第71話 へそへそ話

 またしても、従姉いとこ姉妹の雪江と絹江がやって来た。例によって、真之介の留守を見越したかのようにやって来るのだ。さすがに以前のように月に二、三回の頻度ではないが、それでも月一で必ずやって来る。

 また、例によって手土産は一つ。二人とも嫁いでいるのだから、それぞれが持参するのが普通なのだが、吝嗇家の雪江は妹の絹江の手土産に便乗し、また、御家人の家などそれで十分と思っているようだ。もっとも、今のふみには二人の手土産などありがたくも何ともない。そして、今日も持って来たものは、長年仕舞い込んでいたであろう折り縁の色が変わってしまった様な古い手ぬぐいが一本。


雪江 「ところで、ふみ殿」

 

 茶受けの饅頭一つ食べ終えた雪江が切り出す。これもいつものパターンであるし、話の内容もわかっている。


雪江 「先日より、私達が心配して差し上げている事はどうなりましたの」

ふみ 「お気遣い頂きまして恐縮ですけど、今のところ当家にはさしたる心配事は

   ございません。また、双方の実家も取り立てては」

雪江 「まあ、何をのん気なことを」

ふみ 「のん気とは」

----何さ、惚けちゃって。

雪江 「ほら、あれですよ。あのことですよ」

絹江 「姉上、はっきりおっしゃいませな」

雪江 「そうですわね。ふみ殿、真之介殿の個人資産の事ですよ」

ふみ 「ああ、そのことですか」

雪江 「で、どうでしたの」

ふみ 「その様なものは無いと言っておりました」

雪江 「無いなんて、そんな筈はありません!そんな筈は…」


 人の金にこれだけ熱くなれるとは…。


ふみ 「私には商売の事はよくわかりませんが、店の金がすべて主人家族のものと

   言う訳ではないそうです。あの金は商売用の資金でもあるとかで、別に誰の

   金と言うものではないとのことでした」

雪江 「でも、その店とは主人のものではありませんか。ならば、すべて主人一家

   のものではないですか。真之介殿が腹違いの弟に跡目を譲られたのですか

   ら、それなりの事はしてもらってる筈です」

ふみ 「それはそうかもしれませんが、家計の事は夫に任せてありますので、私に

   はわかりかねます」

雪江 「だから、それでは駄目だと言っているのです!」

ふみ 「どうしてですの」

雪江 「では、扶持米もですか」

ふみ 「はい、すべて真之介が取り仕切ってます。他家の事は存じませぬが、真之

   介は経済の専門家ですので、任せております」

雪江 「だから、それが駄目だと言っているのです」

 

 雪江はまたしても同じ言葉を繰り返す。


雪江 「いいですか。家計とは妻が握るものです。いくら、真之介殿が算盤勘定に

   長けてるからと言って、任せっ放しはいけません。今からでも遅くありませ

   ん。今度こそ、ふみ殿が財布を握るのです。いいですか、一寸先は闇です。

   その時に頼りになるのが金です。もう、女にはこれしかないのです。それ

   は、ふみ殿にはこれから子供が生まれるかもしれませんけど」

 

 雪江も絹江も流産をし、側室に男子が生まれているが、夫婦仲は冷え切っていた。


雪江 「でも、その時でも先立つのは金です。人生何があるのかわからないので

   す。その時の為に、金、いえ、家の実権は握っておくべきです」

 

 その握った結果がこれとは…。二人とも、側室や子供達に辛く当たってると聞く。今、ふみに子が出来ても何も困ることはない。いや、何より子が出来る事を願っている。それにしても、ここまで人の家の内情に干渉して何のメリットがあると言うのだろう。

 それまでは、ふみの実家などは寄りつきもしなかったのに、いや、真之介との結納が交わされた時ですら、さんざん当て擦りを言った言ったではないか。それが三日と経たぬ間に手のひらを返して来た。さらに、雪江には一両貸しているのだが、そのことなどすっかり忘れている。


雪江 「とにかく、一日も早く家の実権を握ることです。ふみ殿はまだ新婚ですか

   ら、おわかりにならないかもしれませんが、男と言うものは変わるもので

   す。うちの殿も最初はやさしかったですよ。でも、すぐに若い女に目移りし

   て、今はもう素知らぬ顔です」

 

 そのことも、雪江のあまりの吝嗇ぶりと高圧的な態度に夫が嫌気がさしたからと聞いている。武家の娘達は実家より格下へ嫁ぐ。その方が、来てあげたのよと優位に立てるからだ。だが、雪江はそれにも増して、すべて上から目線だった。


絹江 「でも、姉上。こちらの真之介殿は算盤の専門家ですから、さすがのふみ殿

   もちと勝手が…」

 

 何が、さすがなのだ。うすのろなどと今でも馬鹿にしているではないか…。


雪江 「ところで、ふみ殿。へそくりはしっかりなさってますでしょうね」

ふみ 「それは少しくらいは持っております」

 

 ふみは家の困窮を救うために、必死の思いで結納金を百両と提示したが、百では割り切れるからと百二十五両差し出される。父の播馬はその割増しされた二十五両を輿入れに持たせてくれた。いく分使いはしたが、その残りはまだ持っている。

 また、婚礼後に真之介から一両もらった。それが一月の生活費だと思った。だが、家の中を見回しても、差し当たって補充しなければならないものはなく、魚や青物などの物売りの支払いは、お房や忠助がしている。その一両に手を付けぬうちに、月が替わり次の一両が手渡された。

 その時思った。この一両はふみが自由に使ってもいい金なのだと。

 嬉しくなったふみは実家の母にその一両を手渡せば、母は涙を流さんばかりに喜んだが、それも重なって来れば、今では当てにされている。

 

雪江 「如何ほどくらいですの」

 

 まさか、雪江がここまで立ち入って来るとは…。

 どうして、そんな事を答えなくてはいけないのだろうか。


ふみ 「大した額ではございません」


 へそくりの語源

㈠「糸の名前」

 機織りの糸巻きの状態を「綜麻(へそ)」と言い、昔の農家の機を紡ぐ女達が毎晩三本ずつ別に取り置きして親が亡くなった時、その麻糸で経帷子(きょうかたびら)を織る習慣があったところから、別に取り置くことをへそくりと言い、お金の意味にも使われるようになった。

㈡「臍繰り」

 臍の奥の方から繰り出すお金。腹巻などの奥の方に隠し持っていた財布の金を引っ張りだすところから、奥の方に隠し持った金の意味でへそくりとなった。また「臍」とは「臍包み」の略で、腹巻などをお腹に巻きつけたことから、お腹に巻きつけたお金を指すようになったと言う説もある。

㈢「薬草」

 サトイモ科の「烏柄杓(カラスビシャク)」の根茎は栗の形をしていて、へその様な窪みがあるところから、へそ栗と呼ばれていた。この烏柄杓とは漢方の「半夏(はんげ)」のことで、吐き気、頭痛、めまいに効く漢方薬の材料だった。農家の人たちは暇を見て、この根を掘って小遣い稼ぎにしていたところから。 

 

 その時、玄関で何やら声がした。ふみがあの声は白田屋の拮平だと思った時。


絹江 「まあ、主人の留守に男がやってくるなんて」

 

 と、絹江が眉をひそめる。

 さすがにむっとする、ふみだった。


ふみ 「それはどう言うことですか。それに、あの声は白田屋です」

絹江 「まあ!白田屋が」

 

 絹江が立ち上がり玄関へと向かうので、ふみと雪江もそれに続く。


絹江 「これは白田屋ではないか。久しぶりであるな」

拮平 「これは奥方様。ご無沙汰を致しております。女の方の履物がございました

   ので、もしやと思いましたが、やはりそうでごさいましたか。これは姉上様

   もご一緒で。いつ見ても仲の良いご姉妹で羨ましい限りです。私などは一人

   子で育ちましたものですから、まあ、こちらの旦那様とは兄弟の様にさせて

   頂いておりますので、はい」

絹江 「して、今日は。真之介殿はお留守であるが」

拮平 「はあ、ちと、旦那様にお話があったものですから、お伺いしたのですけ

   ど、お留守のようなので、また、出直してまいります」

絹江 「折角来たのにその様に急いで帰らずとも良かろうに。上がって茶でも。ふ

   み殿、よろしいですわね」

ふみ 「白田屋、絹江殿もああおっしゃっておられるで、遠慮のう」

 

 拮平はいいところに来てくれた。相変わらずの二人の話にいい加減うんざりしていた時、拮平が来てくれた。この前の汁粉屋捜しの時のように二人の相手をしてもらえれば助かる。


拮平 「いえ、それではあまりにも厚かましくて…」

雪江 「遠慮するでない、ささ、早う」

 

 今度は雪江が言った。厚かましいのは自分の家のようにふるまうこの二人の方だ。久と二人の女中も呆れてしまう。久と女中達は別室で話をしていたが、拮平と絹江の声がしたので急ぎやって来たのだ。


拮平 「そうですか。では…。いえ、駄目です、無理です。やはり、失礼致しま

   す」

雪江 「これ、白田屋」

絹江 「遠慮するでない」

 

 いや、遠慮ではない。早く真之介に会いたいのだ。だから、こうして、家まで押し掛けて来たのに、留守なら一刻も早くこの場を立ち去りたい拮平だった。


拮平 「いえ、駄目です。もう目が眩みそうで…。こんなにもお美しい方々に囲ま

   れては、もう、まぶし過ぎて…。これでは目の毒と言うもの。それに、こち

   らのおはな様も雌のお犬様ではございませんか。こんなにも多くの女の方に

   囲まれてはもう、身の置き所もありません。まあ、それにして、おはな様は

   随分と品良くなられまして。さすがにお育ちは争えませんね。それに引き替

   え、うちのジョンと来たら、もう、あちこち荒らし放題なんですから」

 

 はなは、お房が抱いていた。


絹江 「はなとは、この犬の事か。ふみ殿いつから犬をお飼いに」

ふみ 「最近の事です。この白田屋から譲り受けました」

絹江 「それで、何がじょんなのだ」

拮平 「ジョンと言うのは、うちの犬の名前でして。おはな様とは兄妹ですけど、

   もう、どうしようもない悪ガキの雄でして、同じ兄妹でも育ちが違いますと

   こんなに違うものかと、はい」

雪江 「それにしても、珍しい名を付けたものよ」

ふみ 「エゲレス人に多い名だそうです」

雪江 「では、白田屋、そのエゲレスとやらの話を聞かせてくれぬか」

絹江 「それがいいですわ、姉上」

----えらい時に来ちまったじゃないの、この僕…。

 

 観念し仕方なく上がらせてもらい、座敷で茶を飲み一息つく拮平だったが、雪江と絹江は拮平が茶を飲み終わるのを待っていた。


雪江 「それで、今日は真之介殿にどのような用件で」

----えっ、エゲレスの話じゃないの。

拮平 「いえ、それが、その…」

雪江 「その様に言いにくいことなのか」

----言いにくいじゃなくて、とてもじゃないけど、言えまっせん…。

拮平 「それが…」

絹江 「さては、女の話であったか」

雪江 「絹江、その様にはっきり言わずとも、この通り白田屋も困っているではな

   いか」

絹江 「そうであろう白田屋。私の目に狂いはない。ふみ殿、男とはすぐにこれで

   すからね」

拮平 「いえいえ、違います違います。女のことではなく、本当にその様な話では

   ありません」

----女のことでわざわざ家までやって来るか。

雪江 「本当か?」

 

 今度は雪江が疑いの目を向ける。


拮平 「そんな、私はともかく、こちらの真之介様はそれは真面目な方でございま

   して、決してその様なことは」

雪江 「でも、随分おモテになったとか聞いておるが」

拮平 「それは、あれだけのいい男ですから、今まで何もなかったとは申しませ

   ん。申しませんけど、それは一人身の頃のこと。それが今ではもう、奥方様

   以外の女には目もくれぬと言う、真面目を絵に描いたような方でございま

   す。その様な方のところへどうして私が女の話など致しにやって来ましょ

   うや」

 

 これでは、雪江と絹江は面白くない。


雪江 「では、何の話で参った」

拮平 「実は、その…。あっ、あの体の、健康のことで…」

雪江 「病気なら医者に行くが良かろうに」

絹江 「そうそう、確か医者の友がいるとか言ってなかったか」

拮平 「それが、私ではなくて、うちのジョンなのでして」

雪江 「犬の病気か」

----ああ、何とか誤魔化せたか。

拮平 「いえ、病気と言うほどではないのですが、ちと…」

雪江 「そう言えば、犬の医者など聞いたことはない」

絹江 「また、犬の薬などあろう筈もなく、放っておくしかないであろう」

 

 絹江がどうでもよさそうに言う。


拮平 「それが。例え犬畜生であったとしましても、毎日一緒にいますと情も移

   り、これまた、かわいいものでして。少しでも元気でいてほしいと思うもの

   でございます」

雪江 「なるほど。その気持ちはわかるが、それが真之介殿とどの様な」

拮平 「それなんでございますよ。こちらの真之介様は至って博識でございまし

   て、犬の事も何かご存じではと思いまして…」

ふみ 「確かに夫は犬について色々知っております。葱を食べさせてはいけないと

   か、味の付いたものも駄目。それと甲殻類もいけないのだそうです」

絹江 「こうかくるい?」

ふみ 「ええ、海老、烏賊、蛸などです。それと蟹も駄目とかと言っておりまし

   た」

絹江 「ああ、海老や烏賊のこと。それならそうと最初からその様に言えばいいの

   に」

 

 どうやら、絹江は甲殻類と言う言葉を知らなかったようだ。


拮平 「私もそれらのことを真之介様から教わり、気をつけていたのですけど、ど

   うやら使用人が何か食べさせたようです」

絹江 「だが、白田屋。そうなってはどうしようもないではないか。それより、そ

   の後、どうなのだ」

拮平 「どうと申されますと」

雪江 「それ、例の後妻の事だ」

絹江 「お前と同い年の」

 

 雪江と絹江の屋敷でも犬は飼っているが、世話は下男がしているので、どちらも犬の病気の事などどうでもよい事で、その後の拮平とお芳の事の方が気になる。


拮平 「それが、もう、しどいのなんのって…。全くの、でたなべ、いえ、でた、

   鍋ではなく、釜だったかな。その、でた鍋釜、釜釜鍋鍋、あれっ」

雪江 「それを言うなら、出鱈目じゃ」

拮平 「あ、左様でございました。さすがは雪江様。その、でた、らめの一言に尽

   きるのでございますよ」

 

 こうなったら、お芳の悪口で切り抜けるしかない。

 それからは拮平の独演会だった。泥棒騒ぎから、蔵の鍵を二つにしたことなどを面白おかしく語り、七人の女達を笑わせていたが、雪江の侍女が遠慮がちに言う。


侍女 「奥方様、そろそろ…」

雪江 「まあ、もうその様な刻限とは、楽しい時は短いものよ」

絹江 「そうですわ、もう、このまま拮平を連れて帰りたいくらいです」

 

 絹江も名残惜しそうに言う。


拮平 「まあ、そんなあ。でも、私がいなくなれば、お芳の思うつぼではなく、町

   の女達が寂しがります」

雪江 「それは言えるな」

絹江 「それより、やはりお芳の側がいいのであろう」

拮平 「そりゃないです。それはありません!」

雪江 「でも、仲良く喧嘩しておるではないか」

絹江 「そう、息もぴったり」

拮平 「これはまた、きつい御冗談を。息がぴったりなのは雪江さまと絹江さまで

   はございませんか。さすがご姉妹。本当に、よく似てらっしゃいますこと」

----揃って意地の悪い所がね。

絹江 「うん、良く言われる。あっ!思い出した。うっかりするところであった」

 

 どうやら拮平は気付かぬうちに、絹江に長居用の座布団をもう一枚差しだしたようだ。


絹江 「それより、白田屋。あの話は本当なのか」

拮平 「あの話と申されますと」

絹江 「ほれ、あの話じゃ、あれのことじゃ」 

 

 そんなこと言われたって、あれ、それだけでは誰もわからない。


----まだ、若いのに、もうおボケになられたのかい。


女中 「奥方様、そろそろお暇いたさねば。そのことはこの次にでも」

 

 今度は絹江の女中が話を切り上げさせるために言ったのだが、それは藪蛇になってしまう。


絹江 「そうだった、思い出した。それ、真之介殿とどこかの役者が似ているとか

   言う話だ」

拮平 「あ、はい。そのことが何か」

絹江 「何かではない。事実なのかと聞いておる」

拮平 「事実でございますが」

絹江 「ふみ殿もご存じか」

ふみ 「はい、話には聞いておりますが」

絹江 「聞いておって何も思わぬとは」

 

 何か、絹江一人が興奮している。 


絹江 「まるで、双子のようとか、かわら版に書いてあったが、よもや?」

ふみ 「そのようなことはございません。本田屋の誰もが否定しております」

 

 ふみはきっぱりと言う。


絹江 「それなら良いが、畜生腹の上にその片割れが河原乞食の役者とは」

 

 当時、双子など多胎児は動物並みと忌み嫌われていたので、片方を里子に出すことはあることだった。


絹江 「その様な者と姻戚とあらば家名に傷が付きます。そんなことにでもなった

   ら、また、姑から何を言われることやら。姑のいない、ふみ殿にはおわかり

   にならないでしょうけど、私たちはあなたとは比べ物にならないくらい、苦

   労してるのですよ、ねえ姉上」

雪江 「ええ、本当に姑には気を遣います。ふみ殿がうらやましい」

 

 二人の女中は黙ってうつむいているだけだった。


雪江 「では、もう一度、お聞きしますけど。よもや、後になって、実は、なんて

   ことはないでしょうね」

絹江 「そうなったら許しませんよ!」

ふみ 「間違いはございません!」

絹江 「それなら、よろしいのですけど…」

雪江 「いえ、私たちはそれほどのことはないのですけど、何しろ、姑が」

絹江 「ええ、頭が固くて、おまけにうるさい、姑が」

雪江 「でも、赤の他人となれば話は違います。ここはひとつその役者に会ってみ

   たいものよ。白田屋はその何とかいう役者を存じて居るのか」

拮平 「はい、良く知っております」

雪江 「名はなんと申す」

拮平 「中村夢之丞にございます」

雪江 「さようか。では、一度引き合わせてくれぬか」

拮平 「それでしたら、ご姉妹で芝居見物をなされば」

雪江 「嫁が芝居見物など、とんでもないわ!」

絹江 「そんな勝手が許されるのは、ふみ殿くらいです」

 

 つまりは、ふみか拮平に誘われたという形で芝居見物に連れて行けと言うこと…。


拮平 「ならば、お姑様をお誘いになれば。きっと、お喜びになりますよ。それに

   中村座には綾乃助という美しい女形もいます。もう、男の私から見ましても

   奮いつきたくなるような美形です」

雪江 「それは是非にと言いたいところだが、私たちはふみ殿と違って、芝居見物

   などいかんせん不案内で…」

 

 ふみも輿入れしてから一度連れて行ってもらったにすぎない。


拮平 「それなら、私がお手伝い致します」

雪江 「おお、白田屋が案内してくれるとは、それは心強い」

絹江 「姉上、何時にいたしましょうや」

拮平 「まずはお帰りになられて、お姑様とご相談くださいませ」

雪江 「では、そうするとしよう」

 

 と、早速に立ち上がり、それでもお返しの昆布は忘れずに持って帰る雪江と絹江だった。


久  「本当に、静かになりましたわ」

 

 久がホッとしたように言う。


拮平 「おや、久さま、ここにもう一人騒々しいのが残っておりますけど」

久  「白田屋は騒々しいのではなく、明るくて楽しいのです」

拮平 「それはどうも」

ふみ 「ほんに、今日は助かりました。私からも礼を言います」

 

 ふみも拮平を労う。


拮平 「まあ、奥方様まで、そのようにおっしゃっていただきまして。いえいえ、

   うちにもすごいのがいますから、あれくらい容易いことです」

久  「でも、あんなこと言って良かったのですか。一緒に芝居見物など」

ふみ 「私もそのことが気になっていました」

拮平 「ええ、あれはお手伝いをすると言ったまでです。ご心配なく」

ふみ 「それを聞いて安堵した。もうすぐ旦那様もお帰りになられることでしょ

   う。白田屋、今夜は夕食を一緒に」

 

 ふみが言い終わらないうちに、拮平は己が本来の目的を思い出す。


拮平 「あっ、いえいえ、とんでもございません。これにて失礼を致しますでござ

   います」

ふみ 「まだ、よろしいではないか」

久  「それに、旦那様に何やら話があったのでは」

拮平 「いえ、それは、その、嫁姑問題に比べれば大したことではなく、後日、ま

   た、あらたたまし、いえ、あらあら、あらあらかしこ、あら、なんだった

   け、どうしましょ。もう、失礼いたしましたです!」

 

 と、これまたあわただしく帰って行く拮平だった。


久  「まあ、何を急いで帰らなければならないのでしょうか」

ふみ 「わざわざ、屋敷にまでやって来て、旦那様にしか言えぬ話とは…」

久  「さっぱり、見当がつきません。それにしても相変わらずのお二人で。持っ

   て来たものは薄汚れた手拭い一本なのに、あのいい昆布はそれぞれ持って帰

   るのですから」

ふみ 「いつものことです。でも、久とこんな話ができるようになるとは…」

久  「さようでございます。これも旦那様のお陰です」

ふみ 「ほんに…」

 

 実家で米櫃こめびつを覗いてため息をついていた頃が今では夢のようだ。それだけではない、輿入れしてからまだ一年も経ってないのに、色々なことが、いや、色々経験させてもらい、ちょっとわがままを言ったことはあったが、あの幽霊騒動以来それは自重している。何より、食べること、金のことでの気苦労がないのが本当にありがたい。ふみと久がそんな感慨にふけっていた時、忠助が一人で帰ってきた。


ふみ 「旦那様は?」

忠助 「それが、帰宅の途中で白田屋の若旦那とお会いしまして、何やらお二人で

   話があるとかで、私だけ先に帰るようにと言うことで、蕎麦屋に行かれまし

   た。それで夕食はいらぬとのことです」

久  「まあ、そうでしたの。白田屋は、つい、先ほどまでこちらにおりましたの

   よ」

 

 久が拮平やって来た顛末を語る。


忠助 「そうだったのですか。屋敷に伺ったけど留守だったとかは聞きましたけ

   ど、その様なことがあったのですか」

久  「ええ、もうすぐ旦那様もお帰りになられるし、奥方様がせっかく夕食をと

   おっしゃって下さったのに、何か、逃げるように帰って行きました」

忠助 「そう言えば、若旦那は私にも早く消えてほしい感じ、ありありでした」

久  「そこまでとは、余程のこと」

忠助 「なのでしょうねえ」

 

 三人が思いを巡らしていたころ、真之介と拮平は蕎麦屋で抜き(蕎麦抜き、天ぷらのみ)を肴に飲んでいた。


拮平 「それにしても真ちゃん、しどいじゃないのさ」

真之介「何が?」

拮平 「何がじゃないよ。どうして、どうして、あちきの秘密をバラしたりするの

   さ」

真之介「秘密?はて、おまえに秘密なんかあったか」

拮平 「あるさ!大事な秘密がさ。あっ、ここからは大きな声を出しちゃだめだよ。

   特に秘密の部分は声を潜めて」

真之介「だから、その秘密とは何だ」

拮平 「秘密だから、大きな声出さないで」

真之介「これくらいでいいか」

 

 と、大げさに声を低める真之介だった。


----どうせ、大したことではない。

拮平 「いいよ。いや、良くないさ。よりによって、あんな奴にバラしちまって」

真之介「だから、何度同じことを言わせるんだ。はっきり言え」

拮平 「また、しらば、しらばばばっくれてさ。よくもよくも、俺が、でべそだっ

   てこと、くっくくくぅ」

真之介「はぁっ?」

拮平 「しっ、声が大きいよ。それもさ、あんなゴンスケなんぞにバラしやがっ

   て」

真之介「ゴンスケ?」

拮平 「ゴン、あっ、伍助だったかな」

真之介「伍助って、あの繁次の相棒のことか」

拮平 「そうだよ」

真之介「いや、待てよ。俺は繁次と話をすることはあっても、伍助と直接話をした

   ことはない。いつもくっ付いてるけど、それだけだ。まして、お前の…こと

   など、繁次にも話してないわ」

拮平 「じゃ、なんで、伍助があのこと知ってんのさ」 

真之介「知るもんか。大体、あのこと知ってんの俺だけじゃないだろ」

拮平 「そうだけど、伍助が知ってるってことは、伍助と知り合いってことで、な

   んでも屋は口の堅いのを売りにしてるから言うわけないし、藪医者やかっぱ

   坊主が伍助と知り合いにしても、そんなこと言うはずないし。だったら、消

   去法でいけば、一番親しい真ちゃんしかいないってことじゃないの!どうし

   て!」

真之介「これ、お前の方が声が大きいわ。みんな、何事かとこっちを見てるではな

   いか」

 

 あわてて、天ぷらを口に詰め込む拮平だった。


真之介「何が消去法だ。それで、伍助はそのことを誰に聞いたんだ」

拮平 「いや、それは知らないけど。消去法でいけば、真ちゃんしかいないじゃな

   い」

真之介「だから、どうしてその時、伍助にその事を誰から聞いたのか尋ねてみな

   かったんだ」

拮平 「だからさ、俺、もう、頭の中ががうわぁとなっちゃってそれどころじゃな

   かったし…」

真之介「それくらいのことで、頭がうわぁとなるか」

拮平 「だって、真ちゃん、誰にも言わないって言わなかったけ」

真之介「だから、誰にも言ってないさ。それに、普段、そんなこと忘れてるし、今

   だって、お前が言うから思い出したようなもんだ。あのな、男がそれくらい

   のこと、気にするな」

拮平 「そうは言うけどさ。言われたら嫌なもんだよ。人間誰にだって、言われた

   くない、言ってほしくないことってあるだろ。真ちゃんだって、ない?」

真之介「それはある。だから、俺も特に人の体のことは言わないようにしてるし、

   お前のあのことも誰にも言ってない。第一、お前にとっては嫌なことかもし

   れんが、もう、大人なんだから、それくらいのこと気に病むな」

拮平 「いや、何かさあ、大人になってからの方が嫌なんだよね。子供のころはそ

   うでもなかったんだけど、もう、今は、ものすごーくいや!」

真之介「面倒くせぇ野郎だなぁ」

拮平 「そんじゃ、誰がバラしたと思う?なんでも屋かなあ」

真之介「けどよ、お前のあのこと知ってんの、俺たちだけか。お前、風呂行ってそ

   こんとこずっと隠してる訳でもあるめぇ。何かの拍子に見えたりして知って

   る奴もいるだろ」

拮平 「けどさ、ゴンスケもゲジも風呂で会ったことないし、多分、違う風呂屋

   行ってんじゃない」

真之介「だから、そのことを偶然知ってる誰かと伍助が知り合いで、何かのついで

   にぽろっと。そんなとこだろ」

拮平 「そうかなあ…。あっ、ひょっとして真ちゃん、奥方にしゃべってない?寝

   物語なんかで」

 

 真之介は思わず酒を噴き出しそうになる。


真之介「おい、馬鹿も休み休み言え。誰がお前の汚いあそこの話なんか、寝物語に

   したりするもんかっ」

拮平 「汚いのはお互いさまじゃない。誰だって、汚いに決まってるよ」

真之介「俺のは、俺の家族はみんなきれいだ」

拮平 「どうしてさ、そんなことして、ゴマ取ったら腹痛くなるじゃない」

真之介「ならねえ」

拮平 「えっ、うそ。昔から腹痛くなるからって、真ちゃんも触らないようにして

   たじゃない」

真之介「ああ、子供のころはそんな迷信信じてた。だが、藪医者から清潔にした方

   がいいって聞いた。それからはきれいなもんだ」

拮平 「腹痛くならなかった?」

真之介「ならない」

拮平 「あの藪…。どうして俺には教えないないんだ。それに、真ちゃんも」

真之介「ああ、それはうっかりお前に教えるとやりすぎてしまいそうだとか言って

   た。いいか、爪なんか立てるんじゃねぇぞ。手拭いでそっとぬぐうようにす

   るんだ。それだけでもかなりきれいになる。猿のラッキョウみたいにやって

   るとやはり腹が痛くなるそうだ」

拮平 「あのね、真ちゃん。そのゴマの取り方はわかったけどさ。あらら、真ちゃ

   んでも間違ったこと言うんだね。猿ってのはみかんの皮なんか剥いて食べる

   から、ラッキョウも剥くに違いない。でも、剥いても剥いても皮ばっかりて

   んで終いにゃ猿が怒り出すってえ話なんだけど、実際、猿はラッキョウは剥

   かないでそのまま食べるんだよ。知らなかった?」

真之介「知ってるわ。それは例えの話。とにかく、清潔にした方がいい。しかし、

   やり過ぎるなってことだ」

拮平 「わかった。そっとやってみる」

真之介「それと、気になるなら繁次捉まえて聞いてみろ。伍助が知ってるのに繁次

   が知らない筈はないだろ。それでその時にな…」

拮平 「うんうん、わかった。あっ、オヤジ、蕎麦二つね」

真之介「それで、夢之丞のことだなんだが」

拮平 「あっ、夢ちゃんに会ったの」

 

 真之介は先日のなんでも屋でのことを話す。


拮平 「えっ、真ちゃんが十八?」

真之介「夢之丞だ」

拮平 「だって、おんなじ顔じゃない。まっ、いっかぁ」

真之介「同じ顔でも、向こうは塗りたくるんだ。それくらい、ごまかせるだろ。だ

   からな、中村夢之丞は歳は十八で、独り身ってことだから、わかってやれ」

 

 その時、蕎麦がやってきた。


 翌日、早速に繁次確保に動き出す拮平だった。先ずはなんでも屋に行き、繁次の居所をお澄に尋ねる。


お澄 「居所も何も、どこに住んでるのかも知りませんし、何てたって、かわら版

   屋なんて、若旦那のお店やうちみたいに看板掲げてやってるわけじゃありま

   せんからね」

拮平 「それじゃ何かい。ゲジ野郎はふらっと来てふらっと帰るのかい」

お澄 「いいえ、ネタに困ったらふらっとやってきますけど、来たら最後、しつこ

   いのなんのって。大体ですよ、こんな小さななんでも屋に、早々ネタが転

   がってるわけないじゃないですか」

拮平 「そうだよなあ。しかし、何だね。名は体を表すとはよく言ったもんだよ。

   あいつは本当にゲジゲジ見たいな野郎だね。いや、見たいじゃないね。もう

   ゲジゲジそのもの、いや、ゲジゲジ以下だよ」

お澄 「ほんとほんと、もう、どうしようもないゲシゲジですよ。何てたって、人

   の不幸でおまんま食べてるんですからね」

拮平 「やっぱぁ、あれだね。人の不幸で食う飯がうまいって奴なんぞイケ好かな

   いね」

お澄 「そうですよ。看板掲げられないような店はろくなもんじゃありませんよ。

   どのお店もそうですけど、人様のためのお店ですからね。若旦那のところの

   いい足袋履いた時の足捌きのいいこと。うちだって、人様のお手伝いをし

   て、わずかばかりの金子きんす頂いてるんですからさ」

拮平 「えっ、わずかばかり…」

お澄 「そうですよ、わずかですよ」

拮平 「まあ、そう言うことで」

お澄 「若旦那!」

拮平 「そうだった…。そうだよそうだよ。あんまし、あの顔見たくないんだけど

   さあ。ちょいとさ、ろくでもない、ごでもない、しちでもない、ああ、なん

   まいだなんまいだ」

お澄 「ほんと、死神よりタチ悪いんだから。あれじゃ、嫁の来てもありません

   よ」

拮平 「そうだそうだ」

 

 と、拮平とお澄の繁次サゲサゲ話は続く。


お澄 「あの顔見たら、食欲なくなっちまいますからね」

拮平 「ああ、あいつがいない時に飲む茶のうまいことうまいこと」

お澄 「おかわりどうぞ」

拮平 「いや、どうやら、まずくなってきたようだ」


 悪口の主の繁次とオマケの伍助が入って来た。


繁次 「これはお二人でお楽しみのところ、ちょいと、お邪魔しますよ。そりゃ、

   俺だって知ってますよ。このなんでも屋が俺んこと、嫌ってんの。けどよ、

   今までは陰でゲジゲジなんて言ってたのに、今日と言う今日は何ですか、

   若旦那まで一緒になって。戸は開けっぴろげ、そこの角曲がった途端に聞こ

   えてくる大笑いの馬鹿笑い。隣近所、丸聞こえ。そんなにしてまで、うまい

   茶飲みたいんですかってんだ」

拮平 「ん、言うことはそれだけかい。ああ、可笑しっ」

お澄 「ほんと、こんなにうまくいくとは、ああっ、もう駄目」

 

 拮平とお澄の笑いは止まらない。さらに、よくわからないままに伍助もつられ笑いをしている。


繁次 「この野郎、お前まで」

伍助 「でも、何か知りませんけど、面白そうじゃないですか、うっひひひひっ」

お澄 「ああ、可笑しかった。若旦那、大丈夫ですか」

拮平 「ああ、俺も何とか、治まったよ」

 

 だが、今度は伍助の笑いが止まらない。


繁次 「おい、いつまで笑ってやがんだ、この唐変木とうへんぼく

伍助 「だって、可笑しいものはそうは止められませ、うひひひひ」

 

 ますます持って面白くもなんともない繁次だった。


繁次 「あの、何がそんなに可笑しですか。俺、若旦那に何かしましたかね」

拮平 「ああ、何かじゃないよ。まっ、それは後にして。でもさ、お澄、噂をすれ

   ば影とはよく言ったもんだね」

お澄 「ほんとほんと、悪口言えば、やって来る」

拮平 「その通りだったもんなぁ」

お澄 「大成功!」

繁次 「何のことですかい」

拮平 「実はさ、このあたしがちょいとお前に用があって。けんど、お前の住みか

   もかわら版屋の元締めなんてのも知らないから、ここで、お澄と二人して

   ちょいとお前の悪口言ってたのさ。そしたら、こうやって、まるで飛んで火

   に入る夏の虫のよう、いや虫だね。こうしてお前の方から飛び込んできたと

   いう訳さ。ああ、こんなにもうまくいくとは」

お澄 「お釈迦様でも…」

伍助 「こりゃ、面白れやあ」

 

 と、またも調子にのる伍助だったが、繁次に頭をはたかれ、ようやく笑いが止まる。


繁次 「いい加減にしねえか」

 

 伍助が黙ると、今度は拮平の方を向く。


繁次 「それで、俺に用ってなんです」

 

 拮平は外へと、顎をしゃくる。


お澄 「あら、若旦那、ここでよろしいじゃないですか」

 

 と、お澄が言うも、拮平は元よりここで話をする気はない。多分、お澄は拮平がでべそだということは知ってるだろう。だからと言って、真之介ではないが無理に思い出させることはない。


拮平 「こん次、大福持ってきてやるからさ」

お澄 「まあ、お待ちしてますわ。お近いうちにどうぞ」

 

 なんでも屋を出た拮平は黙って歩き出す。繁次と伍助も後に続く。人気のない神社で足を止めた拮平だが、やはり黙ったままだ。


繁次「だから、用ってなんですか」


 しびれを切らした繁次が言う。


拮平 「用も何も。お前さあ、根も葉もないこと言うんじゃないよ。いくらかわら

   版が大げさに書くからって。そりゃ、売らなきゃなんないんだから少しくら

   い大げさでも構わないさ。けど、その口で勝手なこと言われちゃ、困るんだ

   よ」


 ここは真之介から教えられた通り、でべそという言葉は出さなかった。


繁次 「勝手なこと?」

 

 さすがに伍助がそわそわし始める。


拮平 「伍助から聞いたんだけどさ。なに、このあたしが、あれだってぇ」

繁次 「えっ!この野郎!いえ、若旦那、これには訳がありまして。ちょいと、お待

   ちになってください」

 

 繁次は今にも逃げ出しそうな伍助の帯を掴む。


繁次 「伍助!お前って奴は何て野郎なんだ!かわら版記者ってぇのは、あんな、な

   んでも屋より口が堅くなくちゃいけねえのに、よりによって聞いた端から右

   から左へとしゃべってどうすんでぃ!」

伍助 「いえ、あの、その、ご本人ならいいかなって、思ったような…」

繁次 「本人だろうが、親兄弟、いくら惚れた女であっても、何一つ言っちゃなら

   ねえのが、この業界の掟なんだよ。それをいとも簡単にしゃべりやがって、

   おい!」

 

 と、伍助の襟首を掴む繁次だったが、拮平が止める。拮平にすれば、この二人の仕事上の掟より自分のでべそ問題の方が重要なのだ。


----身内の喧嘩は後でやってくれ。

拮平 「あんだって!やい、繁次!そしたら何かい。お前が言いだした張本人なのか

   い!どうして、どうしてそんなこと、あたしが…」

 

 ああ、あぶなかった。もう少しで、でべそのことを暴露してしまうところだった。


----真ちゃんの言う事、聞いてて良かった。

繁次 「いえ、ですから、これには深い訳がありまして。若旦那、俺の話も聞いて

   下さいよ」

 

 こうなったら、伍助より自分の方が大変である。拮平とは、真之介が巻き込まれる「事件」にいつも何かしら関わっている。そして、真之介の行くところ、なぜかいつも拮平がいる。そんな人間を怒らせたままではこれから先の仕事に影響が出る…。


拮平 「有りもしないこと言いふらすのに、一体どんな訳があると言うんだい」

繁次 「実は、実はこの伍助がどうにも落ち着きがないんで、口も軽そうでしょ。

   でも、こいつはそんなことはない、口は固いって言い張るですよ。そこで、

   試しに…」

拮平 「それにしても、どうしてそれがあたしなんだい。どうして、あたしをでべ

   そってことにしなきゃなんないのさ。あたしじゃなくて、真ちゃんでも良

   かったじゃないか。なんてたって、あたしはこれから嫁を迎える大事な体な

   んだよ。それを、今からそんな噂が立ってみろい。それで破談てことはない

   にしても、あんまし、いい印象はもたれないよ。これが真ちゃんなら、も

   う、嫁もらってるしさ。何でもないじゃないか」

繁次 「いや、そうですけどね。真之介旦那はあれで、結構恐いでしょ。ほら、も

   のすごい刀持ってるじゃないですか」

拮平 「ああ、人を切ってみたくて侍になったような奴だからさ」

繁次 「それで、せっせと道場に通って、腕を磨いているんですから。もう、恐

   くって恐くって。迂闊なことは言えやしませんよ。それに引き換え、若旦那

   は、器が大きいと言うか、細かいことにこだわらないお方なんで…。伍助を

   試すためとは言え、つい、調子にのって、あんなこと言ってしまいました。

   本当に申し訳ありません。でも、元はと言えば、この口の軽い伍助がいけな

   いんですよ。俺がどんなこと言おうと、黙ってるのがかわら版屋ってもん

   じゃないですか。それをもう、こんな奴は首にします!」

伍助 「ええっ!兄貴、そりゃ、ないですよ」

繁次 「何がないだ。お前みたいな口の軽い奴に用はないわ!とっとと、どこへでも

   失せろ!」

拮平 「でもさ、繁次よ。こいつ、お前の相棒だろ」

繁次 「確かに相棒ですけど、もう、嫌です」

拮平 「でも、お前がどっかから見つけて来たんじゃないのかい」

繁次 「違いますよ。親方に頼まれたんですよ。ちょうど俺も相棒がほしかったと

   ころなんで、それに親方の推薦ですから悪くないと思いましたよ。そん時

   は。でも、駄目、全然駄目、絶対駄目。もう、正直に親方に掛け合います

   よ」

拮平 「でも、お前もいけないよ」

 

 と、拮平も負けてない。


繁次 「えっ」

拮平 「大体さ。こいつともう何か月つるんでんだい。口の軽さなんてのはさ、割

   と早い段階でわかるもんだよ。それを今まで気がつかなかった、じゃ済まさ

   れないよ。今度のことでもさ、この野郎、ゴンスケがさ、もう、すでにあち

   こちでしゃべってると思わないかい」

伍助 「いえいえ、若旦那。そんな、あちこちでしゃべっちゃいませんよ。本当で

   すったら。ああ、兄貴のことを信じてた俺が馬鹿だった」

繁次 「なんだとぉ」

伍助 「そうでしょ。俺は兄貴を信じてた、まるで神様みたいに信じ切ってました

   よ。それなのに、ああそれなのに。こんなひどい嘘言って、若旦那を傷つけ

   るなんて。くくっ、若旦那がお気の毒ってもんじゃありませんか、そうで

   しょ」

繁次 「どんなひどい嘘であろうとも、黙ってるのがかわら版屋なんだよ!」

拮平 「お止し!あっ、言っちゃった」

 

 父の嘉平の後妻の名がお芳であるところから、白田屋ではお止しと言うのは禁句になっていた。


拮平 「ま、うちの中じゃなし、いいか。とにかく!お前達さぁ、どっちもどっちだ

   よ。それでさ、お前たちの内輪もめは後でやっとくれ。それより、このあた

    しの落とし前、どうつけてくれんだい!」

繁次 「どうって。だから、こうして若旦那の男気におすがりしてる訳じゃないで

   すか」

拮平 「嫌だね、あたしゃ、このままじゃ引き下がれないね」

伍助 「あの、申し訳ありません。すべて俺が悪いんです。兄貴の言う通りです。

   どんなことでも、ポロリはいけないんですね。以後、気をつけます」

 

 いつにない拮平の強硬さに、伍助も体を小さくするしかない。


繁次 「わかりました…。うちのかわら版に若旦那とこの広告載せます。この次と

   言う訳にはいきませんけど、近い内と言うことで、いかがでしょ」

拮平 「近いうちねえ…。まあ、いいとするか。本当に近いうちだよ。それもばっ

   ちし、やっとくれよ」

繁次 「何とか、ご期待に添えるように…」

拮平 「きっとだよ。その時ゃ、お前たちにうちのいい足袋持って来てやるから

   さ。じゃあな、俺は待ってるぜ」

 

 それだけ言うと、拮平は胸を張って歩き出す。


繁次 「やれやれ、また、版元行って頭下げなきゃならねえか。それに新しい相棒

   も探さなくちゃな。ああ、忙し忙し」

伍助 「えっ、そんな、兄貴ぃ、ちょっと待ってぇ」

 

 一方の拮平は笑いが込み上げていた。


----怪我の功名とはこのことだね。只で、宣伝できるとは。これにて、一件落着。


 だが、このへそ騒動には別件が待っていた。

 翌日、拮平は嘉平から呼び出しを受ける。


拮平 「何ですか、おとっつぁん」

嘉平 「まあ、ここへお座りよ」

 

 ちょっと来いと、ここへ座れはろくなことではないと相場が決まっている。


----また、あのお芳の奴。何か言いやがったな。

嘉平 「お前さぁ、また、この頃、隣の食堂とかに行って飯食ってるそうじゃない

   か」

拮平 「そうですけど、それが何か」

嘉平 「何かじゃないよ。それじゃまるで、うちでお前にろくにもの食わせてない

   みたいじゃないか。そんなみっともないの止めとくれ」

拮平 「だって、朝起きても何もないじゃん」

嘉平 「それは、お前の起きるのが遅いからだよ。あの泥棒騒ぎの時あった頃は朝

   はちゃんと起きて、真面目にやってたじゃないか。それで、私はどれだけ安

   心したか。ああ、これならいつでも隠居できるなって思ったもんだよ」

拮平 「それなら、隠居してよ、おとっつぁん」

嘉平 「できるわけないじゃないか。今のお前を元の黙阿弥って言うんだよ」

拮平 「でも、俺だって、白田屋の本当の主人になれば、きちんとやりますし、今

   だって…」

嘉平 「その今のお前がどうしようもないって言ってんだよ」

拮平 「へえ、そうですかね」

嘉平 「毎日毎日、どこをほっつき歩いてんだ!」

拮平 「これでも、店の宣伝活動やってますけど」

嘉平 「近所の犬猫相手にかい。ええっ、今度は猫でも連れて帰ったのかい。も

   う、生き物は駄目だよ。あの変な名前の犬だって、世話はお里に押し付けて

   るじゃないか」

拮平 「いいじゃないの。お里は犬好きだしさ。それと、名前はジョンですよ。お

   とっつぁんもいい加減覚えたらどうです。呼びやすい名じゃないの。それ

   と、もう少しすれば、あたしの実力の程がわかりますから」

 

 ここはまだ、かわら版のことは黙っておいた方がいい。


嘉平 「はあ、もう少しねえ…。だったら、そのもう少しを、別の方にも使えない

   かねえ」

拮平 「何のことぅ」

嘉平 「拮平!お前、お芳に何てこと言ったんだよ」

拮平 「何か、言いましたっけ」

嘉平 「何かじゃないよ。いいかい、お芳は女なんだよ。それもお前と一緒でまだ

   若いじゃないか。それにさ、ああ見えてお芳は傷つきやすいんだよ」

----げえっ、どこが、どの面下げて…。あれはさ、傷つきやすいんじゃなくて、人を傷つけやすいつーの。あっ、これ、ちょっと古かったな。もうさあ、あたしが一言いえば、一言返ってきますんで、お互いさまじゃないですかってんだ。

嘉平 「だけどさ、言っていいことと悪いことがあるよ」

拮平 「だから、何言いましたっけ」

 

 どうにも嘉平の歯切れが悪い。


嘉平 「お前…。お芳に、でべそって言ったそうじゃないか」

拮平 「ああ、あれ」

嘉平 「あれじゃないよ。若い女が、そんなこと言われたら、衝撃受けるにき

   まってるだろ」

拮平 「そんなの、でべそでなければ気にすることないじゃないかさ」

嘉平 「でもさ、お前だって、言われたら嫌だろ」

拮平 「まあ、確かに。でも、あれは。ほらっ、もうひとつの意味の方のでべ

   そって言ったんだけど。まあ、こっちの方もいい意味じゃないけど。それく

   らいのこと、お互いさまっ」

嘉平 「ああ、やっぱり…」

拮平 「えっ、何が?」

嘉平 「いやいや、こっちのこと」

拮平 「ええっ、ひょっとして?」

嘉平 「いや、違う!違うったら、そんなことはない、お芳は違うよ!」

 

 昨日、拮平は繁次と広告の話は取り付けた後、気分良く帰り自分の部屋へと向かう。その時、お芳とお菊の笑い声が聞こえた。たまには機嫌のいいこともあるものだと思った。


拮平 「これは、おっかさん、ただいま帰りました」

お芳 「まあ、朝出て行ったと思ったら、今頃までどこへ」

拮平 「ちょいと、野暮用で」

お芳 「いつだって、野暮ばっかりじゃないか」

拮平 「ええ、でも、どこかのでべそよりいいと思いますけど。失礼」

 

 そう言って、拮平は今は一階に移されてしまった自分の部屋へ入ったが、そう言えば、あの時のお芳の顔、般若みたいだった。

 

----へえ、そういうことだったのか…。

 

 そうなのだ。お芳もでべそだったのだ。そして、拮平と同じように、いや、それ以上にそのことを気にしていた。


----いったい、誰が…。


 すぐに、お菊を睨みつけるがお菊は慌てて首を横に振り、全身でそんなことは誰にも言ってないことを必死にアピールする。

 お芳がでべそであることを知っているのは嘉平の他にはお菊だけである。だから、風呂にもお菊と行く。そして、お菊はお芳のでべそが人に見えないように気を使っているのだ。それなのに、拮平に告げ口などする筈はない。ならばと、お芳はすぐさま、店にいる嘉平をお菊に呼びにやる。


お芳 「お前さん!ひどいじゃないの。誰にも言わないって約束したじゃないの!そ

   れなのに、よくもよくも…」

嘉平 「一体何のことだい。お芳、少しは落ちつけって」

お芳 「これが落ち着いていられますかってんだ。お前さん!今ね、拮平が何て言

   ったか知ってる!」

嘉平 「知らないよ。知らないけどさ、あいつは単純な人間なんだから、少しくら

   い何か言っても気にしないどくれって、頼んでるじゃないか」

お芳 「これが少しくらいの事か!もおぉぉぉ…。私、死にたい…」


 怒りがすぐに泣きに変わるお芳だった。


嘉平 「そんな…」

 

 さすがに、死にたいと言われては嘉平もうろたえる。


嘉平 「とにかく、拮平が何を何と言ったのか、それを教えてくれなきゃ、いくら

   私だって、どうしようもないじゃないか。ことによったら、もう、厳しく

   とっちめてやるよ。いや、叩き出してやるよ。だから、何を言われたんだ

   い。ほら、嫌でも言ってくれないと…」

お芳 「拮平が…、拮平が私のこと、でべそだって言ったんだよぅぅぅぅ」

 

 と、声を上げて泣き出すお芳だった。


嘉平 「拮平がそんなことを?」

お芳 「嘘だっていうの!」

嘉平 「いや、そうじゃないけど…」

 

 しかし、自分も、でべその拮平がお芳にそんなことを言うだろうか。


お芳 「あっ、じゃ、やっぱりお前さんが拮平に言ったんだね!」

嘉平 「誰が、そんなこと言うもんか」

 

 その時、嘉平はふと思い当たる。


嘉平 「わかった。わかったよ。わかったから、もう泣くのはお止め」

お芳 「何がわかったんだよ。ちっともわかってないくせにぃ!」

 

 と、今度は嘉平の胸に掴みかかり、怒ったり泣いたり激しいお芳に手を焼くも、何とか、その場をなだめ、こうして拮平を問いただして見れば、やはりだった。いや、それでも困るが…。

 白田屋の遠縁の男が横浜に住んでいる。その男が江戸にやってくれば、必ず白田屋に顔を出す。まだ、子供だった拮平のでべそを見た男は尾張から以西、大坂から九州辺りまでと広範囲で、でしゃばりのことをでべそと言うのだと話したことがある。そのことを拮平は覚えていたと言うより面白くて吹聴したものだった。

 拮平にすれば、せっかくいい気分で帰って来たのに、早速に突っかかって来たお芳が気に入らない。それで、つい、でしゃばりの方のでべそと言ってしまったという訳だ。


嘉平 「だけどさ、お前もいけないよ。どうして、お芳が出しゃばりなんだい」

拮平 「あら、おとっつぁん知らないの」

嘉平 「何を?」

拮平 「何をじゃないよ。へえ、やはり番頭さん言ってなかったんだ。いいかい、

   お芳さんさ、番頭さんに裏帳簿あるだろうって言ったそうだよ」

嘉平 「ええっ、裏帳簿…。そんなもの、ないにきまってるだろ!」

 

 と、嘉平はやけに声を張り上げる。


拮平 「でも、あると思ってんだよ。あんたの嫁さん。ここの女主人。それでさ、

   裏がないなら表をってことで、帳簿見せてくれって言われて見せたんだけ

   ど、よくわからないってすぐに投げ出したそうだよ」

嘉平 「まさか…」

拮平 「まさかって、本当だよ。嫁なんだから、奥内のことだけやってくれたらい

   いのに。それと、やたらと蔵の中のこと知りたがるじゃない」

嘉平 「いや、それは、蔵の中には季節の掛け軸とか壺とか入ってるから、それく

   らいは知りたいだろ」

拮平 「まあ、そうでしょうけど。裏帳簿とは穏やかじゃないね。だから、つい、

   でべそって言ってしまったんですよ」

嘉平 「いや、でも、そこは、もう少し、言葉を考えてから」

拮平 「はいはい、ではなかった。はい。これからは金輪際、でべそなんて言いま

   せん。口が裂けたって言いやしません。もう、これが本当に言い納め。何

   さ、あのでべそ女!」

 

 それだけ言うと立ち上がった拮平だったが、すぐに嘉平に引き留められる。


拮平 「まだ、何か」

嘉平 「いいから、もちっとお座りよ」

 

 仕方なく拮平は座る。


嘉平 「あのさぁ、お前、さっき、宣伝がどうとか言ってなかったかい」

拮平 「ああ、言いましたけど。それが」

嘉平 「どういう宣伝を考えてるんだい」

拮平 「どうもこうも。今度じゃなくて、近くかわら版にうちの広告が載るんで

   す」

嘉平 「えっ、かわら版に…。拮平!そのために何をやったんだい。只でかわら版が

   広告なんか載せるはずはないじゃないか!まさか…」

拮平 「まさかって、何よ。日頃、面倒見てやってんだよ。それに泥棒騒ぎことや

   隣の真ちゃんと夢之丞がそっくりだって教えてやったのも俺だし。そした

   ら、今日かわら版屋にばったり会って、色々お世話になってますんで、今度

   広告載せますからってさ」

嘉平 「本当にそれだけかい。まさか、後で何か請求されるようなことは」

拮平 「ありませんよ。大体さ、うちくらいの店になれば、接客するだけが仕事

   じゃないでしょ。まっ、載せてくれたら、足袋の二、三足やる約束はしまし

   たけど。それだって、どっかのご新造さんの着物代に比べれば知れたもんで

   しょ。新柄と聞けばすぐに飛びつくような金の使い方は、あたしゃ、してま

   せんので。はい」

 

 それでも、嘉平は半信半疑だった。いつ、拮平がこんなに気が回るようになったのだろう。


嘉平 「そうかい…。それならいいけど」

拮平 「何、まだ、その疑いの眼差し」

嘉平 「いやいや、これでも喜んでんのさ」

拮平 「いずれ、夢之丞に、芝居の中で白田屋の足袋がいいと言わせますから」

 

 役者に舞台の上で、店の名を口にされれば、その宣伝効果は計り知れない。実際に、役者同士で舞台中にも拘らず、互いに贔屓の店を譲らず、喧嘩になった事例もある。


拮平 「じゃ、今度こそ、これでいいでしょ。そうですね、少しは店で接客でもし

   てきますか、では」

 

 と、拮平は部屋を出ていく。


お芳 「お前さん」

 

 襖が開いてお芳が現れる。お芳は嘉平と拮平のやり取りを襖を隔てて聞いていたのだ。


お芳 「何さ。あれじゃ、私のあの事がバレちまったじゃないのさ!」

嘉平 「何もバラしたりしてないよ」

お芳 「でも、あの言い方じゃ、拮平はきっと気づいた筈だよ。きっと、今頃は腹

   の中で笑ってるに違いない…。いや!もう私、死にたい…」

嘉平 「また、そんなこと言って。じゃ、教えてあげようか。実はさ、拮平もでべ

   そなんだよ」

お芳 「ええっ!あの野郎!自分のこと棚に上げて、よくもよくも!」

嘉平 「違うよ違うったら」

お芳 「何が違うのさ!ああ、もう、わかったよ!やっぱり、お前さんは私より血を

   分けた息子の方が大事なんだね。ああ、わかったからさあ!これからはっ」

嘉平 「違うったら!ほら、聞いてなかったかい。でべそのもう一つの意味」

 

 嘉平はでべそのもう一つの意味をお芳に言って聞かせる。


お芳 「何さ!そんなもの、地方の方言じゃないか。そんなもん知るか!てやん

   でぃ、こちとら、江戸っ子でい!田舎者の言葉なんぞ知るもんか!知ってたま

   るかってんだ!」

嘉平 「まあ、知らないから、こうして…」

お芳 「それに何だって。でしゃばりぃぃだとぉ。もう、許せない!」

 

 と、部屋を出て行こうとするお芳を引き留める嘉平だったが、とんだ地雷を踏んでしまう。


嘉平 「お止しよ、お止しったら。お芳」

お芳 「お前さん!」

 

 そうだった。お止しは禁句だった…。


嘉平 「いや、その。悪かった、ごめんよ。つい、慌てたら…。でも、お前もだ

   よ」

お芳 「何が」

嘉平 「あんなことしてたら、でしゃばりって言われてしまうよ」

お芳 「あれはさ、実家に帰った時、兄が商売屋ってものはみんな裏帳簿があって

   税金をごまかしている。うちの店やってる患者はみんなそんなこと言ってる

   から、白田屋もそうだろう。また、兄嫁が。ああ、あの兄嫁、どうやらうち

   の財産狙ってるみたい。それでさ、私に、やれ蔵を調べろ。何とかして拮平

   から鍵を取り上げろ。今のうちにやっておかなければ、嘉平さんにもしもの

   ことがあった時、無一文で追い出されるとかとか。もう、二人して、私をけ

   しかけて…。それでさ、言われているうちに私もついその気にさせられち

   まったと言う訳…」

 

 またも、よよと、泣き崩れるお芳だった。


嘉平 「わかった、わかったからさ。もう、泣くのは、およ、お止め」

 

 またも、つい、お止しと言ってしまいそうになった嘉平だった。


お芳「うん」


 と、目元を長襦袢の袖口でぬぐいながら言うお芳だったが、実際は嘘泣きだった。


嘉平 「でもさ、あれで拮平もしっかりして来たと思わないかい。今度、かわら版

   にうちの広告が載るとか言ってただろ。足袋二、三足でとか言ってたけど、

   そん時は小遣い上乗せしてやろうじゃないか」

 

 それはいいとして、だが、そう言う嘉平のうれしそうなこと。やはり、自分より実の息子の方がかわいいのだ…。


嘉平 「どうしたの、まだ、浮かない顔してさ」

お芳 「いえ、それは良かったですね。楽しみですね」

 

 と、お芳は棒読みの様に言う。


嘉平 「あっ、別にお芳のことを忘れたわけじゃないよ。そうだ、少し暑いけど芝

   居でも見にいこうか」

お芳 「えっ、お芝居」

 

 思わずお芳の顔が明るくなる。


嘉平 「知ってると思うけど、中村夢之丞と言う役者ね、あれがさ、隣の真之介と

   よく似てんだよ。もう、瓜二つってくらい。一度見てみるといいよ」

お芳 「うん、でも、私、綾乃助の方がいい。隣によく似たのより…」

嘉平 「でもさ、夏狂言だから、綾乃助、出るかな」

 

 夏狂言とは、旧暦の六、七月は主要俳優は暑いので休みをとる。それを土用休みと言う。その間、若手俳優らが臨時の一座を組み、興業を行うことを夏芝居、土用狂言とも言う。木戸銭も安く夏なので怪談物が多く今でも行われている水かぶりや戸板返しなどの大胆な演出が評判を取り、やがては、主要俳優も出演するようになる。

 お芳は端役の夢之丞に取り立てて興味はない。だが、嘉平が夢之丞に執着するのは、真之介に対するコンプレックスの裏返しなのだ。隣同志と言うこともあり、拮平と比較されるのは仕方のないことだが、早くから差が付いてしまった。いや、子供の頃から、真之介は別格だった。


嘉平 「真之介ってさ、確かに、頭いいんだよ。だけど、その分悪知恵も働くん

   だ。だから、自分の競争相手になりそうな奴は、さっさと潰してパシリに

   使ってさ。拮平も人がいいもんだから、未だにいい様に使われてさ。それ

   にさ、隣の商売のやり方見てごらん。小僧の端に至るまで、かわいい顔して

   るだろ。ああやって見てくれのいいのを揃えて、女客を取り込んで来たの

   さ。それを、さも商才のあるように見せてさ、小賢しったらありゃしない」

 

 こんな繰り言を今まで何度聞かされてきたことか。

 でも、それなら、嘉平の夢之丞いじりに乗ってみるのも悪くない。


お芳 「ああ、いつかの面白い芸者、名前なんだったかしら」

嘉平 「静奴」

お芳 「それそれ、その名前だけ静かな奴も呼んで」

嘉平 「うん、それもいいか。あの静奴さ。真之介に岡惚れしてんだよ」

お芳 「へえ、そうなんだ。それじゃ、面白いこと起こりそう」

----へえ。泣いたり笑ったり、忙しい女だね…。

 

 なんと、拮平は階下に降りた振りして嘉平とお芳の話を聞いていた。


----お互い様だよ。


 嘉平と話しているうちにひょっとしてと思い、部屋を出て、そっと引き返しみれば案の定だった。それなら、自分も二人の話を聞いたって構わない筈。それにしても、父はどうしてこんな女がよかったのだろうか…。


----そりゃ、親父にすれば若い女だけど、もう少し性格のいいのいなかったのかねえ…。


 だが、長居はしてられない。そっと、足音を忍ばせて階段へ向かう。


お里 「若旦那!」

 

 二、三段降りかけたところで、階下からお里の声がした。


拮平 「しっ、大きな声出すんじゃないよ。もう少しで、いつかのお芳みたいにす

   べり落ちるところだったじゃないか」

----あら、そうだった。若旦那に怪我をさせてはいけないんだった。

 

 そうなのだ、お里にとっての拮平は、もしも玉の輿にのり損ねた時の大事なキープ要員なのだ。


お里 「まあ、若旦那、大丈夫ですか。いえね、若旦那がお二階に上がられるなん

   て、そうないことですから」

拮平 「なんだってぇ。ここはあたしの家だよ。どこだって自由に行くさ」

お里 「でも、二階には角のある…」

拮平 「なんでえ、あんなの恐くもなんともなねえや。これからは、俺の時代なん

   だ」

----その調子、その調子。

 

 と、思うも、今の拮平の自信がどこからやって来るのかよくわからないお里だった。


お里 「あの、若旦那。そろそろ夏まつりが始まるんですけど」

拮平 「それがどうした。毎年のことじゃないか。ははぁ、また、連れて行けか。

   駄目だよ、これでも、あたしゃ忙しいの」

お里 「それはよくわかっておりますので。ちょっとばかし…」

 

 と、体をくねらせながら手を出す。拮平は財布から小銭を出し、お里の手の上にのせてやるも、まだ、もじもじしている。


お里 「もう少し…」

 

 見れば、台所から女中たちが顔をのぞかせているではないか。仕方なく、追加してやる拮平だった。


----そうか、夏まつりか…。






 









 

























 








 
















  
























                                                                                        

































































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