第52話 見返り美人

 ある日、町を歩いていた真之介は何でも屋の二人と会い、立ち話をしていた時、視野角度の広い仙吉が一人の女を捉える。


仙吉 「兄貴、あれ、引っ越し屋の姉さんじゃないですか」

万吉 「あっ、本当だ」

真之介「引っ越し屋。へぇ、女が引っ越し稼業やってるのか」

万吉 「いいえ、稼業じゃなくて、あの姉さんが引っ越し魔なんですよ」

仙吉 「ええ、住み着いたと思ったら、もうすぐに引っ越しなさるんで。一つ所に

   長くて二、三年、早い時にゃ半年。こうなったら八百八町全部住むんだとか

   言ってますけど、そりゃ無理っちゅうもんです」

万吉 「でも、その度に俺たちにお声が掛かりましてね」

仙吉 「だから、明日にでも引っ越して欲しいでーす」

 

 俗にお江戸八百八町と言うが、実際は違う。

 徳川家康が入植した頃は関東の一寒村でしかなかった江戸だが、慶長年間から寛永年間(1596年~1644年)には三百町くらいに増え、明暦三年(1662年)の大火後の寛文二年(1662年)には六百七十四町。正徳三年(1713年)には九百三十三町、延亭年間(1744年~1747年)には千六百七十八町と、まさに倍増している。


仙吉 「姉さーん」

 

 と、呼ぶ声に振り返る女。そして、女の目が少し上がる。


お駒 「おや、誰かと思ったら、何でも屋の」

万吉 「いつもお世話になっております」

お駒 「いいえ、こちらこそ。あら、こちらはひょっとして噂の真之介旦那です

   か」

真之介「へえ、姉さん、私を知ってるのか」

お駒 「この辺りで旦那知らない人いますかしら」

真之介「そうか。じゃ、悪いこと出来ないな」

お駒 「旦那の悪い事って、何です」

万吉 「そうですよね、財布持たなくったって困ることないし」

仙吉 「歩く信用手形」

真之介「なら、若い娘でも拐引かどわかすか」

お駒 「旦那なら、喜んで付いてくるんじゃないですか」

万吉 「ああ、それ、アリますよ」

仙吉 「全くもって、羨ましい限り」

お駒 「でも、当のご本人はそれほどでもなく…」

仙吉 「そんなの、知らねって感じ」

万吉 「ああ、遅くなりましたけど旦那こちら、お駒姉さん。実はね、すごいこと

   やってらっしゃるんですよ」

真之介「すごいこと。そりゃ、気になるな」

お駒 「別にすごくはありませんよ」

仙吉 「いやいや、中々、出来る事じゃありやせんよ」

お駒 「つまり、私が普通じゃないってことね」

仙吉 「そんな、いや、まあ、そうかも…」

真之介「どっちなんだ」

仙吉 「まあ、その様な訳でして」

真之介「なんだ、それは」

万吉 「ところで、姉さん、今日はどちらへ」

お駒 「どちらも何も、これから帰るところ」

仙吉 「相変わらず、お忙しんで」

お駒 「まあね。では、これで失礼します」

 

 と、真之介に会釈をし去って行くお駒。


万吉 「期待してますよ」

仙吉 「頑張って下さいね」

真之介「おい、一体、何者なんだ」

仙吉 「戯作者」

真之介「へぇ、女戯作者か」

仙吉 「の!」

真之介「変なところで切るな」

仙吉 「口述筆記」

万吉 「やってっんですよ」

真之介「口述筆記か。で、どんな戯作者の口述筆記やってんだ」

万吉 「中村市之丞って役者の」

真之介「へえ、役者が…」

万吉 「まあ、それまでは余りパッとしない役者さんだったんですけど、ある時か

   ら戯作物書きだして、そしたらそれが評判になっちゃって、今じゃ、役者と

   戯作者の二足の草鞋ってんで、人気が出ましてね」

仙吉 「そんで、やはり二足のわらじってのは大変なんで、あの姉さんが市之丞さ

   んの口述筆記てのをやってんですよ」

真之介「じゃ、その役者の女房か」

万吉 「それが市之丞さんは、前におかみさん亡くしてんですけど、それ以来一人

   身なんです。まあ、お駒姉さんがおかみさんみたいなもんですけど、一緒に

   住んでいる訳ではないし、何しろ、あの引っ越し魔じゃ男は落ちつきません

   よ」

真之介「ふーん」

万吉 「でもさぁ。まあ、旦那だから言いますけどね」

 

 万吉が低めた声で言う。


万吉 「ここだけの話、その、表向きは口述筆記なんですけど、どうも。粗方の筋

   だけでほとんど、あの姉さんが書いてるらしいんですよ」

仙吉 「ええ、口述筆記ってのは口で言った事を書き写すことでしょ。それなら、

   側にいなくちゃいけねぇ筈なのに、そう頻繁に姉さんのところへ行ってる訳

   でもないし、姉さんが市之丞さんのところへ出向いている訳でもなしってと

   こなんで」

万吉 「近頃は人気も出たんで、付き合いが増えたとしてもですよ。口述するだけ

   でも時間のかかる事じゃないですか」

仙吉 「だから、これはもう、公然の秘密なんですって」

真之介「そうか、世の中は、色々だ…」

 

 役者と聞けば、お初を思い出す。お初の相手も売れない役者とか言っていた。

 だが、真之介は翌日偶然、お駒と出くわす。そして、その後もなぜか行く先で出会うのだった。


お駒 「旦那。私のこと付けてんでしょ」

真之介「バレたか」

お駒 「ええ、もう、バレバレですよ」

真之介「それにしてもよく逢うな。今までもどこかですれ違ったかもしれんに、こ

   このところで急に逢いすぎて恐いくらいだ」

お駒 「私はたまに旦那をお見かけしましたけど、旦那は全くお気づきじゃなかっ

   たみたいで」

真之介「そんなことないさ。姉さんみたいないい女、一度逢ったら忘れるもんか。

   姉さんの方が避けてたりして」

お駒 「どうして、私が旦那避けなけりゃいけないんです」

真之介「いや、関わり合いになったらしつこそうで、と、端から避けられる」

お駒 「そりゃ、本当にしつこいのでは」

真之介「実際はそうでもないんだが、あらぬ噂をばら撒く奴が近くにいてな」

お駒 「ああ、隣の若旦那」

真之介「拮平も知ってるとは」

お駒 「だからもう、旦那も隣の若旦那も有名人なんですよ。でもさ、あのまま呉

   服屋の主人でいなされば、きっと粋な旦那衆になられたでしょうに、何を好

   き好んで」

真之介「へえ、その様に言われたのは初めてだ。皆、権力志向が強いだの、目立ち

   たがり屋だの、何か知らないが、とにかくうまくやっただのと、人は勝手に

   決めつけてくれるわ」

お駒 「そうやって決めつけると、それで人は安心するんですよ。安心したいため

   に決めつけるんですよ」

真之介「そうか、そうなんだ」

お駒 「あの、旦那、それじゃ答えになってませんけど」

真之介「そうだった。これでも遊びを一通り、まぁその上っ面をそこそこやって気

   付いたんだ。自分が野暮だってことに。だから、野暮な野郎は野暮な方に足

   が向いちまって、こうして侍の真似事やってるって訳だ」

お駒 「野暮もやれば様になるもんですね」

真之介「それを姉さんに言われると悪い気はしないな。しかし、これがやればやっ

   たで結構大変でな。とんでもないところから嫁は来るわ、来たら来たで振り

   回されるわ」

お駒 「やはり、窮屈ですか」

真之介「いや、その逆だ。今まで屋敷の中だけで暮らして来たで、外の景色が珍し

   いらしく、時にはこれまたとんでもないことに付き合わされたり、私の実家

   などは完全に遊び場と化しておるわ」

お駒 「そうですか。それは円満でよろしいこと…」

真之介「おっと、気が付いたら私ばかり話しておる。さすがだな、戯作者さんと

   は…」

お駒 「ええ、世の中斜めに見てますもので。旦那みたいにまっすぐ前を向いてま

   せんので」

真之介「私も少し斜め前を向いている」

お駒 「私は少しじゃなくて、かなり」

真之介「それで、戯作物が書けるのか。だが、実際どうやって書くんだ。私にはそ

   の辺のところがわからない。経験だけで書ける訳ではあるまいに」

お駒 「ええ、頭の中でじっと考えるんですよ、どうすれば面白くなるかって。た

   まにはひらめく事もありますが、そんなの本当にたまですよ。おっと、私は

   口述筆記やってるだけでした」

真之介「そうだった。それも大変だろ」

お駒 「生きるってことは、それだけで大変ですよ」

真之介「お互いな」

 

 そんな話をして、その日は別れた。

 お駒が帰宅すると、女中のお照が飛び出して来た。


お照 「ご新造さん!どこ行ってたんですか」

お駒 「どこって、ちょっとその辺、ぶらぶら」

お照 「ぶらぶらじゃないですよ、大丈夫なんですか」

お駒 「ああ、気分転換して来たからさ」

お照 「ほら、例のお使いのお弟子の人が来てますよ」

弟子 「ああ、姉さん!こんな時にどこ行ってんですか、大丈夫ですか、間に合う

   んですか!」

 

 市之丞の弟子が原稿取りにやって来たのだ。苛々した口調で、お照と同じ様なことを言うのがおかしかった。


お駒 「大丈夫。やるきゃっないさ!」

弟子 「はい!では、よろしくお願いします。本当にお願いしますよ。もう、姉さん

   だけが頼りなんですから。きっとですよ!頼みましたよ、明日ですからね!」

 

 と、念を押しながら、使いの男は帰って行く。


お駒 「お照ちゃん!これから取り掛かるから、いいわね!」

お照 「はい、大丈夫です」

----ああ、墨をたくさん摩っててよかった…。

 

 それと例の羊羹も引っ越し前に買い込んで置いた。このお駒と言う女、ある店の羊羹がお気に入りなのはいいが、引っ越しても羊羹はその店のでなければいけない。以前、その店の近くに越したと言うのに、又しても引っ越してしまう。その度にお照は羊羹を買いに走らされるのだ。羊羹が日持ちのするものだから買いだめも出来るけど、持って帰るのが重い…。

 そして、お駒は自分の部屋でいつもの赤い着物に着替える。これがお駒の戦闘服なのだ。


お駒 「さあ、これから、鬼になりますか!」


 翌日、昨日の使いの弟子がやって来た。


弟子 「姉さん、まだですか」


 と、両手を口に当て大きな声を出すしぐさで、小声で叫ぶ。

 しばらくすると襖が少し開き、原稿が差し出される。弟子はその原稿を風呂敷包みに包み、一目散にかけ出して行く。

 お駒は布団に転がり込むが、神経が高ぶってすぐには眠れない。こんなに疲れているのに、目を閉じても眠れない。それでも体を休められるだけいい。だが、これはいつもの事だ。

 すぐに眠れなくともこうしていれば、そのうち体がほぐれて来る。やがて眠りがやってくる。鬼から解放されるための眠りがやってくる。そして、目覚めれば、身づくろいすれば、そこにいるのは一人の女。

----ああ、もう少しで…。

 その時だった。


お照 「駄目ですよ、今は駄目ですよ」

 

 お照は何を騒いでいるのだろ。うるさいったらありゃしない。でも、そんなことに構ってられない。早く、このまま眠りたい…。


お照 「兄さん!」

市之丞「お駒さんっ」


 襖が開いて、市之丞が入って来た。


市之丞「ご苦労だったね。感謝してるよ。はい、いつものだけど、ここに置いとく

   よ」

お駒 「……」

 

 お駒は寝床の中から、市之丞を睨みつける。


市之丞「何だい、起きてたのかい。じゃ、好きな羊羹でも食べて、後はゆっくりし

   とくれ。ほんとにさ、この前のも評判良くてさ、あたしゃ、鼻が高いよ。全

   くもって、お前にこんな才能があったとは。ほんと、人は見かけに寄らない

   ものだねぇ。こないだも仲間内でさ、羨ましがられちまったよ。そんでさ、

   あたしも言ってやったんだ」

 

 お駒はすっと起き上がる。


お駒 「お前さん!あたしゃ、これでも女だよ!」

市之丞「何だい、藪から棒に。そんなことわかってるよ。それにさ、いつあたしが

   お前を女でないなんて言った?第一、いつあたしがお前をそんな扱いした?」

お駒 「今してるじゃないか。わからないのかい」

市之丞「ああ、わからないね。お前はさ、あたしにとっちゃ、何人にも替え難い大

   事な女なんだよ。だから、誰よりも大切にして来た、いや、あたしはしてる

   つもりだけど、それが通じてない…。ああ、疲れてどうかしちまったんだ

   ね。だから、つい、そんな言い方しちまったんだよね、悪かったよ。さっ、

   もうゆっくりお休みよ、お駒ちゃん」

お駒 「やい!市之丞。わからない、通じないはお前の方だよ!あたしがさ、もの書

   く時ゃ鬼なんだよ。鬼にならなきゃ書けないんだよ!知ってんだろ!」

市之丞「知ってる」

お駒 「知ってて…。そんな姿、鬼が頭掻き毟ってるようなとこ、誰にも見せたく

   ない。ましてや、お前さんにゃ見せたくも、見られたくもないわ!そんな思

   いでやっと書きあげて、これから、眠りつつ人に戻り女に戻って行くんだ

   よ。それを、お前さん!あたしのこんな半鬼の様な姿見て面白いのかい!無様

   な姿見て後で思い出し笑いでもすんのかい。それとも、今から逢いに行く女

   に寝物語にでも語って聞かせるのかい。お駒ってね、実際はみっともない女

   なんだよって言うのかい。どうなんだい!」

市之丞「いや、本当に悪かったよ。違うんだよ、そうじゃないさ。さぞ疲れてるだ

   ろうと思って、こうして労いに来たんじゃないか。本当だよ。ほらさ、羊羹

   でも食べて。今日は煎餅も買って来たよ。甘いものと塩気のものって合うだ

   ろ」

お駒 「ああ、機嫌とっとかなきゃねぇ。出かけるついでに、それもどこかの女に

   逢いに行くついでに、羊羹一つ当てがってりゃそれで機嫌のとれる女なんだ

   ね。あたしはその程度の女なのかい!それにこれ、私の好きな羊羹じゃない」

市之丞「だからさ…。あのさ、お前ももの書きだろ。それなら、今のあたしの気持

   ちもわかるだろうに。頼むから、もう、このくらいにしとくれよ。あたしも

   さ、これでも色々、そりゃ、お前に比べりゃ大したことないかもしれないけ

   ど、人気商売の辛さもわかってとくれな」

お駒 「あたしがもの書きなら、お前は役者じゃないか。役者が女の気持ちもわか

   らいでどうする。別にヤキモチで言ってんじゃないよ。お前さんに何人女が

   いたって構やしない。だけど、そのついでにされたんじゃ、それもこんな無

   様な姿見にやって来るとはさ。あたしも見くびられたもんだね」

 

 市之丞はもうこれ以上何を言っても無駄なので、一刻も早くこの場を去りたかった。


お駒 「市!どこ、行くんだい」

市之丞「どこって、これ以上お駒の邪魔したくないからさ」

お駒 「ええ、お陰で目ぇ覚めちまったじゃないか。一体、どうしてくれるんだ

   い」

市之丞「だから、これから…」

お駒 「これからぁ」


 お駒は市之丞を布団へと突き飛ばす。


お駒 「見られたくもない姿を、わざわざ見にお出でなすったのに、このまま帰し

   ては後味が悪うござんすわいなぁ」


 こうなったら、鬼の姿のまま、市之丞に食らいついてやる! 

 そして、食らいつくせば、後は補給をしなければならない。お駒はご飯に味噌汁をかけたのをかき込む。


お駒 「ああ、食った食った。さあ、寝るとするか」


 やっと、ゆっくり眠れる…。



 道場からの帰り道、何とか実家までの間降らないでほしいと願っていたが、ついに雨は降って来た。真之介は茶屋へ飛び込む。大した雨ではないからすぐに止むだろうと、茶を飲みながら止むのを待つことにした。

 茶店には、真之介の他に少し離れたところに一組の男女がいた。

 その女の声に聞きおぼえがあった。それとなく振り向けば、はっきりと顔は見えないが、どうやら先日のお駒の様だ。側に初老の男がいる。


男  「すまないね、お駒さん。私もあれこれ意見するんだが、今はのぼせちまっ

   て、何を言っても聞きやしない。それもこれも、みんなお駒さんのお陰だっ

   て言うのにさ」

お駒 「いいえ、今更何を言っても始まりませんよ」

男  「本当に、あいつもうかうかしてられないんだけどさ。それでさぁ、お駒さ

   ん。次はもう少し、ぴりっとしたものを期待したいんだけど、さ」

お駒 「はい、何とか期待に添えるよう」

男  「そうかい、頑張っとくれ。座頭も期待してなさるんで、頼むよ、お駒さ

   ん」

 

 と、立ち上がった男は雨が降っているのに気付く。


男  「やっぱり、降ってきたよ。傘持ってきてよかった」

お駒 「いつも用心のよろしい事で」

男  「お駒さん、これからどうする、なんだったら傘貸そうか」

お駒 「いいえ、私が一歩外に出たら雨は止みますから」

男  「そうだったね、では、お先に」

 

 男は茶店を出で行く。


お駒 「旦那、まだ私の後付けてるんですか」

真之介「ああ、多分、これからも」

お駒 「じゃ、そろそろ引っ越そうかしら」

真之介「引っ越し先、探してやろうか」

お駒 「今度は家まで上がり込むんでしょ」

真之介「多分」

お駒 「止めといた方がいいですよ。私、家では鬼ですから、取って食いますよ」

真之介「食われたら、俺も鬼になるか」

お駒 「いいえ、骨になるだけですよ」

真之介「それはまた、刺激的なことをさらりと」

お駒 「ええ、旦那とは縁がありそうですからね」

真之介「さっきの男は、そっち関係の人か」

お駒 「ええ、うちの大根が調子こいてるもんで」

真之介「人気が出てくりゃぁな。だが、その半分は」

お駒 「いえ、私のこと言ってるんじゃないんですよ。襤褸ぼろが出そうなのがわ

   かってないんですよ」

真之介「ボロ?」

お駒 「あれね、書いてるの全部…」

 

 お駒は自分を指差す。


真之介「おい、そんなこと、ここで言っていいのか」

お駒 「構やしませんよ。この茶店初めてで、顔知られてないし、わからないよう

   に話しますから」

真之介「私は構わないのか」

お駒 「そうみたい」

真之介「ふぅん」

お駒 「最初知り合った頃は、芸熱心なだけが取り柄の役者だったんですよ。で、

   私も書く事嫌いじゃないんで、幕間の短いものを二つほど書いたのを見せた

   んですよ、それをあの大根が書き写して。それがわりと評判良くて、少しは

   長いものも書くようになって。でも、書き写したのは最初のだけ。もう、そ

   れだけで音を上げましてね、後はお駒に清書やらせてる。そのうち、口述筆

   記やらせてるって。まぁ、ここまでは良かったんですけど、人気が出たころ

   から、引き合いも多くなり、ご多分にもれず女遊びもお盛んに…。まあ、こ

   の当たりのことは私も理解してますけど、あまりにひどいものだから、あい

   つはいつ書いてるんだ、いつ、口述してるんだとすぐに周囲にバレまして

   ね。これも内輪だけならともかく、今はもう、私が書いてる事は公然の秘密

   になってて。やがて、お客にも知られてしまうんじゃないかって。そこのと

   ころを座頭や帳元から意見されても聞く耳持たないって状態なんですよ」 

真之介「いっそのこと、バラしちまった方がいいんじゃないか」

お駒 「そこんとこは、色々と、ありまして…」

真之介「なるほどな。そこにはそこの。私にはその辺りのことはよくわからない

   が、それ、姉さんの名前じゃ書けないのか、やっぱり」

お駒 「ええ、女が入り込める世界じゃなし…。ああ、別に私はそれでいいんです

   よ、本当に」

真之介「浮かれトンビが、輪を描いて回ってるか」

お駒 「その通りで」

真之介「舞い上がってしまってはどう仕様も出来ないか」

お駒 「ええ…」

真之介「だが、上がったものはいつかは降りて来るだろう」

お駒 「降りて来るならいいんですけど、落ちてしまえばそれまで。そんなもんで

   すよ、河原者の世界なんて」

真之介「姉さんも、惚れた男で苦労するなぁ」

お駒 「いいえ。このままあいつに落ちられたんじゃ、私の立つ瀬がないだけです

   よ。毎日、必死で書いてるのに、あの大根と共に私の書いたものまで消えち

   まうなんて、まっぴらですよ」

 

 お駒はきっぱりと言う。


真之介「書いたものが消える?」

お駒 「名の知れた役者や書き手ならともかく、今のままではいずれ消えてしまい

   ますよ。代わりは幾らでもいますから」

真之介「そんなものなのか…」

お駒 「ああ、旦那にはどうでもいい話でしたね」

真之介「いや、知らぬ世界の話を聞くのも野暮には勉強になる」

お駒 「そう言う野暮の話も聞いてみたいものです」

真之介「では、何から話そうか。昔々、ある商家に男の子が生まれ…」

お駒 「色々あって、侍になりましたとさ。お仕舞い!」

 

 二人して笑ったが、お駒が笑ったのは久しぶりだった。

----この前、笑ったのはいつだろう…。


お駒 「では、ここいらで、幕引きと参りましょうか」


 二人して立ち上がり、真之介は空を見上げる。


真之介「雨、止んだな」

お駒 「ええ、私が外に出ると雨は止むんです。ここに入った時は降ってませんで

   した」

真之介「晴れ女と言うことは、相合傘の経験は」

お駒 「ないですね」

真之介「では、台風の時にでも誘ってみるか」

お駒 「首を長くして、お待ちしてます」

 

 





















   





































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