも逢えないのに。ああ、この先…えっ!


 拮平の目の前には、またしても木の側に佇む、ふみの姿が…。だが、それは、ふみではなく、また、ふみである筈もない。


----あれは…。


 拮平は佇んでいる娘の許へ、速足で娘に近づく。


拮平 「これは、八百藤のお嬢様ではございませんか。先日はありがとうございま

   した」

 

 娘は戸惑っている。


拮平 「まあ、お忘れでございますか、足袋の白田屋でございます」

 

 それを聞いて、娘に少し安堵の表情が浮かぶ。


拮平 「どうなされました。この様なところにお一人とは」

娘  「……」

拮平 「あの、お供の方とはぐれられたのですか」


 娘はうなづく。


拮平 「それはお困り、いえ、お宅のお店なら存じております。この道を真っすぐ

   参りまして、左に曲がり…。あの、その先までお送り致しましょうか。いえ

   いえ、どうぞ、ご遠慮なさらずに、その先まで」

----ああ、ついに逢うことが出来た…。


 だが、その後方で笑いをこらえている四人の存在に気が付かない拮平だった。

 拮平と八百藤の娘との展開をちょうど通りかかった、真之介とふみ、久に忠助が目撃したのだった。何より、おかしかったのは、あの時、真之介と忠助が発した言葉を、今は拮平一人で言っていたことだ。

 久はその時の現場を見たわけではないが、もう、耳にタコができるほど聞かされている。


忠助 「若旦那もそう言うところは記憶力がいいんですね」

真之介「なぜか、そうらしい」

忠助 「まさか、その時のことが今日こうして再現されようとは」

久  「ああ、こういう状況だったのですね」

ふみ 「久、あの時の旦那様の方がずっと素敵でした」 

久  「はい、それはそれは。でも、旦那様。このまま行かせてもよろしいのです

   か」

真之介「ああ、相手は町娘であるし、何やら顔見知りのようでもあった。拮平もそ

   のあたりのところは心得ておるわ」


 ふみも、あの時はびっくりしたが、もし、あの場に真之介が現れなかったとしても、桔平なら、そう、先ずは自分の店に連れて行き、その後、町駕籠で家まで送ってくれたことだろう。

 そんなことはつゆ知らぬ拮平は、もう夢見心地だった。その家の前まで行ったのに姿を見ることもできなかった娘と、今、こうして一緒に歩いているのだ。

 何を話そうかと思う。


拮平 「あの、お疲れでは。町駕籠でも呼びましょうか。どこかに町駕籠は…。も

   う、町駕籠と言うのは、要らぬ時には声掛けて来るくせに、肝心な時には全

   くいやしない。困ったものです。それで、今日はお袋様とご一緒ではなかっ

   たのですか。ああ、いいえ、女中さんがしっかりしてないのがいけないので

   すよ。全く、主人の娘とはぐれてしまうだなんて。いけない女中さんです

   ね」


 どうやら、娘の知った道まで来たようだ。ここからは一人で帰れると言う。


拮平 「いいえ、お一人では危険が危ないです」

 

 もっと話がしたい、ここでなど別れたくないと焦るあまり、いつものダジャレをつい口走ってしまう拮平だった。そして、娘がやっと笑う。 

 

拮平 「あ、すみません。つい、くだらないことを…」

娘  「面白い方」

手代 「お嬢様!」

 

 それは、娘を探していた手代だった。


手代 「お探し致しましたよ。ご無事で何よりです。えっ、では、こちらの方が、

   お嬢様をここまでお送り下さったのですか。それはそれは、ありがとう存じ

   ます。あの、どうぞ、すぐこの先でございますゆえ、お立ち寄りくださいま

   せ。旦那様もご新造様もお喜びになられます」

拮平 「いいえ、お近くまでお送りしただけのことです。どうぞ、お気遣いなく、

   では、これにて失礼いたします」

 

 ここは、さりげなく帰った方がいい。


拮平 「また、店の方にもお越しくださいませ、では」


 そして、振り向きもせず、角を曲がる。


----今の僕、すごーく格好良かったよね!でも、うにゃ、男とは去り際が肝心!きっと、思ってるよ。まあ、何て格好いい人って…。ああ、果たして、これから、どうなって行くのでありましょう…。


仙吉 「若旦那」

----うるさい。人がこの上ない余韻に浸っているというのに、汚い声でそれを汚すとは、あっ。

仙吉 「どうなさったんです。さっきからにやにやしっぱなしじゃないですか」

拮平 「何だ、仙公かい。こんなとこで何してんだい」

仙吉 「何って仕事帰りですよ。こっちゃ、溝掃除の帰りだっていうのに、きれい

   なお嬢さんと歩いてましたね」

拮平 「それが、何か」

仙吉 「あのお嬢さん、どちらの」

拮平 「お前は知らなくていいの」

仙吉 「ちょっと教えてくださいよ」

拮平 「いやだね。そんな溝掃除の後の汚い体で聞くような話じゃないよ」

 

 と、すたすた歩きだす拮平だった。

 翌日、八百藤の娘とその両親揃って白田屋に高級菓子折り持参でやって来た。これには、拮平はもちろん、嘉平もお芳も驚いてしまう。


嘉平 「まあ、そんなことがあったのですか…」

父親 「はい、娘がこうして無事なのも、こちらの若旦那のお陰です。拮平さんと

   おっしゃいましたか、本当にありがとうございました」

 

 と、畳に頭を擦り付けんばかりの父親だった。


拮平 「そんな、私は当然のことをしたまでです。どうぞ、もうお顔をお上げに

   なってくださいませ」

父親 「いや、これは、いいご子息ではございませんか。白田屋さんもさぞお心強

   いことでございましょう」

嘉平 「いいえ、至って、のんき者でございまして。でも、まあ、本当にかわいら

   しいお嬢様ではございませんか。これではお父上が心配なさるのも無理はご

   ざいませんよ。また、近頃はガラの悪い輩も増えましたからね」

父親 「はい、旗本の仁神があのようなことで、今はおとなしくしてますけど、本

   当に出稼ぎ人も多く気を付けるように言っているのですけど…」


 江戸の男女比率は7対3と圧倒的に男の方が多い。地方からの出来稼ぎの中にはうまくいかず、無頼の徒に走ってしまう者もいた。


母親 「はい、上六人が男の子の後、七番目にやっと生まれた娘でございますの

   で、主人がそれこそ目に入れても痛くないほどのかわいがり様なのです」

嘉平 「それは、このようなお嬢様では、ご心配なさるのも無理からぬことです。

   幸いと申しますか、うちは一人息子なものですから、わがままに育ちまし

   て。いえ、でも、これが人様には優しいのです。まあ、それで良しとして

   いるような次第です」  

お芳 「ええ、拮平さんは主人に似て優しいのですよ」

 

 お芳もここぞとばかりに拮平をほめそやす。八百藤の夫婦も白田屋嘉平が若い後添えを迎えたことは知っている。

 そんなことより、拮平はうれしくてたまらない。こんなにも早くにまた逢えるとは…。

 また、拮平と目が合えば、恥ずかしそうに俯いてしまう娘のしぐさのかわいいこと。さらに、その両親からも好感を持ってもらえた。こんなうれしいことはない。

 そして、父親は拮平がびっくりするようなことを言い出す。


父親 「拮平さんは、お嫁さんはまだなのですか」

嘉平 「それが、自分のことは棚に上げて、何だかんだと申しまして…」

----何言ってんだい。自分の方が嫁欲しかったくせに。そんで、嫁貰やあ、当分金のかかることはなしだって言ったの、ふん、どこのどいつだい。

父親 「それで、親父様の方が先にと言うことですか」

嘉平 「ええ、まあ…」

----えっ、こちらのおとっつぁん、わかってんじゃん。

父親 「こればかりは縁の問題ですからね」

嘉平 「そうです。縁がなくてはどうにもなりませんです、はい」

 

 嘉平は八百藤から、息子より先に後妻を貰ったことを冷やかされるのかと思ったが、そうでもなかった。


嘉平 「ところで、そちらのお嬢様も、良いお年頃とお見受けいたしますが」

父親 「いえいえ、まだまだ、ほんの子供でして…」

母親 「確かに、まだちょっと早い気もしますけど、主人のは、嫁にやりたくない

   だけなのです。いつまでも手元に置いておきたいらしくて、こちらの方が

   困ってしまいます」

父親 「まあ、十八くらいになれば、致し方ないかなと、思ったり…」

 

 それにしても、八百藤の夫婦。拮平の様な独り身から見ても、いい夫婦だと思う。特に微笑みを絶やさない母親がいい。


----いいなぁ。こんな夫婦…。


 そうだ、こんな仲のいい両親に育てられたとすれば、目の前の顔だけ笑っている強欲女とは違う。


嘉平 「そうですね。でも、これも縁の問題ですから、いつ、どこから…。でも、

   お嬢様でしたら、それこそ、引く手あまたでは」

父親 「そのようなことは…。それより、拮平さんの方が」

嘉平 「それそれ、どこかにいい出物はございませんか」

父親 「はて。何やら、理想が高そうではないですか」

嘉平 「いいえ、もう、口ばっかし」

父親 「いい方が早く見つかるといいですね」

----ここに、そのいい方がいるんですけど…。

 

 その後も、互いにちらちらと目と目が合う二人だった。

 そして、帰り際、拮平は娘の袖にそっと付け文をすべり込ませるのだった。 


 拮平は嬉しいと足の親指が動く。子供の頃はおいしいものや思わぬ小遣い貰ったりした時、自然と足の指がひくひく動く。大人になれば、好きな女の子が出来た時など、至ってわかりやすい人間なのだ。

 今日も親指をひくつかせつつも、それでも期待と不安の入り混じったじれったさで待っていると、娘はやって来た。但し、女中付きだった。

 それでも拮平はうれしかった。先ずは定番の甘味処へ行く。日頃、こんな店に来ることのない女中は大喜びて、話は自己紹介の様なことから、家族のことになる。


お米 「若旦那のところの後妻さん。同い年ですって」

 

 よく食べよくしゃべる女中だった。


拮平 「ええ、そうです」

お米 「それで、おっかさんとかお呼びになるんですか」

拮平 「まあ、一応…」

お米 「で、どうなんです」

拮平 「どうって」

お米 「その…。やっぱり、うるさい、姑」


 娘が女中をたしなめる。


拮平 「多分」

お米 「それじゃ、うかうかお嫁にいけないじゃないですか」

拮平 「いえいえ、年が同じなので、そんなこともよく聞かれます。でも、大丈夫

   です。その時は、私たちのことには口出しさせませんから。私もお父つぁん

   たちのことには口出ししませんので」

お米 「そうですか。では、いざとなったら、若旦那が守ってくれるんですね」

拮平 「それは、もう、全力でお守り致します」

お米 「そうですか…」

 

 と、その後も女中の拮平身上調べは続き、ほとんど女中としゃべったようなデートだったが、拮平は娘と話しているつもりで丁寧に答え、帰り際に菓子折りの手土産を渡すとき、女中には小銭を握らせる。

 短い時間だったが、拮平は幸せな気分に浸っていた。こんな気持ちになったのはいつ以来だろうか…。

 それからは、店の者に軽んじられないよう仕事にも精を出し、娘と次は逢える日を楽しみにしていた。やがて、女中も気を利かせてくれるようになる。


 そんなある日、真之介と会う。


拮平 「そうだ、この間の侍、誰?ほら、一緒に本田屋に入って行ったお人」

真之介「ああ、尾崎様のことか」

拮平 「尾崎様って…。ひょっとして?」

真之介「そうだ」

拮平 「いやさ、お里がさ、気になってるみたいでさ。あいつ、おマセだから」

真之介「お里のことより、その後、八百屋の娘とはどうなのだ」

拮平 「えっ、どうして知ってんの」


 まさか、既に真之介が知っていようとは…。


真之介「この間見た。お前が今は私の妻になっているが、武家娘に声を掛けた同じ

   場所で、若い娘に声を掛けていたな」

拮平 「いや、だから、あれはさ」

真之介「あれから、もう一年が過ぎたとは、早いものだ」

拮平 「いや、あの娘はさ」

真之介「その時に、俺と忠助が言ったことを、そのままお前一人で言ってたな。

   どうなされました。この様なところにお一人とは。あの、お供の方とはぐれ

   られたのですか」

 

 赤くなって、慌てる拮平が面白かった。


拮平 「いや、あの娘はさ、うちのお得意さんの娘なの。そんなお得意さんの娘に

   何かあっては大変でしょ。だから…」

真之介「ふみの時も、川へ飛び込みそうだったとか言ってたな」

拮平 「あ、そうそう、今更だけど、あの時の奥方、本当のところはどうだった

   の。なんか、有耶無耶にされたみたいで」

真之介「過ぎた昔のことはよい」

拮平 「だって、まだ、一年くらいじゃん」

真之介「それより、あの時、ふみも久も忠助もいてな、みな、笑いをこらえるのに

   大変だった」

拮平 「まあ、そんなあ…。それなら声かけてくれたって…」

真之介「お前の楽しみを奪うほど、野暮ではないわ」

拮平 「でも、奥方の時は」

真之介「ふみは武士の娘である。町娘と一緒にするでない」

拮平 「えっ、でも、どうして、八百屋の娘って知ってんの…」

真之介「何でも屋の仙吉から聞いた」

 

 そうだ、あの時、娘を送った後、仙吉にも会ったのだ。そんなことすっかり忘れていた。


----あの野郎、よくも白々しくどこのお嬢さんとか言ってたくせに。

真之介「仙吉が女中を知っていて、それでわかったそうだ」

----そう言うことか。

真之介「あれからも、時々逢ってるそうじゃないか」

拮平 「うん、まあね」

真之介「どうだ、今度はうまく行きそうか」

拮平 「うん、まあね」

真之介「ああ、問題はお芳か」

拮平 「うん、まあね…。でも、大丈夫だよ。俺もやる時ゃやるから」

真之介「そうだ、その意気だ」

拮平 「それから、こないださあ、芝居見に行ったの。二人でって言いたいけど、

   向こうのおっかさんも一緒に。ほら、真ちゃんそっくりの夢之丞の。で、

   真ちゃんの話したら、会ってみたいって。今度、会ってやってよ」

真之介「いずれ、その内」

拮平 「で、いつならご都合がよろしいので?」

真之介「俺のことより、親父さんは何と言ってるんだ。それと向こうの両親は。い

   や、一緒に芝居見に行くくらいだから、気に入られているんだな」

拮平 「うん、まあね。うちの親父もあの娘に悪い印象持ってないし、俺も気に入

   られてるみたい。お芳は何だかんだ言うだろうけど、そんなの気にしない。

   俺…、本気だから」

真之介「そうか、いい知らせ待ってるからな、頑張れよ」 

 

 そうだ、頑張らなくては。お芳のことは気にしないとか言ったけど、きっとまた、自分の親戚の娘を押し付けて来るに違いない。その前に、話を進めなくては、と気が引き締まる思いの拮平だった。

 そして、帰ってみれば、三好屋が来ていた。三好屋は、嘉平の碁敵であるが、こんな時刻にやって来るとは、どうせお芳の意を受けてやって来たに違いない。

  

拮平 「これは三好屋のおじさん、いらっしゃい。ご無沙汰してます」

三好屋「よう、拮平ちゃん。最近どうかね」

拮平 「実は、それが…」

三好屋「何があったのかい、悩みなら聞いてあげるよ。お父つぁんには言えないよ

   うなことでも、私にゃ、言えるだろ。で、何さ。あっ、ここじゃ駄目か」

拮平 「それが…。快調快調、超快調!まさに、快眠、快食、何とやら。見てよおじ

   さん、どう、この肌艶のいいこと」

三好屋「随分とまた張り切って。それなら話は早い。では、その好調の波に花を添

   えてあげようじゃないか」

拮平 「花なら、間に合ってます」

三好屋「いい花、持ってきたのにねえ」

拮平 「ありがとうございます。でも、ホント、間に合ってますから」

お芳 「話だけでも聞いてみれば」

拮平 「いいえ、ご足労頂いて申し訳ありませんが、そう言う訳でして」

三好屋「また、随分とあっさりじゃないの。まあ、そう、言わないで」

お芳 「そうですよ。折角の三好屋さんからのお話じゃないですか。会うだけでも

   会ってみなさいよ」

拮平 「でも、その気もないのに会っちゃ、相手の人に失礼と言うものです。そう

   じゃないですか」

お芳 「まあ、そんなあ」

----お芳め。今度は三好屋のおじさんを焚き付けやがったか。

 

 お芳は今までにも自分の身内や知り合いの娘を拮平の嫁にしようとするも、拮平がお芳の身内と聞いただけでアレルギー反応を起こすものだから、三好屋に泣きついたようだ。また、三好屋も三好屋だ。仮にも商家の主人が、友達が若い嫁迎えたのが羨ましいにしても、その嫁に丸め込まれるとはがっかりだ。


嘉平 「だけどさ、拮平。一度くらい三好屋さんの顔を立てておあげよ」

拮平 「いや、だからさ、その気もないのに会えません、会う気もありません」

三好屋「へえ、これはまた拮平ちゃん、随分とご執心なこと。で、どこの娘さん」

 

 一瞬はにかむ拮平だった。


拮平 「それが、あの。八百藤の…」

三好屋「八百藤…。ああ、あの八百藤。そうだった。あそこの一番下に娘がいた

   ね」

拮平 「おじさん、ご存じで?」

三好屋「まあ、知ってるよ。ふーん、そうかい、八百藤のねえ…」

お芳 「まあ、三好屋さん、せっかくいいお話を持って来て頂いたのに申し訳ござ

   いません。また、拮平さんもそんなに素気無くしなくても…」

----何言ってんだい、お前が仕組んだことだろ。誰がその手は、桑名の焼き蛤だよ。それにさ、人前では拮平さんとさん付けかい。似合わないことはお止しのお芳だよ。

三好屋「いや、お芳さん。嘉平さんも。これはどうやら私の出る幕はなさそうじゃ

   ないか。八百藤の娘なら、悪くないと思うけど」

拮平 「ありがとうございます。では、これから一手、お相手をしましょうか。こ

   れでも少しは出来るようになったんですよ」

三好屋「そうかい、じゃ久し振りに拮平ちゃんを一丁揉んでやるか」

拮平 「お願いします。じゃ、私の部屋へ」

嘉平 「拮平、ここでいいじゃないか。ここで私の碁盤でやればいいさ」

拮平 「いいえ、やはり、自分の部屋の方が落ち着きますから。今、私の部屋は下

   なもんで。さっ、おじさん、男一人のむさ苦しい部屋ですが、どうぞ」

三好屋「じゃ、ちょいとお邪魔するかね。嘉平さん、また後で」

 

 三好屋と拮平が階段を降りれば、そこにお里がいた。


拮平 「お里、そんなところに突っ立ってないで、私の部屋にお茶を。いいかい、

   私の部屋にお茶だよ」

----そんなに言わなくっても、いいお茶持ってくよ。でも、本当のところ、どうなってんの…。


 お里の玉の輿計画のキープ要員に過ぎなかった拮平の周囲が、にわかに華やいでいるのだ。これが気にならなくて何としよ。あのお熊でさえ言っているのだ。


お熊 「今度の若旦那はちょっと違うね。これは相当なものだよ」

 

 それなのに、また、新たに縁談とは…。

 ついに、拮平にもモテ期が来たのか…。

 

お里 「お熊姉さん、若旦那がいい方のお茶をって」

お熊 「そこの棚にあるよ」

お里 「あれはご新造様用のお茶でしょ」

お熊 「あれが、うちの一番高級なお茶」

お里 「えっ、そんないいお茶毎日飲んでんだ…」

 

 ならば、白田屋の嫁の座も悪くない。いつの間にか、しずしずと茶を運んでいるお里だった。


お里 「失礼致します」

拮平 「お入り」

お里 「よろしゅうございますか」

拮平 「いいから、早くお入り」

お里 「では、ごめんくださいませ」

 

 拮平は三好屋と碁を打っている。


三好屋「ほほう、拮平ちゃんもやるじゃない」

拮平 「だから、いつまでも昔の私じゃありませんたら」

三好屋「そうだったねえ」

お里 「これは、三好屋の旦那様、ほんの粗茶でございます」

拮平 「何だい、お里。いつになく気取っちゃって、気味が悪いよ」

お里 「まあ、ご冗談を。いつものようにやっているだけのことです。若旦那、粗

   茶でございます」

拮平 「自分ちの茶に粗茶とは言わないの」

三好屋「面白い子だねえ」

拮平 「ええ、私の世話係ってことになってますけど、どっちが世話してやってん

   だか。お前、いつまでそこにいんの。もう、いいから、早くあっちへ行っと

   いで。これから、おじさんと熱戦を繰り広げるんだからさ」

三好屋「ほんと、熱戦になりそうだね」

お里 「では、失礼いたします。ご用がございましたら、いつでもご遠慮なくお申

   し付けくださいませ」


 お里はしずしずと出て行こうとするも、日頃やりつけないことをすれば、やはりぎこちない。


三好屋「それで、何かい。八百藤の娘とは、もう、そんな話になってんの」

拮平 「ええ。今度は俺、本当の本気ですから」

三好屋「そりゃ、よかった。拮ちゃんも早く嫁を貰わないとね。これで、嘉平さん

   も安心だ」

拮平 「そんなこと言って、おじさん、お芳さんの味方してんじゃ」

三好屋「私は別に誰の味方でもないさ」

拮平 「そんなら、どうして。お芳さんに頼まれたんでしょ。今度の縁談」

三好屋「そのことだがね。確かにお芳さんに頼まれた。だけどさ、お芳さん、あれ

   でもって不安なんだよ。ほら、こないだ、嘉平さん具合が悪かっただろ。そ

   ん時に思ったんだってさ。嘉平さんにもしものことがあれば、自分はどうな

   るのだろうって」

拮平 「何を大げさな!風邪ひいただけですよ」

三好屋「いや、拮ちゃんは若いから、風邪くらい何ともないだろうけど、私たちく

   らいになると、風邪でも堪えるんだよ。だからさ、側に付いているお芳さん

   も大変なんだよ」

拮平 「はああ?何が誰が、側に付いてたもんですか。医者の娘のくせして、医学

   の知識無し。うつるといけないからって、その間、実家へ帰りゃあがったで

   すよ。誰にもうつりませんでしたけどさ」

三好屋「それ、本当かい」

拮平 「本当ですよ。嘘だと思うんなら、さっきのお里にでも聞いてくださいよ」

三好屋「そうかい…」

 

 さすがに三好屋も言葉がなかった。


三好屋「だけどさ、嘉平さんに何かあった時は拮ちゃん、どうすんのさ」

拮平 「どうもこうも、俺が主人やりますよ」

三好屋「お芳さんのことだよ。まさか、一文無しで追い出したりしないだろうね

   え。それをお芳さんが心配してんだよ」

拮平 「いくら何でも、そんな、しどいことしませんよ。確かに、そん時ゃ、出て

   行ってほしいけど、出来るだけのことはしてやりますよ」

三好屋「いや、拮ちゃんはそうでも、嫁が。その時の拮ちゃんの嫁が…。いい嫁が

   来てくれればいいけど、強欲な嫁が来たらったて、ね」

拮平 「何が!強欲はてめぇの方じゃねえか。やれ、蔵の中見せろ、裏帳簿見せろっ

   て少し前まで大騒ぎしてたのは、どこのお芳だよ。俺の嫁がどうとか言う前

   に、お前が嫁いびりしなきゃいいんじゃないか」

三好屋「じゃ、拮ちゃんは、お父つぁんに何かあっても、決して、お芳さんを見捨

   てたりはしないんだね」

拮平 「そんなことしやましせんよ。一応、親父の女房ですから。親父にすりゃ、

   いい女なんでしょう」

三好屋「わかったよ。それなら、私からお芳さんに言ってやるよ。あまり、先案じ

   はするなって」

拮平 「ついでに、嫁いびりもするなって言ってやってくださいよ」


 三好屋は苦笑するしかなかった。


三好屋「ああ、八百藤の娘と夫婦にしてやれと言っとくよ」 

拮平 「それは…。よろしくお願いしま~す」

三好屋「では、祝いのもう一戦。今度は手加減しないよ」

拮平 「望むところです」

 

 その頃、二階では嘉平がお芳を説得していた。

嘉平 「だから、もう、いいじゃないか。あいつだって、嫁欲しいだろうし。あの

   八百屋の娘、悪くないと思うよ」

お芳 「それより、向こうの娘の気持ちはどうなんです。本当にその気があるんで

   すかね」

嘉平 「えっ、それは、どう言うことだい」

お芳 「だからさあ、拮平だけがその気になってんじゃないないかってことです

   よ。ほら、貢がせるだけ貢がせるって、あれですよ」

嘉平 「そんな訳ないだろ。拮平だって、相手の気持ちを確かめないままに、いく

   ら何でも、あんなこと言わないだろうよ」

お芳 「それなら、いいんですけど」

嘉平 「じゃ、何かい。お芳は向こうの娘にその気があれば、嫁に迎えてもいいん

   だね」

お芳 「えっ、ええ、それは。まあ…」

 

 何か、藪蛇になってしまったみたいだ。


嘉平 「そうかい、じゃ、早速誰かに仲人を…」

お芳 「だって、まだ、向こうの娘の気持ち確かめてないじゃない!」

嘉平 「だから、それは、仲人が話を持って行けば、嫌なら断るだろ。じゃ、そう

   しよう」

お芳 「いえ、あの、お前さん!」

 

 お芳は必死だった。拮平の嫁取はせめて自分に子供が出来てからにしてほしい。そうでなければ、嘉平に何かあった時には自分の立場が危うくなる。だが、この度の縁談には取り立てて反対する理由がないのだった。


嘉平 「何だい」

お芳 「あの、その、拮平の嫁取りのことなんだけど、あっちの方は大丈夫なんで

   す?」

嘉平 「あっちとは?」

お芳 「ほら、お金のことですよ。当分物入り事はなしだって言ってたじゃないで

   すか」

嘉平 「ああ、あれは拮平が私たちの祝言のどさくさで、金使いが荒くなっても

   らっちゃ困るんで一応釘さしておいたんだよ」

お芳 「ああ、そうなの。それならいいんですけど、あまり、無理しても、と思っ

   たもんで」

嘉平 「まあ、それくらいは何とかなるさ」

 

 と言って、嘉平は部屋を出て行く。


お芳 「やっぱり!裏帳簿あるんじゃないか!お菊、お菊!」

 

 むしゃくしゃすると、お芳は無性に買い物がしたくなる。

 やがて、仲人が立てられ、双方とも異存はなく後は日取りの設定となるも、今は師走月。結納も年が明けてからのこととなった。

 



































































 















 

  





















 





































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