第78話 散りぬるらん

友之進「これは本田殿。ご無沙汰いたしております」

 

 と、声をかけられたものの、咄嗟には誰だかわからない真之介だった。


友之進「その節はありがとうございました。よもや、お忘れで」

真之介「これは失礼いたしました。いや、見違えてしまいました」

 

 そこにいるのは、誰あろう、あの尾崎友之進ではないか…。

 旗本仁神家の家来の息子であり、ずっと安行の側近くに仕えていたが、その真面目振りが逆に疎まれ、許嫁を奪われてしまう。その許嫁が死を選ぶも彼の忠誠は変わらず、その後、真之介が起こした仁神髷切り事件の時、必死で安行を探しまわったも友之進である。その後の彼のことは何も知らないが、今、目の前にいる友之進の表情は明るい。


友之進「以前はやはり暗い顔をしていましたか」

真之介「いえ、そう言う訳では…」

友之進「その節は駕籠をありがとうございました。あれは本田殿ですね」

 

 探し回った挙句にようやく安行を見つける事が出来た友之進だったが、その髷が切り落とされていたことに衝撃を受ける。自分の着物を脱いで主の頭を隠すべく、腰から刀を抜こうとした時、駕籠屋が通りかかる。

 すぐに、その駕籠に安行を押しこみ、ふと、後ろを向くもそこには誰もいなかったが、その時は、一刻も早く安行を屋敷に連れ帰えることに気が逸るばかりだった。


友之進「あの時は、本当に助かりました。礼が遅くなり申し訳ありません」

真之介「そんな、礼などと…」

友之進「あの後、落ち着いてから考えますに、やはりあの駕籠は本田殿が差し向け

   てくれたのだと思い当りました」

真之介「いえ、あの、私は何も…。正直に言いますと…」

友之進「ああ、これは。別に蒸し返すつもりはありません。でも、もう、この話は

   止めます」

真之介「はあ…」

 

 確かに、駕籠を差し向けたのは真之介であるが、改めて礼を言われることでもない。何より、事件の首謀者は真之介なのだ。友之進の主を辱めた男である。


友之進「実は、私は今はお屋敷勤めではなく、たまにご機嫌伺いに向かうくらいで

   す。ですから、もう、長い間若殿にはお会いしておりません」

 

 問わず語りのように話す友之進だった。


真之介「ここでは何ですので、その先で軽く…」

 

 きっと、友之進も語り合える相手が欲しかったのだろう。真之介はいつもの鰻屋へ案内する。話をするには鰻屋の二階がいいのだ。鰻は注文を受けてから焼くので時間がかかる。焼きあがるのを待つ間、ゆっくり話が出来る。


友之進「そうだ、牛川と猪山のことはご存知ですか」

 

 安行の腰巾着の二人だった。この二人は今は屋敷内で下働きをさせられていると聞いている。


友之進「それより、あの二人の髷を切らなかったのは何故ですか」

真之介「もしかして屋敷を追い出された場合、髷がなくては職にも付けず、自暴自

   棄になり押し込みでもやられたりしては、それこそ藪蛇ですから」

友之進「やはり、そうでしたか。そこまで考えてのことだったのですね。いやは

   や、感服いたしました」

真之介「いえ、決してお褒め頂くようなことでは…。今思えばとんでもないことを

   やらかしたものだと、背筋が寒くなります。その時はそれしか思いつかな

   かったような次第でして…」

友之進「その、牛川と猪山のことなのですが、確かに今は下働きに甘んじておりま

   すが、それは、若殿の…」

 

 髪が伸びるまでの辛抱だと思っているのだろう。


友之進「だから、あの二人をどこか遠くへやることを私は大殿に進言しています」

 

 それは真之介にとっても喜ばしいことだった。


友之進「若殿は今は屋敷の離れにお住まいです。そして、決まった者しか近寄るこ

   とはできません。ご病気と言うことになっておりますので致し方ないことで

   すが、しかし、やがては若殿も外に出られる筈。その時に牛川と猪山が、

   また若殿を…」

 

 この友之進には安行の異腹の弟だと言う噂がある。その噂の真偽はともかく、やはり、主思いの家来なのだ。


友之進「若殿は本当は弱いお方なのです。それを強く見せようとなさるので、そこ

   に付け込んだのがあの牛川と猪山です。無論、今後若殿があの二人を寄せ付

   けるとは思いませんが、万が一ということもあります」


 安行の心の内は誰にもわからない。いや、三つ子の魂百まで、人はそう容易く変われるものではない。きっと、日々、真之介への憎悪を募らせていることだろう。それでも、一人では何もできない。その時に再び安行があの二人を側に寄せ付けないにしても、方法はいくらでもある。問題は安行の心の内だ。


友之進「私も若殿にお会いしたいのですけど」

 

 安行にしてみれば、牛川、猪山以上に友之進の顔など見たくないのだろう。


真之介「それで、大殿はあの二人の処遇について、何か」

友之進「それが。なぜか、はっきりとは…」

 

 もしかして、大殿も真之介を恨みに思っているのでは…。


友之進「でも、これからも説得を続けますので」

 

 それはありがたい限りだが、果たして、どうなることやら。


友之進「その後、如何ですか」

 

 友之進が話題を変えて来た。


真之介「その後とは」

友之進「ふみ様、奥方様とは」

真之介「何とかやってます。ああ、ひょっとして、尾崎様も私がふみに懸想をし

   て、あのようなことを仕出かしたとお思いで」

友之進「違うのですか」

真之介「なぜか世間ではその様に言われております」

友之進「違うのですか」

 

 友之進は同じ問いを繰り返した。


真之介「私が妻と初めて会ったのは結納の後です。供の者と町に出かけたのです

   が、はぐれてしまい、途方に暮れていたところに偶然私が通りかかりまし

   た。でも、その日は何も知らずに別れまして、翌日両家の顔合わせで知った

   と言う次第です」

友之進「でも、若殿とふみ様のことはご存じだったのでは」

真之介「はい。私の様なにわか武士の所へまさか旗本の姫との縁組が持ち込まれる

   とは夢にも思わず、ぶしつけではありますが、少々調べさせていただきまし

   た」

友之進「それで、君子危うきに近寄らずとはならなかったのですか」

真之介「私は君子ではありません。お断りする口実を探していたのです」

 

 まさか、妹に危害が及ぶことを恐れてとは言えない。友之進は信頼に足る人物であるにしても、真之介にすれば、やはり向こう側の人間なのだ。


友之進「では、その口実が髷切りだったのですか」

真之介「そう言うことではなくて、若殿に何か打撃を与えれば、この話は自然消滅

   するのではとの思いから、あのような、とんでもないことを仕出かしまし

   た。今は反省しております…」

友之進「あっ、いえ、もう過ぎた事です。その、実は、私にも縁組の話がありまし

   て」

真之介「それはおめでとうございます」

友之進「その相手と言うのが、こちらも旗本の姫なのです。もう、私には勿体ない

   様なお相手でして。これでも迷いましたけど、本田殿がふみ様を迎えられて

   るのですから、まあ、いいかなと…」

真之介「そんな、私の様なにわか侍と尾崎様を同列になされなくとも」

友之進「でも、同じく旗本の姫を妻にしているのです。あっ、私はこれからですけ

   ど」

  

 と、はにかむ友之進だった。


友之進「本田殿のところは、夫婦仲もよいと聞いておりますが、それはどのように

   すればよろしいのでしょうか」

真之介「どのようにも何もありません。縁あって夫婦になったからには、二人して

   やっていくしかないのです」

友之進「そうですけど、色々大変なこともおありだったのでは」

真之介「やはり、女には順応性があります。嫁ぎ先の色に染まるべく、白無垢で

   やって来るのですから」

友之進「では、男はそれを受け入れればいい」

真之介「はい、そうですけど…」

友之進「けど?」

真之介「私の場合は少々染まり過ぎて少し困っております」

友之進「染まり過ぎとは」

真之介「すっかり、私の実家に染まっております。最初は商家が珍しいのだと思っ

   ておりましたが、色々知りたがり、いささか、困惑しております」

 

 その時、鰻が焼きあがって来た。先ずは焼き立てを食べる事にする。


友之進「やはり、鰻屋の鰻は違いますね。私はたまに釣りをするのですが、鰻が掛

   かることもあるで、家の者が捌いてたれを付けて焼いてくれるのですが、

   中々この様にうまくはいきません。やはり、たれも捌きも焼きも比べ物には

   なりません」

真之介「そうですか。鰻は扱いにくい魚ですから。でも、釣りとはよいご趣味をお

   持ちではないですか」

友之進「ああ、近頃は暇なものでして」

 

 安行の側から「解放」されたので釣りも出来るようになったのだ。


真之介「では、夕食は毎日魚ですか」

友之進「そんなに、都合よくは行きません。駄目な日の方が多いです。本田殿のご

   趣味は」

真之介「取り立てて趣味はありません。まあ、私はじっとしているのが性に合わな

   いものですから」

友之進「それが、釣りをする人間には意外と短気な者が多いと言います」

真之介「あのように、魚が来るのを待っていることの、どこが短気なのですか」

友之進「でも、その様に言われています。そうです、これで、私も案外短気かもし

   れません」

 

 友之進が短気なら、安行は…。


友之進「そう言えば、本田殿は剣の方も中々のお腕前とか」

真之介「いえいえ、とんでもないことです。何とか、格好だけは付けられるように

   なりました」

友之進「いや、ご謙遜を…」

真之介「別に謙遜ではありません。呉服屋風情が竹刀を振り回しているのが珍しい

   のでしょ。何ですか、私のすることなすこと、すべて大仰に伝わってしまう

   のです」

友之進「それだけ何事につけても真摯に取り組まれるからでしょう」

真之介「只の目立ちたがり屋が面白がられているだけのことです」

友之進「それはお羨ましい。私など、大して目立ちもせず、世間の隅で暮らしてい

   るだけです」

真之介「そこに、旗本の姫がお輿入れなさるのではないですか」

友之進「では、私も少しは見栄えが良くなりますかな」

真之介「それこそ、ご謙遜を」

 

 と、二人して笑った。まさか、尾崎友之進と笑い合う日が来るとは…。


友之進「これは馳走になりました。誠に美味でありました」

真之介「喜んでいただけて幸いです」

友之進「あの、私はこれからも大殿に若殿から牛川と猪山を遠ざけるよう進言して

   みます。また、若殿にもお会いして、胸の内をお聞きしようと思っておりま

   す」

真之介「痛み入ります」

友之進「それと…」 

真之介「他にも何か」

友之進「これは、私の思い過ごしならよいのですけど、奥方様、若殿のお母上様が

   何やら…。その、奥方様は若殿の髷が切り落とされた姿をお目にされた時、

   それこそ半狂乱で、すぐにもこんなことを仕出かした不埒者を捕まえるよ

   う、大殿にお訴えになられました。大殿に恥の上塗りをするなと諌めら

   れ、その時はそれで治まりましたし、何より、若殿の身が案じられました」

 

 きっと、この母親は安行以上に真之介への憎悪を募らせていることだろう。


友之進「それが、あれから一年過ぎました。少しは気持ちも落ち着かれたのではと

   思っておりましたが、何やら、本田殿のことをお調べになられているそうで

   す」

 

 やっぱり、そうか…。


真之介「ご忠告ありがとうございます。私の方も手をこまねいている訳ではありま

   せん。北町の同心の方々も気にかけてくれるとのことですし、かわら版など

   も援護してくれます。どうしてもとおっしゃるなら、私は逃げも隠れも致し

   ません」

 

 ここまで来たら、こそこそ逃げられようか…。だが、話は思わぬ方向に向かう。


友之進「いえ、本田殿お一人のことなら、そこまで気を揉んだり致しませぬ。知恵

   も勇気もお持ちの方ですから。私が心配なのは、ふみ様でございます」

真之介「ふみのこと…」

 

 安行の母にすれば、真之介も憎いが、ふみも憎くてたまらないのだ。ふみが黙って側室に来れば、こんなことは起こらなかった…。


友之進「はい、本田殿のことを調べると言うことは、ふみ様のことも。何やら、

   お考えの様にて…」

真之介「しかし、尾崎様。あなたは最近はあまりお屋敷にも出入りなさらぬと言う

   に、それに、あちらの奥方様とそのように、お話をされることがあるのです

   か」

友之進「いいえ。私のことを母の様に姉の様に、気にかけてくれる女中がいます。

   その者が奥内のことを知らせてくれるのです」

真之介「そうでしたか、それをわざわざ…。いや、本当にありがとうございます」

友之進「私の先案じであることを願っております」

 

 女の憎悪は、女に向かう…。


 そこにはいつもの顔があった。

 いつもの顔でいつものように座っている。

 朝、起きれば隣に男が寝ている。家の中にもその男はいる。それだけでドキマキしたものだが、毎日一緒に食事をし、寝起きを共にしていれば、やがてはそれも普通のこととなってしまう。

 変わり映えしない…。

 取り立てて不満はないけれど、あの、ときめきはどこへ行ってしまったのだろう。一年も経てばこんなものなのか…。

 ふみも真之介との生活に慣れて来た。と言っても、まだ真之介のペースに付いて行けない時がある。思いたったら即行動に移すのだ。急いで準備をし終わったと思えば、当の真之介は何を着て行こうかまだ悩んでいる。そのことにも今は驚かない。

 それでも刺激のある楽しい一年だった。だが、今朝はちょっと違った。お房に何か用を言いつけ外出させ、ふみと久を前に忠助も入って来た。

 そして、真之介は仁神髷切り事件の顛末を洗いざらい話すのだった。すべては妹のためにやったことであり、さすればふみとの縁談も白紙に戻ると思っていたことなどを。

 聞いてみれば、ふみや久の知らないこともあったが、ここに来て改めの話とは何があったと言うのだろう。


忠助 「それに間違いございません」

真之介「だが、恨みを買ったのも事実である。いつか若殿や牛川猪山から報復を受

   けるやもしれぬ。それについては、自分の身は守るゆえ、心配には及ばぬ」

忠助 「私も旦那様をお守り致します」

ふみ 「そんな、心配には及ばぬと仰せられても、やはり、心配でございます」

久  「左様にございます。ここは良くお考えになってくださいませ」

真之介「いや、今は私のことより、そなたのことが案じられるのだ」

ふみ 「私…。私がどうなると申されるのですか。私は何があっても旦那様のお側

   を離れたりは致しません。私も武士の娘、妻にございます。いざとなれ

   ば…」

 

 と、舌をも噛み切らん決意を表す、ふみだった。


真之介「いや、これからは言動に注意するように。いつ、どこに、誰の目や耳があ

   るやもしれぬと言うことだ」

ふみ 「でも、旦那様が襲われたりするのでは…」

忠助 「大丈夫です。その時は」

 

 と、忠助が懐から目潰しを取りだす。


忠助 「そっとお持ちになってくださいませ」

ふみ 「これは卵ではないですか、これが?」

忠助 「ご実家の板さんに中身を抜いてもらって、その殻の中に粉やら唐辛粉を詰

   めたものです」

 

 それにしても、割れやすい卵から中身を抜くのも難しいと思うが、そこへ粉類を詰めるのも大変だと思う。


ふみ 「さすがです。忠助、旦那様を頼みますよ」

真之介「私より、そなたのことだ。危害を加えられることはないにしても、尾崎様

   のお話では、あちらの奥方様が何やらお考えの様だとか。杞憂に終われば良

   いが…」

久  「そうでございますとも。仁神の奥方様にしてみれば、事を起こした旦那様

   も憎うございますが、元はと言えば、姫様がすんなり側室に来ていれば、こ

   のようなこと起らなかったのですから」

 

 久は女の憎しみの矛先が、得てして同性に向かうことを知っている。

 女とは、まず同性に敵愾心を抱く。今日の友が明日の敵になろうとも、昨日の敵が今日の友になることはない。

 安行の母親が何を考えているのかわからないが、何やら、こちらの様子に目を光らせている事は確かだ。


久  「私もこれからは、心して奥方様をお守り致します」

 

 とは言ったものの、何をどのようにすればいいのか思案に暮れる久だった。すでに実家の三浦家にも仁神の意を受けたものがいるかもしれない。


真之介「いやいや、普通に暮らしておればいいのだ。だが、口は災いのもとであ

   る。気をつけられるよう」

ふみ 「はい」 

 

 だが、その後は何事もなく過ぎていく。ともすれば、そんなことなど忘れそうになるくらいの平穏さだった。そんな、ある日、仁神家から使いの者がやって来る。

 権高そうな奥女中が二人と下男だった。


奥女中「当家の奥方様が、こちらの奥方様を茶会にご招待したいと申されておりま

   す」

ふみ 「それは、ありがたきお申し出なれど、当家はご覧のとおりの御家人にござ

   います。その様な旗本の奥方様がお集まりになるお席は何やら場違いと心得

   ます」

奥女中「当家の奥方様は、お心の広い方にございます。その様に、ご遠慮なさらず

   とも」

 

 要は黙って来いと言うことだった。早速、帰宅した真之介に報告をする。


----ついに、来たか。

ふみ 「何を着て参りましょうか」

 

 と、ふみが箪笥に目をやる。思えば、結納後の顔合わせの前日、着て行く着物がなく急遽、佐和の元へ借りに行ったものだが、今は着物もそれなりに持っている。それでも、あの仁神家の茶会である。ここは、いいものを着て行きたい。


ふみ 「あの、旦那様。先日仕上がって来た着物がございますので、あれでよろし

   いかと」

真之介「無地がよい」

ふみ 「無地の着物ならございますわ」

真之介「あの色無地には紋が入っておる。このたびの茶会は、それほど格式ばった

   ものではあるまい。その様な席に紋入りとは仰々しい。さりとて、失礼のな

   いよう、無地を着て行けばいい。そうだな。葡萄色か葡萄茶…」 

 

 葡萄えび色とは、山葡萄ぶどうの熟した実の様な暗い赤紫色である。その葡萄色に茶色が入った色を葡萄茶えびちゃ色と言う。また、えび色とは、山葡萄の古名、葡萄葛えびかずらから来ている。

 その翌日、佐和が訪ねてきた。


ふみ 「まあ、佐和殿。ようこそ」

佐和 「真之介殿もご在宅でしたか。ご無沙汰しております」

真之介「こちらこそ、ごゆっくりなされますよう」


 真之介が座を外すべく立ち上がろうとした時、佐和が口を開く。


佐和 「あの、実は、実は仁神様からお茶会の誘いがございまして」

ふみ 「えっ」

佐和 「それで、そのぅ」


 真之介も座りなおす。


ふみ 「まあ、私もお誘いを受けましたの」

佐和 「えっ、ふみ殿も」

ふみ 「ええ、こちらは御家人ですのでと一応お断りしたのですけど…」

佐和 「そうでしたの…。いえ、私は何を着て行こうか迷って、それで…」

ふみ 「今も夫とその話をしていたところです」

佐和 「それで、着て行くものは決まりましたの…」

ふみ 「ええ」

真之介「お話の様子からして、無地の着物が良かろうかと思います」

佐和 「私も無地は持っておりますが、紋が入っております」

真之介「私もうっかりしておりました。いつでも間に合うと言う気のゆるみから

   か、無地の着物を用意しておりませなんだ。では、これから、ご一緒に私

   の実家へ参りませぬか」

ふみ 「そうですわ、是非、ご一緒に」

佐和 「えっ、ええ…」


 佐和も仁神家の茶会とあって、やはり何を着て行こうか迷っていた。それにしても輿入れしてから、新調した着物は一枚もない。そんな時、ふみを思い出した。

 結納後の顔合わせの時の着物を貸りに来たふみだが、今はたくさん着物を持っていることだろう。今度は自分が貸してもらおうとやって来たのだ。

 真之介が在宅していても構わない。以前、着物を貸した話をする気はない。だが、成り行きとは言え、真之介の実家へ行くと言うことは、新しい着物を作らされる。そんな余裕はないとも言えず、真之介の実家まで来てしまった。

 その本田屋には小太郎がいた。側には当然お伸もいる。


小太郎「これは兄さん。奥方様もご一緒で」

真之介「葡萄色と葡萄茶を」

小太郎「かしこまりました」 

 

 佐和もここまで来たら、覚悟を決めるしかない。少しは安くしてくれるだろう。支払いも猶予してくれるだろうと思っていると、手代が反物を持って来る。

 ふみと佐和は姿見の前で、反物を肩にかけてみる。


ふみ 「旦那様、佐和殿も私のも、ちと、地味ではございませぬか」


 小太郎が反物に帯地を当てる。着物は帯一つで随分印象が変わる。地味だと思った色合いも互いに引き立て合う。そして、ふみには濃い色、佐和は薄めの色が決まった。


お伸 「お姉さま方は、お二人でどこかへお出かけですの」

ふみ 「ええ、お茶会のご招待を受けましたので」

真之介「うっかりしておった。色無地を用意してなかったわ」

ふみ 「でも、こうしてすぐに間に合いますので、うれしいですわ。後は帯締めと

   帯揚げです」

真之介「それなら、持っているもので間に合う」


 女の目は厳しい。特にあの仁神家だ。それこそ上から下まで、とっくりと品定めするだろう。真之介の実家が呉服屋だから、ふみがいい着物を着て来ることはわかるにしても、すべて新しいものでは後で成金趣味とか陰口を叩かれるのがオチである。


ふみ 「では、履物は」

真之介「それこそ、履きなれたものの方がよい」

 

 これで、身支度は整った。後は手土産だ。


お弓 「まあ、お待たせ致しまして、お客様がいらしてたものですから。これはお

   越しなされませ」

 

 お弓は佐和に丁重に挨拶をする。面識があるとはいえ、佐和は旗本の奥方である。その後、二階でお茶となるが、その時の菓子に思わず目を見張るふみと佐和だった。


お弓 「これは先ほどのお客様から頂いたものです。かわいい形ですわね」

 

 それは壺の形をした最中だった。


お弓 「壺屋の壺々最中です」

 

 壺屋と言うのは寛永年間に江戸町人が開業した菓子屋。現代はすべて東京が中心で、東京に向かうことは上りであるが、江戸期は帝の御所のある京が中心であり、江戸へは下ると言った。酒も菓子もすべて京の物が最高とされた時代の最初の「江戸根元」の菓子屋だった。

 その壺屋の看板菓子が、壺の形をした最中だった。つぶあんとこしあんの二種類あり、しっかりと餡の詰まった最中である。


お弓 「何ですか、お茶会のお誘いとか」

ふみ 「はい、それで、手土産を何にしようかと」

お弓 「では、この最中などいかがでしょう。手土産ならかぶってもよろしいので

   は」

ふみ 「そうですわね」

佐和 「ええ…」

 

 それより、着物の値段が気になる佐和だった。


お弓 「それで、どちらさまのお屋敷ですの」

ふみ 「え、ええ。あの、坂田の…」

 

 ふみは一瞬、焦ったが、何とかやり過ごすことが出来た。


お弓 「そうですか、それは楽しみですわね」

ふみ 「はい…」

 

 そして、ついに、その日がやって来た。

 真之介が笑顔で送り出してくれた。そうなのだ、今のふみは、誰が何と言おうと真之介の妻なのだ。毅然としていよう。

 途中で佐和と落ち合い、それでも、緊張しつつ仁神家の門をくぐる。だが、茶会と聞いていたがせ、通された部屋は茶室ではなく広間だった。

 すでに、数人の女たちが談笑していたが、ふみの姿を見るや否や、それまでの話声はピタリと止む。


絹江 「まあ!」


 沈黙の中、絹江だけが素っ頓狂な声を発する。

 雪江、絹江にしても、まさか今日のこの席に、ふみがやってこようとは夢にも思わない事だった。

 皆が注目の中、ふみは一番下座に座る。久たち女中は次の間に控えていた。

 やがて、安行の母、正室、側室たちも揃い、香りのよいお茶が出され、何と菓子はカステラだった。


----カステラを持って来なくてよかった…。


 お弓から勧められた最中に不足はないが、帰宅してからふと気になる。ここはカステラでも持って行ってやろうかと思ったりしたものだ。


ふみ 「あの、カステラなど、手に入りませぬか」

真之介「入らぬ。ん、さては」

ふみ 「いえ、久々に食してみたいなと思ったもので…」


 と、ごまかしておいた。


八千代「本日は、ようこそ」

 

 と、安行の母が八千代が挨拶をし、その後は自己紹介となる。そして、ふみに順番が回って来た。


ふみ 「本日は勿体なくもこの様なお席にお招きいただきまして、誠に光栄に存じ

   ます。当方は御家人ゆえ、ご無礼の段は平にご容赦くださいませ」

八千代「本田殿。もそっと近くにおいでなされ」

ふみ 「とんでもございません。今も申しましたように、この場にても身のすくむ

   思いが致しております」

八千代「左様であるか。皆さまも何かとお噂はお聞きのことと思いますが、こちら

   は今、江戸市中で知らぬ者がいないお方のお内儀であられる」

ふみ 「痛み入ります」 

奥方 「まあ、それにしても、これがあのカステリャとか申す異国の菓子でござい

   ますか。さすがは仁神様、お珍しい物を…」

 

 と、これから何が始まるのかと緊張感の中、少し年かさの妻女が場の雰囲気を和らげるように言えば、思い付いたようにそれに同調する。


奥方 「私も初めてにございます」

奥方 「例えようもないほど、美味でございます」

八千代「喜んでいただけて幸いです。まあ、本田殿には珍しくもないでしょうけ

   ど」


 いよいよ、これからが本番のようだ。

 それにしても、ふみはなぜか自分でも驚くくらい落ち着いているのだ…。


ふみ 「いえ、私も初めてにございます」

 

 ここは真之介に倣って、素知らぬ態を装う。


絹江 「あら、そうですか。でも、お宅にはちきゅ、ぎとか、時のわかる動く置物

   とか珍しいものがあるではないですか」

 

 何事につけても決して黙っていられぬ絹江が口をはさむ。余計なことをと思ったが、今日はそのために呼ばれたのであろう。


ふみ 「我が夫は新しもの好きにて」

絹江 「異国のものがお好きなら、このカス、カス、カス、カスッ」

雪江 「絹江!」

絹江 「何でしたかしら」

雪江 「カステリャですよ。本当にもの知らずで申し訳ありません」

 

 雪江は冷や汗が出る思いだった。


絹江 「ですから、やはり仁神様がおっしゃられたように、ふみ殿には珍しくない

   のでは」

ふみ 「こんふぇいとは頂いたことがありますが、カステリャは本当に初めてにご

   ざいます」

 

 真之介は、カステラと言っていたが、この際、そんなことはどうでもいい。だが、それからの絹江は何かのスイッチが入ったように聞かれてもないのに、ふみ宅の様子を身ぶり付きで語り始める。


絹江 「まあ、そうなのですから、今のふみ殿ほどお気楽、いえ、お幸せな方はい

   ませんわよ」 

ふみ 「いいえ、それは絹江殿の思い過ごしです。物は少々ございますが、実際の

   ところは…」

絹江 「まあ、何を今更、ねえ、そうでございましょ、皆様。おほほほほ」

 

 と、ふみの言うことはすぐに遮られ、笑いにかき消されてしまう。


八千代「まあまあ、もうそのくらいになさいませ。それだけ、本田殿のお暮らし向

   きが良いと言うこと。結構なことではないですか」

 

 言い終わらぬうちに、仁神家の女中が入って来る。


女中 「失礼致します。あの、奥方様…」

八千代「何じゃ」

女中 「その、実は…」

 

 と、何やら言い難そうにしている。


八千代「だから、何なのじゃ。それでは折角お越し頂いた方たちに失礼であろう」

女中 「申し訳ございません。実は、足袋屋が参りまして…」

八千代「何を戯けたことを。足袋屋などに用はない。それに、今日がどの様な日で

   あるかわかっておろう。その様な者、すぐに追い返せばよいではないか」

女中 「それが、その足袋屋が申しますには、今日こちらではお旗本の奥方様が茶

   会をなさるとか。ついでと申しては何ですが、皆さまにご挨拶方々、足袋を

   差し上げたいとか申しまして…。まあっ」

 

 その時、廊下を小走りする足音が聞こえた。


拮平 「失礼致します」

 

 足袋屋と聞いて、ふみもまさかと思ったが、明らかに雪江と絹江の方が驚いている。現れたのは、白田屋の拮平だった。


拮平 「はっ、もしや、ここは大奥ではございませんか。この様に、お美しい奥方様

   ばかりお集まりで、もう、目も眩みそうです。まあ、将軍様はこの様な所で毎

   夜お過ごしなのですね。もう、羨ましったらありゃしない。ちくしょうめ。

   あっ、これは失礼をば。つい、本音が出てしまいまして…」

 

 これを真之介が言えば嫌味になるが、拮平が言えば逆に心地よく聞こえる。それが拮平の持ち味なのだ。

 これで何とか最初のつかみは成功したと思った拮平だが、この場にはとんでもない「伏兵」がいた。


八千代「これ、不躾にも、何用で参った」

桔平 「ですから、今日は足袋を」

絹江 「これ、汁粉屋!」

拮平 「えっ」

雪江 「絹江!汁粉屋ではなくて、白田屋ではないですか」

絹江 「あら、まあ。いえ、それが、この男の顔を見ますと、つい、汁粉を思いだ

   しまして…」

八千代「この者と汁粉が何か?」

雪江 「申し訳ございません!」


 雪江が慌てて手を付く。


雪江 「それが、この男、白田屋と申す足袋屋の息子でございまして。実は、ふみ

   殿のご亭主の真之介殿の実家と隣同士なのです。その関係で私たちとも顔見

   知りと言う訳でございまして」

絹江 「いいえ!それだけではございませんの。この白田屋、男のくせに汁粉が好物

   なのです。でも、男一人では中々汁粉屋に入れないものですから、そこで、

   私と姉を汁粉屋に誘うのです。それも、私たちが汁粉が好きなので、仕方な

   く一緒に店に入ったと言う感じで付いて来るのです。つまり、私たちを出汁

   に…」


 これには、さすがの拮平も開いた口がふさがらない…。

 拮平も決して甘いものが嫌いと言う訳ではないが、この雪江と絹江の姉妹とは初めて会った時から、汁粉屋に連れ込まれたのは拮平の方である。その後も会えば、阿吽あうんならぬ、強引の呼吸で汁粉屋に直行させられていると言うのに、それが絹江の頭の中では逆のことになっているとは…。


雪江 「実は、つい先日も汁粉屋にて…。あの、私たちは仁神様からのお茶会のご

   招待を受けましたことが、うれしくて、つい、この者に、そのことを話して

   しまったと言う訳なのでございます。それが、まさか、ここまで押しかけて

   来るとは夢にも思いませず…」 

拮平 「これはご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。えー、ただいまご紹

   介にあずかりました、足袋を商っております白田屋の拮平と申す者にござい

   ます。本日、不躾にも突然お邪魔させて頂きましたと言うのも、こちらの雪

   江さま絹江さまご姉妹から、これまた、先日の汁粉屋での逢引の際に、仁神

   様のお屋敷にて旗本の奥様方がお茶会をなされるとお聞き致しました。そこ

   で、何と申しましても手前どもは商人にございます。ここは奥方様方に是

   非、白田屋の足袋を知って頂きたいと、ご無礼を承知で参ったのでございま

   す。軽いものですので、是非お持ち帰りくださいますよう、平にお願い申し

   上げる次第でございます」

八千代「では、何か。今日ここにお集まりの方たちに足袋をと言うのか」

拮平 「左様でございます。あの、文数もんすうも取り揃えてございますので、一度、お召

   しいただければ幸いにございます。」


 手代が足袋の入った箱を持ち、先ずは下座のふみから手渡していく。一通り配り終われば控えの女中たちにも手渡すが、それでもまだ足袋は余っている。


拮平 「残りはお屋敷の方たちに…」

八千代「左様か。それはご苦労であった」

拮平 「実は…」

八千代「まだ、何か」


 用が済んだらさっさと帰れと言わんばかりだが、これで帰れるものではない。


拮平 「はい、実は、今日こちらにお越しの皆さまのお名前をお聞かせ頂けました

   らと思いまして」

八千代「お名を聞いてどうする」

拮平 「そのお名前をこちらにお書き頂きますれば、次に白田屋にお越しの節には

   一割引きとさせていただきます」

 

 女が一割引きと聞いてざわつくのは今も昔も変わりない。


拮平 「足袋は幾つあっても邪魔になるものではございません。お子様は文数も変

   わって行きますが、大人は変わるものではございません。この際、まとめ買

   いをされてはいかがでしょうか」

雪江 「まあ、白田屋がああ言ってるのですから、皆さま。ここはひとつ、お名を

   お書きくださいませ」

 

 何よりも物欲の勝る雪江が言い、手代が芳名帳を回して行く。


絹江 「白田屋。後妻の方とはその後、どうなのじゃ」

 

 ふみと雪江絹江は名を書かなくてもよいので、今はすっかり座の中心人物になったつもりの絹江が言った。


拮平 「どうもこうもございませんよ。相変わらずの屋根の鬼瓦の様に威張ってお

   ります」

絹江 「はははっ、鬼瓦とな。まあ、皆様もご存知かもしれませんけど、この白田

   屋の父親が後添えを迎えたのです。それは別によろしいのですけど、何と、

   その後妻と言うのがこの息子と同い年でして。そして、仲が悪いのです。い

   えいえ、もう水と油。まさに敵と仇。もう、その話が面白くて…」

 

 と、その後も調子にのって喋りまくる絹江の袖を雪江が引く。


雪江 「絹江、いい加減になさい」

 

 先ほどから、安行の母が黙ってこちらを睨んでいるではないか。絹江ばかりが目立って面白くないのだ。


絹江 「あら、でも姉上。いつものことではございませんか」

 

 まったく、いつでもどこでも自分中心の絹江だった。その間にも拮平は、ふみの方に目をやる。


----大丈夫です。


 ふみの目はそう言っていた。


拮平 「まあ、どうも、長々とお邪魔しました。では、これにて失礼を致します。

   それと最後に一言。どうぞ、来月中にはお越しくださいますよう。お願い申

   し上げ奉る次第にございますです」

 

 と、拮平たちは帰っていくが、その後も座はくだけたままだった。思わぬ「手土産」に皆すっかり気が緩んでいる。


----これでは、どうしようもない…。


 何しろ、そのために呼んだ筈の雪江と絹江がこの有様なのだ。さらに、まさかのとんでもない伏兵が現れた。おかげで八千代は戦力を生かしきれなかった。今となっては拮平と言う伏兵にしてやられた感だけが残ったまま、やがて、茶会はお開きとなる。


奥方 「まあ、仁神様。本当に楽しゅうございましたわ」

奥方 「ほんに、お心の広い」

奥方 「左様でございますとも。中々できる事ではございませんわ」

 

 本来なら憎むべき相手の、ふみを茶会に呼んだのだ。それだけでも称賛に値すると、女たちは褒めそやすが、当然、八千代は面白くない。


----姑息な手を使いおって…。   



ふみ 「ただ今戻りました」

真之介「ご苦労であった。大変だったか」

ふみ 「いえ、それほどのことは。着替えてまいります」

 

 着替え終わり、真之介の側に座れば、やはりほっとする。


ふみ 「そうでした。白田屋が参ったのでした。何でも絹江殿に今日の茶会のこと

   を聞いたとかで、皆様に足袋をお配りし、名を書いてもらえば商品を一割引

   きにするとか…」

真之介「はて、拮平も少しは商売に身を入れる気になったか。それで」

ふみ 「でも、その拮平のお陰で座が和み、正直助かりました。ほんに、今日の拮

   平は時の氏神のようでした」

 

 と、久の方を向く。


久  「はい。確かに白田屋にも助けられましたけど、中々どうしてどうして、今

   日の奥方様も随分と落ち着いていらっしゃったではないですが。それはも

   う、旦那様にお見せしたかったですわ。こうして、こんふぇいとは頂いたこ

   とがありますけど、カステリャは初めてにございます、と。まるで、旦那さ

   まを見ているようでしたわ」

 

 ふみが真之介を真似、ふみを久が真似ていた。


ふみ 「はい、どう言うものか、不思議と落ち着いてました。不思議と…」

真之介「さすが、旗本の姫だけのことはあられる。いざとなれば、そうやって落ち

   着けるのだから」

ふみ 「でも、今日はやはり拮平に礼を申さねば」

 

 その時、お房が茶を持って来る。


ふみ 「ああ、我が家の茶が一番です」

久  「さようでございます」

ふみ 「あの、旦那さま。茶菓子にカステラが出ました」

真之介「左様か」

ふみ 「それと、やはり無地の着物を召されていた方もいらっしゃいました」

真之介「それはよかった。それで、仁神の奥方とはどのような方であられた」

ふみ 「どのようにと申されましても、あちらは大名の姫です。凛としたお姿でし

   た」

 

 その凛とした姿で目は、ふみを見据えていたことだろう。だが、そのことを口にしない、ふみも決して負けてはいない。いつの間にか、ふみも成長していた。

 翌日、ふみと久は声を潜めて話をする。


ふみ 「久、昨日の白田屋のこと、ちと、気になりませぬか」

久  「はい、あまりにも…」

ふみ 「きっと、そうですね」

久  「そうでございますとも」

ふみ 「もう、何から何まで…」

久  「はい、気の回るお方です」

ふみ 「いいえ。気を回しすぎです。私もいつまでも何も知らぬ娘ではありませ

   ん」

久  「でも、あの時の白田屋を時の氏神のようだとおっしゃられたではありませ

   んか」

ふみ 「それは、旦那さまを安心させるために…。それに、私はあのまま白田屋が

   現れなかったとしても、何とか切り抜けたとは思いませんか」

久  「それは、思いますけど。でも、どうして今、そのお話を」

ふみ 「先ほども言いましたけど、旦那さまは、私のことをまだ子供の様にお思い

   なのでは…」

久  「いいえ。それは奥方様を大切に思ってらっしゃるからです」

ふみ 「それにしても、自分が駄目なら、白田屋ですよ」

久  「でも、この度ばかりは白田屋もうまくやってくれました。足袋屋だけに」

ふみ 「えっ。ああ、度と足袋ね。まあ、久もそんな冗談を言うのですね」

 

 と、二人して笑ったが、冗談が言えるようになったのだ。一年前は笑うことすらなかったではないか…。


久  「でも、旦那様はほんに知恵者にございます」

 

 だが、今回のことは真之介一人で考えたことではなかった。なす術もなく、さりとてじっとしてもいられず、町を歩いていた時拮平と会う。


拮平 「おや、真ちゃんじゃないの。どうしたの、浮かない顔して。あっ、また、

   あの汁粉屋に何か言われたの」


 この汁粉屋とは、顔を見れば拮平に汁粉をたかる、ふみの従姉の雪江と絹江のことだった。


真之介「いや。ひょっとして、またか」

拮平 「そうよ。あっ、そういや、あの二人、仁神の奥方の茶会に呼ばれてるとか

   言ってたけど」


 この時、真之介はひらめく。拮平を連れ実家へ行き、ふみもその茶会に呼ばれていることを話す。


拮平 「えっ、奥方も…。しかし、何だって、呼ぶ気になったのかね。どっちかっ

   て言うと、顔も見たくない相手じゃない」

真之介「おそらく、満座の中で何か恥をかかせてやりたいとかだろう。何を思いつ

   いたか知らんが、厄介なことになった」

拮平 「で、どうすんの」

真之介「どうもこうもない」

拮平 「断るって訳には」

真之介「例え、今回断ったにしろ、また次々と何にか仕掛けてくる。そんな小手先

   が通じるような相手ではないわ」

拮平 「そうだよねえ。奥方が大人しく側室に来てりゃ、起こらなかったことだよ

   ねえ。やはり、坊主憎けりゃか…。わあっ、てぇと、夫婦して、恨まれてっ

   て訳か」

 

 拮平も今ではすっかり仁神髷切事件の顛末を知っている。


拮平 「呆れたもんだね。自分の息子の所業は棚に上げてさ。だけど、このまま

   黙って、奥方を行かせる気?」

 

 真之介は黙って考え込んでいる。


真之介「足袋屋」

拮平 「何ですかい」

真之介「何とか、潜り込めんか」


 しばらく考えていた拮平だが、片手を出す。


真之介「何だ」

拮平 「軍資金」

真之介「後でやる。先ずはどうやるんだ」

拮平 「先ずは、俺はさ、他の誰でもないあの汁粉屋から茶会の話を聞いたんだ

   よ。何てたってこちとら商人だから、こんな機会を逃す手はないと、足袋

   持って仁神んとこへ押し掛ける。そこで、お集まりの皆様に足袋をお配りす

   る。人間、足袋でも何でも只でもらえるとなりゃ、武家だってうれしいもん

   だろ。特に女は」

真之介「だが、それで、茶会の席までたどり着けるか。玄関払いされるのがオチだ

   ろ。中まで上がり込まなきゃ意味ない」

拮平 「わかってる。そこんところはうまくやるさ。あのさ、お武家ってさ、意外

   と押しにゃ弱いのよ。特にそれで損するって訳でなし、得するんだから」

真之介「そこまでやれる自信があるなら、もう一つ、やってくれぬか」

拮平 「何を」

真之介「そこに集まった客たちの名を書いてもらってくれ。そうだな、名を書いて

   くれれば次に来たとき一割引きにでもするとか言って」

拮平 「そんなら、余計でも軍資金を。かなりの足袋を持ちだすんだよ。うちの親

   父が細かいの知ってるだろ。もう一足たりとも、勝手に持ち出せないの」

 

 真之介は財布を取り出す。


拮平 「おや、まあ、これは一両小判じゃございませんか。まあ、お懐かしや、お

   久しぶりではございませんか、この輝き!この前、お目にかかったのはいつの

   ことでしたやら。もう、記憶にございませんっ」

真之介「嘘つけ。記憶にございませんと、そんなことないですは、あるからないと

   言うんだ」

拮平 「いや、本当だってばさ。ここしばらく小判にお目にかからなかったのは本

   当」

真之介「三日程か」

拮平 「いいえ、もう、みつき、よつき、いつつき…。あっ、三年程」

真之介「わかったわかった。その代わり、ちゃんとやってくれよ」

拮平 「うん、でも、断っとくけど。場の雰囲気を変えるくらいしか出来ないよ」

真之介「それでいい。そのためには絶対、座敷まで上がり込め。いいな」

拮平 「それは絶対やる!」

----相手がどの様なことを企んでいるのか知る由もないが、とにかく、出ばなはくじいてやる。ふみよ、後は、何とかのり切ってくれ。

 

 ついにその日がやってきた。それにしても、何も出来ないほどもどか しいことはない。ふみを送り出した後、真之介は一人庭で素振りをする。そうでもしなければ、落ち着かない…。

 そして、頃合いを見計らって忠助を向かわせる。屋敷を出てきた拮平の様子を見るためだった。こちらの動きは見張られてるかもしれない。とにかく真之介は動けない。その忠助も離れた所から拮平とアイコンタクトを取ることになっている。


忠助 「旦那さま!さすがです。若旦那、成功したようです」

 

 安堵すると一気に汗が噴き出して来た。


忠助 「早く、体をお拭きになさいませ。ああ、着替えられますか」

真之介「そうしよう」

 

 涼しい顔で、ふみを出迎えてやろう。

 その、ふみもさすがに疲れた顔で帰ってきた。それでも拮平が現れたことには驚きもしたが、正直助けられたと言っていた。

 話を聞いてみれば、拮平は思った以上にやってくれた様だ。

 この度は、何とかしのぐことが出来た。だが、おそらくこれで終りという訳ではあるまい。また、何か手を替え品を替えてくるに違いない。近いうちに、ふみともそのことについて話し合わなければならない。

 その前に、拮平も労ってやらなければ…。

 例の鰻屋で待ち合わせることにした。階段を小気味よく上がってくる足音がした。


拮平 「真ちゃん!これね」

 

 と、拮平は先日の茶会の参加者の名を書いた紙を差し出す。


真之介「ご苦労だったな。まあ、座れ」    

 

 と、酌をしてやる真之介だった。

 

真之介「ふみがまるで時の氏神の様だったと感謝していた」

拮平 「おや、仁神に氏神が舞い降りたって訳ですかい」

真之介「ああ、そうだ。この度は足袋屋に助けられたと、久も言っていた」

拮平 「この度と足袋ね。久さまもそう言うことおっしゃるのですね」

真之介「近いうちに招くと言っていたで、期待して待ってろ」

拮平 「そうお」

真之介「何だ、あまり嬉しくないようだが」

拮平 「いえ、それが、何か…」

真之介「ああ、まだ、あの事を気にしているのか。もう、何とも思っておらぬ。そ

   れどころか、俺と初めて会った日で、いい思い出になってるそうだ」

 

 真之介との結納を交わした後、ふみは久と源助を伴い町へと出かけるが、ひょんなことから二人とはぐれてしまい、途方に暮れていた。そして、声を掛けてきた商人風の男が拮平だっだ。ふみはそれこそどうする事も出来ずにいた。その時、助けてくれたのが真之介である。もっとも、その時は互いに何も知らず、翌日の両家の顔合わせで驚く二人だった。

 そのことを知った拮平は恐縮しまくりで、それ以来、ふみの前に行くと未だに緊張してしまうのだ。


拮平 「あらっ、今度はのろけですかい。それはよろしゅうございますこと」

 

 その時、鰻が焼きあがってきた。


拮平 「はあ~私ゃのろけより、鰻がいいぃ」

 

 と、早速に鰻に箸をつける拮平だった。


真之介「では、兵馬殿もお呼びするか」

拮平 「あら、それは、助かります。それと、お伴の…」

真之介「川原殿か」

拮平 「その方もご一緒に。何てたって、私たちは修行仲間ですからね」

真之介「何の修行やら。あれで修業とは、かっぱ寺もいい迷惑だ」

 

 拮平と兵馬は気が合うようだ。


拮平 「でもさ、一口にお旗本と言っても、色々だね。聞いたと思うけど、あの汁

   粉屋たち。自分たちが俺を汁粉屋に連れ込むくせに、俺があの二人を出汁に

   汁粉屋へ行くってことになってると言うか、されてんのよ。まったく、どう

   して、こうなるのっ」

 

 そろそろ、拮平の目から見た、茶会の様子を聞いてみなければ。


真之介「それで、実際のところ、茶会の様子はどうだった」

拮平 「やっぱり、カステラまで用意して、用意万端、万座の中でと言うやつだ

   ろ。でも、奥方はさすがだったよ。もう、毅然としていた。目、見たらわか

   る。まだ、久さまの方が心配しててさ」

真之介「それは、お前が何か起きる前に顔を出したので、場の雰囲気も変わり、気

   を持ち直したんだろ」

拮平 「まあ、何、これ。今日は真ちゃんに褒められてばっか。でもさ、本当のと

   ころ場の雰囲気を変えたのは、雪と絹の方ね。俺んことを白田屋と言うつも

   りが、つい汁粉屋と叫んだものだから、それ、何って感じになっちゃって。

   でも、何だね、あの人にとっちゃ、俺が白田屋でも汁粉屋でもいいの。だけ

   ど、やはり仁神の奥方は違うね。おそらく、あの屋敷内では一番が発言力あ

   んだね。だから、玄関先で応対した侍に奥女中が、奥内のことですって言う

   と、侍もそれ以上何も言わなかったもの」

真之介「だが、あちらの奥方からすれば、お前が折角の場をぶち壊したのだから

   な」

拮平 「そんなの気にしない。でもさ、その名前書かせたのどうすんの。知ってる

   人いた?」

 

 佐和以外は誰も知らないし、知ってるはずもない。


真之介「うん、何かの時の参考に。名前だけでも知って置けばと思って」

拮平 「やっぱ、そうじゃないかと思ってそっちの方渡したんだ」

 

 芳名簿は真之介に頼まれたものだが、その時に名を書いてくれれば一割引きにすると言ったのだから、当然控えを取り、真之介には「原本」の方を渡したのだ。


真之介「よく気が付くようになったな。修業の成果があったようだ」

拮平 「まあね。でも、これで終りという訳じゃなくね」

真之介「そうだ。先ずは手始めと言うとこだ」

拮平 「じゃ、どうすんのよ。おそらく、俺は既にあの屋敷出入り禁止になってる

   と思わない」

真之介「思う。思うが先案じしても始まらない。その時はその時で何とかやるしか

   ない」

拮平 「へへっ。大丈夫だよ。何かあれば、また、押し掛けてやるよ。言ったろ、

   侍は押しに弱いって。この拮平さんの鮮やかな口さばき見せてやるって」

真之介「その時は頼む」

 

 と言ったが、おそらく同じようなシチュエーションはないだろう。

 この次は…。





 










 















  





























  












   





 






















































 










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