第57話 女とは…

清十郎「別に、姉さんに言いつけるつもりなんぞありませんから」


 清十郎はこれ以上、先延ばしにすることはできなかった。 

 市之丞も別に、清十郎が発声練習のためにこんなところまで自分を引っ張って来たとは思ってない。


市之丞「何だい、勿体つけてないで早く言いな。どうせ…、何でもいいからさ」

清十郎「じゃ、聞きますが、この間の女、あれ、何です?」

市之丞「この間って、いつのこの間の女だい」

清十郎「ほら、えっと、ほら、それは、そのぅ、ほら、俺が仕事ないですかって

   頼んだ前の日、昼間からしけ込んだあの年増女ですよ」

市之丞「おや、随分前の事だね。ええっと…」

清十郎「兄さん、そんなに女いるんですかい」

市之丞「いたら、どうだって」

清十郎「いや、すごいなって思いまして」

市之丞「羨ましいかい」

清十郎「ええ、そりゃ、まあ…。だからって、よりによって、あんな年増と。あ

   れじゃ、幾らなんでも姉さんが気の毒ってぇもんじゃないですか。若い女

   ならともかく」

市之丞「それはお前がまだ青いってことだよ」

清十郎「青いたって、俺だって女はお夏だけってこたぁないですから」

市之丞「あのさぁ、若いだけが女じゃないの」

清十郎「だからって」

市之丞「だからさぁ、若い女もいずれ歳を取るんだよ」

清十郎「そりゃぁ、誰でも歳は取りますよ。でも、歳取った女なんて、俺は願い

   下げですね」

市之丞「そんなこと言ってるようじゃ、まだまださ。何もわかっちゃないね」

清十郎「あっ、そうか…。あれ?でも、兄さん女形でしたっけ」

市之丞「私は女形じゃないけど、女形もやるよ」

清十郎「だから、年増とも?これが芸の肥しってやつですか」

市之丞「確かに女は芸の肥しだけどさ。もう、私はさぁ、あんまり若い女より…。

   若い女って固いんだよ。そんなのより、何か、こう、手に馴染むくらいの

   女の方が良くてさ。わかるか。まだ、わかんないか…」

清十郎「それくらい、わかりますよ。でも、あれじゃ、馴染みすぎじゃ。姉さん

   が今一番馴染むっ頃じゃないですか」

市之丞「馴染みすぎは良かったね。それにしても、女ってさぁ、不思議な生き物で

   さ。歳を取っても、いや、死ぬまで。女なんじゃないかと近頃思うよ。い

   や、もう、生まれたときから女でさ、死ぬまで女なんだよ。男はそうは行か

   ない。役に立たなくなりゃ、男とは言えない。でも、女はきっと死ぬまで出

   来るんじゃないかなって思う時、あるよ。灰になるまで、女って言うのもわ

   かる気がしてさぁ」

清十郎「そりゃそうとしても、幾らなんでも皺くちゃの婆ぁ相手にしたいとは思い

   ませんや」

市之丞「私だって、そこまでは思わないけどさ、若い女ばかり相手にしてたんじゃ

   何もわからないってことだよ。でもさ、女ってぇのは馴染みすぎるってこと

   はないんだよ」

清十郎「そうですか。まあ、俺にゃ、その辺のところは、わかりやせんけど」

市之丞「お前さぁ、そんなことより、その言葉使い直さなきゃ駄目だよ」

清十郎「でも、楽屋じゃあ、ちゃんとやってますよ」

市之丞「役者やるんなら、そんな三下さんしたみたいな言葉、普段でも使うんじゃないよ」

清十郎「はい、気を付けます」

市之丞「で、話はもう終わりかい」

清十郎「ええ、まぁ、終わった様な、終わらない様な…」

市之丞「ははははは。じゃ、ちょいと、行くかい」

清十郎「えっ、でも、まだ夜には早いですよ」

市之丞「だから、ちょいとだよ、軽く」

 

 清十郎は喜んで付いて行く。


清十郎「そういや、姉さんは全く飲みなさいませんねぇ」


 市之丞に酌をしながら言う。


市之丞「ああ、それでもって煙草もやらないときてる」

清十郎「はぁ、お夏とは逆だ。あいつは酒も強いが気も強くて」

市之丞「そうだってな。けど、全く飲まない女ってのも。やりにくいもんだよ。酔

   いどれ女もみっともいいもんじゃねぇが、何てぇのかな、気持ちにゆとりが

   ないんだよな」

清十郎「そうですか。姉さんはいつも鷹揚に構えてて、それでいてよく気の付く人

   じゃないですか」

市之丞「まあ、普段はそんな感じでいいんだが、うっかり、やらかしちまうとこれ

   がすごいのなんのって、だからよっ」

清十郎「そりゃ、兄さんの遊びがひどいんで、何とかの緒が切れるってもんで

   しょ」

市之丞「ちょいと違うけど、まあ…。大体さ、女の話ってのは正論なんだよ」

清十郎「せいろん?」

市之丞「正しい、お説ご尤もってことだよ。だけど、男の世界ってそうだろ。そん

   な杓子定規なことばかり言ってられないだろ」

清十郎「その通りです!」

市之丞「そこんとこが女にゃわからないんだよ。そんな時にさ、まぁ一杯飲んで、

   気を楽にしてから話そうじゃないの…。それが出来ないんだよ。そこに好物

   の羊羹があったって何の役にもたたない。いつも素面で正論並べたてられて

   見ろい。もう、どうにも出来ませんっ。そこんとこがやりにくいんだよ」

清十郎「でも、それは兄さんの遊びがひどいんで、そりゃヤキモチも焼きたくなる

   ってもんじゃ…。みんな言ってますよ。市之丞さんはいい女捉まえたって」

市之丞「まあな」

清十郎「二人して、戯作物書けるなんて、羨ましい限りですよ」


 どうやら清十郎は、お駒と市之丞の二人一役にまだ気付いてないようだ。


清十郎「うちのお夏なんぞ、背中も掻いてくれませんよ。痒けりゃ、孫の手がある

   だろって。そのくせ、自分が痒いときゃ、もう、体よじって、それ掻けやれ

   掻けって、うるさいうるさい」

市之丞「へえ、かわいい顔してんのに…。やつぱり、人は見かけに。つまり、見か

   けで判断しちゃいけないってことだよ。ちっとくらい歳いっててもさ」

清十郎「はぁ…。まぁ、そこんところはまだ、勉強不足でして」

市之丞「そのうち、わかるようになるさ」

清十郎「だったら、俺も年上と付き合った方がいいんですかね。まあ、姉さんくら

   いの年上なら…」

市之丞「何だい、お前、やっぱりお駒、狙ってやがったのか」

清十郎「いえいえ、違います!違いますよ!本当ですよ」

市之丞「冗談だよ。別に、急いで付き合わなくっていいさ。出会う時はあるさ。い

   い具合に出くわす時がさ」

清十郎「そうですか…。では、その時を楽しみに」

市之丞「でもよ、これが本当に歳取ると今度は若い娘がよくなるそうだ」

清十郎「はぁ、やっぱり若さに勝るものはない…」

市之丞「それもあるだろうが、何も知らない娘に色々教えて行くのが楽しいそう

   だ。いずれ、私もそうなるのかね」

清十郎「俺、私も。年上に行って…。あ、あの、本当に誤解のないように。もう、

   姉さんには夫婦して足向けて寝られないくらいお世話になってるし、感謝し

   てもしきれないほど、なんなんで、です。それに、俺、そんな男じゃないす

   よ。今までにそんなこと一度もありませんので、どうぞ誤解なさ、なさ、な

   さららないように」

市之丞「わかってるよ、けど、その滑舌なんとかしなきゃぁな。こうしてゆっくり

   飲むのも今日で終わりだよ。明日からは血ぃ吐くほどやってやるからさ。覚

   悟しときな」

清十郎「えっ、ええ、はい…」


 血を吐くほどと言われ、すっかりびびってしまう清十郎だった。それでなくとも、踊りの稽古で大変だと言うに…。


市之丞「さぁ、ここら辺で切り上げようか」

清十郎「はい」

 

 男二人の帰り道も当然女の話になる。


市之丞「本当にさぁ、女ほどいいものはないけど、恐いのも女でさ。女で失敗した

   奴も見て来たもんなあ。だからって、やたら恐がっててもいけない」

清十郎「まだ、そんな恐い目にあったことはありませんけど」

市之丞「そうかい。じゃ、これからか。でも、お夏ちゃんもあれで意外とうるさそ

   うだね」

清十郎「意外なんてもんじゃなくて、うるさい、そのものですよ」

市之丞「いや、実のところは相性が良かったりして」

清十郎「さあ、いいかどうか。でも、ここのところはすべてお夏の縁に助けられて

   ますんで」

市之丞「ははは、当分は尻に敷かれてな」

清十郎「はい」

市之丞「今はそれくらいの方がいいかもしれないよ。さっきも言ったけどさ、これ

   からが正念場だよ。ほとんどが子供の頃から、遅くとも十代にはこの世界に

   足入れてんだからさ。それに比べりゃ、とんでもなく遅いんだよ。まあ、一

   生下働きで終わるかどうかの際だよ」

清十郎「はい」


 この時、清十郎は何かに足を取られた様な気がした。そして、もう、ここから抜け出せないのでは…。


お夏 「飲んで来たね」


 帰宅すると、お夏が庭へ呼ぶ。


清十郎「軽くだよ」

お夏 「よかったね。私だって、飲みたい気分なんだけどさ」

清十郎「何が言いたいんだ」

お夏 「ここんところ幽霊が気になってさ」

清十郎「幽霊?いつ、どこに幽霊が出たと言うんだ」

お夏 「それがさ…。まあ、ちょいとね。うん、やっぱり、またでいいや」

清十郎「何だい、変なこと言ってよ」

お夏 「で、兄さんとどこかで芝居の話でもしたのかい」

清十郎「そりゃ、明日から。厳しくやるってさ。血ぃ吐くほど」

お夏 「ふーん」

清十郎「何がふーんだ。亭主がそんな思いしてまでやろうとしてるのに、そんな言

   い方しか出来ねぇのか」

 

 その時、お照が二人を呼びに来る。


お夏 「はぁーい、今行きますから。さっ、お前さん、兄さんと姉さんがお呼びだ

   よ。ぶつぶつ言ってないで、早く行こうよ」

 

 何事だろうと思って行けば、次の戯作物が書き上がったと言うことだった。


お夏 「今度はどんなお話なんですか、兄さん」

市之丞「酔っ払い女の話だよ」

 

 と、お夏の顔をチラ見する市之丞だった。


清十郎「おい、お前が戯作物のことに口出すんじゃねぇよ」

お夏 「あら、ちょいと気になったもので」

清十郎「だから、お前が気にすることじゃねぇってば。すいませんねぇ、こいつ、

   一言多いもんでして」

お駒 「いいよ、いつものことだから。それでさ、この中に短い台詞の役があるか

   ら、座頭に話してみようかと今、市さんと言ってたとこなんだけどさ。本当

   に清さん、やってみる?」

清十郎「はい、やらせていただきます」

お駒 「本当にいいんだね。いやさ、それを今一度確かめたくてさ」

清十郎「はい、お願いします」


 清十郎は、もう、引き返せないと思った。


お夏 「どんな台詞、なんです」


 またも、お夏が好奇心むき出しで聞く。


お駒 「姉さん、大丈夫ですか」

お夏 「えっ、たった、それだけ?まあ、何だ、簡単じゃないの。良かったねお前

   さん」

清十郎「それがいざ舞台となると、その簡単な台詞一つでも大変なんだよ」

お夏 「そんなもんかね」

お駒 「役者ってのはさ、台詞だけじゃない。その役の持つ気持ちも表さなきゃ

   いけないのさ」

お夏 「ほんのチョイ役なのに」

清十郎「お夏!いい加減にしねぇか。お前が口出すことじゃねぇ」

 

 だが、お夏はその夜、とんでもないことを言いだす。


お夏 「やっぱり、幽霊だった」

清十郎「昼間も何とか言ってたけど、幽霊がどうしたって」

お夏 「私、気付いちゃった。姉さん、幽霊だった」

清十郎「何で、姉さんが幽霊なんだよ。生きてるじゃないか。生きて、戯作物書い

   てるじゃねぇか」

お夏 「それ!それなんだよ!お前さんどうしたのさ、今夜は珍しく冴えてるねっ」

清十郎「珍しいだけ余計だ。で、何がそれなんだ」

お夏 「戯作者の正体は幽霊だった」

清十郎「じゃ、何か、実は兄さんと姉さんは幽霊でした、ってオチかい。それな

   ら、お前が戯作者になれよ」

お夏 「違うよ。いいかい、よく聞くんだよ。あの市之丞の兄さんさ、それまでは

   正直あまりパッとしなかったんだって。それが、戯作物を書くようになって

   から人気が出ちゃって。まあ、役者と戯作者の二足のわらじ履いてるのっ

   て、特に女はさ、そう言うのに弱いから。だけど、それでは大変なんで、姉

   さんに清書やらせてる、口述筆記やらせてるってことになって!ついに、お夏

   さんは気付いたのでありましたぁ。あれは、姉さん一人で書いてます」

清十郎「ああ、そりゃ近頃は二人で話の筋を考えて、書いてるのは主に姉さんって

   話だろ。それくらい俺でも知ってるさ」

お夏 「違う!絶対違う!」

清十郎「しっ、声がでかい。で、どう違うんだ」

お夏 「だからさ、さっきも言ったじゃない。あれは最初から、全部、姉さん一人

   で書いてるの。話の筋を考えるのも姉さん一人。つまり、姉さんは幽霊作

   家」

清十郎「幽霊作家?そういや、聞いたことはあるけど、本当にそんなことあんのか

   い?」

お夏 「ない話じゃないよ。別の誰かが書いたものを自分が書いたものとして世に

   出す。これある話。第一、あの春亭駒若って戯作者名、まんま姉さんじゃな

   いの」

清十郎「言われてみれば。しかしどうして、そんな手間なことしなきゃいけねぇん

   だ。姉さん一人で書いたものなら、姉さんの名前で出しゃいいだけのことじ

   ゃねぇか」

お夏 「そこは、そこんとこは…。やっぱり、色々あんのさ。色々。たとえば、そ

   う、二足のわらじ履いてるって格好いいよね。そうは思わないかい」

清十郎「そりゃ、まあ」

お夏 「だから、そうなんだよ」

清十郎「……」

お夏 「ちょいと、お前さん。急に黙り込んでどうしたのさ」


----はぁ、そう言うことだったのか…。

 役者内でお駒の評判がいいことは、清十郎にとっても嬉しいことだったが、そんな時に妙な空気を感じることがあった。その空気の意味が今わかった。

 あれは男の嫉妬だ。大部屋役者の中から一人抜きん出た。それも努力とは言い難い、女に書かせた戯作物を自分が書いたと、それで注目を浴びる。こんな楽でいいことがあるだろうか…。確かに、やっかみたくもなると言うものだ。


お夏 「ちょいとお前さん。さっきから黙りこくってどうしたのさ。あっ、やっぱ

   りお前さんも羨ましいのかい。悪かったね、私にゃそんな才能なくて。だけ

   どさぁ、お前さんがさ」

清十郎「それ以上言うな。ここまで来て人を羨んで何になる。それより、兄さんに

   どうしてあんなこと言ったんだよ」

お夏 「ああ、あれ。話の筋書きのことだろ。お照ちゃんに聞いたんだけど、も

   う、今までは兄さんひどくてね。すべて姉さんに丸投げ。一応、口述筆記や

   らせてるってことになってんだから、たまには姉さんのとこへ顔出すくらい

   のことしなきゃいけないのに自分は呑気に遊んでばっか。話の筋すら知らな

   い事もあったんだって。さすがにそれじゃまずいってんで、座頭から〆られ

   散々お目玉くらって、最近ようやくここにやって来る様になったと言う訳。

   ほんと、男って勝手なんだからさ。だから、わざと聞いてみたの」

清十郎「そんなこと止めな。それは兄さんと姉さんの問題であって、何か相談され

   た訳でもないのに、余計な口出すんじゃないよ。こっちはさ、夫婦して世話

   になってる身なんだから。姉さんとの話ならともかく、兄さんは男だから

   さ、男にゃ男の面子ってものがあるんだよ。それくらい、わかるだろ。私も

   さ、大きなことは言えないけど、これから頑張るからさ」

お夏 「……」

清十郎「おや、珍しいね。お夏さんがこんなに無口になっちゃって」

お夏 「いや、お前さんがさ、兄さんと同じ様なしゃべり方してるなって思って」

清十郎「ああ、兄さんから言葉使い直せって。少しは役者らしくなったかい」

お夏 「まあね。でも、瓢箪から駒ってこのことだよ。私だって、まさか、お前

   さんが役者になろうとは、お釈迦様でも…」

 

 それは、市之丞の年増女と逢引がどうにも気になり、聞き出すための枕として仕事の話をしたら、いつの間にか役者の道へ足を入れてしまい、気が付けば抜け出せなくなった自分がいた。

 こんなこと、お釈迦様の前でも言えるか…。

 そして、翌日から厳しい稽古が始まった。当然雑用もこなさなければいけない清十郎だったが、ある時ふと思った。

 今まで何をやっても長続きしなかった。なのに、毎日へとへとになりながらも、思うようにいかないジレンマはあるものの、気持ちは前へ…。

 だが、初めて台詞のある役の台本を読んだ清十郎は思わず笑ってしまう。


清十郎「お夏、あれ、まんま、お前の話だった」

お夏 「ええっ!」

清十郎「酔っ払い女の話だよ。姉さん、大丈夫ですか」

お夏 「もう!ちょっとその台本読ませて!」

清十郎「ここには無いよ」

お夏 「もうぅ!姉さーん!」

 

 お駒は笑っているだけだった。戯作者などの側にいれば、作品の題材にされることはよくある事だ。


お駒 「そういうことだよ、お夏ちゃん」

お夏 「……」


 だが、後に清十郎も餌食にされてしまう。虚実取り交ぜた滑稽物で、さらには清十郎と思しき役を市之丞、以前にお夏を演じた役者が、そのままお夏を演じると言うオチまで付いていた。

 そうなのだ、お駒もやさしいだけではなかった。転んでも只では起きないのが戯作者であり、黙って無駄飯を食わしていた訳ではないのだ。

----戯作者なんてろくなものじゃねぇなぁ。

 だが、今は自分もその片棒を担いでいる役者なのだ。

----そう言うことか…。


 その頃のお夏と清十郎は、お駒の家を出て長屋暮らしをしていた。


お駒 「やっぱり、気が散るから」

 

 お駒に言われるまでもなく、いつまでも居候を決め込む訳にはいかない。長屋もお駒が借りてくれた。


お駒 「火事で建て替えてそんなに経ってないから、まだきれいだよ」

お夏 「でも、姉さん」

お駒 「これだけあれば、一月分の店賃と鍋釜、布団くらい揃うだろ。あぁ、この

   金はあげるんじゃないよ。貸すんだからさ、毎月、少しずつでも返しとく

   れ」

お夏 「でも、姉さん」

お駒 「まだ、何か」

お夏 「清十郎の給金…」

お駒 「それなら、お夏ちゃんも何か仕事すれば」

お夏 「でも、姉さん」

お駒 「そうだね。それなら、お照ちゃんが近く嫁に行くんでね。その代わりやる

   かい」

お夏 「姉さん」

お駒 「その代わり、今までの様にはいかないよ。仕事だからさ、きちんとやっ

   てもらうからね」

お夏 「まあ!お照ちゃん、いつの間にぃ。この私に断りもなく、嫁に行くだなん

   てぇ」

 

 お照がえっと言う顔をしている。


お駒 「よく言うよ。自分だって、いつの間にか清さんとくっついてたくせに。い

   つ私に断ったかしら」

お夏 「それは、姉さんが近くにいなかったんで」

お照 「それで、夫婦して押しかけて来たという訳ですか」

お夏 「まあ、そんなとこで…」

 

 女三人が笑う。


お駒 「では早速、お照ちゃん、お夏ちゃんにあれこれ教えてやっとくれ。もうわ

   かってると思うけど、このお夏はさ、女子力低くくてさ。だから、みっちり

   仕込んでやって」

お照 「かしこまりました!今まではお客さまでしたけど、これからは遠慮しません

   よ。さあ、先ずは台所へ」

お夏 「ええっ、今から」

お駒 「そうだよ。清さんだって今頃しごかれてるんだよ。女房もしごかれなく

   ちゃ」

 

 そんなこんなで引っ越した日。お夏は開口一番。


お夏 「狭いね…」

 

 ほんの数か月、お駒の家で過ごしただけなのに、もう、広さに慣れてしまっていた。


清十郎「ああ、いつか庭付きの家に住めるよう俺も頑張るからさ。しばらく辛抱し

   てくれ。でも、まだ、新しいだけいいじゃないか」

お夏 「そうだね」

 

 片付けも終わり、近所に挨拶も済ませた。


お夏 「こうしてると何だか、駆け落ちしてきたみたいだね」

清十郎「まあ、似たようなものだが、一つだけ憂鬱な事があるわ」

お夏 「なに、なに?この美しいお夏さんの顔が目に入らぬかっ」

清十郎「黙れ、このメシマズ女」

お夏 「ああ、それは大丈夫よ。姉さんとこで、今、しっかりやってるから…」

清十郎「ああ、年下のお照ちゃんから、よーく教えてもらっとくんだな」

お夏 「もう、そんなに言わなくても」

清十郎「そう言うことは最初に言っとかなきゃぁな」

お夏 「それはちゃんとやるからさ。庭付きの家、頼むよ」

清十郎「飯の方が先だ」

お夏 「庭もいるの!庭があったら、そこにネギや大根植えて、そしたら食費も安

   く済むし」

清十郎「それなら、うまい飯食わせろ。何かと言や、冷ややっこに大根おろし、た

   まに、目刺し焼くらいしか出来ないくせによ。ああ、お照ちゃんの金平牛蒡

   うまかったな」

お夏 「そんなにお照ちゃんがいいなら、お照ちゃん嫁にもらえば良かったじゃな

   いか。ろくに稼ぎもないくせに大きなこと言うんじゃないよ。食べられるだ

   けありがたいと思いな」

清十郎「何だと、それが自分のメシマズ棚に上げて言うことか。うまい物食わな

   きゃ、元気も出ねぇわ」

お夏 「ふん!」

清十郎「ふん!」

 

 と、引っ越し早々のいい気分もどこへやら、いつの間にか、いつもの二人に戻っているお夏と清十郎だった。









 

 

































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る