第66話 犬の生活


 犬は飼ってないのにどうしてと思っていると、拮平の声が聞こえる。


拮平 「あらぁ、駄目よぅ。まあ、申し訳ありません、この犬共々勝手に上がり込

   みまして」

真之介「お前が連れて来たのか」

拮平 「はい」

真之介「また、どうしたと言うのだ」

拮平 「実は…」

 

 兵馬が子犬を抱き上げる。


拮平 「実は、何でも屋から番犬にいかがですかって。まあ、この間の事もある

   し、番犬が居てもいいかなって。そしたら、犬は一匹ではなくて七匹もいる

   んだとか。それで、どこか他に飼ってくれるところはないですかて、頼まれ

   りゃ嫌と言えない、このあたし。先ずは隣の本田屋へ一匹、向かいの小間物

   屋に一匹と、何とか五匹までは貰い手を捜したんですけど、後、二匹がどう

   しても。で、こちらへも一匹。もう一匹は何でも屋がお引き取りになるそう

   です。そんで、ずっと犬を抱っこして歩くと言うのも、これが結構大変でし

   て。やっとの思いで、あたしがこちらにお着き致しましたら、この犬もここ

   が我が家とわかったんでしょうね。すぐにお走りになったような訳でござい

   ます」

 

 相変わらず敬語の使い方がおかしい拮平だが、これで異国の言葉が達者と言うのも妙なものだ。


拮平 「これは、兵馬様、奥方様もご無沙汰を致しております。犬、おかわいいで

   しょ」

 

 子犬は兵馬の膝の上で大人しくしている。


兵馬 「うん、かわいい」

拮平 「あの、兵馬様、よろしければお飼いになりませんか。真、いえ、こちら様

   へは何でも屋の犬を連れて参りますので」

兵馬 「そうだな、飼って見るのもいいかな」

拮平 「是非是非、そうなさってくださいませ。あの広いお庭を走り回れるのです

   から、この犬は本当に幸せ者です。そいから、真様もね」

真之介「いや、我が家の庭は狭いでな」

拮平 「まったまた、ろくに庭のない家でも飼ってますし、器用な忠助ちゃんに頼

   めば犬小屋なんてすぐに出来るでしょう」

兵馬 「ケンネルか」

拮平 「そうです、犬が寝るでケンネル」 

兵馬 「どうして、ドッグハウスと言わないのかな」

拮平 「あの、ハウスと言うのは人の住む家の意味でして、我が国でも犬小屋と

   言っても犬の家とは申しませんでしょ」

兵馬  「言われてみれば」

拮平 「あら、あの、真様。ほら、先日の蔵の鍵二つにしたの。お陰でお芳の奴、

   何か、当てが外れたような顔してましてね。ざまぁ…。それは良かったんで

   すけど」

真之介「ああ、鍵を持ってるで一々行き先を告げねばならぬことか」

拮平 「よくおわかりで」

 

 真之介が蔵の鍵を二つにするように拮平に言ったのは防犯のためもあるが、少しは家業に身を入れろという意味合いもあった。


拮平 「それが、ちと面倒で、そんなに蔵を開けることなんてないのに…」

 

 その時、お房が拮平を呼びに来る。


お房 「若旦那、お店の方がお見えになって、鍵がどうとかで」

拮平 「何だい、噂をすれば。よりによってこんなとこにまでやって来るとは、や

   れやれ」

 

 拮平は渋々立ち上がり、玄関で手代と何やらやり取りしている。その間に、兵馬に白田屋の泥棒騒ぎ、その後の話を聞かせれば、膝の子犬も驚くほど大笑いする。


兵馬 「ああ、久しぶりにこんなに笑いました」

 

 だが、拮平の方は笑うどころではなかった。


拮平 「あんだって!だから、あれほどあたしが言ったじゃないのさ。出かけるから

   さ。今日は大事なお犬様をお連れしようと、それこそ万障繰り合わせて行く

   のが、男の道ってもんよ!そんでもって、もう蔵に用はないかいって、あんだ

   け念を押したじゃないか!」

手代 「えっ?」

拮平 「それなのに、ああ、それなのにそれなのに。言わんこっちゃないったらあ

   りゃしない」

 

 番頭から蔵を開けると言われた手代はすぐさま拮平を呼びに行くが、これまたどこにもいない。


お熊 「若旦那でしたら、真ちゃんち行って来るって、犬っころ抱いて、浮き浮き

   とお出かけあそばされたよ」

 

 それも隣ではなく自宅の方だとか。それで、必死にここまで走ってやって来たのだ。そして、お房が汲んでくれた水を一気に飲み干し、今はすぐにも鍵を持って帰りたいのに、拮平の御託は終わらない。 


手代 「若旦那、それより早く鍵を」

拮平 「鍵?そりゃ、鍵は持ってるけどさ」

手代 「ですから、早く」

拮平 「でもさ、今来たばかりなんだよ。これからじゃないか」

手代 「それなら、私に鍵を」

拮平 「えっ、それもちょっと」

手代 「大丈夫です。決して落としたりしませんし、後はちゃんと、番頭さんにお

   渡します。何でしたら、お熊さんにでも」

拮平 「そうかい。そうだねえ、だったら、番頭の…。いや、お前が持っときな」

手代 「はい、では、早く鍵を」

拮平 「いいかい、決して、お芳なんぞに渡すんじゃないよ」

手代 「そりゃ、もう」

拮平 「あっと、おとっつぁんも駄目だよ。一番番頭も駄目だよ」

手代 「はい!ですから、早く!」

 

 手代は苛々しているが、それを見越したように拮平は懐から財布を、そこからわざとゆっくり鍵を取り出す。


拮平 「本当にお芳に触らせるんじゃないよ。おとっつぁんも番頭も駄目だよ。錠

   前を開けたらすぐに、鍵はお前が持っとくんだよ。いいかい」

手代 「はい、それはもう!」

拮平 「きっとだよ、絶対だよ。約束だよ」

 

 と、鍵を手代に見せ付ける拮平だった。


拮平 「いいかい、約束破ったら、何より、こちらの真様が黙ってないからね。そ

   の様な不届き者はこの刀の錆にしてくれるわって、ばっさり切られちまう

   よ。ここだけの話、真ちゃんてさ、本当は人を切りたくて侍になったんだか

   ら。そんでさ、侍にいくら無礼打ちが許されてると言っても、その後で取り

   調べなんかあって、これが結構うるさいんだけど、そん時ゃ、金で解決す

   るっ!てんだから。鬼に金棒ってこの事だね。いやさ、実際、このあたしも

   やられたことあんだよ。ああ、そん時のこと事思い出すと、今でも首の当た

   りがぞっとするよ。あれ、ぞぞっ…」

 

  拮平の首に冷たい感触が…。


真之介「早く鍵を渡せ。さもなくば、お前が帰れ」

 

 首筋の冷たさは、またしても真之介の刀だった。これで、何度目だろうか。いや、今はそんなことはどうでもいい。何とか、この状況から早く抜け出さなければ、本当に危険が危ないのだ。だが、体の一部である筈の手も動かない。こんな時こそ、手代が鍵を取ってくれればいいものを、こちらも腰が引けてしまっている。

 手代にしても、刀の抜き身など見るのは初めて。また、この時の能面の様な真之介の顔も恐い…。


拮平 「ふぁ、ふぁい」

 

 やっとの思いで、それも震えながら鍵を差し出す拮平。


----早く、取れよ。


 手代も意を決したかの様に鍵を受け取る。


手代 「あ、あの、確かにお預かり…。いえ、お返しもします。で、では、失礼致

   します」

 

 それだけ言うと、手代は足を縺れさせるように駆け出して行くのだった。


拮平 「あ、あの…」

----く、首の刀、早くどけてよ…。

真之介「これ、拮平!」

拮平 「はっ、申し訳ございません!」

 

 拮平は畳に頭をすりつける。


真之介「店の者が鍵のために、ここまで走って来たと言うに、面白半分に焦らすと

   は何事か。その様な事をさせるために鍵を二つにせよと言った訳ではない」

拮平 「あ、あの、その。お芳がぁ。ですから、鍵を渡す時に、くれぐれもお芳に

   は鍵を渡さないように。また、おとっつぁんや番頭に渡ってしまうと、これ

   また、返してくれないでしょうから。それで、念を押してたんですぅ!」

真之介「まあ、それもあるが、半分は焦らして楽しんでいたであろう。いつまでも

   子供の様なことをするでないわ」 

拮平 「以後、気をつけますでございます。では、これにて失礼をば。あの、犬

   の、ことよろ、よろしくお願いします」

真之介「折角来たのだ。昨日の西瓜が残っている。食べて行け」

拮平 「えっ、西瓜」

 

 西瓜が用意され、早速に食べる拮平と、兵馬は子犬にも西瓜を食べさせていた。


----ああ、命拾いした後の西瓜はうまい。あら、ワン公も貰ってるよ。兵馬様も、あれでお優しんだね。良かったね、ワン公。

 

 ふみと久も一応西瓜を口にするが、内心はそれどころではない。

 あの刀を抜いた時の真之介の顔がまだチラついている。

 芝居の悪党を赤っ面と言う。実際に顔を赤く塗っている。だが、本当の巨悪の顔は青白い。

 あの時の、拮平に刀を突き付けた時の真之介の顔がそれなのだ。役者の様に塗っている訳でもないのに、その顔は青白く見えた。

 だが、今の真之介の顔はいつもと変わることはない。それにしても、ほんの短い間とはいえ、ふみと久には衝撃的な光景だった。

 旗本の娘が御家人の許に、それも町人上がりのにわか武士の嫁ぐことになった。父の播馬にすれば、真之介とはやはり胡散臭い男でしかない。


播馬 「よいか。ふみを粗略に扱ったり、武士にあるまじき行いあらば、すぐに知

   らせよ」

 

 と、播馬に言いつかるまでもなく久も相応の覚悟の上、ふみの輿入れに付き添って来た。だが、それらはほんの杞憂でしかなかった。最初こそ、二人の間はぎこちなくやきもきしたが、真之介とは実によく気の付く、それでいてちっとも位負けしない男なのだ。


久  「ご心配には及びません。こちらは旦那様は立ち振る舞いに至るまで申し分

   のないお侍にございます」

 

 逆に、ふみと久は真之介の町人時代がイメージできない。この人が元商人でどのように客に対していたのあろうか…。

 その両方の真之介を知っているのが拮平であるが、それにしても、いくらなんでもあれくらいの事で、拮平に刀を突き付けるとは…。

 さらに、拮平は言っていた。


拮平 「人を切りたくて、侍になった」

 

 冗談にしても、タチが悪い。

 そんな思いを吹き消すかのように、西瓜を食べ終えた兵馬と拮平は楽しげに語らっているのだ。


兵馬 「ところで最近はどうなのだ」

拮平 「どうとおっしゃられますと」

兵馬 「まったまた、惚けおって。声掛けの方だ」

拮平 「いえ、それがさっぱりでして。もう、あの後妻のお芳が好き勝手やるもん

   ですから。特に…」

兵馬 「蔵の鍵を二つにしてからは、今までのように、ふらっと外に出る事も出来

   んか」

拮平 「ええ、もう、その通り。揚句が…」

 

 ここで、ちょっと声を潜める。


拮平 「命が幾つあっても足りませんよ」

兵馬 「さようか、では、今度は私もその一つをもらい受けるとするか」

拮平 「そんな、兵馬様まで。ああ、また、寒気がして来た…」

 

 そんな拮平がおかしくてたまらない兵馬だったが、すぐにその笑いは消える。


拮平 「そう言えば、兵馬様のところはそろそろお生まれになるのでは」

兵馬 「いや、まだ三月先である。本当に早く生まれてもらわねば困る」

拮平 「それは待ち遠しい限りですね」

兵馬 「いや、うるさくて叶わぬで。子を生むのは女の役目であるに、男に何が出

   来ると言うのだ。なのに、なんだかんだ言いおって、全くもってうるさい」

拮平 「でも、知り合いの医者に聞いたんですけど、胎教と言うものがあって、懐

   妊中は心穏やかに過ごした方がいいとか」

兵馬 「嫁も迎えておらぬのに詳しいことだな」

拮平 「それが、その医者と言うのがこれまた子供の頃からの友達でして。その当

   りの情報は自然と。でも、生まれたら生まれたで、これまた大変らしいと

   か」

兵馬 「生まれてしまえば、母も侍女もいるではないか。今は自分だけが辛い思い

   をしているとかで当たり散らしておるわ。全く、男にはどうする事も出来ぬ

   のに。困ったものだ」

真之介「女は命がけで子を生むのです。少しは労わってあげませんと」

兵馬 「ええ、それも兄上に教えられてやってみましたけど、駄目でした。一言言

   えば、二倍三倍にもなって返ってきます。そのくせ、自分の気持ちをわかっ

   てくれないとか何とか。もう、お手上げです。今は嵐の過ぎ去るのを待つの

   みです」

拮平 「でも、ご自分のお子が生まれるなんて、どんな気持ちです?私なんか、そ

   んなのは遠い先の事でしかないのですけど」

兵馬 「だから、言っておるではないか。うるさい限りだと。早く、実家に帰って

   くれればいいのに」

 

 真之介は拮平に、その話はもうするなと目で訴える。

 つまるところ、どっちもどっちなのだ。兵馬の妻の園枝は三歳年上のふみと同い年。その、ふみの輿入れが決まったものだから急に焦りだす。このままでは、自分が旗本唯一の売れ残りとなってしまう。何とかしなくてはと思い、そこで目を付けたのがふみの弟の兵馬だったと言う訳だ。ちょっと誘いをかければホイホイと付いて来た。そして、すぐに妊娠してしまう。そこであわただしく輿入れとなるのだが、当の兵馬は祝言の三日後にがっくりとしてやって来たものだ。


真之介「一体、どうなされたのです」

兵馬 「それが…。朝起きたら隣に知らない女が眠っておりました」

真之介「子までなしておきながら、知らない女はないでしょう」

兵馬 「それが、化粧を落としたら、全くの別人なのです。まさか、あれほどに差

   があるとは…。いえ、姉上はその様な事はありませんので、ご心配なく」

 

 と、余計な事まで言う。


兵馬 「で、その知らない女と食事をしていますと、急にうえぇとやり出しまし

   て、もう、気持ち悪くて気持ち悪くて、食事どころではありません」

真之介「それは、つわりと言うもので、致し方のないものです。私の母が妹を身ご

   もった時もそうでした。いずれ、治まります」

兵馬 「それでも、どうしても駄目なのです…。そうだ、姉上。何か食べさせてく

   ださい」

 

 元服したとはいえ、まだ十六歳の男が急に父親になると告げられても戸惑うしかない。何より、兵馬が妊娠と言う事態に、嫌悪感を持っていることだ。 


----先が思いやられる。


 その後はエゲレス語や互いに仕入れた異国の話などで盛り上がり、兵馬は借りた本を持ち、供の源助が子犬を抱いて帰って行った。


真之介「本当に、よろしいので」

 

 真之介もふみも、園枝の懐妊中に子犬を飼うのは控えた方がよいのではと説得を試みるも、兵馬は意に返さなかった。

 だが、翌日、早速に子犬は返品されて来た。


源助 「それが、案の定…」

 

 源助が言うには、兵馬が子犬を連れて帰っただけでも気分の悪い園枝だったが、その子犬が庭から園枝の部屋に上がり込んで来た。


園枝 「汚らしい!」

 

 園枝は子犬を掴み庭へ投げつけた。幸い草の生えた柔らかいところに落ちたので子犬は無事だったが、それをちょうど兵馬が見てしまい、またも激しい口けんかの応酬となる。


兵馬 「命あるものをその様に扱うとは!」

園枝 「では、腹の子供の命はどうでもいいのですか!」

兵馬 「誰もその様な事は言ってはおらぬわ!生まれて来るのはまだ先のことではな

   いか」

園枝 「その様子では、生まれてからも我が子より犬の方を大事にされることで

   しょう」

兵馬 「うるさい!犬とわが子を一緒にするでない」


 騒ぎを聞き付け、播馬と加代もやって来る。


播馬 「またしても、何を言い争っておるのだ!」

加代 「兵馬も少しは妻を気遣いなさい」

 

 園枝がそれ見たことかと言う顔をしている。


加代 「一体、何があったと言うのです」

園枝 「母上、この犬が土の付いた足で部屋に上がって来たから追い払ったので

   す。それを兵馬殿がお怒りになって…」

播馬 「この犬はどうしたのだ」

兵馬 「兄上のところから譲り受けたのです」

播馬 「真之介の奴め。後継ぎが生まれると言うに、こんな犬など押し付けおっ

   て、許せぬ!犬を連れてまいれ!これから行って締め上げてくれるわ!」

兵馬 「いや、あの、父上。わかりました、明日、犬は兄上の許にお返しします。

   別に兄上に押し付けられたのではなく、白田屋が持って来た犬を私がもらい

   受けただけですから」

播馬 「あの白田屋め。さては、二人して夜遊びの口実に、ふみにこんな犬をあて

   がうとは。許せん!」

 

 播馬はふみに子が出来ないのは、真之介の夜遊びのせいだと思っている。


播馬 「子作りを何と心得ておる」

 

 憤懣やるかたない播馬だった。

 そんな事だろうと思った…。


源助 「申し訳ありません」

真之介「私は構わぬが、その事でまた園枝殿と険悪にならねばよいが」

 

 いや、もう既になっているのだ。兵馬と園枝の事もしかりであるが父の播馬にすれば、やはり真之介は気にいらぬ婿なのだ。この犬の事で、また真之介の心証が悪くならねばと、ふみにはその方が気になる。


----色々、良くしてもらってるのに…。


 だが、犬を置いて帰った筈の源助がまたも引き返して来る。それも、今度は園枝と一緒なのだ。


源助 「その先で奥方様とお会い致しまして」

ふみ 「まあ、園枝殿、大丈夫ですか、お疲れになられましたでしょう。早くお上

   がりください」

園枝 「お邪魔いたします。いえ、姉上、先日も申しましたように少しは動いた方

   がいいのです。ですから、犬も私がお返しに上がろうと思っておりましたの

   に…」

真之介「これは、お越しなされませ」

 

 真之介も出迎えにやって来た。子犬はお房が裏庭に連れて行き、茶菓子は久が出した。


園枝 「まあ、この度は勝手を申しまして。いえ、私は別に犬が嫌いと言う訳では

   ございません。実家にも犬は居りましたし、いずれは飼うのもいいかと思っ

   ておりましたけど、昨日いきなり兵馬殿が犬を連れて帰ったと思ったらすぐ

   に庭に放しました。それはいいのですけど、その犬が泥の付いた足で座敷に

   上がり私の側にやってきたものですか、払いのけたのです。それを私が犬を

   投げつけただなんて…。源助がその様に言ったのではありませんか」

ふみ 「いいえ。ただ、犬の毛は妊婦に悪かろうと、母上が申されたと聞いており

   ます」

園枝 「そうなのです。実家の犬は決して座敷に上げなかったのです。ですから、

   もう、私は驚いてしまって。でも、折角の兄上のご厚意を無にするようです

   けど、今、犬を飼うと言うのは…」

真之介「これは、こちらも配慮に欠けておりました。申し訳ございません」

園枝 「いえ、そんな。ですから、私がお返しに上がろうと思っておりましたの。

   でも、この体では、思うように動けませんもの。それで一足遅れてしまった

   様な訳ですの。どうぞ、お気を悪くされませんように」

真之介「気を悪くするなど、とんでもない。こちらこそ、返ってご足労をお掛け致

   しまして」

園枝 「そう言えば、こちらに伺うのは私、初めてでしたわ。それなのに、この様

   な事での訪問とは心苦しい限りですわ。それにまあ…」

 

 と、しゃべったかと思えば茶を飲み、饅頭を食べると園枝の口も閉じることを知らないようだった。ふみは、雪江と同じだと思ったが、今の園枝は妊婦なのだ。

 その時、またも子犬が入って来る。そして、続く足音。


拮平 「ちょっとぉ、駄目よぉ」


 またも、拮平だった。


拮平 「えっ、あの、お客様…」

 

 慌てて廊下に手を付く拮平だった。犬は久が抱いて部屋を出る。


拮平 「これは大変失礼をば致しまして、申し訳もございません」

 

 と、頭を擦りつけたまま、さすがに恐縮している。後ろでお里も這いつくばっていた。


真之介「お前は何をまた。これは重ね重ね申し訳ない事です。この者が例の白田屋

   の拮平でして、この通りの礼儀知らずで、さぞ驚かれたことでしょう」

園枝 「まあ、これがあの白田屋ですか」

真之介「これ、拮平。こちらは兵馬殿の奥方であられる。ご挨拶を」

拮平 「はっ、あの、お初にお目にかかります。白田屋にございます。また、本日

   はお日柄もよろしく、奥方様にはうる、うるうるされまして、誠に恐悦しご

   ろごろごろ…」

真之介「これ、何を言っておるのだ、もうよい。本当に申し訳ございません。すぐ

   に追い払いますので」

園枝 「白田屋とやら。その様に畏まらずともよい」

拮平 「はっ、ありがとうございます。その様におっしゃって頂きますと、もう、

   感謝感激どしゃぶりの雨でございます」

真之介「ところであの犬は」

拮平 「あっ、あの、実は昨日こちらよりの帰り道で、何でも屋に会いまして」

園枝 「白田屋、構わぬ。入るがよい」

 

 と、園枝に言われ部屋に入る拮平だった。


園枝 「それで、何でも屋とはどの様な」

拮平 「まあ、その名の通り、小さな雑用から身元調査まで何でもやるのでありま

   して、近頃は江戸の町にも高齢者が多く、それこそ、飼い猫の捜索やら話し

   相手やらで、そこそこに繁盛しているようでございまして、これがまた、こ

   の何でも屋とは子供の頃からの知り合いなのでありまして、それはもう大変

   なのです。この間も」

真之介「拮平」

拮平 「はい、あっ、何の話でしたっけ。ああ、犬が何でも屋に用がありまし

   て…」

真之介「茶でも飲んで落ち着け」

拮平 「あ、はい。あら、お里、お里」

 

 お里はそっと菓子折を差し出す。さすがにいつもと勝手が違う。それにしても、拮平が菓子折り持参とは珍しい。


拮平 「遅くなりまして、これはほんのつまらぬものですが。えー、あの、真様、

   私めはどこまでお話し致しましたでしょうか」

真之介「昨日の帰りに何でも屋に会ったとこまでだ」

拮平 「そうでしたそうでした。さすがは真様、物覚えがいい。記憶力も確か」

----お前が悪いのだ。

 

 この時点で既に園枝は笑っている。


拮平 「その何でも屋に、あの犬は兵馬様がお引き受け下さったと申しましたら、

   では、もう一匹はこちらへお届けしようとかで別れたのですけど。それがま

   あ、何と申しましょうか、今朝も早よから、勝手口叩き、お陰で私も叩き起

   こされ。何もこんなに早くから犬持ってくんじゃないよって言う間もなく、

   仕事のついでに寄ったとかで。随分早い仕事があるもんじゃないのってとこ

   から、今はもう夏、誰も朝早い、気が付かないのは若旦那だけとかぬかしや

   がって、挙句に犬押し付けたと思ったら、一目散に走り出す始末。ちょ、待

   てよ、と言ったって聞こえやしない聞きやしない。一体、どっちなんだい、

   はっきりしろい!てなことで。犬持って来たという話のお粗末でした」

 

 園枝も侍女も笑いが止まらない。


拮平 「それで、今日は兵馬様はご一緒ではないので」

真之介「それが、今は懐妊中であるゆえ、やはり子犬はよろしくないと母上がおっ

   しゃられたとかで、園枝殿がこうしてわざわざ犬を届けに参られたような次

   第である」

拮平 「あら、では、今、こちらには子犬が二匹におなりあそばされたと言う訳で

   すか」

園枝 「まあ、では、ご迷惑でしたかしら。それなら、やはり一匹連れて帰りま

   しょうか」

真之介「いえいえ、ご心配には及びません。引き取り手はすぐに見つかります。そ

   れよりも、今はお体を大切に」

園枝 「ありがとうございます。本当に兄上はお優しいのですね。兵馬殿とは違い

   ますわ」

真之介「それは、兵馬殿はまだお若い故」

 

 その若さに付け込んで、デキ婚に持ち込んだのではないのか。


真之介「私にも年の離れた妹がおりますが、やはり、まだ、何もわかってはおりま

   せん。これから、お子様がお生まれになれば、兵馬殿も父としての自覚も芽

   ばえられ、しっかりなさることでしょう」

園枝 「だといいのですけど…。それにしても、白田屋とは随分面白いのですね。

   こんな事なら、もっと早くこちらにお邪魔するのでしたわ。何しろ、屋敷内

   ではあまり笑うことも無く…」

拮平 「それは、何と申しましょうか。兵馬様はお旗本の嫡男でございまして、お

   屋敷では威厳を保た、保たたた、なんでございますよ」

 

 これまた、噴き出してしまう園枝だった。こう言う時の拮平の能天気さもいいものだ。


拮平 「もう、私なんざ、もう、毎日がそれはしどいものでございまして。うちの

   後妻のお芳と来たら…」

園枝 「何と、まだ若いのに、もう後妻とは…。さては」

拮平 「いえいえ、違く、違くないです」

 

 またしても、言葉がおかしい。


拮平 「それが、私めの後妻ではなく、その後妻と言うのは、うちの親父、父上の

   後妻でして」

園枝 「さようか」

拮平 「この後妻のお芳と言うのが、もう、しどいのなんのって、しどい」

真之介「実は、その後妻は、拮平と同い年なのです」

園枝 「まあ!」

 

 なぜか、それがツボにハマった様で、さらに、笑いの止まらない園枝だった。


拮平 「あの、奥方様。お笑い中ではございますけど、それはもう、私の身になっ

   て見れば、聞くも涙、語るも涙の物語でございまして…。もし、奥方様」

園枝 「ああ、これはすまぬ。つい…。それでは今度は泣かせてくれるのか」

拮平 「はい、それはもう、こちらのお屋敷が水浸しになるほど」

園枝 「それは楽しみ、いや、では、その悲しい話とやらを」

拮平 「実は、実はでございます。ある日のこと、うちの親父が後添えを迎えたい

   と言い出しまして。その時は、これからの親父の面倒を見てくれる人が出来

   るんだと喜んでいましたら、それが何とまあ、よりによって、息子と同い年

   の嫁だなんて。まあ、親父がいいのならといいかとうっちゃって置いたのも

   束の間の床の間。嫁に来る前から、このあたしを、それまでの子供の頃から

   ずっと使っていたあたしの部屋から追い出しやがったんですよ」

園枝 「何と、それで、黙って追い出されたのか」

吉平 「それが、何てたって、おとっつぁんがその後妻、お芳って言うんですけど

   ね。そのお芳の言いなりなんですよ」

園枝 「それで」

拮平 「だもんで、祝言して正式に輿入れして来てからは、もう、やりたい放題の

   し放題の使い放題の食べ放題の飲み放題!正に放題の五重塔!お陰で、今や我

   が家の財産は五百両ぽっちにまで激減!その激減した金の行き先のほとんど

   が、こちらの真様のご実家、隣の本田屋の蔵の中。もう、新柄と言う言葉に

   弱くて弱くて…。そのしわ寄せはすべて、このあたしに」

園枝 「したが、拮平。お前の嫁は何も言わぬのか」

拮平 「……」

真之介「拮平にはまだ嫁はおりません」

拮平 「ええ、親父がお芳に金を使ったお陰で、当分、金のかかることは無しって

   ことになりまして。このままではあたしの嫁娶りなんざ、いつの事やら。も

   う、お芳の腹ん中と一緒でお先真っ暗、くらくらくらっ。ああ、目が回る…

   ホント、かわいそうな僕…。思えば、あれは、何年前でしたっけ」

真之介「十年前」

園枝 「えっ、兄上、それだけでおわかりになるのですか?」

真之介「はい、もう、生まれた時からの付き合いですから」

----それを腐れ縁と言う。

拮平 「ええ、そうなんです。真様の方が三日違いのアニさんでして。それからは

   ずっ~と一緒。歩き始めたのも一緒なら、麻疹に罹ったのも一緒。ただ、

   違っていたのは、真様には姉さんがいて後に弟と妹が増えたこと。そう、

   私ゃ寂しい一人子なのでありました。でも、隣に真ちゃん、当時はそう呼ん

   でました。真ちゃんが居てくれたから全く寂しくなかったのであります。姉

   さんもやさしくてね。その姉さんがついにお嫁入り。祝言の日に、真ちゃん

   と二人、固く契ったのであります」

----それを契ると言うか。

拮平 「将来俺達も嫁をもらうよね。そん時にゃ、同じ日に祝言しようねって。男

   と男の約束。それなのに、ああ、それなのにそれなのに…。よりによって、

   親父と同じ日に祝言するなんて。この裏切り者!」

真之介「それは、お前が親父さんに先を越されるからだ」

拮平 「それなら、もちっと、待ってくんなまし」

真之介「そうはいかぬ」

拮平 「そこをなんとか」

真之介「いつまでもそんなことを言ってるから、兵馬殿にも先を越されたではない

   か」

拮平 「そうでした…」

園枝 「それは気の毒に」

 

 園枝は袖で口元を隠しながら言うも、それは笑いを隠しているに他ならない。また、園枝だけでなく、そこにいる全員が必死で笑いを堪えていた。


拮平 「まあ、それからは真様はこうしてお幸せにお暮らしあそばされ、一番若い

   兵馬様にはお後継ぎがお産まれになられる…。それに引き替え、来る日も来

   る日も、後妻のお芳にいじめられる、かわいそうな僕…」

真之介「ところで今日は、鍵は大丈夫なのか。以前、白田屋に泥棒が入った話は致

   しましたが、その後で、私が蔵の鍵を二つにする様に提案しまして、そのも

   う一つの鍵を拮平が常に持ち歩いているのですが、昨日、我が家に来ていた

   折に、店から蔵の鍵がいると知らせがやって来たのです。すぐに鍵を渡して

   やればいいのに、何だかんだと御託を並べるものですから」

拮平 「ホント!真様って恐しい人…。もう少しで首を切られるとこでした」

園枝 「首を?」

 

 これにはさすがの園枝も驚きを隠せない。また、ふみと久もその時のことを思い返していた。


真之介「そうでもしなければ、鍵を渡そうとしないからだ」

園枝 「ついでに切ってやればよろしかったのに」

真之介「あっ、そうですね。では、この次はそう致しましょう。これ、拮平、園枝

   殿からお許しが出た故、次は覚悟しておけ

拮平 「そんな、奥方様。ご冗談のきつい」


 園枝はたまらず吹きだし、釣られて一同の笑いが起きる。


拮平 「あら、嫌だ。何なの、このしどい笑い。こんなにも恐ろしく悲しいお話な

   のに、どうしてみんな笑ってられんの。どうして、どうして…。しどい。

   やっぱり、かわいそうな僕」

園枝 「許せ」

 

 何とか、笑いを終えることが出来た園枝だった。


園枝 「誠に気の毒な話であったが、人と言うものは本当に悲しい時には涙を通り

   越して、笑ってしまうものであろう。うれし涙もある様に。それで、つい、

   笑いが出たと言う訳だ。ほっほほほほぉ。笑いすぎて、ほれ、このように涙

   も出て来たではないか。ああ、悲しい話であった」

女中 「奥方様、私も悲しくて、涙が止まりません」

 

 園枝に付いて来た女中も泣き真似をしている。


拮平 「あらま、そんなこんなで、私の話に感激のあまり、饅頭が饅頭になってん

   じゃございませんか」

園枝 「饅頭が饅頭?」

拮平 「それは、俗に暇なことをお茶を引くと申しますでしょ。そのお茶に付きも

   のなのが饅頭でして、茶を挽くとは言わずに饅頭と言ったりします。それで

   饅頭が饅頭な訳でして」

園枝 「なるほど。たまには町方の者と触れ合うと言うのも中々に面白いものであ

   るわ。では、饅頭が饅頭にならぬよう、白田屋の饅頭も頂くとしよう」

拮平 「いえ、それはあの、こちらの真様のご実家のお母上からお預かり申したも

   ので」

真之介「お前は母から預かったものをつまらないものと言うのか」

拮平 「人にものを差し出す時には、つまらないものって言うでしょ」

真之介「それは自分が買って来たものに対して言うのであって、人から預かったも

   のを…」

拮平 「では、これからは、つまるものをお持ちいたしましたといいましょうか」

真之介「これが、親と隣人は選べないと言う、お粗末にございます」

 

 一同はまた、笑いに包まれ、園枝は上機嫌で帰って行った。


拮平 「それで、あの犬は、どう致しましょうや」

ふみ 「構いませぬ。こちらで引き取り手を捜します」

真之介「そう言えば、犬はどうした」

 

 犬を裏に連れて行った筈のお房が湯のみを片付けている。


お房 「ああ、忠助さんが囲いを作ってくれましたので、二匹ともその中に」

拮平 「では、私もこれにて失礼します」

ふみ 「今日こそ、ゆっくりして行けばいいものを」

拮平 「何とおやさしい奥方様よ。うちのお芳なんぞとは月とすっぽん。でもだっ

   て、やはり、帰らなければお芳がヒステリを起こしますので」

ふみ 「ヒステリ?」

拮平 「おや、真様。ヒステリをお教えになってないのですか」

真之介「どうして、その様な言葉を教えねばならないのだ」

 

 ふみと久も真之介にエゲレス語を教えてもらい、挨拶程度は出来るようになっていた。


真之介「日本語も怪しいくせに、不必要なエゲレス語ばかり覚えおって」

 

 そして、知り合ったエゲレス人に日本のガラの悪い言葉を教えるのだ。


拮平 「ですから、ヒステリと言うのは、何か、女がこう、いっーてなる時がある

   でしょ」

ふみ 「……?」

拮平 「あれ、おわかりになりませんか」

真之介「これ、こちらは旗本の姫である。お芳などと一緒にするでない」

拮平 「これは失礼をば。では、更年期はご存じですか」

ふみ 「更年期とは」

拮平 「ああ、奥方様はまだお若いので、関係ないですけど、女も少し年を取りま

   すと、何か苛々したり、訳もなく汗が出たりして、鬱になったり、逆に躁に

   なったりとか…。うちのお芳が今まさにその更年期なんですよ」

 

 ふみにはさっぱりわからない。


拮平 「本当は、更年期ってのはもっと年取ってから、大体三十過ぎてからなるそ

   うですけど、近頃は若くてもなってしまうとかで。だから、もう、すぐに怒

   りだしたり、喚いたりと、手が付けらんないっ、です」

 

 やはり、ふみにはまだ、よくわからない。


拮平 「では、私とお里はこれにて失礼いたします。後はお二人で仲良くやってく

   ださいまっせ」

 

 久は、お里に小遣いを握らせる。 

 拮平とお里が帰った後、裏庭に行くと簡易な囲いの中で、二匹の子犬がじゃれ合っていた。 


ふみ 「かわいい…」

 

 と、ふみが一匹を抱き上げれば、久ももう一匹に手を伸ばす。


久  「本当、かわいいですね」

ふみ 「旦那様、二匹とも飼ってはいけませんか」

真之介「命あるものを飼うことは大変なことだ。慣れないうちは一匹の方が良い。

   もう一匹はどこか捜してみる」

 

 そのもう一匹も忠助手製の犬小屋付きで、向かいの老夫婦が飼ってくれることになり、ホッとしたふみだった。


ふみ 「旦那様、更年期って何ですか」

真之介「知らぬ」

ふみ 「でも、白田屋が申しておりました」

真之介「知らぬものは知らぬ」

ふみ 「そうですか、旦那様にもおわかりにならないことがあるのですね。では、

   ヒステリとは」

真之介「まあ、簡単に言えば、時として感情の起伏が激しくなることことだ。多分

   今のお芳がそうなのだろう」

ふみ 「そうですか…」

 

 と言いつつもためらいを見せるふみだった。


ふみ 「あの、旦那様」

真之介「今度は、何でござるかな」

ふみ 「あの、別に、人の懐具合を探ろうとか言うのではないのですけど、ちょっ

   と気になりまして…」

真之介「それで」

ふみ 「あの、白田屋の全財産が五百両とは思えないのですけど」

真之介「あぁ、どうして、そう思うのだ」

ふみ 「どうしてとかではなくて…。勘です」

 

 これは意外だった。いつの間に、ふみにそんな勘が働く様になったと言うのだ。


真之介「左様か。確かにあの千両箱には五百両の金しか入っていなかった。だが、

   千両箱が一つとは言ってない。しかし、ふみ殿にそれがおわかりになると

   は…」

ふみ 「はい、旦那様のお側に居りますと…。ご実家に行きますれば、何かと耳に

   しますし…。流通関係の本もあります」

真之介「それは、勉強熱心な事で…」

 

 だが、それでは困るのだ。ふみに商売に興味を持たれては困るのだ。


真之介「ならば、犬のしつけもして頂かねば」

 

 一応、犬小屋は作ったものの、子犬と言うことでまだ部屋飼いをしているが、それこそ部屋から部屋へと縦横無尽に走り回り、今も入って来た早々にごみ籠をひっ繰り返してしまう。


ふみ 「あら、まあ、いけません、駄目です」

 

 子犬にはそれすら構ってもらってうれしいことなのだ。今度は、ふみにじゃれて来る。


真之介「それと、かわいいからと言って、何でも食べさせぬように。特に葱、ニラ

   の類は食べさせぬように」

ふみ 「えっ、葱が駄目とは。人と同じものを食べさせてはいけないのですか?ど

   うして」

真之介「犬と人間は違うと言うことだ。詳しくは知らぬが、駄目なものは駄目だ」

ふみ 「そうなのですか」

真之介「また、甲殻類もいけない。それと、味の付いてないものを食べさせるよう

   に」

ふみ 「えっ、味が付いてなくてはおいしくないのでは」

真之介「犬と人では味覚が違うのだ。野生の生き物たちは基本生のものを食べてい

   る。それだけでなく、この小さい体では塩分の取り過ぎになってしまう」

ふみ 「お向かいの方たちは、そのことをご存じでしょうか」

真之介「お向かいは初めて犬を飼われる訳ではないのでご存じだろう」

ふみ 「では、知らないのは、私だけ。それにしても、随分と大変なのですね」

真之介「そうだ、生きものを飼うと言うことは大変なのだ。それと、名前は決

   まったか」

ふみ 「まだでした…。そう言えば、この犬、雄ですか、雌ですか」

真之介「雌だ」

ふみ 「どんな名がよろしいでしょうか」

真之介「任せる。犬は飼い主に似ると言うから、しつけもしっかり致さねば」

ふみ 「飼い主に似るのなら、大丈夫です。旦那様の様な犬になってくれれば言う

   ことはありません」

真之介「犬と一緒にするでないわ。それに、その犬は雌だ、と言うことは」

ふみ 「まあ、私に似てくれれば、うふふふふ」

真之介「何だ、その笑いは。とにかく、任せる」

 

 当分は犬のことに、いや、このままずっと犬に、ふみの気が向いて欲しいと願う真之介だったが、膝の上の犬を撫でながら、またも、ふみは恐ろしいことを言いだす。


ふみ 「あの、旦那様。その、商売で一番難しいこととは何でしょうか」

真之介「何だと思う」

ふみ 「それが…」

真之介「売るためには何をすればいいのかと言うことだ」

ふみ 「そうですね。売るためには、先ずは仕入れなくては。やはり、仕入れです

   か。それとも資金ですか」

真之介「確かに、仕入れも大事である。ものを見極める目を持たなくてはならな

   い。では、仕入れてからはどうする」

ふみ 「仕入れてからは店に並べ、客に勧めます。それもむやみに勧めるのではな

   くて、客の要望に合ったものを勧めなくてはいけません」

真之介「だから、勧めるためにも、何をしなくてはいけないかと言うことだ」

ふみ 「ですから…。客の好みも見極めなくてはいけないと言うことですか」

真之介「その前に」

ふみ 「その前…。何でございますか」

 

 その前に何があるのだろう。


真之介「値を付けることだ」

----えっ、そんなこと。

 

 ふみは拍子抜けする思いだった。


真之介「どんなものでも、値の付いてないものは売れぬ」

ふみ 「確かに…」

 

 言われてみればその通りであった。


真之介「これが一番難しい。あまりに高くては手が出ぬ。では、逆に安ければ売れ

   るかと言えば、これまた、そうでもない。一反の布をいくらで売るかで、延

   々協議する事もある」

ふみ 「値を付けることが、そんなに大変なことなのですか」

真之介「ある時、どうにも売れぬ反物があった。適正な値を付けたつもりだったの

   に売れない。売れなければ、普通値を下げるが、その時は逆に値を上げた。

   すると、売れ出した」

ふみ 「高くなったのに、売れるのですか…」

真之介「人の心理とはそう言うものだ。安ければ不安になり、ちょっと高めのもの

   を買いたがる。故に、商売で一番難しいことは、値を付けることだ。これは

   どの商売にも当てはまる」

ふみ 「そうなのですか…」

 

 と、考え込むふみの子犬を撫でる手は止まっていた。子犬は撫でてもらえなくなったからか膝から降りると、好奇心旺盛な犬は走り出していた。


ふみ 「私も少しは商売の仕組みがわかったつもりでおりましたけど、まだまだで

   すね」

真之介「しかし、この様なことは…」

 

 真之介は後悔していた。今までも聞かれれば答えていた。初めの頃は珍しさで聞いていたふみだったのに、いつの間にか興味を持ち始めていた。しかし、これでは困るのだ。真之介のそんな思いを察したかのように、ふみは言う。


ふみ 「大丈夫です。商売のことはわからなくても、今の旦那様のお気持ちはわか

   ります。この様なことは私の実家の父や母、実家の方たちの前では決して口

   に致しませんので、どうぞ、ご心配なく」

 

 真之介はこの時ほど、ふみにも子が出来てくれたらと思ったことはない。いや、一日も早くその兆候が現れて欲しい。ふみが商家の嫁化してもらっては困るのだ。



 






















 
















  

   










 






























 











 







 






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