第68話 杮と柿

お駒 「お夏ちゃん、何度言ったらわかるのさ。襟はちゃんと、もっとしっかり

   引っ張って干さなきゃ駄目って言ったじゃないの。寝間着だからって、

   手ぇ、抜かない」

お夏 「はぁい」

 

 今日もまた、お駒に怒られてしまった。

 思えば、亭主の清十郎と共に従姉のお駒の家に転がり込んだ。それでも最初は、お駒の家にはお照と言う女中がいて、それこそ上げ膳据え膳だったが、いつまでもそうはいかないことはわかっていた。

 ところが、ひょんなことから、清十郎が役者になることに。元はと言えば、互いに顔に惚れて一緒になったような者同士。お夏は小町娘と呼ばれ、清十郎はそれこそ役者にしたいようないい男だった。それが役者になったからと言って何の不思議もない、と喜んだも束の間。お駒から、二人で暮らせと言われてしまう。

 急にそんなことを言われても困るが、お駒は住む家、鍋釜、布団などの所帯道具も用意してくれた。だが、それらはすべて用意しただけで、金は返せと言う。当然と言えば当然のことだ。今まで、二人して散々居候させてもらっただけでもありがたいことだけど、いくら役者になったとはいえ、清十郎の稼ぎなどまだ知れたもの。それなら、近く女中のお照が嫁に行くので、その代わりをする様に言われる。   

 普通なら、それでよかったと思うところだが、このお夏、家事がほとんど出来ない。子供の頃から、かわいいとちやほやされて来たものだから、何かと口実を作っては母親の手伝いから逃れたそのツケが今頃になってやって来た。

 米の炊き方すら、忘れてしまっている。包丁を持つ手も危なっかしい。掃除も洗濯も適当…。

 それらを嫁入り前のお照からしごかれた。


----手が、こんなに荒れてしまって…。


 今はお照は嫁に行ってしまったが、その分、お駒がうるさい。また、このお駒がすごいのだ。炊事、洗濯、掃除、何をやらせても手際がいい。洗濯物はぴしっと畳まれ、掃除はいつの間にか終わっている。魚に触ることも出来ないお夏とは違い、小さな魚でも三枚に下ろせる。

 さらに、お駒が今付き合っている、中村市之丞と言う役者だが、長く芽が出なかった。その市之丞が戯作物を書きだし、それが評判を取り、今では戯作者と二足の草鞋を履いた役者として人気を博している。

 だが、実際にその戯作物を書いているのは、お駒なのだ。また、そのことを知っているのは限られた人間だけ。さすがに、戯作物を書くとなれば家事まで手が回らない。そこで、お照と言う女中が雇ったのだが、この度嫁入りが決まった。そこで、その代わりをお夏がすることになった。


お駒 「だから、骨惜しみすんじゃないの。掃除はあれこれ考えないで体を動かせ

   ば終わるし、着る物の汚れって大体同じようなところが汚れるんだから、そ

   こを重点的に洗って、干す時はよく引っ張って真っすぐ干すの。包丁

   だって、切る前から恐がってどうすんのさ。それと、包丁は出す時は一番

   後、仕舞う時は一番先。いつまでも出しっぱなしにしない。で、すべてに言

   えるとだけど、もう少し、頭を使わなきゃ。そんなことじゃ、いつまでたっ

   ても借金返せないよ」

お夏 「そんなこと言ったって、姉さん。私たちのこと散々ネタにしてるくせに」

お駒 「戯作者なんぞの近くにいると、あることだよ」

お夏 「だったら、その分、借金に回して」

お駒 「回してるよ」

お夏 「回しても、まだ、借金減らないの」

お駒 「少しは減ってるけど、先は長いよ」

お夏 「そんなぁ…。姉さんと私の仲じゃないの。少しは、そこを、ほらさ」

お駒 「何がほらさだよ。米のとぎ方から、掃除の仕方まで教えてやってんのに、

   こっちが教え賃もらいたいくらいだよ」

 

 それだけではない。夕食のおかずももらっている。


お夏 「姉さん、役者っていつになったら、ちゃんとした給金もらえる様になる

   の」

お駒 「そりゃ、本人の頑張り次第だよ」

お夏 「早く一人前になってくれないかしら」

 

 お駒はやれやれと思う。子供の頃から、お夏は努力とか、何かに打ち込むと言うことがなかった。いつも面白おかしく過ごせればよかった。そして、いつか器量良しを武器に玉の輿にのるんだと言っていた。しかし、それがどうだろう。どうやら、互いに顔に惚れあった様な男とくっついてしまった。それでも、まだ別れるとかの話ではないから、これはこれで相性はいいのかもしれない。

 

 一方の清十郎は、中村夢之丞と言う立派な芸名をもらっていた。だが、立派なのは名前だけで、役どころはその他大勢にしか過ぎない。


市之丞「天狗になるんじゃないよ」

 

 とか、言われても出番より、雑用に追いまわされているのに、何が天狗だと思ってしまう。


市之丞「基本も出来てないのに、舞台に出られるんだからさ」

 

 さらに、何と、今夜は初めて座敷に呼ばれたのだ。


市之丞「運のいい奴だねぇ。もう、ご贔屓にしてくださる方がいるとは」

夢之丞「はい」

 

 それは嬉しいことだった。思えば芝居茶屋の暖簾をくぐるのも初めて、それも役者として。どんなお客だろうと緊張しつつ市之丞に付いて行けば、そこにはどこかの旦那衆と芸者がいた。


拮平 「真ちゃん!」

嘉平 「ほんとだ、よく似てるねぇ…」

 

 嘉平も驚いている。


拮平 「もう、昔の真ちゃん見てるようで、何か、懐かしい。そう思わないかい、

   静奴」

静奴 「ええ、でも…」

拮平 「でも、何だい」

静奴 「それが…」

拮平 「何、照れてんだよ、らしくもねえな」

市之丞「あの、本日はお招きを頂き、ありがとうございます」

 

 市之丞に続いて、夢之丞も手を付く。


拮平 「まあまあ、固いことは無しで行こうよ。真ちゃんじゃなくて、夢之丞さん

   だっけ」

夢之丞「はい」

静奴 「こちらは白田屋の大旦那と若旦那。知ってるわよねぇ、足袋の老舗」

市之丞「はい、よく存じております」

静奴 「そちらが西屋と北屋の旦那方」

市之丞「中村市之丞にございます」

夢之丞「中村夢之丞にございます」

西屋 「はあ、こりゃ、近くで見れば見るほど、良く似てるわ」

北屋 「本当だ。隣の真之介にそっくり」

拮平 「でしょ。まあ、折角だから一杯いこうよ。真ちゃんじゃなかった、夢ちゃ

   ん」

夢之丞「ありがとうございます」

市之丞「旦那様方、夢之丞はこう言う席は不慣れなものですから、不調法もあるか

   と存じます」

拮平 「いいのいいの、気にしなくていいから、さっ」


 と、夢之丞に酌をする拮平だった。


嘉平 「これ、拮平。自分だけ楽しんでちゃいけませんよ。今夜はお客様もご一緒

   なんだから」

 

 泥棒のことは災難だったが、それでも、あの程度の被害で済んだのも、怪我の功名の様な拮平の働きによるものだったし、その後の庭の手入れや蔵の鍵を二つにするなどの提案があり、何より嘉平自身も厄落としをしたかった。そこで、取引先の接待も兼ねて芝居見物にやって来た訳だ。


西屋 「いやいや、白田屋さん。拮平さんは楽しい人だから、好きにやらせてあげ

   て」

北屋 「そうですよ。拮平さんがいるだけで、こちらも楽しくなるんだから」  

 

 と、西屋と北屋も拮平を持ち上げる。


嘉平 「いつまでも、そんな事でいいのか、どうだか…」

 

  親父世代のことは無視したかのような拮平は夢之丞に酒を勧める。


拮平 「そういや、夢之丞の本名、清十郎だったよね」

夢之丞「これは、私の本名までご存じとは…」

拮平 「やっぱり、そうだった。実を言うと。前に会ったことあんだけど、忘れち

   まったかい」

夢之丞「はぁ…」

拮平 「ほら、以前、夢ちゃんによく似た侍の舅から、婿と間違われて切りつけら

   れそうになったことあったじゃない」

夢之丞「えっ!ああ、あの時の若旦那でしたか。これは失礼致しました。あの時はも

   う、何が何だかわからないまま…」 

 

 そうだった。江戸に出て来たばかりの時、どこかの侍と間違われて切りつけられそうになったことがある。さらに、お夏を見てその侍は心臓発作を起こしたのだった。


静奴 「まあ、そんな事があったんですか」

拮平 「そん時の清十郎さんが、今はこの通りのお役者稼業とは、こいつぁ、お釈

   迦様でも…。どうだい、静奴。あっちのお高い真ちゃんもだけどさぁ、こっ

   ちの夢ちゃんでもいいんじゃないかい」

静奴 「それが、駄目なんですよ、この人。夢之丞さんてね、そっち系の人だか

   ら…」

拮平 「えっ」

 

 これには、当の夢之丞は無論、拮平も市之丞も驚くしかない。


拮平 「静奴、それってどう言うことだい」


 拮平にすれば、この夢之丞こと清十郎には、お夏と言う女房がいるのに、静奴がどうしてそんなことを言うのだろう。また、夢之丞にしても、今夜初めて会った芸者から、どうしてそんなことを言われてしまうのか不思議でならない。


静奴 「ですから、そう言うことですよ」 

----どうやら、この夢之丞、私のことも忘れてるみたい…。


 愛しい真之介がついに嫁を迎えてしまった。それも金目当ての貧乏旗本の娘を。そのショックから抜け出せずつい、酒の飲み過ぎで寝付いてしまった。やっと元気になり、町をぶらついていた時、これまた町人姿の真之介と出会う。そして、待合に連れ込むことに成功する。なのに、真之介は逃げ出してしまう…。


静奴 「何だって!」

女中 「人違いとかで…」

静奴 「何が人違いなもんかい!」

女中 「いえ、それが、そのぉ、駄目らしいんです。女の方が…」


 待合の女中は、静奴のあまりの剣幕に恐れをなし、つい、女が駄目な男だと言ってしまう。

 ここでようやく、人違いに気付いた静奴だが、それにしても、どうしてあの男は黙って逃げ出したのだろう。それならそうと言ってくれればいいではないかと、憤懣やるかたない静奴だった。だが、その後、真之介によく似た役者がいることを耳にする。もしやと思いつつ、ようやくその役者、夢之丞に会うことが出来た。

 それでも、はらわたは煮えくり返っているが、そこは芸者、涼しい顔でちくりちくりとやってやろうと思ったが、当の夢之丞は静奴のことを覚えてないのだ。これもむかつく。


市之丞「いえいえ、姉さん、この夢之丞ですけど、どうしてだか、そっち系の男の

   方に好かれまして。でも、それだけですよ」

静奴 「まあ、そうだったの、ほほほ」

----そうでも言わなきゃ、女に興味がないなんて知れちゃ大変よねぇ。何てたって、人気稼業だもの。

 

 市之丞のフォローを、拮平に負けず劣らずポジティブに脳内変換する静奴だった。

 

嘉平 「しかし、こう言う大人しい真之介も見ものだねぇ」

拮平 「だからさ、おとっつぁん」

嘉平 「わかってるよ。本当によく似てるんで、つい…」

 

 嘉平にしてみれば、真之介の力量は認めているものの、悪知恵の働くところが気に入らない。それも商人としての駆け引きならともかく、おっとりした子供だった拮平を、さらにのんびり屋にさせてしまったのは他ならぬ真之介なのだ。ライバルになりそうな者はさっさと蹴落しパシリに使う、そう言う小賢しさがしゃくの種だった。

 それが今は、別人とはいえ瓜二つな男が小さくかしこまっている。一度くらい、真之介のこんな顔を見てみたかった。それだけでも少しは溜飲が下がると言うものだ。これからたまには、この夢之丞を座敷に呼んでいたぶってやろうとほくそ笑む嘉平だった。それにしても、今夜の静奴はどうしたと言うのだ。

 静奴と言う芸者は、真之介に岡惚れしていることを除けば、陽気で座持ちもうまく、嘉平も接待の時には必ず呼んでいる。なのに、いくら真之介によく似た男が気になるとは言え、いつもの明るさはどこへやら、妙に取り澄ましているではないか。


嘉平 「さあ、静奴。陽気にいつものをやっとくれ」

静奴 「あ、はいっ」

 

 そう、自分は芸者なのだ。何があっても、それを忘れてはいけないと立ち上がり、ひとしきり座を盛り上げた静奴だが、何とか夢之丞を座敷から連れ出すことに成功する。


静奴 「ちょいと、あんた」

夢之丞「はい…」

静奴 「もう、あたしをお忘れで」

夢之丞「そんな、江戸に来て、姉さんの様なきれい方にお会いしたのは初めてで

   す。実を言いますと、この様なお茶屋さんも芸者さんにお会いするのも今夜

   が初めてです。それが、どこかでお会いしましたでしょうか…」

静奴 「まあ、無理もないか。ちょいと前のことだもの。じゃ、思い出させてあげ

   ようじゃない。あれ、あんたでしょ。ほら、いつかの、待合から逃げ出し、

   このあたしに置いてけぼりくわしたの…」

---えっ、ひょっとして、あの時の女…。

 

 まさかと思うが、それならつじつまが合う。この静奴と言う芸者が夢之丞がそっち系と決めつけたもの言いをしたのも、あの時、黙って待ち合いを抜け出したのはこの自分が女嫌いだと思ったようだ。そんな夢之丞の都合など静奴が知る由もないが、まさか、こんなところでまたも会ってしまうとは…。だが、あの時は、女の顔などろくに見てもない。


夢之丞「えっ、あれは、姉さんだったのですか…。あの、それは、いえ、これには

   訳がありまして」

静奴 「へえ、どんな訳か知らないけど、聞いてやろうじゃないの。何てたって、

   このあたしに恥かかせたんだからさあ」

夢之丞「申し訳ございません。あの時は田舎から江戸へ出て来て間もない頃でし

   て。田舎にいても面白くないものですから、父方の従姉の姉さんを頼って

   来たのですが、それが、あの市之丞と訳ありの仲でして」


 と、夢之丞は必死で、市之丞が年増女をあの待合に連れ込んだこと、そして、鉢合わせするようなことがあれば大変なことになるので、それで、逃げだしたことを話すのだった。


静奴 「だからって、何も逃げなくったっていいじゃないか。それならそうと言え

   ないのかよぅ、おい」

夢之丞「でも、その時はもう、どうしていいのかわからず…。本当に申し訳ござい

   ません」

静奴 「だけど、そんなんで、よく役者が務まるわね」

夢之丞「まだ、ほんの駆け出しだもので…」

静奴 「まあ、いいとするか」

夢之丞「ありがとうございます。あの、姉さん」

静奴 「何よ」

夢之丞「その、姉さんのいい人のお侍にそんなに似てるんですか、私」

静奴 「それがさあ、悔しいけど、双子くらい…」

----やっぱり…。


 座敷が引け、夜道を帰る市之丞と夢之丞だった。


市之丞「面白い若旦那だったな」

夢之丞「……」

市之丞「何だい、初めての座敷で疲れたかい」

夢之丞「はい…」

市之丞「でもさ、静奴と言うあの芸者。どうして、お前のことをそっち系だと思っ

   てるんだろうねえ」

夢之丞「……」

市之丞「おや、心当たりはないのかい」

夢之丞「実は…」

市之丞「えっ、やっぱり。どうりで、どうもおかしい、妙だと思ったんだよ。それ

   にしても、お前が芸者とどこで知り合ったんだい」

夢之丞「実は、俺とお夏がまだお駒姉さんとこに厄介になってた頃、兄さんが年増

   女と待合にしけ込んだのを見たって言ったことがあったでしょ」

市之丞「ああ、あの時か。それで」

夢之丞「あの後、ぶら付いていましたら、いきなり腕を絡ませて来た女がいまし

   て、そん時はもう驚いたのなんのって。その女が何か言ってましたけど、も

   う、訳もわからないまま、腕を離そうにもすごい力で。それから、ずんずん

   引っ張られて行った先が、あの待合…。兄さんが年増女としけ込んだとこで

   すよ。まあ、その頃には、誰かと、いや、あの俺に似ている、真之介とかい

   う侍と間違えてるなって気付きましたけど、もう、強引に連れ込まれまし

   て」

市之丞「何だって!それから、ああ、そう言うことかい」

夢之丞「違いますよっ。だって、そこは兄さんのいるあの待合ですよ。どうしよう

   もないんで、女中に金渡して草履持って来てもらってそこから走って逃げ 

   ましたよ」

市之丞「おや、人違いとはいえ、据膳食わなかったのかい」

夢之丞「据膳って。もし、あそこで兄さんと鉢合わせしたら…。兄さん、何て言い

   ます?」

市之丞「そうだねぇ…。まあ、今ならともかく、あの頃だな。あの頃ならきっと、

   てめぇ、居候の分際で昼間っから女とこんなとこで、あんなことするとは何

   事だい!とか言っただろうねぇ」

夢之丞「でしょ。だから、それだけではないですけど、それが一番」

市之丞「二番もあんのかい」

夢之丞「やっぱり、人違いのままとか…。それに気が付かれた日にゃ…」

市之丞「なるほど。お前にもそう言うとこあんだね。そんで、あの静奴がお前のこ

   とそっち系と思ったんだな。それにしちゃ、よく、顔を思い出したもんだ

   ね。あれだろ、それって、案外短い時間じゃないかい」

夢之丞「ええ、それにろくに女の顔なんて見ちゃいませんよ、素人じゃないっての

   はわかりましたけど」

市之丞「ろくに顔見てないけど、わかったとは」

夢之丞「ほら、あの芸者に連れ出されたでしょ。そん時に言われたんですよ」

市之丞「怒ってたかい」

夢之丞「ええ」

市之丞「だけど、芸者が昼間っから、町をぶら付くとはねえ…」

夢之丞「知りませんよ。だから、この話、もう忘れてください」

 

 あの時、静奴が昼間の町をぶら付いていた理由など、誰にもわかる筈はない。市之丞と別れ、家に着いた夢之丞は戸を叩く。


夢之丞「お夏、お夏」

 

 いつものことだが、戸口には心張棒が掛かっている。そして、いつものことだが、一度寝てしまうと中々起きて来ないのがお夏だった。


夢之丞「お夏!早く戸を開けねぇか!」

お夏 「大きな声出すんじゃないよ」

夢之丞「出さなきゃ、起きて来ないじゃないか」

 

 眠そうにお夏が戸を開ける。


お夏 「それにしても、随分と遅いじゃないのさ」

夢之丞「ああ、お座敷が掛かってな。兄さんと一緒」

お夏 「そりゃ、よかったこと。お休み」

夢之丞「おい、何か食いものねぇのか」

お夏 「食べて来たんじゃないのかい、お座敷で」

夢之丞「あんなとこじゃ、何も食えねぇよ」

お夏 「そこのはい帳の中にあるからさ、勝手にやっとくれ」

 

 と、さっさと布団に入ってしまうお夏だった。

 はい帳の中には、おにぎりと煮物があり、箸も入っていた。最近はお夏が煮物をうまく炊けるようになったのは助かる。以前はろくに料理も出来なかったが、きっとお駒の仕込みがいいのだろう。相変わらず文句の多いお夏だが、それだけでも有り難いと言うものだ。そして、夢之丞が食べ終わった頃。


お夏 「ああっ、お前さん」

 

 と、がばと起き上がるお夏だった。


夢之丞「どうしたんだい、こんな夜中に大きな声を出す奴があるか」

お夏 「あのさ、実はね、今日ね、今頃になって、いや、それはさ、私がさ」

夢之丞「何だよ、ちったぁ、落ち着いて話しやがれ」

お夏 「だから、女の人がやって来てさ、おふだがどうとか言ってさ、大変だったん

   だから」

夢之丞「物売りなら断れよ。そんな弱気なお前でもあるまいに」

お夏 「物売りじゃなくて、この家にお札が貼られてたんだよ」

夢之丞「なんだい、そりゃ」

お夏 「呪われてたんだよ」

夢之丞「一体、誰が呪われてたと言うんだよ。何で、俺やお前が呪われなくちゃな

   らねえんだ」

お夏 「そうじゃなくて、前にここに住んでた人。それでね、お札が貼られてて

   さ」

夢之丞「何か、この家にお札が。そんじゃ、この家が呪われてんのか」

お夏 「いや、だからさ、それは何とかなったんだけどさ。とにかく驚いちゃって

   さ。ちょっと恐かったよ、お前さん」

夢之丞「あのな、幾ら恐かったかもしれねぇが、大丈夫だったんだろ。それなら、

   もっとわかるように。最初から順序立てて話してみろい」

お夏 「うん、わかった」

夢之丞「それで、いつ、どんな女がやって来たと言うんだ」

 

 お夏が日暮れ近くに家に戻って来た時、一人の女が尋ねて来た。女の声なので、お夏が警戒もせずに戸を開けた時、女は家の中に入り込んで来た。


女  「あの、ちょっとお話がありまして、お忙しいところ、失礼は承知しており

   ますが、早い方がいいと思いまして…」

 

 年の頃は三十歳前後の普通の女だった。


お夏 「はあ…」

 

 その女が言うには、以前この家には妹夫婦が住んでいた。だが、その亭主と言うのが浮気者で、妹は散々泣かされた揚句に三下り半を突き付けられ、その頃には愛想を尽かしていた妹は二人の子供を連れ実家に帰る。実家には両親と兄夫婦がいて、そこに子供を預けて今は料理屋の下働きをしながら平穏に暮らしている。

 だが、その妹は亭主憎しの思いから、家を出る時に押し入れに呪いの札を張りつけた。元はと言えば、妹から懇願されその札を手渡したのはこの姉だった。そして、様子を見て来て欲しいと頼まれやって来た訳だが、亭主は妹が出て行ってから間もなく自身も引っ越していた。近所の人も行き先を知らない。その後に引っ越して来たのが、お夏と清十郎だった。


お夏 「だからさ、私、すぐに押し入れの中捜したんだけどさ。それがどこにもな

   いんだよ」

 

 押し入れの中が一杯になるほどのものは持ってない。


夢之丞「ないって…」

お夏 「でも、見つけたんだよ」

 

 と、ちょっと得意そうな、お夏だった。


お夏 「それがさ、わからない筈だよ。押し入れは押し入れでも、押し入れの襖の

   裏。それも開けた時に重なってしまうところ」

 

 お札と言っても、実際はお札を包んだものだった。だが、そこにも何か怪しげな紋様が描かれていた。お夏はそのお札を渡す時に中が気になり開けてみようとしたが、女にきっぱり止められる。


女  「開けてはいけません!このお札は特定の者に対する呪いのものですけど、万

   が一にも、こちら様に災いがないとも限りません。どうぞ、このことはお忘

   れになってください」

 

 女が帰ったとはいえ、あまりのことにお夏はしばらくぼんやりしていたが、こんな日に限って夢之丞の帰りが遅い。


夢之丞「そうかい。それはちょっと嫌な話だったな」

お夏 「そうだろ、今思い出すともう気味が悪くて」

夢之丞「その割にゃ、よく寝てたじゃねぇか」

お夏 「だけど、こうして目が覚めちまったじゃないの。どうしてくれるのさ」

夢之丞「どうもこうも、俺も眠いんで、寝よう」

お夏 「お前さんの帰りが遅いからだよぅ」

夢之丞「これも、仕事だ」

お夏 「そんなこと言って、本当はどこかで」

夢之丞「そんな暇あるかい。もう、眠てぇ」

 

 さっさと着替えて布団に入った夢之丞はすぐに寝息を立て始める。


お夏 「お前さん。そんな、すぐ、寝るなんて…」



 数日後、機嫌のいい市之丞がいた。多分、お駒から新しい戯作物受け取ったのだろう。それくらいの察しは付く夢之丞だったが、そこは惚けることにした。


夢之丞「兄さん、何かいいことあったんですか。さては、また新しい女とか」

市之丞「何言ってんだい。ここのところずっとお前と一緒じゃないか。新しいも古

   いもないよ」

夢之丞「それじゃ、ひょっとして」

市之丞「そのひょっとだよ。それがさ、ざっと読んだんだけど、今度のは底抜けに

   面白くてさ」

夢之丞「そうなんですか、じゃ、俺にもちょっと読ませてくださいよ」

市之丞「今、座頭がお読みだよ。それがさ、ほぼ一晩で書いたって言うからさ。す

   ごいよね。何でもお夏ちゃんと話してて、ひらめいた!そうだよ」

 

 夢之丞は嫌な予感がした。


夢之丞「それ、引っ越した家の押し入れに呪いの札が貼ってあったとかの話です

   か」

市之丞「いや、ちょっと違うよ。兄の家に留守番を頼まれた弟夫婦が。あっ、でも

   ここは同じだよ。押し入れの襖にお札の様なものが貼ってあったのを見つけ

   た。中を開けてみたら、それは呪いの神を呼ぶお札だった。開けた者のとこ

   ろへやって来るんだよ。その呪いの札を張ったのは、好き勝手やった挙句に

   三下り半を突き付けられた兄嫁が家を出る時に貼ったものなんだけどさ。何

   も知らない弟が開けちまったもので、そこへ、呪いの神が…。これじゃ怪談

   物みたいだけど、そこはお駒。例によって、ちぐはぐのどたばた劇の始まり

   始まり。何とやって来たのは、まだ見習いの神でさ、思うように呪えない。

   でも、弟は気味が悪いって話」

 

 さすがはお駒だ。お札はあの姉が持って帰り、その後何もなかったと言うに、それだけの話に仕立て上げることが出来るのだから。だが、その話の筋の所々には、お夏と夢之丞のちょっとしたエピソードがふんだんに散りばめられ、いや、時にはとんでもないオチが付けられてしまう…。

 

市之丞「ああ、今度は夢の出番はなさそうだけど、別の演目に頼んでやるから、気

   を落すんじゃないよ」

 

 別に気を落としている訳ではないが、お駒の書いた戯作物の中身が気になる。


市之丞「ちょいと、なに、湿気た面してんだい。それよか、この字読めるかい」

----何を、唐突に…。

夢之丞「兄さん、あんまり馬鹿にしないでくださいよ。俺だって、あれから勉強し

   てんですから」

市之丞「そうかい」

夢之丞「こけら落とし」

市之丞「さすがだね。じゃ、これに書いてみな」

 

 市之丞は紙と筆を夢之丞の前に置く。


----何だ、こんな簡単な字。

市之丞「違うよ」

夢之丞「えっ、書き順間違えましたっけ」

市之丞「これじゃ、柿、食べる柿じゃないか」

夢之丞「これで、こけらと読むんじゃ」

市之丞「読まないよ。いいかい、柿は木偏に市。市は鍋蓋に巾だよね。でも、こけら

   木偏に市じゃないよ。まず、木篇書いたら、次に横棒書くんだ。それから巾

   なんだけど、その時に上から縦棒引くの。すっと貫くの。これが杮。似てる

   けど、違うんだよ」

夢之丞「……」

市之丞「これくらい、正確に書けなきゃ駄目だよ」

夢之丞「はい」

市之丞「秋に杮落しがあるの知ってんだろ。その時に、この度のお駒の書いたのが

   掛からないかねぇ」

 

 杮落しとは、古くは杮葺こけらぶきと言って、屋根を杮で葺いていた。完成時には屋根や足場に残る木片を払い落すことを杮落しと言い、その落しがいつしか初会場を意味するようになった。

 今、改装中の芝居小屋がある。その杮落しは秋だが、今からその演目が取り沙汰されている。そんな時だった。


綾之助「失礼します。兄さん、ちょいと、お邪魔してもよろしいですか」

市之丞「これは、綾乃助じゃないの。まっ、狭くて汚いとこだけど、どうぞどう

   ぞ」

 

 綾乃助は一座の人気役者である。  


綾之助「同じ小屋の中。狭くて汚いのはお互い様じゃないですか」

市之丞「ここもそろそろ改装してほしいと思ってさ」

綾之助「そうですね。あちこち傷みも来てますし」

市之丞「綾乃助のお陰で客入りもいいと言うのにさ」

綾之助「兄さんの二足の草鞋にゃ、敵いませんよ」

市之丞「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。そう言ってくれるのは綾乃助だけだ

   よ」

綾之助「そんなことありませんたら、みんな言ってますよ」

市之丞「いい女捉まえたって」

綾之助「それは、言わぬが花。運も実力のうちですよ」

市之丞「そう願いたいものだね。で、今日は何のさ」

綾之助「実は、お願いがありまして」

 

 綾之助は子供の頃、身売り同然に芝居小屋に連れて来られ、最初はなかなか馴染もうとしなかったのを、まだ年若い市之丞が色々と面倒を見た。その時のことを人気役者となった今でも忘れずにいてくれる。


市之丞「何だい、人気者の頼みとあっちゃ、知らん顔も出来めぇ」

綾之助「こちらの夢之丞さん、貸して頂けません」

市之丞「この、夢を?ああ、煮るなと焼くなと好きにしとくれ」

綾之助「煮るも焼くも。ちょいと、生で」

市之丞「まあ、まだ、活きはよさそうだから。で、どこの板に載せるんだい」

綾之助「七化けお艶」

 

 女形もやる綾乃助が男女含めて七役をこなすお駒作の芝居だが、早変わりが見せ場の一つとなっている。もっとも、夢之丞はその筋書きすら知らない。


綾之助「ほら、御高祖頭巾おこそずきんの女と遊び人の三次さんじがすれ違うところ。いえね、こ

   の夢之丞さんと私が似てるってみんなが言うからさ」

 

 そのことは夢之丞も聞いている。真之介の様に瓜二つではないが、綾之助とも感じが似ていると言われる。


綾之助「こうして、近くで見ると、確かにそうだなって。そこで、夢之丞さんに御

   高祖頭巾の女やってもらって、舞台中央で立ち止まってもらう。そして、私

   の三次と道の 譲り合いをするってのどうかなと思いまして。背格好も同じ

   だし、顔塗って御高祖頭巾被れば、見えなくもないでしょ。お客に、一瞬

   どっちが吹き替えなのかと思ってもらえれば、いいかなと思いまして」


 どちらも、綾之助の七役のうちの人物である。御高祖頭巾の女と遊び人の三次が、舞台上ですれ違う場面なのだが、それを今回は、夢之丞を使って舞台中央で立ち止まらせ、話の筋を知っている客にも、ひょっとして綾之助ではと思わせる狙いなのだ。そこへ、綾之助の遊び人の三次が登場すれば…と言う絡みを思いついたのだった。


市之丞「それはすごいじゃないか。おい、夢、喜べ。これはすごい役だよ」

夢之丞「はあ、ありがとうございます。私の様な駆けだし者に、そんな大役のお声

   をかけて頂けるなんて、それこそ、夢のようでございます」

市之丞「それで、座頭には」

綾之助「いいだろうっておっしゃいました」

夢之丞「本当にお礼の言葉もございません。未熟ではございますが、一生懸命やら

   せて頂きます」

綾之助「それと、お駒姉さんのご親戚とか」

市之丞「何か知らねえけど、お駒のところに転がり込んで来てさ、仕事がねえって

   言うもんだから、下足番にでもと連れて来たら、偶然座頭の目に留まり、舞

   台歩かせるだけでいいからって。ところがろくに歩けもしねえんで、数人の

   中に紛れ込ませて何とか…。素人よりも芝居のこと知らないくせに、この顔

   だけで人目を引いちゃってさ。その他大勢の役でも、若くて見てくれのいい

   方が客は喜ぶってさ」

綾之助「でもさ、近頃はお座敷もかかるそうじゃないですか」 

夢之丞「いえ、それは、市之丞兄さんのお供で」

市之丞「それがさ、行って見りゃ、俺の方が付け足しみたいなんだから、嫌になっ

   ちゃうよ。白田屋の若旦那にえらく気に入られてさ」

夢之丞「それも、若旦那のお知り合いが私に似ているからとか、おっしゃって」

綾之助「ああ、何か、よく似た人がいるらしいねぇ」

夢之丞「ええ、お侍とか」

綾之助「ふーん。でもさ、本当は、私が夢之丞になる筈だったんだよ」

市之丞「ああ、そんなことあったなあ」

綾之助「初舞台に上がる時に座頭から、名前、夢之丞でどうだいって言われたんだ

   けど。そりゃ、私達は夢を売る商売だからさ、悪くはないけど…。夢って

   さ、いい夢もあれば悪い夢もあるし、儚い夢で終わってしまうこともある

   し、夢が叶うって、そうないことだよね。そんなどっち付かずの夢なんぞ嫌

   だって、ナマ言ってさ。じゃ、何にすんだい、自分で考える、勝手にしろ、

   とかで」

夢之丞「その綾乃助と言うお名前はどこから」

綾之助「ああ、夢見るよりも、何か綾なす方がいいと思ってさ。彩なすもあるし、

   妖しいと言う響きもいいんで。綾乃助にしたのさ。それが、夢之丞と一緒に

   舞台やるとはね。あんたはさ、夢叶えるんだよ」

 

 別に役者になることを夢見た訳ではないが、ここまで来たら前に進むしかない。


夢之丞「はい、頑張ります」

市之丞「で、いつやるの。杮落しでやるの?」

綾之助「それはまだ決まってませんけど、年内にやることにはなってます」

市之丞「変化へんげものって、見る方は楽しいけど、やる方は大変だ」

綾之助「それだけやりがいがあるってもんです」

市之丞「また、見たいって声があったの」

綾之助「ええ」

市之丞「さすがだねえ…。あの、生意気小僧がさあ」

綾之助「兄さんのお陰です」

市之丞「そりゃ、そうだ。ははははは」

綾之助「ところで、夢さん、今幾つ」

市之丞「あっ、こいつ、十八よ」

----えっ!

綾之助「そう、じゃ、私と二つ違いだね」

夢之丞「えっ、そんなにお若いんですか」

綾之助「違うよ、私の方が上だよ」

夢之丞「はぁ…」

 

 どちらにしても、自分の実年齢より、年下ではないか。それにしても、十八とは…。


綾之助「まあ、お互い頑張ろうじゃないの」

夢之丞「はい、よろしくお願いします」

 

 と、綾乃助の後姿に頭を下げる夢之丞だったが、綾乃助が部屋を出て行くと市之丞に向きを変える。


夢之丞「兄さん」

 

 と、いつにない冷ややかな物言いをするも、市之丞は平然としている。


夢之丞「どうして、俺の歳、十八だなんて…」

市之丞「別に、いいじゃないか」

夢之丞「よかありませんよ。綾乃助さん、二十歳だそうじゃないですか」

市之丞「あのさ、これから売り出す者が、あんまし歳くってるのも良くないしさ。

   歳ごまかすなんて、この世界じゃ普通のことだよ。それにさ、綾乃助だって

   とっくに二十歳は過ぎてるさ」

夢之丞「えっ、綾乃助さん、もっと上なんですか」

市之丞「そうだよ、役者が馬鹿正直に自分の歳なんか言うもんか。いや、役者に歳

   なんかねえんだよ」

夢之丞「それにしても綾乃助さん、そんなに歳いってるようには見えませんけど」

市之丞「いつも、人から見られてるんだ。そんなんで歳なんか取ってられるかい」

夢之丞「そんなもんですか」

市之丞「そんなもんだ…あれ、これも、何とかしなきゃ」

夢之丞「何です」

市之丞「い、いや、こっちのこと」

 

 夢之丞こと清十郎にはお夏と言う妻がいる。


----最初っから、女房もちと言うのも…。

夢之丞「兄さん、兄さん、何をお考えで」

市之丞「ああ、いやいや、何か言ったかい」

夢之丞「あの『七化けお艶』の話の筋は?台本とかありましたら、見せて欲しいんで

   す。幾らなんでも筋も知らないでは」

市之丞「ああ、うちにあるよ。それより、今度は女形だよ。歩くだけでも大変だ」

夢之丞「はい」

 

 その後、市之丞の家に行き台本を受け取った夢之丞はその足でお駒の家に向かうつもりにしていた。ここのところ、帰りが遅かったから、たまにはお夏と連れ立って帰宅するのも悪くない。


市之丞「では、いい男が二人、道行と洒落ますか」

 

 そうだった。市之丞もお駒に会いに行くのだった。


お夏 「まあ、兄さん。えっ、お前さん…」

 

 お駒の様子から、何となく市之丞がやってくるような気がしていたが、夢之丞も一緒とは思ってもなかった。


夢之丞「姉さん、お邪魔します。いつもお夏が お世話になっております。そう言

   う、私も兄さんにお世話になりっぱなしで。もう、兄さん達には足向けて眠

   られないって、いつもお夏と話しておるような次第でして、本当に夫婦とも

   ども、有り難いことです。実は今日」

市之丞「あ、それは、後で」

 

 と、市之丞に止められる。そう言えば、いつもなら側で、足向けられないとか言えば、実際は足向けてるじゃないかとすぐに突っかかってくるお夏がすぐに台所に引っ込んだ。それだけ、台所仕事を一生懸命やっていると言うことだろう。だと、すれば、ちょっとお夏を見直してしまう、夢之丞だった。


お夏 「それじゃ、姉さん。今日はこれで失礼します」

 

 と、風呂敷包みを抱えたお夏が顔を出す。


お駒 「お疲れ様」

お夏 「さっ、お前さん、帰るよ」

夢之丞「今、来たばっかりじゃないか」

お夏 「何さ、役者のくせに気の利かない。邪魔するんじゃないよ」

夢之丞「ああ、そうでした」

 

 と、お夏に促され、お駒宅を後にする。


お夏 「もう、お前さんも気が利かないんだから」

夢之丞「いや、ちょいと、姉さんとも話がしたかったんだよ」

お夏 「あら、それ何持ってんの」

 

 夢之丞の持っている包みが気になるお夏だった。


夢之丞「お前こそ、その中身は」

お夏 「ああ、これ。これはさ、お寿司。姉さんが兄さんのために作ったちらし寿

   司。今日のお裾分け」

夢之丞「今日の?」

お夏 「時々、お裾分けもらってんの」

 

 実際は時々でもない。


お夏 「それより、それ、何よ」

夢之丞「ああ、これか、いいものだよ。実はさ、ちょっといい話があってさ」

お夏 「へえ、何なの、何」

夢之丞「あぁ、そりゃ、帰ってからゆっくり話すわ」

お夏 「そう、でもさ、こうして、お前さん一緒に歩くの随分と久しぶりだね」 

夢之丞「そうだな。俺が帰った頃には寝太郎のお前は寝てるし」

お夏 「お前さんの帰りが遅いからだよ」

夢之丞「それは仕方ない」

お夏 「いつだってそうなんだからさ」

夢之丞「おい、今日はここまでだ。いい話があるんだから。酒でも飲みながらっ」

お夏 「あっ、酒ないよ」

夢之丞「あれっ、もう飲んじまったのかい」

お夏 「いつまでもあると思うな、酒と金」

夢之丞「あぁ、寝太郎の前に飲み太郎のお夏さんだからな」

 

 そんな話をしながら帰宅するが、すぐに夢之丞は徳利をぶら下げ酒屋へと走る。その間にお夏は七倫に火をおこし、これまた、お駒のところから貰ってきたかまぼこで板わさを作る。


夢之丞「おや、今日は板わさかい。それに寿司とは豪勢じゃないか」

お夏 「お吸い物だってあるよ。その豪勢ついでに、いい話って何なのさ。大体見

   当は付くけどさ」

夢之丞「へえ、どんな見当だい」

お夏 「まあ、お前さんのいい話と言や、いい役が付いた。ひょっとして、主役と

   か」

夢之丞「よせやい、いくらいい話ったって、主役なんぞ夢のまた夢だよ。主役じゃ

   ないけど、ほら、お前も知ってるだろ。中村綾乃助さん」

お夏 「ああ、あのきれいな…」

夢之丞「その綾乃助さんから、舞台一緒にって声掛かったの。これってすごい事な

   んだぜ。で、これがその台本」

お夏 「七化けお艶か。で、お前さんこの中の何やるの」 

夢之丞「綾乃介さんの七変化の中の一つの役」

お夏 「何だ、それっぽっち」

夢之丞「それっぽっちとは何だよ。綾乃助さんと同じ場面に立って、どっちが綾乃

   助さんかって、客に思わせんの。あっ、それからさ、綾乃助さん幾つだと思

   う?俺より上なんだってさ」

お夏 「へーえ、そうは見えないよねぇ。せいぜい同じくらいかと思ってた」

夢之丞「そうだ。あのな、俺の歳、十八だって」

お夏 「何で、お前さんが十八なんだよ」

夢之丞「兄さんがそう決めたのさ。役者が馬鹿正直に自分の歳を言うもんじゃね

   え。役者に歳はねぇってさ」

お夏 「うーん、じゃ、私は十五だねぇ」

夢之丞「何で、お前が十五なんだ」

お夏 「だって、お前さんが十八なら、私も十五くらいじゃないと釣り合わない」

夢之丞「よせやい。俺のは営業用の歳だよ。それにいくらなんでも、お夏が十五

   にゃ見えねぇ」

お夏 「やっぱり、駄目か。十七位ならいけるかね」

夢之丞「お前は幾つでもいいよ。役者じゃないからさ」

お夏 「それじゃ、私の方が一つ年上になっちまうじゃないの」

夢之丞「それも、悪かあねぇな」

お夏 「こっちは悪いよっ」

 

 お夏と夢之丞がそんな話をしていた頃、市之丞もお駒と膳を前に飲んでいたが、やがて、それは愚痴へと変わって行く。


市之丞「あんな、ど素人を売り出すんだとさ…」

 

 市之丞にすれば、今は何とか立ち位置を確立したとはいえ、長い間、芽が出なかった。


市之丞「あの箸にも棒に引っ掛からなかった綾乃助をあそこまでしてやったのは、

   この俺なんだ。でもさ、綾乃助の奴はそれを忘れずにいてくれるから、まだ

   かわいいよね。ちょっと人気が出りゃ、態度でかくなる奴ばっかだ。でも

   さ、それは、そりゃ、世の常でもあるわ。だけどよ、夢之丞なんて、それこ

   そまだ、なーんにもわかってねぇ、赤んぼみたいなもんじゃないか。そんな

   奴を座頭は、どうやら本気で売り出そうとしてんだよ。なあ、お駒」

お駒 「そうみたいだね」

市之丞「でもさ、いくらなんでも早すぎると思わないかい。いや、それじゃ、後々

   夢之丞が苦労する、かわいそって言うもんじゃんないのかい」

お駒 「役者にも、旬と言うものがあるからさ」

市之丞「じゃ、俺の旬は」

お駒 「お前さんは今じゃないか」

市之丞「何て、遅い旬なんだ」

お駒 「ちょっと、遅咲きだっただけじゃないか。世の中には旬を迎えることなく

   終わる人もいるのにさ。今がさ、市さんと私の旬なんだよ。二人して迎えた

   旬じゃないか」

市之丞「そうだな」

 

 日頃はお駒のことなど、自分のために働く女くらいにしか思ってない市之丞だが、やはり、心のどこかが痛む時がある。それを、なぜかお駒の前で愚痴ってしまう。きっと、夢之丞が思ったより早く、売り出されようとしていることへの焦り、妬みがあるのだ。だが、夢之丞売り出しをお駒が勧めたことは知らない。


市之丞「だけど、いくら、何でも早すぎやしないか。夢之丞のこと。いや、俺、心

   配で言ってるんだよ。わかるだろ、俺ん気持ち」

お駒 「よくわかるよ。夢之丞が使い捨てにされないか、心配してるんだよね」

市之丞「そう!その通り!」

お駒 「市さんは、ホント、面倒身のいい情のある人だよ。だから、損をすること

   もある。でもさ、そこが市さんの、いいとこじゃないか」

市之丞「そうだよなっ。そうなんだよ。あの座頭がああやって、威張ってられるの

   もさ。俺によるところも多いにあるよな。そりゃ、俺は縁の下の力持ちかも

   しれねえが、この力ってすごいと思わないかい」

お駒 「思ってるさ。誰よりもこの私が一番思ってるよ。そうだろ」

市之丞「そう!そうなんだよな!もう、この俺の気持ちをわかってくれるのは、この

   世でたった一人、お駒ちゃんだけ!」

----都合のいい時だけ、お駒ちゃんね。

お駒 「だからさ、夢さんも真面目にやってるんだから、このまま面倒見ておやり

   よ。そんなね、恩を仇で返すような人じゃないよ」

市之丞「いや、それがさ。使い捨てにされるんじゃないかって、それを心配してん

   だよ。あの座頭ってさ、ああ見えて非情なところあんだよ。あの温厚そうな

   顔の下は、ものすごーく、計算高いんだ」

 

 この時代の一座の座頭とは、座元との交渉から演目まですべてのことを統括しなければならない。また、役者としての実力も問われる。それだけのことをこなすとなれば、時には非情であり、計算高くなくては到底務まらない。それくらい、頭ではわかっている市之丞だが、今回ばかりは、あんな、ほんの駆け出しの清十郎を売りだそうとする気が知れないのだ。


お駒 「うん、でもさ、こないだ座頭、言ってたよ」

市之丞「何を」

お駒 「近頃は、下手でも見てくれのいい方が女客が喜ぶんだって。だから、ある

   程度はそう言う役者を揃えないといけないって。そんな時に、市さんがいい

   の連れて来てくれたって」

市之丞「はいはい、やはり、俺は見えないところのつっかえ棒ですかね」

お駒 「違うよ、そう言う能力があるってことよ」

市之丞「よせやい、あん時だって、夢の野郎が仕事ないか、下足番でもいいからっ

   て言うから、ちょうどもう歳だから辞めたいって爺さんがいたんで連れてっ

   ただけなの」

お駒 「それをさ、巡り合わせって言うの。市さんさぁ、今、何か、いいように巡

   り合ってると思わないかい。色々と…」

市之丞「うん、言われて見りゃ…。いや!いいのは夢の方だけ」

お駒 「まだ、わからないのかい。私が言いたいのはさぁ。お前さんも座頭になれ

   る器だってことだよ」

市之丞「ひぇ。えっ、俺が座頭?それはちと…。そんな事、考えたこともねえよっ」

お駒 「だってさ、人を育てる能力あるし、私と言う戯作も付いてるし、演出だっ

   て好きだろ。あの場は、もっとこうすりゃいいのにとかよく言ってるじゃな

   いか」

市之丞「そりゃ、言うけどさ。いや、本当にそう思ってるからよ」

お駒 「そう言うことのできる人が座頭にふさわしいんだよ」

市之丞「そうかなあ…」

お駒 「後はさ、座元や贔屓筋との付き合いがうまく出来るようになれば、次は無

   理でも、その次くらいには…。そう思わないかい」

市之丞「……」

 

 市之丞は芸熱心な役者であるが、どうにもメンタル面が弱い。酔うとその当たりがぼろぼろ崩れて来る。そこをお駒がうまく持ち上げると言うのがいつものパターンなのだ。


お駒 「だから、夢之丞の面倒しっかり見ておやりよ」

市之丞「実は、その夢のことで相談があるんだよ」

お駒 「わかったわ。それじゃ、早い方がいいから、明日にでも話して見るよ」

市之丞「あのさ、俺、まだ、何にも言ってないんだけど。それで、わかんの」

お駒 「役者が歳ごまかすのってはよくあること。それと、最初から女房持ちって

   のも困るよね」

市之丞「その通り。で、どうしたらいい」

お駒 「どうするもこうするも、その通りにするしかないだろう。それで、夢さん

   はどこ住まわせるつもり」

市之丞「やっぱり、俺んとこだよね。で、お夏にはさ、お前から言ってくれない

   か。俺、どうも、あのお夏が、なんか、苦手でさ」

お駒 「わかった」

市之丞「助かるよ。それにしても相変わらずだね。あれだけで、俺の胸の内、読む

   んだから」

 

 別に胸の内を読まなくても、一人の役者を売り出すとなればやらなければならないことなど決まっている。先程は、座頭になれるなんておだてておいたけど、沖は暗い…。


お駒 「戯作者、なめてもらっちゃ困るよ」

市之丞「そうでした」

お駒 「おや、今日はいやに素直じゃないの」

市之丞「うーん。やっぱり、芝居って、台本だね…。役者がどうとか、衣装がどう

   とか、仕掛けが面白いとか言うけどさ、やっぱり、話の筋が、本が面白くな

   きゃ…」 

----やっと、気が付いたか。

市之丞「そうだよな。俺にゃ、お駒と言う強ぇ味方があったのだ。これじゃ、座頭

   も夢じゃねえ」

----そうそう、その調子だよ。

市之丞「俺もこれからは、さらに、頑張るからよ。お駒も、あっ、お駒さんは頑

   張ってくれてるよね。こりゃ、まった、失礼」

----それ、古い。

市之丞「ところで、今度の戯作も面白かったけどさ。外題げだい何にすんだい。決まった?」

お駒 「まだ」

市之丞「早く決めないと、刷りに回せないじゃないか」

お駒 「座頭は何か言ってた」

市之丞「まだ、感想聞いてないけどさ。あれの面白さがわからない様な座頭じゃな

   いよ」

お駒 「うん、でも、ちょっと書きなおしたいところがあってね」

市之丞「えっ、あれを?まだ、書きなおすのかい」

----きっと、座頭からは駄目出しされるだろう。

お駒 「少しね」

市之丞「あの、何かい。ああ言う戯作書くのって、書いた後でも、台詞の一言一

   句、頭に入ってんの?だとしたら、すごいね。もの書きの頭ってそう言うも

   んなんだ。俺たちゃ、自分の台詞覚えるだけでも大変な時があるのに…」

お駒 「一言一句と言う訳じゃないけど、頭には入ってるよ」

市之丞「そうか。じゃ、明日座頭に言っとくよ」

----座頭への道は遠そうだけど、でも、ここで、お前さんに気落ちされたんじゃ、私が困るんだよ…。












 








































  



 

















  


















 






















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