第61話 猫じゃらしの家 

 庭に猫がいた。

 きっと、この先の猫屋敷の猫だろう。今までにも猫が迷い込んでくることはあった。猫とは不思議な動物で、不安定な場所でじっとしている。とにかくじっとしている。何もしないでじっとしている。だが、いつの間にかいなくなるのも猫である。お房は猫を見るとすぐに追っ払う。


お房 「油断してるとすぐに台所に入りこんできます」

 

 お房も取り立てて猫が嫌いと言う訳ではないが、台所に入られるのがいやなのだ。それは、ふみも同じで、庭にいるだけならいいが、土の付いた足で座敷を歩かれてはたまったものではない。それも、よその猫なのだ。


ふみ 「久、猫屋敷のこと、何か聞いてない」

久  「取り立てては」

 

 いつの時代も女は結婚によって、その後の人生が左右されてしまう。

 ふみの場合は、旗本の娘でありながら、家の窮乏を救うために町人上がりの御家人の妻となるに当たって、結納金を百両と吹っ掛けたものだが、百では割り切れると三宝に切り餅五つ、百二十五両積まれていた時はさすがに声も出なかった。その後の両家の顔合わせで、夫となる真之介がこの婚礼にあまりのり気でない様子が気になったものの、今更引き返すことなど出来ない。

 輿入れしてからは、どこの夫婦もそうかもしれないが初めはぎこちなかったものだが、それまでの息を潜める様な暮らしからは一変する。楽な暮らしは想定していたが、家の中には異国の珍品があり、書棚にはエゲレス語や流通関係の本など多々ある。また、義実家となる呉服屋の造りは平屋しか知らないふみにとっては楽しいドリームハウスだった。

 肝心の真之介の性格も良く、このことは仲人である坂田夫妻に感謝している。

 だが、結婚と言うものは夫やその親族とうまくいけばそれでいいと言うものではなく、当然隣近所との付き合いもある。ふみも特に向こう三軒両隣とは日常の挨拶やお裾分けなどの付き合いはしっかりしている。

 だが、少し先の奥まった所に猫屋敷と呼ばれている家があるそうだ。その家の住人が猫好きで、多い時には猫が二十匹以上いたとか。今はそれでも十匹あまりいると言う。その猫屋敷には両親と娘一人が住んでいるが、息子もいたようだ。いたようだと言うのは、もう、ここ数年、息子の姿を見た者はなく、さりとて死んだと言う話も聞かない。また、ふみよりずっと年上の隣の妻からして、その家のことはよく知らないという。

 そんなある日、またも猫がやってきた。そう、先日と同じ猫なのだ。そして、ふみをじっと見ている。目をそらしてもそらしても、猫の瞳にはふみしか映ってない様な気がしてならない。

 そんな猫に導かれるように、なぜか、ふみは裏口から屋敷を出てしまう…。

 御家人の住まいの敷地は百坪ほどある。なので七・八軒先と言ってもちょっと距離があり、また、近くても足を踏み入れたことのない道もある。そこはふみには初めての道だった。その猫が一番奥の家に入って行ったかと思えば、すぐに一人の女が出て来た。


娘  「ようこそ、お待ち致しておりました」

ふみ 「えっ?」

娘  「ささ、どうぞ」

ふみ 「い、いえ、その、ちょうど通りかかったものですから」

娘  「いいえ、うちのユキ、この猫はこうして時々お客様をお連れするのです」

 

 この猫はユキと言う名だった。ふみは一瞬従姉の雪江を思い出してしまう。猫は全くの白猫で、ユキと名付けたのもわかるが、雪江は地黒だった。この名前でのことで雪江が両親を恨んでいると言うことを、なぜか今、思いだしてしまう。

 それにしても、ユキと言う猫に導かれてここまでやって来たとはいえ、いきなり見ず知らずの家に上がり込むのも気が引ける。それなのに、女は満面の笑みで、ふみを家の中にいざなおうとする。


娘  「どうぞ、ご遠慮なさらずに」

 

 と、ふみの後ろに回り、半ば強引に連れ込まれてしまう。

 先ずは庭先に案内され、これなら堅苦しくなくていいと思ったのも束の間、縁側には老夫婦が座っていた。


母  「まあ、なんですか。お客様はお玄関からお通しするものですよ」

叔父 「そうです。これでは失礼と言うものです」

娘  「あら、でも、余りにご遠慮なされるものですから」

ふみ 「いえ、突然お邪魔いたしまして、申しわけございません」

母  「ここからでもよろしければ、どうぞお上がりくださいませ」

叔父 「どうぞ、どうぞ」

 

 本当はすぐにも帰りたいふみだったが、物言いは柔らかいものの、この親子の言葉にはどう言うものか強引さが感じられてならない。

 仕方なく座敷の隅に座らせてもらう。ユキはいつの間にか母親の側にいた。


母  「まあ、御遠慮なさらずに、どうぞ、奥へ」

ふみ 「本当に突然お伺いいたしまして…」

娘  「いいえ、ユキの大切なお客様ですから」

 

 猫の客?


ふみ 「あ、あの、私はこの先に住まい致しおります、本田真之介の妻にございま

   す。この様にぶしつけなことを致しまして、夫に叱られてしまいますので。

   また、日を改めまして」

母  「えっ、では、あなたがあの本田様の奥方様」

叔父 「まあ、旗本の姫様ではございませんか。これはとんだ御無礼をば、その様

   なところでは私どもが困ります。どうぞ、どうぞ、上座に」

 

 と、二人して、畳に頭を擦りつけんばかりにされてはどうしようもなく、ふみは上座に座れば、娘が茶を運んで来た。


母  「これ、早く、ご挨拶なさい。こちらはあの本田様の、お旗本の姫様です

   よ」

娘  「まあ、これは、知らぬこととは申せ、大変ご無礼を致しましまして、お許

   しくださいませ」

ふみ 「あの、どうぞ、今は私も御家人の妻にございます。その様なお気遣いは無

   用に願います」

 

 それからは、ちょっとした質問攻めにあってしまう。それにしても気になるのは、この娘。どう見てもふみより年上に見える。それも当に二十歳は過ぎているように見えてならない。また、娘の両親と思っていた二人は夫婦ではなく、姉弟だった。


ふみ 「では、こちらはお三人なのですか」

 

 やっと、質問することが出来たふみだった。


母  「はい…」

 

 と、妙に言葉少なになる母親だった。


ふみ 「では、お婿様をお迎えになられるのですね」

母  「婿は決まっております」

ふみ 「まあ、それはおめでとうございます。それで、ご祝言はいつですの」

母  「祝言は少し、延びております」

ふみ 「そうですか…。でも、もうお近いのでは」

母  「だといいのですけど、所用があり国許へ帰ることになりまして、その後

   は…。ああ、いえ、そのうち、近いうちに帰って参ります。ねえ」

 

 と、娘を見る母親だった。そんな状況とは知らず、余計なことを聞いてしまったと後悔したふみだったが、娘にも母親にも寂しそうな風情すらない。ずっとにこにこしている。


娘  「はい、あれから三年経ちましたから」

母  「おや、もうそんなになりますかね」

----三年…。


 許婚いいなずけが国許へ帰ってから三年も経つのに、まるで他人事のような母娘だった。

 その時、叔父が料理を運んで来た。


娘  「叔父は料理が好きですの。本当は侍ではなく、料理人に生まれたかったな

   んて申しますの」

叔父 「お口に合いますかどうか、どうぞ、お召し上がりになって下さい」


 何より、一皿に盛られたその量に驚いてしまう。


ふみ 「ありがとうございます。でも、とてもこんなには、それに…」

 

 そんなに空腹でもない。いや、例え空腹であったとしても、とても食べきれる量ではない。


母  「一口ずつでもお箸をお付けください」

 

 その頃には家中の猫も集まって来ていた。三人の人間と十数匹の猫に見つめられるこの威圧感から逃れるすべはなく、震える手で箸を持つ。


ふみ 「おいしゅうございます。本当にお料理がお上手なのですね」

 

 叔父は嬉しかったのか、料理の能書きを話し始める。その時、唯一の子猫がふみの側に来ようとしていた。ふみがそっと手を伸ばした時、一匹の猫がものすごい声で子猫を威圧するように鳴いた。子猫はすぐに大人猫の元に行ってしまう。

 ふみはそれまで抑えていた恐怖に、これ以上打ち勝てそうになかった。


ふみ 「あ、あの、実は、主人がもうすぐ帰って参りますので、これにて失礼致し

   たく存じます。本当におもてなしありがとうございました」

母  「まあ、そうですの。それは、残念なことで」

娘  「でも、また、お越しくださいませね」

ふみ 「はい、いずれ、きちんとご挨拶させて頂きます」

娘  「まあ、その様に堅苦しくお考えにならなくとも」

母  「いえいえ、さすがはお旗本のお姫様。私共とは違のうですよ」

娘  「それは失礼致しました。でも、きっと、またお越しくださいませね。きっ

   とですよ」

 

 と、ふみを見据えて話す娘の目力に圧倒されそうだった。


娘  「では、そこまでお送りいたしますわ」

母  「それがよろしかろうと。旗本の姫様にもしもの事があってはいけませんも

   の」

 

 やっとの思いで玄関にたどり着いたが、そこからは白猫のユキと娘がふみを挟むように歩き出す。


ふみ 「本当に今日は不躾にも関わりませず、色々とお気使い頂きまして、お礼の

   言葉もございません」

娘  「いいえ、私とユキの大切なお友達ですもの。また、いつでもいらしてくだ

   さいませ」

----友達…。


 今日初めて会ったのに、もう、友達とは…。

 きっと、この娘もさみしいのだ。許婚は国許に帰ったまま、近所に話し相手になる様な友達もいないのだろう。悪い人たちではないようだけど、あの威圧感、押しつけ感は何なんだろうと思わずにはいられない。

 そして、家の近くまで帰って来た。


娘  「では、私はこれで」

ふみ 「あの、よろしければお立ち寄りになりませんか、主人も帰って参ります。

   この主人が異国かぶれなものでして、珍しいものもありますのよ。ご覧にな

   りませんか」

娘  「はい、いずれ…。では、失礼致します」

ふみ 「そうですか」

娘  「あの、きっと、また、お越しくださいませね。お約束いたしましたよ。

   きっとですよ」

 

 それだけ言うと、娘はすたすたと今来た道を戻って行った。


ふみ 「ありがとうございました」

 

 と、ふみが後ろから声をかけるも、まるで聞こえなかったかのような歩き方だった。

 猫は足元にいた。だが、その猫もふみが裏口を開けて入ったのを見すましたかのように、駆け足で去って行き、裏口からそっと、台所の方に回ったつもりだったが、お房に見つかってしまう。


お房 「まあ!奥方様!」

 

 その声に久が急いでやって来る。


久  「姫様…」

 

 と、ふみの顔を見て安堵するも、今にも泣きださんばかりの顔なのだ。


久  「一体、どちらへ。もう、どれだけ心配致しましたか」

 

 久がほんの少し側を離れていただけなのに、姿が消えていた。家中探しても見当たらない。何より、ふみが一人で外へ出るなど今までになかったことだ。


ふみ 「ちょっと、お散歩に…」

久  「それでしたら、おっしゃって頂ければお供致しますのに。あの、どうぞ、

   これからはその様なことのない様に。姫様に何かありましたら、殿様にも、

   いえ、旦那様に申し開きが出来ません。旦那様がこの世で一番大切にな

   さっているのは、姫様、奥方様でございますからね。いえ、私にとっても姫

   様はそれはもう…」

ふみ 「ごめんなさい」

 

 久をこんなにも悲しませたことは後悔するも、やはり、我が家はいい。落ち着く。それにしても疲れた。もう、あの家に行くのは止めようと思った。猫を含めたあの家族はやはり何かおかしい。

 翌日、ユキは姿を現わすもすぐに去ってしまう。ちょうどその時、隣家の主婦が果物のおすそ分けを持って来てくれたのだ。

 だが翌日、ユキが現れると、あれほどあの家には行くまいと思っていたふみなののに、ごく自然に足が向いてしまう。

 一昨日と同じく、娘が家の前で待っていた。

 部屋に通されると、ふみはまたしても後悔してしまう。


----また、来てしまった…。


 それだけではない。この前も今日も手ぶらで来てしまった。この時代、よその家を訪問する時は必ず手土産を持参し、貰った方も何かしらのお返しをするのが普通だったのに、そのことは気にする様子もなく、再び、食べきれないほどのご馳走攻めにあうのだ。

 そして、翌日も…。

 慌てたのは久だった。ほんのわずかの隙にふみは出て行ってしまう。二時ふたとき(四時間)もしないうちに帰って来るとはいえ、例え、散歩にせよ黙って出かけられては困るし、何よりふみのことが案じられてならない。こうなれば、真之介に話すしかない。


真之介「では、ふみが出掛けて行くのは何時くらいだ」

久  「午の刻過ぎ当たりです」 

真之介「わかった」

 

 真之介はそれとなくふみに聞いてみる。


真之介「近頃はよく散歩されるそうではないか。この辺りは似たような家ばかり

   で、左程、珍しいところがあるとも思えぬが、どなたかとお知り合いになら

   れたのかな」

ふみ 「いえ、白い猫が来るのです。その猫と遊んでおります」

 

 白猫なら、先程庭にいた。猫は真之介をガン見してから去って行った。


真之介「猫が好きなら、飼えばよかろうに、その白猫は野良か」

ふみ 「いえ、飼い猫です。あの、旦那様。本当に猫を飼ってもよろしいのです

   か。旦那様は猫がお好きなのですか」

真之介「好きでも嫌いでもない」

ふみ 「それなのによろしいのですか」

真之介「まぁ、どちらかと言えば犬の方がよいが、猫もよかろう」

ふみ 「ならば、どうして今までお飼いにならなかったのですか」

真之介「それは、侍としては新参者であるのに、身分違いの嫁取りやら何やらとこ

   れでも結構忙しく、そこまで気が回らないままに今日に至った、と言うよう

   な次第にて」

ふみ 「左様でございましたか…」


 夫婦とは言え、まだ互いに知らないことが多々ある。そんな話をしながら、その日は過ぎた。


ふみ 「そう言えば、今日はユキが来ませんでした」

真之介「ユキとは?」

ふみ 「あの白猫の名です」

----あの猫か…。


 その時はどこかの猫が迷い込んだと思っていたが、どうやらあの白猫は、ふみが目当てでやってくるらしい。猫がやってくるだけなら構わないが、その猫と共に黙って家を出ていかれては困る。


----何か、あってからでは…。


 本当は、ふみもあの家には行きたくないのだ。ご馳走攻めだけではない。質問攻めにもあうのだ。それもふみ自身の事ならまだいいのだが、真之介のことも根掘り葉掘り聞いて来る。適当にぼかしていると、真之介の実家やふみの実家のことまで執拗に聞いて来る。また、あの母親は小物作りが趣味とかで、土産代わりに持たされてしまう。それがまた地味なのだ。どうしようもなく地味なのだ。断っても断っても押し付けられてしまう。

 いやなら行かなければいいだけのことだが、ユキがやって来るとどうしたものか引き寄せられるように付いて行ってしまう。


----どうしてかしら…。


 でも、この次はちゃんと手土産も持って行こう。そして、これで最後にしようと思った。今まではつい押し切られてしまったけど、最後くらいは…。

 それにしても、これがあの雪江なら貰えるものは何でも貰い、無理してでも食べ、残りは折詰にしてでも持って帰っただろう。また絹江なら、言うべきことは遠慮なく言うだろう。それに比べて、自分の押しに弱いこと。だから、あの二人に馬鹿にされるのだ。いつまでもこんなことではいけない。


----この次こそは!


 だが、それからというもの、どう言う訳かユキがやって来ない。


----どうしたのかしら…。


 案外、もう、ふみに飽きたのかもしれない。いや、それでも最後のけじめは付けたい。

 ふみは久を連れて自分から出向くことにした。着物は落ち着いた柄を選び、新しい足袋を履いた。だが、いざ歩き出してみると、なぜかちょっと道に迷ってしまう。それでもなんとかその家にたどり着くことが出来た。


久  「ごめんくださいませ」

 

 と、久が声をかける。やがて、娘が出てくるも久の後ろにいるふみに驚く。だが、一瞬ふみも驚く。如何に普段着であるとはいえ、娘の着物が意外に粗末なのだ。


娘  「まあ…」

ふみ 「ご無沙汰いたしております。本日は突然お伺いいたしまして」

娘  「いえ、あ、あの、ちょっと」

 

 いつもの落ち着き払った様子はどこへやら、戸惑っている娘はあわてて奥に引っ込む。代わりに叔父が出て来る。


叔父 「いや、これはこれは。あの、どうかなされ、いや、今しばらくお待ちいた

   だけますか」

 

 と、またも引っ込でしまう。突然のふみの来訪を驚くのはわかるにしても、何をこんなにもそわそわしているのだろう。

 そこへ今度は着替えた娘が出て来る。


娘  「申し訳ありません、どうぞ、おあがりくださいませ」

 

 部屋に通されると、母親も急いで着替えたのだろう、隅の方に針箱とともに着物が丸められていた。そして、いつもの落ち着きはどこへやら、これまた小さくなって座っている。


ふみ 「お忙しいところを突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。いつも

   おもてなし頂きましてありがとうございます。これはつまらぬものですが、

   心ばかりの品をお持ちいたしました」

 

 久が風呂敷から菓子箱を出す。


娘  「これはご丁寧に…」

 

 ふみが差し出した包装のない菓子箱が娘は気になったようで、受け取るとそっとふたを開ける。


娘  「まあ…」

母  「まあ、この様な高価なものを…」

 

 箱にはもみ殻を敷き詰めた中に卵が入っていた。卵が一般家庭に普及するようになったのは、第二次世界大戦後のことであり、それまでは病気の時にしか食べられない栄養豊富な高級食材だった。


ふみ 「いいえ、こちら様のおもてなしに比べれば、何ほどのものでもございませ

   ん。どうぞ、ご笑納くださいませ」

 

 やはり、今までとは違う。いや、違いすぎる。いくら、不意にやって来たとは言え、いやしくも武士の家なのだ。例え、普段の身なりが粗末でも家の中が少しくらい散らかっていても、それはお互いさまである。

 そんな飼い主の気持ちがわかるのか、猫達でさえ遠巻きに、目をそらしている猫もいた。


ふみ 「これは猫達のおやつに」 

 

 と、煮干の入った紙袋も添えた。数匹の猫が煮干しに反応する。


母  「まあ、重ね重ね、お気遣い頂きまして…」

娘  「恐れ入ります」

 

 戸惑いを隠せない母と娘だった。


ふみ 「あの、今日は、ユキは?」

 

 いつもの様に猫が集まっていると言うのに、ユキの姿がないのだ。猫達の中で白猫はユキだけだった。


娘  「えっ。あ、ああ、どこかで昼寝でもしているのでしょう」

ふみ 「そうですか」

娘  「ええ、猫はきまぐれですから…」


 きっと、ユキに何かあったのだろうと思ったが、ふみはそれ以上追及しなかった。


ふみ 「本当にこうしてご挨拶することが出来まして、ほっと致しております。こ

   れをご縁に拙宅にもお越しくださいませ。主人も喜ぶと思います。この主人

   と申しますのが、思いの外博識でございまして、退屈しのぎにはよろしいか

   と存じますので、是非…」

娘  「ありがとうございます。いずれ…」

 

 いつもの威圧感も嫌だが、こんなにも卑屈になっている母娘を見るのも嫌だった。


ふみ 「では、これにて、失礼致します」

母  「あの、まだ、よろしいではないですか。今、お茶を…」

ふみ 「いえ、本当にありがとうございました」

 

 と、過去形で言って、ふみは立ち上がり玄関へと向かう。


叔父 「おや、もうお帰りで、今、お茶を。もう、後少しで、湯が沸きますに」

 

 と、慌てて叔父が出て来る。家に常時火があり、やかんに湯が沸いているのは商家など裕福な家でしかない。ふいに客が来たので急いで七輪に火を起こすも、やっと湯が沸いた頃に客が帰ってしまうことはあることだった。

 そして、門の側に小さくうずくまっているユキがいた。元気がないのが見て取れた。でも、もういい。猫はみんなかわいかったが、何か、こんな訳のわからない付き合いはほどほどにしたい。

 ふみは改めて、自分が世間知らずであることを痛感していた。旗本の娘であった頃はそれでよかったにしても、今は本田真之介と言う町人上がりの男の妻なのだ。世の中は不思議と言うより、不可解に満ちている。これからは、もっと、世間のことを知らなくてはと思うも、ユキがよたよたとした足取りで付いて来ることは知らない。

 ふみと久がその家から出て来たのを見た忠助は急いで隠れる。二人をやり過ごしてから帰るつもりだったが、猫が一声鳴いた。

 ユキだった。そして、忠助にすり寄ってくる。忠助はもう止めようと思っていたがこれも今日が最後と、マタタビの小枝を与え、その場を去る。

 忠助は偶然見たのだ。ふみが白猫に導かれるように家を出て行くのを。そして、後を付ければ道の一番奥まった先の家に入って行く。忠助もこの辺りのことはよくは知らないが、ふみがそのことを真之介にも久にも話さないのが不思議だった。

 真之介も思うところはあったが忠助に続いて久までもが、ふみの不可解な行動を心配し始めたことを放ってはおける筈もなかった。猫はほぼ毎日やって来る。だが、真之介と目が合ったり客がいた時はそのまま去って行く。つまり、猫がやって来なければ、猫と顔を合わさなければ、ふみは一人で勝手に出かけることはないのだ。だが、相手は猫である。そう簡単に捕まえられるものではない。


----猫の弱点…、マタタビ。


 木天蓼またたびとは、マタタビ科の落葉低木。山地に自生し、夏に葉の半分が白く変わる。白い花が咲き、乾燥した果実は中風、リウマチ、強壮に効果があり、若芽も食用になる。マタタビの名の由来は弱った旅人が実を食べまた旅が出来る様になったところからとの俗説がある。

 そのマタタビを猫は好む。だが、これはすべての猫に当てはまると言うものでもない。子猫や去勢された猫は当然興味を示さない。また、メス猫よりオス猫の方が好むが、オス猫のすべてが好むと言う訳でもない。

 あの白猫がオスかメスかわからないが、とりあえず試してみよう。そこで、忠助に猫を待ち伏せさせマタタビで気を惹かせてみた。


忠助 「あの猫、メスでしたけどあっさり引っ掛かりました」

 

 それを続けてみた。結果、猫はふみより忠助の持つマタタビの方に吸い寄せられるようになってしまう。だが、元気のない猫にとってマタタビは活力となるが、多用すれば逆に気力を無くしたり、時には呼吸困難を起こし、死に至ることもある。如何に他人の猫とはいえ、それでは後味が悪い。

 そんな時、ふみが忠助に卵の調達を依頼する。今度は久も一緒にあの家に行く、その時の手土産だと言う。

 そして、今日、忠助はふみと久の後を付けた。


真之介「忠助」 

 

 真之介が、やはり、心配で様子を見に来ていた。


忠助 「つい、今しがた、お帰りになられましたよ。お会いになりませんでした

   か」

真之介「私はこっちの道から来たで」

忠助 「左様で」

真之介「どんな様子だった」

忠助 「どんなも、何も、至って普通にお戻りになられました」

真之介「それは良かった」

 

 ふと、猫に目が行く。マタタビに夢中になり弱っている姿は忍びないが、この猫がふみを連れ出すのだ。これが捨て置かれるものか。

 その夜、ふみは真之介に今までの報告をする。


ふみ 「本当にご心配かけまして、申し訳ありません。でも、私にも良くわからな

   いのです。取り立てて霊感の様なものなどないのに、なぜか、あの猫に…」

真之介「いや、たまたま、その猫と波長が合ったのであろう。しかし、これからは

   決して一人でどこかに行かれぬよう。また、その様な事があった時にはすぐ

   に報告するように」

久  「左様でございます。姫様に何かあっては、それこそ私は…」

 

 それは久だけではない、今は真之介の方が責任が重い。如何に自分の妻であるとはいえ、ふみは旗本の姫なのだ。


ふみ 「反省しております」

真之介「それより、今日は先方とどのような話をされたのだ」

ふみ 「それがおかしいのです」

真之介「おかしいとは」

ふみ 「いきなりの訪問で驚かれたのはわかるのですが、あまりにも、何か、うろ

   たえていると言った方が、そんな感じでした」

久  「私も初めてですけど、その様に思いました」

ふみ 「それで、私は今までの非礼を詫び、これからはわが家にもお越し下るよ

   う、お話し致しました。でも、いつもと違い、いずれとか申されたのですけ

   ど、何かあまり、その気はない様な…。やはり、突然伺ったのがいけなかっ

   たのでしょうか」

真之介「まあ、そう言うお宅もあると言うことだ。その家にはその家の都合がある

   で」

ふみ 「ええ、でも、ユキが、あ、私の許に参ってた猫の名ですけど、全く姿を現

   さず、帰り際に門の側にうずくまっており、元気がないのです」

 

 そのユキにマタタビを与え、気をそらしたことは言えない。


忠助 「猫はきまぐれですから」

 

 と、忠助も当たり障りのないことを言う。


ふみ 「あの、ちょっと疲れました」

真之介「では、先に休まれるがいい」

 

 ふみと久が去った後、忠助が低めの声で言う。


忠助 「ちょっと、妙な話を聞きまして…」

真之介「どのようなことだ」

 

 忠助はユキをマタタビでいい気持ちにさせた後、ちょうど近くを歩いていた女に、あの猫屋敷のことを聞いてみた。


忠助 「それが、挨拶くらいはなさるけど、ほとんど近所付き合いのない家だそう

   で、本当にあまり詳しいことは知らないのだそうです。ただ、あまりの猫の

   多さにちょっと迷惑されてるようです。あの通り、猫はどこでも入って来ま

   すから」

 

 忠助は娘のことを聞いてみた。


忠助 「また、娘の許婚が里に帰ったままと言う話も誰も知らないようで、とにか

   く付き合いのない家だそうですけど」

真之介「けど?」

忠助 「ええ、その猫屋敷の隣の家に輿入れされた若奥様から聞いた話だそうです

   が、その方が輿入れなさった頃には旦那様のお婆様がまだご健在で、それが

   少しボケも始まっていて、その若奥様がお世話をされてたそうです」

 

 ある日、義祖母が外に行きたいと言うので、孫嫁が手を引いて門を出た時偶然、隣の猫屋敷のそれも三人揃ってどこからか帰って来るのと出くわした。孫嫁が嫁入りの挨拶に行ったとき応対したのは叔父だった。この家には叔父の他に姉と姪がいることは聞いていたので、改めて挨拶をしようとしたものの、三人とも会釈だけでそそくさと自宅に入ってしまった。


義祖母「今のは誰?」

孫嫁 「お隣の方たちですよ」

義祖母「隣?」

孫嫁 「ほら、猫の多い、猫屋敷の方たちですよ」

義祖母「……」

孫嫁 「では、お散歩に参りましょうか」

義祖母「違う!隣の人じゃない!違うぅ」

 

 と、義祖母が叫ぶ。少しボケてるとは言え、いつもは物静かな義祖母の声に驚く孫嫁だった。尚も叫ぶ義祖母を再び家の中に連れ戻し、姑に助けを請う。


義祖母「本当の隣の人はどこへ行った。ああ、もう…。違うよ、あれは違うよぅ」

孫嫁 「お婆様はあの様におっしゃってますけど、本当なのですか」

姑  「それが、私も良く知らないのです」

 

 と、姑も困惑している。帰宅した舅と夫に聞いてみても、やはり、知らないという。夫はともかく、舅姑が知らないのではどうしようもない。

 その後も、義祖母の「違う」発言は続いたが、誰もボケ老人の戯言として取り合おうとはしなかった。

 やがて、その義祖母が亡くなると、通夜には隣家の叔父が香典を持って来たが、形ばかりの焼香を済ますとすぐに帰って行く。余程、付き合いがしたくないのだと、皆でささやき合っていた。

 だが、今年になってから、たまに若い女がやって来る様になった。その女達は町家の娘であったり、武家娘もいた。また、最近は武家の妻女が出入りしている。そして、その行き帰りには、あの白猫が付かず離れずにいるのが気になっていたと言う。


真之介「ちと、気になるなぁ」

忠助 「ええ、気になります」

 

 翌日、真之介は何でも屋に調査依頼に出かけるが、ふみは微熱があるとかで、まだ床に付いたままだった。

 話を聞いた何でも屋は俄然活気づく。


万吉 「任せてください。きっと真相を掴んで見せます」

仙吉 「そうです。他ならぬ旦那ためなら、例え」

万吉 「火の中、水の中」

仙吉 「兄貴、泳げるんでしたかね」

万吉 「お前、馬鹿んすんなよ。泳げるに決まってんだろ」

お澄 「ため池では泳げるけど、海はどうかしらね」

仙吉 「何だ、兄貴はため池止まりですかい」

万吉 「そう言う仙吉こそ泳げるんだろうな」

仙吉 「ええ、泳げますよ。大海原をすいすいとは行きませんけど、まあ、そこそ

   こ」

お澄 「汽水域辺りを犬かきで」

仙吉 「姉さん、それ言わない約束じゃないすか」

万吉 「何だ、犬かきかい」

仙吉 「あっ、犬かき馬鹿にしちゃいけやせんよ。犬はさ、泳ぎ達者なんですよ。

   猫と違って」

万吉 「まあな。でも、火は無理だろ」

仙吉 「そりゃ、お互い…。あっ、それ言ったの兄貴じゃないですか」

お澄 「もう、どっちだっていいじゃないの。旦那が呆れてなさるよ」

万吉 「そうでした。でも、仕事はきっちりやらせて頂きますから」

仙吉 「側に同じく」

万吉 「それを言うなら、右に同じくだろ」

仙吉 「旦那から見れば左になるので、側の方が手っとり早いかなって」

お澄 「それじゃ、手っ取り早く、二人とも仕事に取り掛かりな」

万吉 「そうするか」

仙吉 「そうすね」

万吉 「では、旦那、どうぞごゆっくり」

真之介「いや、私も実家に寄らねばならぬで、そこまで一緒に」

お澄 「まあ、そんなことおっしゃらないで。たまにはよろしいじゃないですか」

真之介「それがそうもいかぬで。またな」

 

 真之介は今回の調査は時間がかかるだろうと思っていたが、翌日、万吉がやって来た。


万吉 「これはちょっとお知らせしておいた方がいいと思いまして…」

 

 座敷に通された万吉だったが、そこへ熱の下がったふみ、久、忠助もやって来た。また、茶を運んで来たお房も興味津々でそのまま部屋の隅に座っていた。


----へえ、こうして見ると、旦那は大したものだ。あの奥方様にちっとも位負けしてねえや。

 と、思わず真之介の落ち着きぶりに見とれてしまう万吉だった。


真之介「知らせたいこととは」

万吉 「えっ、あ、はい」

真之介「まあ、茶でも飲んで、落ち着け」

万吉 「はい」

----うまい茶だな。いけない、そんなことより。


 気を取り直した万吉だったが、それからはいつもの何でも屋の顔になった。


万吉 「それが、あのお屋敷は作田権太左衛門様とおっしゃる御家人のお宅でし

   て、その方には奥様とお嬢様がいらっしゃるということなんです」

ふみ 「えっ、でも…」

 

 あの娘はふみに母と叔父だと言っていた。


万吉 「ええ、聞いていたのとはちょっと違うなと思いまして、取り敢えずそのお

   宅の近くに行って見ることにしました。でも、あの辺りは本当に静かなとこ

   ろですね。人の気配もほとんどなくて、それで、こうなったら直接お伺いし

   て見るかと仙吉と二人でその家の前まで行ったんですよ。そしたら何と、門

   が開いたままじゃないですか。それで、思い切ってお声をかけたんです。で

   も、どなたも出ていらっしゃらない。ええ、猫はいましたよ」

 

 と、万吉はまた茶を飲む。


----ここじゃ、喉が渇くわ。


万吉 「それが玄関も開いてるんです。ちょっと気になりまして、門を入って玄関

   から声をかけたんですが、これまた反応がないんです。襖の開いてるのも見

   えまして、いくらなんでもこれでは不用心すぎると、ちょっと庭の方にも

   回ってみたんですけど、そこも開けっぴろげで、部屋の中もがらんどうの有

   様でして」

ふみ 「そう言われれば、あまり家具の類もなかったような」

久  「はい、その時はお暮らし向きも楽ではないのかと思いましたけど、それに

   してはおもてなしのことが引っ掛かっておりました」

万吉 「それが…。どうやら、どこかへ行ってしまわれたのではないか、そんな感

   じでした」

真之介「夜逃げか」

万吉 「はい…」

ふみ 「まさか…」

真之介「それで、どうした」

万吉 「それから、どうしようもないのでお隣にお尋ねしてみまますと、日頃から

   付き合いのない家で何も知らないとのことでしたが、そう言えば日が暮れた

   頃、荷車の様な音を聞いたとか。でも、その頃は食事の後片付けやらで忙し

   かったものだから、特別気にもしてなかったそうです」

真之介「それから」

万吉 「ええ、一応お隣の旦那様に家の様子を確認して頂いて不用心ですから、門

   を外から開かないようにして、今日にもお役所に届けて下さるそうです。で

   すから、これから先はお役所の判断に任せるしかないような次第です」

真之介「ご苦労だったな」


 だが、それからが大変だった。先ずはこの家の本当の住人、作田権太左衛門とその家族の行方が知れない。成り済ましも考えられるので、もしやと思い床下から庭まで掘り返してみたが、出て来たのは猫の骨ばかり。

 当然何でも屋の万吉、仙吉と、多分、最終目撃者であろう、ふみと久も事情を聞かれたが、結局、何もわからないままに捜査は終わった。

 だが、これをかわら版屋が放って置く筈もなく「大人の神隠し!成り済まし事件!」果ては「猫は見ていた」「猫は残った…」と繁次が派手にやらかしてくれたものだから、慌てて舅の三浦播馬と面白半分の兵馬がやってきた。


播馬 「真之介殿!これは一体いかなることであるか。この辺りがこのように物騒な

   ところであったとは、まったく…」

ふみ 「父上、別に付き合いのある家ではございませんので、ご心配には及びませ

   ん。どうぞ、ご安心を」

播馬 「いや、どうにも気になってな。それで、どこぞの家に猫はやって来たと

   か、かわら版に書いてあった」

真之介「はい、そのようです」

播馬 「とかく、猫は、あまり、好きになれん」

兵馬 「でも、姉上。ちょっと面白そうではありませんか。その家、どの辺りです

   か」

真之介「いえ、そこへはもう近寄れないそうです」

兵馬 「そうですか」

播馬 「それで、ここへは猫は?」

ふみ 「来ておりません」


 ここは白を切るしかない。


播馬 「熱い!何だこの熱い茶は、ここの女中は茶の入れ方も知らんのか」

ふみ 「父上、それは二杯目のお茶でございます」

播馬 「二杯目。では、いつ私が一杯目の茶を飲んだというのか」

ふみ 「来て早々にお飲みになられました。一杯目は喉が渇いているのでぬるめ、

   二杯目は熱めと言うのは常識にございます」

播馬 「いや、私は飲んだ覚えがない…」

兵馬 「父上、私も一緒に飲みました。これは二杯目の茶です」

播馬 「……」

ふみ 「茶菓子をどうぞ」

播馬 「いらぬ!本当に今後は大事ないか。本当に」

真之介「それは大丈夫にございます」


 主のいなくなった作田家もそのままでは不用心なので、真之介と同じく御家人株を買った商人が、ほとんど改築して住むこととなった。普通、家に住み着くと言われる猫だが、一、二匹を残していなくなった。

 猫はどこへ行った…。
















  

















































































 

 





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る